エルマブランデー
乙女の塔の車寄せに停めた馬車から降りると、既に仄かな匂いが漂っていることにサラは気づいた。
『うーん。本格的にお酒を仕込むのであれば別の建物じゃないと駄目そうね。本に匂いが移りそう。それはそれでいい香りと言えないこともないけど』
玄関前にはテレサとフランが並んで待っていた。
「おかえりなさいませサラお嬢様」
「お待ちしておりました」
二人は恭しく頭を下げる。
「もう、ここまで匂いが漂っていますね」
「そうですね。ここまで匂いが強くなるとは思っておりませんでした。酒精はかなり上がっているようですが、ここまで酒精が強いと試飲に勇気が必要ですね」
「飲まなくてもいいんですよ。口に含んで香りや味わいを確認したら、吐き出していただいても大丈夫ですよ?」
「そんなもったいない!」
サラは深くため息を吐く。
「それでもフランさんは良いですよね。私は仕込みを依頼するだけで、テイスティングさえできないんですよ?」
「さすがにオレでも止めますから、オルソン令嬢やロバート卿であれば当然でしょう」
「サラお嬢様が大人になったら、乙女たちでお祝いの飲み会をしましょうね」
「楽しみにしておきます」
拗ね気味のサラをテレサが慰めた。ソフィアになれば酒を飲んでも問題なさそうな気はするものの、レベッカがソフィアに飲酒を許可するかは微妙なところである。
「ところでアリシアさんとアメリアさんはいないの?」
「花園にいるはずです。この2日間、二人はアメリアさんが植物をスケッチしながら、二人で名前や効能なんかを確かめ合ってるんですよ。まぁアリシアは蒸留作業のために時折戻りますけど」
「あら、さっそく始めたのね。じゃぁ邪魔をしないようにしましょう」
テレサはサラの背後にいるトマスと再従兄弟たちをみて不思議そうな顔をした。
「今日はレベッカ様はご一緒ではないのですか?」
「諸事情があって城に残ってるわ。代わりにこちらのトマス先生に付き添って頂いたの。今日から再従兄弟のスコットとブレイズと一緒に勉強をしているのだけど、トマス先生は彼らの家庭教師なの」
三人がそれぞれ自己紹介する。
「こちらのテレサとフランはどちらも鍛冶師よ。この塔にあった蒸留釜を修理していただいたの」
鍛冶師の二人はぺこりと頭を下げた。
「蒸留釜ですか? サラさんは錬金術も嗜まれるのですか?」
「興味がないわけではないけど違うわ。実はエルマ酒を蒸留してもらったの」
「は? エルマ酒?」
「ええ。蒸留することで酒精を上げてあるわ」
「薬師が治療の時に使うとは聞いたことがありますが」
「あら、ちゃんと飲んでもらうためのお酒よ? まぁここで話していても仕方ないから、行きましょうか」
サラは塔の中に入っていった。
「ところで、樽はどちらに置いたの?」
「ひとまずワインセラーに運んでおきました」
「そうね。あそこが一番良さそう」
ワインセラーに歩きながらも、フランが状況の説明を続ける。
「それと、追加のエルマ酒も3樽程確保しておきました」
「あら、お母様のエルマ酒を待っている方もいらっしゃるのでは?」
「実は母のではなく、母から酒作りを習った従姉妹のヤツです。なかなかいい味ですが、固定客がまだいないんで。購入していませんが他に売るのを少し待ってもらっています。金が必要らしいんですよ。旦那が鉱夫なんですが、今の鉱山の採掘量が落ちてるらしく、別の鉱山の採掘権が欲しいらしくて」
「なるほど、じゃぁ確保してる分は全部買うわ。まだ残ってるなら、それも全部お願い」
「良いのですか?」
「ええ。ちょっと試したいことがあるの」
ワインセラーは塔の地階にある。実はこの塔の地下1階は、ほぼワインセラーであったが、中身は空っぽである。おそらくパラケルススがワイン好きだったのだろうが、塔が無人になるタイミングで他に移したようだ。
そこにはオーク樽が2樽並んでいた。サラはマリアに同じ種類のグラスをなるべくたくさん持ってくるよう命じた。
