乙女の塔とカオス
グランチェスター城に戻ることにした一行は、レベッカからの提案で本邸ではなく秘密の花園に向かうことになった。理由はこの城の中で一番妖精が多い場所だからである。
その道中、サラは侯爵に話しかけた。
「祖父様は、パラケルススの実験室にお越しになったことはございますか?」
「若い頃に塔を閉めたのは私だ」
「では図書館もご存じだったのですか?」
「無駄に本が多いと忌々しく思ったな。なにせあの本の購入代金は、領の収入の3年分に相当するのだ。だからといって本を売却して、グランチェスターが金に困っているように見られるのも業腹でな」
『先代への反抗心のせいなのかな? 祖父様って極端だよね』
「祖父様っていくつの時に侯爵位に就かれたのですか?」
「24の時だな。もう30年ほど前になるか」
「随分若かったのですね。エドワード伯父様は、もう35歳なのに」
「私は長男ではないからな」
「そうなんですか?」
「二人の兄が流行り病で相次いで亡くなったのだ。私と弟妹はグランチェスター領に居て無事だった」
「あの年の冬は、王都でたくさんの人が亡くなった。貴族も大勢亡くなったが、それ以上に平民たちの被害が深刻だった」
「どんな病だったのですか?」
「熱病だ。突然高熱を出して倒れる者が続出する」
『インフルエンザみたいなものかしら?』
「そのせいで私はいきなり小侯爵に格上げされることになった。それが17の時だ。私はアカデミーの騎士科を卒業する寸前で、近衛騎士団への入団も決まっていたが辞退するしかなかった」
「祖父様は騎士になりたかったのですね」
「剣は好きだった。そういえばお前の剣の腕前についてはジェフリーにも聞いたが、今度は私とも立ち会ってくれ。まだ老いぼれてはおらんぞ」
「そうですね。是非」
『確かに祖父様ってがっしりした体型だわ。近衛騎士の制服似合っただろうなぁ』
「祖父様は錬金術に興味はまったくなかったのですか?」
「正直言えば、よくわからん学問だとおもっている。アカデミーでは頭でっかちな学者が小難しい理屈をこねているかと思えば、浮世離れした変人がとんでもない実験で建物の屋根を吹き飛ばしたりしていたからな」
「あはは。それは極端ですね」
「私が爵位を継承する数年前、パラケルススは突然行方がわからなくなった。父上は理由を察していたようで無理に探そうとはしなかったが、私は父上がヤツに傾倒し過ぎていると思っておったし、それまでヤツの研究に使ってきた金額を知って無責任だと感じていた。だから私が侯爵になったときに塔を閉鎖した。中など碌に見なかった」
過去を思い出し、侯爵は深いため息を吐いた。
「それはもったいないですね。でも、おかげで私はとてつもなく大きな宝箱を貰った気がします」
「まぁ私もエルマブランデーを飲んだからの。あの塔にも意義を見出せたよ」
「あのお酒は、おまけのようなものです。造り方を教えれば、錬金術師でなくてもできますから、グランチェスター領に新しい産業を起こすことになるでしょう」
「ほう。それは良いな」
本来、酒というのは長い時間をかけて試行錯誤を繰り返し、その風土に合った独自の味を追求していく物だ。しばらくはミケに手伝ってもらうことになるかもしれないが、いつかはサラやミケの手を離れ、それぞれの場所でそれぞれのエルマ酒やエルマブランデーが造られていくことになる。というより、そうなるように大事に産業を育てていくのは領主の仕事でもある。
「ですが祖父様、あの塔と花園にはそれ以上の価値があるのです。おそらく曾祖父様は未来のグランチェスター領の街や産業を創り出す研究を、あの場所でパラケルススさんと行っていたのだと思います」
「賢者の石をつくっていたのではないのか?」
「パラケルススさんの目的はわかりません。ですが領主側の目線であの塔を見れば、賢者の石ですら目的ではなく手段だったのではないかと思います。領主として曾祖父様は無駄に予算を注ぎ込んだわけではないように見えます」
