未来のための実験施設
蒸留釜をセットアップするためにテレサとフランが動き始めたため、サラは二人を残して実験室を後にした。するとアメリアがそっと資料を差し出した。そこにはズラリと薬剤の名前が記されている。
「いま、花園にある薬草から作成可能な薬の一覧を作成してみました」
「これほどあるのですか?」
人の病や怪我に効果のあるものはもちろん、美容に効果が期待できるもの、植物の育成に効果があるものなど多岐に渡っている。なお、良い効果のある薬だけでなく、毒薬の部類も漏れなく記載されていた。主に多いのは殺虫、殺鼠、殺魔物なのだが、中には人に害のあるものも多い。まさに薬は毒にもなるということが良くわかる。
「ひとつひとつの植物の量は多くはありません。特定の薬を集中して作るのであれば、花園から種や苗を持ち出して、別の場所で育てる必要があると思います」
「では、これからの季節で需要が多くなるものを選びましょうか。必要であれば妖精の力を借りてでも、薬草を増やして薬を確保したほうが良いのではありませんか?」
今の季節は秋で、これからどんどん寒くなる。既に朝晩の冷え込みは、だいぶ厳しくなってきている。おそらく風邪のような病気にかかる人はこれから増えていくだろう。解熱剤のようなものが必要になる場面も多いかもしれない。
「薬師ギルドとも相談が必要そうです。アレクサンダー様にお会いして参ります」
「その方が良さそうですね。ギルドでも計画していることがあるでしょうし」
「パラケルススの錬金術資料の中に薬のレシピは無いのですか?」
これにはアリシアが回答した。
「おそらくあるとは思うのですが、資料が膨大過ぎて整理が追い付いていないのです。それと、お恥ずかしい話ではありますが、アメリアさんほどは薬に詳しくなくて…」
「何を仰るのです。私こそアリシアさんのような錬金術の知識があればと、いつも思っておりますのに!」
「お二人ともご自分の作業だけに集中するより、共同研究された方が良い結果を生むのではなくて? 折角一緒に住んでいらっしゃるのですから」
レベッカの指摘に二人がハッと目を合わせた。
「確かにそうですね! アメリアさんから薬についてもっと教えて頂きたいです。それに植物のスケッチが本当に素晴らしいので、まとめた資料を作りたいです」
「では私にも錬金術のことを教えてくださいませ」
『うーん、とっても仲良しだわ』
「どうせならお二人が共著で本を出してみません?」
「ええっ!! そんな本だなんて。そもそも本を書けるのはアカデミーで学ばれた研究者だけではないかと思うのですが…」
アメリアは戸惑いの表情を浮かべてサラを見つめた。
「だからこそ面白いと思うのです。どうせアカデミーの方々は、私たち女子が作った本など端から相手にしないでしょう。ですがどれくらい無視していられるでしょうね。私は資金を惜しむつもりはありませんし」
サラは立ち止まって二人に向き直り、淑女らしからぬニヤリとした笑いを浮かべた。
「ここには膨大に利用できる多種多様な薬草と、さまざまな実験を自由にできる実験室があります。薬ですから最終的には治験が必要になるでしょうが、それもアレクサンダーさんに協力を仰げば不可能ではないでしょう?」
「確かに仰る通りです」
するとアリシアも身を乗り出した。
「それにね、私は商会を立てることになっていて、そこに出版部門も作る予定なのよ。今ある本は装飾が多いでしょう? 正直アレって、重くて不便だと思うの。だからそういう余計なものを排して、中身だけで勝負するような書籍を沢山出版したいの。装丁がシンプルになる分だけ、お値段は抑え気味にするつもり」
「それ、絶対面白いと思います。私たちにはパラケルススの資料という強みもあるのですから、勝算はあるはずです!」
「研究がすすめば書き換えられる教科書も多いと思うので、書籍を安く刊行するのは私も賛成ですが、そういった書物に価値を持ってもらえるでしょうか?」
たしかに、一般的な本は非常に高価で、貴族家でも目録を作成して財産として取り扱われている。まぁロバートの作成した同人誌は当然グランチェスター家の目録には載っていないが。
「だからこそ中身の価値が重要なのです。それにグランチェスター領内に限って言えば、テオフラストスさんとアレクサンダーさんの直弟子の本を、無視し続けられる錬金術師や薬師ってどれくらいいるんでしょうね」
「それでしたら、アレクサンダー師監修でアメリアさんがスケッチした薬草図鑑を最初に出しませんか? 花園の薬草はほとんど網羅されてますよね? 妖精たちから植物のことは詳しく聞いたのでしょう?」
「ええ。でもイラストの印刷って、原版の作成に凄く高価な魔法が必要になるんですよ。写真印刷ができる工房は技術を秘匿しているので、値段を下げにくいんです」
『ふむ。この世界は写真技術を魔法で補っているのね』
更紗の世界で写真印刷が可能になったのは間違いなく科学の発達があったからだが、この世界では土属性の魔法と光属性の魔法の複合で可能になるらしい。
「なるほど。まずはそのあたりを解決しないと、いろいろ頓挫しそうね。私も本には挿絵って必要だと思うわ」
『最終的には漫画だって出版してやる!』
変なところでサラのオタク魂が刺激されたようである。
「なんか仲良くていいなぁ。私はまだ塔に住んでないしなぁ」
背後からテレサの声が聞こえてきた。どうやら蒸留釜のセッティングが終わったらしい。
「でもテレサは工房の近くに住むべきじゃない? そもそも一人で暮らす必要はないのでは…だって…」
アリシアがチラリとフランを見つめると、フランは微妙に視線を逸らしている。サラは少しだけフランに肩入れすることにした。