「元々のエルマ酒は2樽だったわよね? 蒸留しても2樽?」
「あれから母が追加分を持ってきたんですよ。サラお嬢様が新しい酒を造ると聞いて、参加したくて仕方ないらしいです」
「それは一度お母様にお会いしてお礼を言わなければね。追加納品分の代金は2割増しでお支払いするわ」
「いや、そこまでしていただかなくても」
「私の感謝の気持ちだと思って受け取ってくれると嬉しいわ」
「ありがとうございます」
マリアが複数人のメイドを従えて、ワイングラスを20個程持ってきた。サラはそれぞれの樽から少量ずつ別のグラスに注いで色を確認する。
「右の樽の方が少し色が薄いですね」
「そうですね」
次にグラスを動かさず、グラスに鼻を近づけて手で仰ぐように匂いを確かめた。
「香りも左の方が強いみたい。でも、良い匂いだわ」
今度は酒に空気を触れさせるようにグラスを振ってから、再度香りを確認してみる。まだ若いが芳醇な香りが漂っている。
「テレサ試飲してみる?」
「そのお言葉を待っておりました」
テレサはにんまりと笑う。正直、サラはとても悔しいのだが、身体が8歳である以上は試飲を諦めるしかない。
「一気にグイっと飲まず、匂いを確認してから口に含んで、軽く咀嚼してみて。味が確認できたら無理に飲まなくても良いわ」
テレサがサラから2つのグラスを受け取ると、サラの指示通りに味を確認していったが、吐き出したりはせずに飲み込んだ。
「とても酒精がきつくて、ちょっと飲みづらいです。でも不思議な味ですね」
「まだ熟成前だからそうかもね」
「オレも試して良いですか?」
「ええ、どうぞ」
フランは別のグラスを持ってきて、両方の樽から少しずつ注いで味を確認した。
「確かにこれは強い酒ですね。すぐに酔いそうですが、オレは好きですね」
「なるほど」
そこでサラはにこりと笑って、この場にいる全員に尋ねた。
「さて、ここにいる方々に、ちょっとだけ守って欲しい秘密があるのだけど良いかしら? 守れないなら部屋を出て待っていて欲しいのだけど」
「サラお嬢様の秘密を他の人に話したりしません。でも、私だけですか? 他の乙女たちには?」
「乙女たちには構わないわ。この場に居たら一緒に見てもらうつもりだったし」
テレサとフランは了承したが、トマスが少々戸惑っている。
「侯爵閣下やロバート卿に隠し事は難しいかもしれません。ジェフリー卿はご理解くださるとは思いますが」
「まぁトマス先生の立場ではそうですよね。まぁ祖父様たちにはすぐにバレるでしょうから、そのあたりは諦めます。スコットとブレイズは、秘密が守れそうにないならここで退席して頂戴」
「僕なら大丈夫だよ。サラの不利になるなら秘密は守る」
「オレも!」
全員が概ね了承したため、サラは次の行動に移った。
「ミケ、いるなら出てきて。できれば他の方々にも姿が見えるようにして頂戴」
「はぁ~い」
空中に突然裂け目が現れ、そこから小さな三毛猫がにゅるんっと飛び出してきた。
「皆さん紹介するわ。私の妖精の友人のミケよ」
「よろしくね~」
ミケはご機嫌でピンと立てた尻尾の先を軽く動かしながら挨拶する。
「サラさんは妖精の恵みを受けられた方なのですね。さすがレベッカ先生の教え子でいらっしゃる…」
トマスは独り言のように呟いた。
「妖精って初めてみたよ。猫みたいなんだね」
「それはミケがこの姿を好んでいるだけよ」
サラは空中にいるミケの頭を指先で撫でつつ、今回の依頼を説明しようとした。
「ミケにお願いがあるの」
「わかってるわ。あのお酒を熟成させて欲しいのでしょう?」
が、既にミケは状況から依頼内容を理解していたらしい。
「さすがミケ!」
「でしょう? でも出来上がったら私にも飲ませてね」
そういえばミケは酒豪の妖精であったことをサラは思い出した。
「全部飲まないならいいわよ」
「じゃぁ沢山仕込んでもらわないと!」
「どれだけ飲むつもりなのよ」
サラは笑いながら、ミケをつついた。
「どうする? 軽く3年くらいいっておく?」