サラの言葉に侯爵はハッとした表情を浮かべ、そして視線を落とした。
「そうか…私は愚かな領主であったのだな。先代の意をくむことなく、数字だけで無駄と切り捨ててしまっていたのか」
「領主は神ではありません。すべての物事を見通せる目を持つわけではなく、すべてを抱く手があるわけでもないのです。ご自身が見通せる範囲で最善を尽くしてこられた方を誰が愚かと謗りましょうか」
「しかし、塔は目の前にあったのだ。本も資料もなにもかも…」
「では時期が来るまでお待ちになったのだと思ってください。塔を破壊したわけでもなければ、資料を散逸させたわけでもありません。ただ、私や乙女たちが来るまで大切に保存してくださったのです。私どもをお待ちいただき、ありがとうございます。祖父様」
サラは心の底から侯爵に感謝していた。だからこそ、これから乙女の塔や秘密の花園から生まれるだろう産業は、可能な限りグランチェスターに還元していくべきだと思った。
『利益を独占してはいけない。産業を育て、お金は循環させる。それが本当の意味での発展だわ』
乙女の塔に着くと、アリシアとアメリアだけでなく、トマスも玄関先に出てきた。
「やはりトマス先生はこちらでしたか。今日はお休みと聞いて、きっと本を読みにいらっしゃると思っていました」
「はは。バレてしまいましたね」
「さっそく押しかけ司書ですか?」
「いえ、今日は単なる利用者です。この図書館は錬金術に偏っているかと思っていましたが、思った以上に範囲は広かったですよ。絶版で見つからない稀覯本がちらほらありましたね。重複している物もありましたので、これらをオークションにかければ、新しい貴重な本を入手できるかもしれませんよ」
「うーん。トマス先生を本当に司書にしたくなりますねぇ」
「いずれスコット君やブレイズ君はアカデミーに入学しますから、その時には是非お声がけください」
トマスはちゃっかり再就職のアピールをする。確かにこのままいけば、二人は数年後にはアカデミーに入学するだろう。
「ところで今日はどうしてこちらに? 夕刻まで牧場で過ごされると伺っていたのですが」
「いろいろ事情がありまして…」
サラが言葉を濁すと、レベッカがトマスに向かって話しかけた。
「トマス先生、あなたはグランチェスター領の出身ではありませんよね? どなたか忠誠を誓った方はいらっしゃいますか?」
「いえ、私は騎士ではございませんし、誰にも忠誠は誓っておりません。正確にはサラお嬢様に忠誠を誓ったのですが、お嬢様に拒絶されまして」
トマスは苦笑している。
「だって、塔の図書館を見るなり忠誠を誓ったんですよ? それって私じゃなくて図書館への忠誠ですよね」
「まぁ状況は理解したわ。では改めて質問するわ。トマス先生はサラさんに本心から忠誠を誓う気があるかしら?」
するとトマスは至極真面目な表情を浮かべて答えた。
「当然です。サラお嬢様は私など比することもできないほどの英知を湛えていらっしゃいます。そして溢れんばかりの知識を惜しみなく周囲に与えてくださり、新たな産業を生み出しております。そしてなにより、外見に囚われることなく、人の本質を見極めようとなさいます。このように優れた方を主と仰げるのであれば、私は私の人生をすべて捧げて尽くしたいと存じます」
これにはサラだけでなく、周りにいた全員が驚いた。まだ出会ったばかりのトマスが、そこまでサラに傾倒しているとは誰一人考えていなかったのだ。
「てっきりトマス先生は、サラさんを未来の奥様にお考えなのかと思っておりましたわ」
「え? さすがにそれは無いんじゃ。10歳以上年上ですよ」
スコットが慌てて突っ込んだ。
「正直申し上げれば、そうした気持ちがまったく無いと言えば嘘になるでしょうね。まだ幼いですが、サラお嬢様は大変聡明で魅力的な方です。妻になっていただけるのであれば、全力で尽くすことをお約束します」
