教科書編纂とトマスの事情
初回の教科書策定会議を終え、トマスが教え子たちを連れてジェフリー卿の邸に戻ったのは既に夕食の時刻であった。
狩猟大会を間近に控え、グランチェスター城で食事をする機会は少なくなっているが、スコットはもちろんブレイズも会食のマナーを習得しつつある。会話術などはもう少し訓練が必要かもしれないが、所作にあぶなげなところは見受けられなくなっている。
『まぁこの二人が頑張っているのは、サラお嬢様の存在が大きいのでしょうね』
だがトマスも人のことは言えない。教科書の編纂をついつい頑張り過ぎてしまうのも、サラに評価されたいからなのは間違いない。
食事が終わって部屋で寛いでいると、執事が部屋までトマス宛の荷物を届けにきた。差出人はレベッカであった。
小さな木箱を開けて中を見ると、紙束を綴じた物と手紙が入っている。
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教科書の分冊とイラストの挿入の許可がでました。
ただし、教科書への掲載範囲については、新しい帳簿(今後は『複式簿記』と呼称します)を学ぶために必要なところまでとして欲しいそうです。
そこで教科書編纂の参考にしていただきたく、トマス先生にも複式簿記の教本を献本いたします。
といっても、サラさんが執筆した原稿の写しを綴じただけですので、印刷・製本はこれからですが。
レベッカ・オルソン
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『ふむ。どうやらこれが噂の新しい帳簿の教本か。文官だけでなく侯爵閣下も絶賛していたが、新しい帳簿とは一体どのようなものなのだろう』
トマスは好奇心に駆られ、窓際に置かれたソファに座ってパラパラと原稿を読み始めた。
「なんということだ…これは、この『複式簿記』は歴史を変えてしまうかもしれない……」
一人の部屋で思わず声が漏れてしまうほどの衝撃だった。これまで多くの文官、特に会計官たちは、さまざまな書類に記された取引の損益を計算することに苦心し、在庫管理や資産管理に頭を悩ませてきた。その煩雑な計算を可能にする高い能力こそが、会計官の存在意義でもあった。
だが、この複式簿記があれば、高い能力を持った会計官でなくても国や領の資産や損益を把握できるようになるのだ。必要になるのは読み書きと単純な計算の能力、そして複式簿記の知識だけだ。もちろん『誰でも習得できる』と言えるほど簡単ではない。だが既存のやり方に比べれば、なんとシンプルで、しかも網羅性に富んだ仕組みであることか。
複式簿記ではすべての取引において原因と結果が漏れることなく記され、驚くほど詳細に資産を管理する。この厳格さを前にすれば、後ろ暗い会計官は裸足で逃げ出すことだろう。もっとも、人のやることなので不正は不可能ではないだろうが。
『しかし、すぐに不正会計の抜け道を考えてしまうあたり、かつての職業病はまだ治まっていないようだな』
家庭教師としてグランチェスター領に来るまで、トマスは王都で文官として働いていた。しかも国税に関係する監査を担当する部門の会計官であった。更紗の世界で言うところの国税局の査察部に相当する。
サラは知らなかったが、会計に関してはサラ以上に専門家なのだ。ジェフリーはトマスを紹介されたとき、最初はグランチェスター領の文官に推薦するつもりであった。だが彼が監査部門の会計官であったことを知ると、横領の件をかつての同僚に漏らされる可能性を危惧した。そこで、ひとまず息子の家庭教師として招聘し、トマスの為人を観察することにしたのである。
『ははは。この複式簿記を使いこなせる人材を育てるために必要な読み書きや計算の教科書を、私の手で作ることができるというわけか。これは、本当に心躍ります。つくづくサラお嬢様は私を魅了する方ですね』
トマスは読み終えた資料を大事に箱に戻し、窓の外を眺めた。かなり時間が経っていたらしく、月の位置が随分と傾いている。だが興奮冷めやらぬ状況では、すぐに寝付くことはできないと判断し、やりかけだった読み書きの教科書編纂を再開した。