「そうねぇ…右を3年、左を10年でお願いしていいかな」
「了解! サラ、少し魔力をもらうね」
「いいわよ」
ミケはサラの頬に肉球をちょんっと押し当てて魔力を譲り受け、そのまま右の樽の上に飛び乗った。
「こっちが3年っと」
ミケは樽の上で香箱を組んで眠るような仕草をしながら、尻尾で樽をぺしぺしと叩いた。数分後、すくっと立ち上がって隣の樽に飛び移って再び香箱を組む。
「で、こっちが10年ね」
先程よりも少し長い時間がかかった、無事にミケはそれぞれの樽の熟成を終えたらしい。再びサラの頭上にふわっと戻ってきた。
「指定した通りに熟成したよぉ」
「ありがとうミケ。嬉しいから魔力いっぱいサービスしちゃう」
サラはミケの頭を指先で撫でながら、魔力をゆるゆると注いだ。ミケは魔力が心地良いのかゴロゴロと喉を鳴らしている。
「さて、改めてテレサさんとフランさんには試飲をお願いしようかしら」
「サラさん、私もよろしいでしょうか? 今日はもう授業はありませんし」
「あぁそうですね。トマス先生もどうぞ」
サラは自分でも色や香りを確かめつつ、他の3人にも勧めていく。
『さっきより色は濃いし、香りも全然違う』
「なにこれ美味しい!」
「酒精強いけど、飲みやすいですね。さっきよりも口当たりが柔らかい」
「ほう…これがエルマ酒を蒸留したものなのですね…実に味わい深い」
どうやら反応は良好のようである。
「私も飲むぅぅぅ~」
ミケは急いで人の姿に変化したが、またもやケモミミと尻尾がそのままになっている。どうやら慌てて変化するとディテールが怪しくなるようだ。
先程サラが色と香りを確かめたグラスを手に持ち、コクっと飲む。
「おいしぃぃぃぃ。おかわりぃぃ」
「駄目よ。今回は試飲だけ。まだ祖父様にも出してないんだから」
「え~~~~~。つまんない」
「後で飲ませてあげるから我慢してね」
「は~い」
サラは試飲した大人たち3人に向かって尋ねた。
「試飲なさった感想は後ほどゆっくり伺いますが、第一印象としてこのお酒はグランチェスターの新しい特産品になり得ると思いますか?」
「間違いなくなるでしょう」
トマスが即答すると、テレサとフランも同意するように首を縦に振った。
「このお酒はエルマブランデーと呼ぶことにします。できればストレートで楽しんで欲しいですが、酒精が苦手な方は炭酸水で割ったり、エルマの搾り汁で割っても美味しいと思います」
サラはマリアに樽のエルマブランデーを煮沸消毒した綺麗な空き瓶に注いでもらい、侯爵とロバートへのお土産にすることにした。
「ところでフランさん、この味を見たらもっとお酒を蒸留したくなったかしら?」
「そうですね。これは面白いです」
「折角だから瓶に詰めてお母様にお持ちして貰えるかしら? 酒造りの名手にも意見を聞いてみたいわ」
「ありがとうございます」
「ところでエルマ酒を造るのは女性のお仕事なの?」
「男でも仕込むやつはいますが、農家のおかみさんの手仕事になってることが多いですね。うちの母親くらいの量を作るとなると、近所の若い衆を下働きとして使いますが」
『そこは前世と大違いね。日本酒なんか女性が酒蔵に入るのさえ嫌がる人達いたもの』
「フランさんの従姉妹が造ったエルマ酒も、これと同じくらいは蒸留してもいいのだけど、少しエルマ酒のまま残しておいてもらえるかしら?」
「はい。それは構いません」
「じゃぁ、続きは新しいお酒を蒸留してからかしらね。ただ、この匂いが塔に広がっていることを考えると、蒸留用に別の建屋を作った方が良さそうね」
「そうかもしれません」
「ただ、新しい建屋を造るのであれば、もっと蒸留釜が必要になりそうだけど、テレサさんとフランさんに依頼していいものかしら?」
「「是非!」」
二人の鍛冶師は嬉しそうに返事をした。大変仲が良さそうで素晴らしい。
「そのためには、このお酒を祖父様と伯父様に評価してもらわないと」
『そして、私はこの酒で外貨を稼いでみせる!』
やっとエルマブランデーできたー