即座に真顔のままでトマスが言葉を返したため、スコットの突っ込みは完全に藪蛇状態である。
しかし、これには当のサラが羞恥に耐えられなかった。
「と、トマス先生。私はそこまで言っていただけるほどの者ではないのですが…」
「サラお嬢様の自己評価は重要ではありません。私の心と体が、サラお嬢様に尊敬の念を抱かずにはいられないのです。どうかお許しいただけるのであれば、私の忠誠をお受け取り下さい。もちろん求愛を受けていただけるのであれば、この上ない幸せではございますが、さすがに今の段階でそれは無いと言うことくらいは承知しております」
トマスはサラの前に跪いて右手を差し出した。それを見てレベッカはため息を吐いてからサラに声を掛けた。
「サラさん、トマス先生は正式な忠誠の誓いをあなたにしているのよ。貴族令嬢であれば、よほどの理由が無い限り断ることはできない。もちろん求愛を受けろというわけではないわ。この誓いへの返事は覚えているわよね?」
「はい。レベッカ先生」
サラは優雅にカーテシーをしてからトマスの手に自分の右手を重ねた。
「あなた様のお心を嬉しく思い、そして受け入れます。どうか幾久しく私をお守りください」
トマスはサラの手を取って額に押頂き、次いで手の甲に口づけを落とした。
「私のすべてをあなた様に捧げます」
サラはトマスに預けた右手を元に戻し、トマスに歩み寄って額に軽く口づけた。
「心からの感謝と愛を込めて贈ります」
サラは持っていた刺繍入りのハンカチ(下絵はレベッカが描いたのでマトモなヤツ)をトマスに渡した。トマスはそれを両手で押頂くように受け取った。
これが、サラが最初にして生涯でもっとも忠実な側近となるトマスを得た瞬間であった。
…のだが、この一連のやり取りが終わった瞬間、周囲が一気に騒然とした。
「トマス先生、それは僕が最初にやりたかったやつ! 騎士に叙任されたら最初にやるつもりだったのに!」
スコットが恨みがましい目で見ている。しかし、儀式を邪魔しないだけの分別はあった。
「サラさんは魅力的ですからね。早い者勝ちです」
顔を隠さずに美麗な微笑みを浮かべたトマスは、教え子にもまったく容赦がなかった。
「これ、ロブが聞いたら大騒ぎしそうね」
「放っておけ、あいつは伯父馬鹿が過ぎる。いや、もう親馬鹿か。いずれにしてもサラが優秀な側近を迎えたことを喜ばぬ父親なら養子の話も取りやめにすると伝えておけ」
「ふふっ。そうですね。義父様」
「ほほう。初めて呼ばれたが、なかなか良いものだな」
こっちはこっちで別方向の盛り上がりを見せていた。
アリシアとアメリアは目の前で行われた貴族的な儀式にうっとりし、テレサにも伝えなきゃとソワソワしている。
そしてブレイズはというと、サラの耳元でこっそり囁いていた。
「で、サラはトマス先生に乗っかってもらうことにしたの?」
見ればブレイズは「にひひ」と笑っており、明らかにサラを揶揄っている。ひとまず、サラはブレイズにイイ笑顔を見せ、次いで鳩尾に向かって抉るようなパンチを繰り出した。もちろんブレイズも攻撃を予想していたため、後ろに避けるように身体を動かした。しかし、サラの攻撃が予想以上に早かったために完全には避けきれず、そのまま後ろに吹っ飛んだ。
当然、周囲は凍り付いたようにサラとブレイズを見たが、サラは大変優雅な微笑みを浮かべてブレイズに声を掛けた。
「女の子に失礼なことを言うものではないわ。紳士らしくなくてよ?」
全員が一斉に『そもそも男の子を拳で吹っ飛ばすのは淑女としてどうなのか』とは思ったが、口に出してサラを窘めたりはしなかった。
しかもスコットはブレイズを助け起こしながら、「おいブレイズ…お前アホか? サラは僕と立ち合っても互角なんだぞ。喧嘩売るならもっと強くなってからにしとけ」などと訳の分からないアドバイスをしている。
実にカオスであった。
なお、余談であるが、この瞬間、塔の中ではフランがせっせとエルマ酒を蒸留していた。
きっとフランは黙々と作業してるはず。