お勉強のカリキュラムとお仕事のスケジュール
謙譲語、丁寧語、尊敬語についての表現を修正しました。
さっそく翌日からお勉強が始まった。一般的なご令嬢にとって必須とされる教養科目は、会話術、立ち居振る舞い、家政、ダンス、乗馬、裁縫である。
会話術には『正しい言葉遣い』『適切な言葉選び』『円滑な会話の進め方』などのスキルが求められるが、王侯貴族にとって正しい言葉遣いは、身分に大きく左右される。つまり、相手が目上、同格、目下のいずれかによって、言葉遣いが異なるのだ。
会話術と立ち居振る舞いは、セットで学習することが多い科目でもある。相手の身分によって挨拶の仕方をはじめとする行動が大きく異なるため、言葉遣いと一緒に子供の頃から叩き込まれるのだ。食事やお茶などの飲食でも、身分によってさまざまなマナーがある。
『うーん、そう考えれば、従姉妹たちが私を平民といってイジメた理由も理解できないことはないかな。相手の身分を確認して、とっさに言葉や立ち居振る舞いを変えないといけないんだもんね。とはいえ、イジメはダメだと思うけど』
適切な言葉選びには、文学の知識や歴史の知識が必要で、流行や時事にも左右される。そのため、『よく使われる会話のフレーズ(基礎編・応用編)』といった参考書は、毎年飛ぶように売れる。
未婚の貴族子女が特に気をつけなければならないのは、恋愛や結婚に関連するフレーズである。参考書にはプロポーズと勘違いされる言葉を使ってしまったために、婚約破棄の違約金を支払う羽目になった侯爵令息の例などが紹介されていた。
そして、もっとも難しいのは、会話を進める能力である。まったく興味がなく、共通の趣味なども皆無な相手と途切れることなく会話を続けるのは至難の業である。サラの前世でも、ビジネス用のコミュニケーションスキルを身に付けるのは容易ではなかった。
「うーん。サラさんは、まず貴族の身分制度を身体に叩き込むところからかしらね。そうすれば正しい言葉遣いは自然にできるようになるわ。まったく知らない人に出会っても、相手の仕草や言葉遣いからおおよその身分を推測できるようになる必要があるわ。言葉選びは参考書よりも実際に文学や歴史に触れて学習すべきね。このあたりの教養は急ぐ必要はないから、ゆっくりやっていきましょう」
「はい。レベッカ先生」
家政は、家庭を管理する能力である。『ハウスキーピング』『献立の決め方』『パーティの主催』などである。もちろん大半の貴族女性は掃除や料理を自分ですることはないが、家令、執事、侍女、メイド、料理人といった役割をもった使用人に適切に指示する能力が求められる。派生科目として『庭の設計』『生け花』『屋内への花の飾り方』『菜園の栽培計画』などもある。
多岐に渡る管理能力を問われるのが、パーティの主催である。会場選び、会場の飾りつけ、料理や飲み物の手配、招待客選びと招待状の送付、座席決め、帰りのお土産選定など、多様なスキルが必要になる。
「家政については、基礎から覚える必要がありそうですね。美しい文字で招待状を書けるよう、書き取りの時間は毎日とりましょう。文字は継続的に練習していないと、あっという間に書けなくなりますもの」
「では、レベッカ先生。書き取りの練習として、私と交換日記をつけませんか? 文字や文章の添削もできますし、適切な言葉選びの練習にもなりそうです」
「それはとても良いアイデアね」
「ありがとう存じます」
ダンスは、最低でもオーソドックスな3種類を身体に叩き込んでおく必要がある。その先は能力次第であるが、それほど多くは求められない。
乗馬についても、女性であればドレス用の横鞍で並足ができれば問題ない。女性でも乗馬用のズボンを履いて馬にまたがり、レースや競技会に参加する人はいるが、まだまだ少数派である。