しかし、ふと手を止めたトマスは、『この教科書の作成には、アメリアやコーデリアの協力が絶対に必要だ』と強く感じていた。
そもそもトマスには”普通”の子供だった記憶がない。そのため『普通の子供が理解できる教科書』のレベルを把握できないでいるのだ。
トマスの祖父は子爵で、次男だった父は騎士爵であったため、それなりに裕福な家庭ではあった。兄とは子供部屋を共有していたおかげで、兄が家庭教師について学んでいる時にも、近くで黙って遊んでいることが多かった。うるさく騒ぐ子供ではなかったので、兄も家庭教師もトマスを気にしてはいなかった。
そんなある日、家庭教師からの問いかけに兄が答えに窮しているのを見た3歳のトマスは、兄の力になりたくて「兄さん、答えは5だよ」と正解を教えてしまった。それを家庭教師は偶然だと思ったが、念のため「何故そう思うんだい?」と聞き返した。しかしトマスは理路整然と答えを導き出す過程を説明して見せたため、家庭教師は慌てて彼の両親に報告したのだという。
その後、トマスは10歳でアカデミーに入学し、13歳で卒業資格を得た。さらに経済学の専門課程で2年程研究した後、15歳で最年少の王宮文官として働き始めた。
だが、その美しすぎる容姿が災いし、複数の女性から一方的に想いを寄せられるようになったことは、トマスにとって不運以外の何物でもない。
男爵令嬢であったある女性は、婚約者がいるにもかかわらず、一方的にトマスに言い寄り、彼に付きまとった。もちろんトマスはハッキリと断った。だが、その女性はトマスに恋するあまり、『私に婚約者がいるから仕方なくよそよそしい態度をとっているのだわ』と勝手に思い込むようになり、婚約者に婚約破棄を申し出たのである。
当然、その婚約者はトマスに怒鳴り込んできた。トマスは誘惑などしていないと説明したが、相手はまったく聞く耳を持たない。激高して『決闘』とまで言い出す始末であった。
仕方なくトマスは件の男爵令嬢とその家族、婚約者、そして仲裁役として自分の上司を交えて話し合いの場を持つことになった。だが、ここで上司を交えてしまったのはトマスの大きな誤算であった。
この人物は優秀であるが融通の利かないタイプの人間で、トマスから事情を聞いた時に『その男爵令嬢が勘違いしているのだな』と素直に受け取った。そして、仲裁役として『男爵令嬢に事実をありのままに認識させるべきだ』と考え、話し合いの席にトマスに想いを寄せる複数の女性を『証人』として同席させたのである。
自分の想いを切々と語る男爵令嬢に対し、トマスに同じ思いを抱く女性たちは容赦が無かった。「勘違い女。トマス様が気の毒」などと男爵令嬢を責め立て、社交界に噂を流して彼女を笑い者にしたのである。
これでは男爵令嬢のみならず、男爵家、婚約者、そして仲裁役の上司の面子まで丸つぶれである。しかも社交界にはトマスがモテまくっていることを快く思わない貴族男性も多く、『あの男のせいで恥をかかされた気の毒な貴族家がある』と噂するようになっていった。
その結果、トマスの仕事にも大きな支障が出るようになり、彼は諦めて王宮文官の職を辞して王都を離れることを決めた。さすがに原因を作った上司は責任を感じ、知り合いであったジェフリーに声を掛けて次の仕事を探してくれたのである。
『いろいろありましたが、グランチェスター領は本当に居心地が良い。何よりも女神のようなサラお嬢様がいらっしゃる』
トマスは数日前に目にしたソフィア姿のサラを思いだしていた。8歳のサラは天使のような愛らしさだが、18歳のサラはまさに女神であった。
グランチェスター領に来るまで『女性は厄介な生き物』としか思っていなかったトマスも、サラやレベッカ、そして乙女たちやコーデリアに出会えたことで自分の視野の狭さを痛感している。
しかも、トマスは乙女の塔という最高の環境を知ったことで、『スコット君とブレイズ君が私の手から離れたら、どんな仕事をしましょうかね』などと未来を夢見る19歳の青年に戻ったのである。
イケメンも大変だなぁ