信頼は得るに難く失うには易し
「ジェームズさんは本当にシンディさんを愛していらっしゃるのですね」
サラがしみじみと言うと、ロバートが慌てだした。
「いや僕もだからね!」
レベッカはニコッと笑いながら、ロバートの発言を受け流した。
「お父様、10余年のヘタレにそのような主張をする権利はなさそうですよ」
「うっ…」
当然誰もロバートをフォローしたりはしないので、サラも気にせず話をつづけた。
「人手不足が深刻な問題になりつつあります。文官はもちろんですが、職人も足りなくなりそうです。商会でも従業員を雇用しないといけません。そう考えるとシンディさんを大切にするジェームズさんの愛は、領にも大きく貢献していますよね」
カストルは手元のメモを見ながら、サラの発言にフォローを入れる。
「ガラス職人だけではありません。少なくとも蒸留釜を作る職人、大工、化粧箱を造る木工職人、魔石を採掘する鉱夫、それに今後エルマブランデーを増産するのであれば、エルマ農園の農園主が自分たちで醸造所を持つかもしれません。もちろんサラお嬢様が製造工程を明かしても良いとお考えであれば、ですが」
当初、サラはエルマブランデーの製造方法を秘匿するつもりは無かった。可能であれば『蒸留酒』という酒の存在を広め、ブランデーやウィスキーなどさまざまな蒸留酒が出回ることを願ってもいる。
だがその一方で、当面は製造方法を秘匿し、グランチェスター領で独占しておくべきなのではないかという気持ちも持っていた。
「そこは悩ましいんですよね。しばらくの間は、私の商会でコントロールできる範囲だけにとどめておいた方が良い気もしているんですよ」
「まぁ当分は高値で取引されるでしょうから、利幅も大きいですしね。独占しておくのは良いんじゃないですかね」
カストルの発言に周囲は全員頷いた。
「うーん。商人にとって利益の独占は非常に魅力的ではあるのですが、技術を秘匿しておくべきか悩んでいるのはそれだけではないんです」
「というと?」
カストルは身を乗り出して食い下がった。先程からのサラの発言は、カストルの目から鱗を何枚もポロポロと落とし、それどころか商工業担当文官としての矜持や思い込みを打ち砕いていた。すでにカストルはアカデミーの教授を前に講義を受けている気分にさえなっていた。
「エルマブランデーを造る農家が増えるのはとても喜ばしいですが、それでも一定水準以上の品質は維持しておきたいんです。粗悪品が市場に出回ると、エルマブランデー全体のイメージが悪くなりますから」
「イメージ、ですか?」
どうやらカストルをはじめとする文官たちはいまひとつ納得できていないようである。
「エルマブランデーは原材料費から考えても、安いお酒にはなり得ません。粗悪品でも市場に流通させるためには、大量のエルマ、醸造するための樽、蒸留するための燃料、熟成するための樽、ガラス瓶、そして人件費が必要です。そんな高いお酒を購入して飲もうとする人たちが、最初に飲んだエルマブランデーが粗悪品だったらどうなりますか?」
「私だったら『こんなもんか』と思って、二度とエルマブランデーを買わないかもしれません」
シンディが答えてくれたので、サラは嬉しくなって彼女にニコリと笑いかけた。
「私もそう思います。そして悪い評判というのは、良い評判よりも伝わりやすく固定しやすいのです。一部の粗悪品のせいで、本当に美味しいエルマブランデーが忌避されるようなお酒になってしまうことを避けたいのです」
「確かにこんなに美味しいお酒なのに悪い評判が立ったら悔しいですよね」
こくこくと頷くシンディは大変可愛らしく、ジェームズはデレデレな表情を浮かべていた。
「良いイメージを守るという考え方は、貴族には馴染み深い考え方かもしれんな」
侯爵はボソリと呟いた。
「グランチェスター領から出荷される小麦も、特級、1級、2級と分ける。特級として出荷される小麦に2級品が紛れ込むことは許されない。仮にそのような事故があれば、グランチェスターの矜持にかけて返品や返金に応じる。必要であれば賠償金を支払うことすら厭わないだろう。それほど信頼と言うのは非常に得難い価値であり、一度失われてしまうと取り戻せないものなのだ」
「はい。祖父様の仰る通りかと存じます」
「だがサラよ。そうであるからこそ、高品質なエルマブランデーを造れる人材を早急に育成せねばならんのではないか?」
サラは深いため息を吐いた。
「やっぱり最後は人手不足ってところに行きついちゃいますよね。そもそも文官からして足りていないのですから。十分に文官がいれば、ジェームズさんの結婚が延期になることもなかったわけですし」
「まったくだ。早急に募集をかけるよう手配するしかなかろう」
横領の件を王室に明かしたことで、グランチェスター領には後ろ暗い隠し事は(サラ絡みのことを除けば)無くなり、今は新たな文官を堂々と雇用できるようになった。
「優秀な方が来てくださると良いですね」
「ただ、今から募集しても来るのは夏が過ぎてからだろうね」
サラが呟くと、ロバートが応えた。確かにアカデミーの卒業式は初夏に行われるため、いわゆる新卒の文官は夏が過ぎなければ着任しない。
「文官経験のある方を中途で採用するのはダメなのでしょうか?」
「他領や王都で一度文官を辞めた人を雇うということかい? それは果たしてどうなんだろう。何か問題があって辞めたのかもしれないじゃないか。やむにやまれぬ事情があって辞したのであれば、紹介状を持っているだろうし」
どうやら文官を辞めるというのは非常に重いことらしい。前世のように気軽に転職というわけにはいかないようだ。