実は更紗時代に乗馬の経験があった。母がダイエット目的に乗馬を習い始めたため、一緒に乗馬学校に通っていたのである。しかも、留学中の友人に、実家がテキサスで牧場を営んでいる子がいたため、夏休み中に滞在して農場でアルバイトとして働かせてもらっていたのだ。広い牧場を見て回るには、馬が一番楽だということで、乗馬の腕前もぐんぐん上達した。
『牧場ってアップダウンは激しいし、舗装されたところばっかりじゃないし、迷った子を見つけるときは森にも入らないといけなかったよなぁ』
裁縫は刺繍がメインだが、織物や編物を趣味とする女性は多い。織物をする女性には染色まで行う人もいるが、貴族女性の場合は指示だけ出して実際に染めるのは使用人であることの方が多い。
「ダンスや乗馬は、もう少し体が大きくなってからにしましょう。まずは裁縫は刺繍を中心に、いろいろ体験してみましょうか。サラさんが、もっとやってみたいと思えるものに出会えると良いですね」
「そうですね。私も良い趣味に出会えたらとは思いますが、まずは領の危機を乗り越えてからになりそうです」
「そうねぇ…」
レベッカとサラは同時にため息をつく。
「1日のスケジュールを大雑把に決めましょう。朝の6時に起床、身支度と朝食を済ませて8時からお勉強ね。12時に昼食を挟んで、午後の1時から2時までお勉強。その後に執務棟に移動して、軽いおやつと休憩を取ったあと、3時から午後5時までお仕事のお手伝いにしましょう」
この世界の1日は前世と同じく"ほぼ"24時間であり、不思議なことに時間、分、秒といった考え方も前世と同じであった。1年は360日だが数年ごとに閏月を設けている。これは千年ほど昔の賢者が考えたシステムで、国には太陽、月、星、気象を観測し、暦と時間を管理する『天文省』という部署が置かれていた。
天文省は国内の各所に観測所を設けており、その記録は王都の天文省にいる専門部隊に送られていた。こうした観測所には鐘が設置されており、1時間ごとに時を告げる鐘を鳴らすという役割も担っていた。
「それだと、お仕事は2時間しかできません。もう少し時間をとれませんか?」
「状況に応じて、午後はお勉強かお仕事のどちらかを選べるというのはどうかしら」
「それで構いませんが、慣れるまではお仕事を多めにしたいです。残業は可能ですか?」
「もちろんサラさんは、残業禁止です。子供に残業などあり得ません」
どうにも前世のワーカホリック体質が抜けないサラは、5時に仕事が終わった後に何をすればいいのか悩み始めた。
実は、この世界には電気のような照明はなく、魔石灯と呼ばれるランプ、蝋燭、オイルランプなどを利用する。いずれも消耗品であるため、仕事は早朝に開始して日没前に終了することが多い。つまり深夜残業は経費が高くつくため、可能な限り定時で仕事を終えるということである。
これは役所でも例外ではない。業務の開始時刻は夏場が朝の6時、冬場は朝の7時である。ただし、役人は職業がら残業せざるを得ないこともあり、城内に官舎が用意されている。
「お仕事が終わったら本邸に戻って、湯浴みをしてから夕食です。ロブと私は残業していても、夕食には必ず戻ります。夕食後は自由時間です」
「自由時間なら、お仕事しても良くないですか?」
「不正防止のため、書類の持ち出しは厳しく制限されています。それに、私が宿題を出しているかもしれませんよ?」
『あ、これは宿題出す気満々だわ…』
「えっと……、たくさん宿題だします?」
「ふふっ。夜の8時には就寝ですから、そんなにたくさんは出しませんよ」
「え、早くないですか?」
「サラさんの年齢では、それが普通です」
『確かに睡眠時間は大切だよね。これからの健康のためにも、ここは折れておくか』
「わかりました。レベッカ先生」
かくして、サラのとレベッカのスケジュールが決定した。しかし、予定は未定であることを、二人は早々に思い知ることになる…。