「エルマ酒の蒸留がうまくいけば、もっと沢山の蒸留釜の作成依頼をすることになると思います。工房を離れることが難しくなってしまうかもしれませんね。もしかしたらフランさんも今の工房を辞めざるを得なくなってしまうかも?」
「それはすごく楽しみです!」
「俺も曾祖父のように、もっと沢山の蒸留釜を手掛けたいです」
いたずらっ子のような笑顔でサラはテレサとフランに話しかければ、二人とも水を得た魚のように良い反応をする。
「それはとても心強いですね。フランさんは花園の乙女を守る騎士様のようです」
「あ、いや、俺は騎士なんてガラじゃ…」
フランは顔を赤らめて照れている。何故か隣のテレサも照れているので、脈はアリアリといった感じである。
「え、えっとアリシア。もう蒸留できるわよ」
その空気に耐えかねたテレサが話題を変えた。
「あら、それじゃぁ早速やってみないと」
アリシアも応じた。
「サラお嬢様。私はテレサとフランと共に、さっそくエルマ酒を蒸留していくことにしますので、こちらで失礼しますね」
「はい。皆さんよろしくお願いしますね」
「「「はい!」」」
その後、サラはアメリアに案内されて自室の仕上がりを確認し、その広さと設備の充実具合に驚いた。
「まさか私専用でこんなに大きな浴室があるとは思いませんでした」
「水属性の魔法を応用した上下水道が完備されています。それに、魔石を使った給湯器が塔内にいくつも設置されているお陰で、水道からは冷たい水とお湯の両方が出せるようになっているんです」
「それは便利ね」
「はい。ですからサラお嬢様は、いつでも好きな時にお湯を出して身体を洗うことができますよ」
『うーん。この仕組み考えた人って転生者なんじゃ?』
「それと、塔から出た排水はパラケルスス師の開発した浄化槽に送られるようになっています。この仕組みを修繕するにあたって、テオフラストス師から過分な程のお力添えを頂いたんですよ」
『あー、それはたぶん本人が興味あったからだろうなぁ…』
「この浄化槽で処理された水は人が飲めるほど綺麗なのですが、さすがにパラケルスス師も気になったのか、花園と畑で使う貯水池に流れるようになっていました。あ、一部は水洗トイレでも利用されています」
「なるほど。それは効率的ですね」
「実は水洗トイレだけは他の水道とは別系統の配管になっているらしくて、トイレを流す際には浄化槽で処理された水を使うのですが、排水は通常の浄化槽とは別の処理槽に流れるようになっているのだそうです。ここもパラケルスス師の技術なので、私には詳しく説明することはできないのですが、どうやら堆肥を作るのに利用されるそうです」
『まぁそうでしょうね』
「その仕組みを領内全域に広めたら便利そうですが…お金がかかりそうですね。この先の課題としておきましょう」
『ここは先代のグランチェスター侯爵にとって、未来都市の実験設備だったんだね』
塔の設備を修繕したことで、先代がこの塔に潤沢な資金を投じた理由がサラには理解できた。
『これについては、祖父様や伯父様に伝える必要がありそう。多分知らないんだろうし』
折角なので使用人たちの施設も見て回った。アリシアとアメリアは個室を使っているものの、その部屋はベッドと机だけでいっぱいになってしまいそうなほど狭い。
「二人とも、もう少し広い部屋を使えばいいのに」
「いえ、私はこれくらいの方が落ち着くんです。アリシアさんも同じ意見でした。どうせ寝るだけの部屋ですから」
「そうなの?」
「私たちは花園や図書室で一日の大半を過ごしますから、広い部屋なんていらないんです。共同研究ってことになれば、二人して実験室で寝ちゃいそうです」
「うーん。それは楽しそうですけど身体を壊したら元も子もないですから、程々にして寝てくださいね」
「そうですね。わかりました!」
そして、階下に降りて使用人用の食堂や休憩スペース、そして浴室などを見て回った。なお、トイレは各階に男女別に複数設置されている。
「私の浴室に比べると従業員用の浴室は狭いですね」
いくつかのシャワーブースがあるだけで浴槽が無いのだ。
「ふふっ。でもサラお嬢様の浴室には無いスペシャルがここにはあるんです!」
「そうなの?」
「はい!」
アメリアが案内してくれたのは、なんと広い蒸し風呂であった。
「ここには蒸し風呂があったのですね!」
「はい。蒸し風呂から上がって、先程のシャワーブースで水のシャワーを浴びて、またここに戻ってきたりできるんです。アリシアさんと蒸し風呂で話が弾んじゃうこともありますし、時々テレサさんや、他のメイドさんたちとも一緒になることがあるんです」
「それは楽しそうですね」
「はい。とっても!」
「私も入りに来ようかしら?」
「それは、誰がサラお嬢様のお背中を流すかで揉めそうですね」
「どうかなぁ。マリアが絶対譲らないような気がする」
「ふふっ。じゃぁ私が立候補したらどうなるかしらね」
レベッカも楽しそうにしている。どうやら蒸し風呂に興味津々らしい。
「うーん。でも折角だから皆で入れる大きな浴槽もあると良いのになぁ。露天風呂とか」
「えっ! 外でお風呂ですか!?」
「もちろん外から見えないように、垣根とか作るわよ? でも月や星を見ながらお湯に浸かるのって気持ちよさそうでしょ?」
「いいかも……」
しかし、露天風呂の設置には数か月の期間を要した。パラケルススの魔道具に詳しいテオフラストスが、娘が野外で風呂に入ることを頑として認めなかったことが原因なのだが、最終的にはアリシアが自分で解決するに至った。
なお、この件でテオフラストスは娘から面と向かって「父さんウザイ」と言われて大変に落ち込んだが、アリシアはますます錬金術師としての実力を確かなものにしていく契機となる。