「それでも私は経験者の雇用も視野に入れるべきだと思います。なによりグランチェスター領に最も必要なのは即戦力です。せめて前職を辞めた理由くらいは聞いてみてもいいんじゃないですか? どうせ新卒の文官でも身元調査くらいはするのでしょうから、経験者の調査くらいしたって良いじゃないですか。たとえば、イヤな上司と喧嘩して辞めざるをえなくなったとしたら、紹介状なんか貰えないでしょうし」
「言われてみれば確かにそうだね」
これにはジェームズとベンジャミンも目を輝かせた。
「サラお嬢様、素晴らしい考えです」
「いやぁ『即戦力』ですかぁ。実に良い響きの言葉ですね」
サラはニヤニヤと黒い微笑みを浮かべながらロバートと文官たちに言い放った。
「ガヴァネスや幼女に執務をお願いするより100倍くらいまともな発想だと思います!」
「ぐはっ」
当然のことながらロバートと文官は撃沈し、侯爵とレベッカは爆笑の発作に襲われた。そしてシンディは、混沌とした雰囲気の中でやっと心の底から笑うことができた。
『緊張が解けたみたいで良かったわ』
「実はシンディさんには、もう少しお願いしたいことがあるのです」
「何でしょう?」
「エルマブランデーだけではなくて、エルマ酒も瓶に詰めて売り出したいのです。そのため、丈夫な瓶が欲しいのです。可能であれば茶色か緑色の色ガラスで分厚い酒瓶を作れないでしょうか?」
「可能だと思いますが、栓はどうされますか?」
「ワインのようにコルクで」
「ではワインのボトルをイメージすればよろしいでしょうか?」
「概ね問題ありません。なで肩のシルエットでワインのボトルよりも厚めに、瓶底のくぼみも大きくして欲しいです。それと、コルク栓は針金で巻いて押さえるつもりです」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
「エルマ酒は発泡している物を売りたいのです。こうした発泡酒は、常に内側から外に向けて圧力がかかってしまうため、瓶を厚くする必要があるのです。また、瓶底のくぼみについてですが、ワインであれば澱を沈めてグラスに入らないようにするためのものなのですが、発泡酒の場合には圧力を分散させる意味合いの方が大きいです」
シンディが不思議そうな顔をして質問を重ねた。
「あの、圧力とはどういうものでしょうか?」
『なるほど、そこから説明が必要か』
「シンディさんは瓶を作る際、息を吹き込んで膨らませますよね?」
「はい」
「それは息を吹き込むことで、空気…つまり”風”が熱で柔らかくなった瓶を外側に押し広げているのです」
「わかります」
「エルマ酒の中には、底の方から細かい泡が浮かんでくるものがありますよね。これはエルマ酒の中に溶け込んでいる風が浮かび上がってきている現象なのです」
「えっと、水の中に管を差し込んで息を吹き込んだ時のような泡ですか? というかお酒に風って溶けるんですか?」
「はい。詳しい話は錬金術の講義みたいになってしまうのでこれ以上の説明はしませんが、要するにエルマ酒の中に溶け込んでいる風が外に出て行こうとするのを瓶で押しとどめるので、丈夫でなければならないのです」
「だから、エルマ酒を瓶に詰めて売ると割れやすいんですね」
「そうですね。丈夫な瓶を使わないと、放置しておくだけで勝手に割れたりします」
「色にも意味があるのですか?」
「日の光でエルマ酒が変質しないようにする対策です」
「なるほど。承知しました」
シンディはジェームズからメモを借り、必要事項を記入していく。
「それで大変申し訳ないのですが…」
「はい?」
「百本ほど先に納品いただけないでしょうか?」
サラが申し訳なさそうにシンディに依頼すると、シンディは目を剥いた。
「えっと、すみません100本と仰いました?」
「はい申しました」
「しかも”先に”ということは、もっと必要ということですよね?」
「はい」
「つい先ほど、エルマブランデー用の瓶のコンテストを開催するというお話もありましたが、当然別ですよね?」
「…はい」
自分でも無理を言っている自覚はあるため、サラはどんどん居たたまれなくなり、声もだんだんと小さくなっていく。
「凄くご無理を申し上げてるとは思うのですが……あ、もちろん料金はきちんとお支払いします。買い叩いたりは絶対にしないとお約束します」
するとシンディはくすくすと笑い出した。
「サラお嬢様がすっごくお得意様になるってことだけは理解しました。材料さえ揃えば作れますから大丈夫ですよ。うちの工房で全力だします。ただ、納品の順番というか、優先順位を決めてください」
「本当ですか!」
「はい。最初からそんなに大口の注文をされる商家はありませんので、驚いてしまっただけです。うちで良いんですか?」
「他にガラス職人というか工房を知りませんので、仕事を出しにくいというのはあります。もしかしたらコンテストの結果次第では他に仕事を発注するかもしれません。でも、シンディさんが作ってくれた花瓶は私のお気に入りなんです!」
サラはにっこり微笑んだ。
「ずっとジェームズから『サラお嬢様は規格外で凄い方だ』って聞いてたんです。でも、実際に会ってみたら、私が勝手に想像していたよりも何倍も凄い方でした。そんなサラお嬢様に私の作品を気に入っていただけてとても嬉しいです!」
こうしてサラは、エルマ酒を詰める瓶を入手することに成功した。つまり、瓶内二次発酵という禁断の酒造りを決行できるようになったということだ。
『ミケ、待ってなさい。あなたには超めんどくさい酒造りをさせてやるから!』
しかしサラは大事なことを忘れていた。ミケが魔法を使うには、サラの魔力が必要になるということを。