人類酒
生まれた時から倦怠感と共にあった。倦怠感だけじゃない。吐き気も眩暈も、不調は私の知っている限り途切れたことはなかった。
「出ろ。買い手が見つかった」
白い服の男性が私に命じる。防護マスクに防護スーツ。まるで感染を恐れているような滑稽さだ。私は今にも折れそうな体をふらつかせながら、今日はまだ体調が良いとぼんやり思えた。
これから殺し殺される相手を見ることができる。気分は少しでも良いほうがいい。
「付けろ」
頭部につける形状のそれは付ければ視界も音も奪われてしまいそうだ。ただでさえマスクをつけて息苦しいのに酷い扱いだ。
とことん人間扱いされていないと自嘲してしまう。
「手が痺れているのだけど」
「自分で付けろ。時間はいくらかけてもいい」
男は粗雑な返事するが、私には病的にまで私に触れようとはしない。
「さらば私の牢獄。さらば私の生家」
霞む視界は白い外壁と縦長の建物をぼんやりと私の視界に映る。未練など何もない。
運命などずっと知っていた。
いつかベルという友人と交わした約束は果たされそうにはない。
言われたとおりに頭部の拘束具をつけると、圧迫感で気分が悪くなりふらついた。
「立て」
誰も私に手を貸そうとはしない。そんなことなら、私が乗車するまでこんなもの寄越すんじゃないとも思った。
少し昔話を始めようか。六十年ほど前に「ネクステージ」を口癖にアメリカ合衆国の大統領になった『ブラッド・ボール』という男がいた。
当時のアメリカは、細胞入れ替えによる延命治療が現実味を帯び始めて世論は賛否に割れそれが大統領選挙にも複雑に絡みこんでいた。
そんな中ブラッドがおよそ八割の支持を受け当選したが、彼が大統領当選演説で述べたことは否応なく合衆国を「次の時代」に進ませた。
耳が腐るほど聞いた話だ。
「私はヴァンパイアだ。人類が我々と同じ時間を共にする日を心待ちにしていた」
もちろん混乱は発生したが、当選したブラッドの人望が揺らぐわけではなかった。かくして六十年前から人類と吸血鬼は共生する社会を積み上げられてきているのが現実だ。
人間側はともかく、吸血鬼側は統制がとれていた。正確に言うなら、ブラッドは同族に根回しを済ませてから大統領選挙に臨んでいた。
融和的な吸血鬼たちに人類は団結できずに流され今日に至る。小競り合いはあるが、共生は成立している。表向きは。
「着替えろ」
頭を叩かれたみたいな声で微睡みから目を覚ます。邪魔なヘッドセットをうんざりしながら取り外す。周囲を見渡すが、真っ暗なままだ。
扉の鍵が外れる音がすると、扉がゆっくり開かれる。漏れた光に思わず目を瞑った。
「動くな」
私を連れ出した男の声が聞こえた。言われたまま動かないで、ゆっくり目を開ける。光が眩しいことは変わらないが少し慣れてきた。
「あら傍にいてくださるの」
返答代わりに風変わりなカンテラを寄越した。見た目こそ年代物もののようだが中心にあるものは最新の電灯だろう。つまみを回せば明るさを簡単に調整することができた。
「終わったら返事をしろ。お前がさっきまでつけていたものに言え」
まるで銃を持ったテロリストのような言い方が。
バタンと答えも待たずに扉は閉められた。渡された着替えは真紅のドレスだった。先ほど着ていた灰色の病院服のような布切れを脱ぎ散らかす。
下着も付け直し、ドレスと黒いタイツと黒い手袋を身に着ける。こんな風に着飾るのは、これが最期だろう。
「あーあー。準備できたわよ」
「フェイスベールを付けろ。近場まで来たがここからまた歩く。くれぐれも途中で倒れるなよ」
「はいはい」
マスクの次はフェイスベールか。幾分かお洒落だが、そんなものに意味があるのか笑えてしまう。肌も呼吸も外気に触れている。
車外に出れば随分澄んだ空気が広がっていた。あたりを見れば森と長い道路と広がる畑が目に映る。ところどころ林に風が吹いて揺れている。
暖かな日差しに、涼しい風。養生するにはもってこいの場所と似合わないことを思ってしまう。
のどかな風景の高い位置に古風な屋敷が見えた。黒い外壁と木々に溶け込むように潜み厳かで荘厳な雰囲気を放っていた。
「見えるか。あそこがお前の行くべき場所だ」
背後から声をかけた男の姿は施設を出るときとは違っていた。ベージュのスーツ姿で、街中で見かけたならきっと気にも留めない姿。ただ黒縁の眼鏡から覗く目は鋭く殺し屋みたいだ。
「そう。あなたは施設の人ではなかったのね。防護服越しじゃ気づかなかったわ」
「俺はしがない運び屋だ。そら行くぞ」
男は先導するように歩き始める。
「ねぇ私のことどれくらい知ってます」
「用途と体質。黙って歩け。体力を使うぞ」
「いいのよ。話したら気が紛れるの。だって会話なんて随分していなかったから。運び屋さん、今私は命を燃やしているの。今を生きるために必死なの」
歩くたびに眩暈が強くなる気がして、呼吸少し荒いと思えば今度は冷や汗も感じる。
「この先で確実な死が待っているのに歩くのか? お前の役目を忘れるなよ。最も俺たちはお前が届けた後の話など何も知らない。俺も恨まれたくないから何も知らない」
役目は知っていても、届けた後は知らないか。それは好都合だ。
「そう。それは後腐れなくていいわ。貴方に恨みを残してもしかたないもの。あぁ生まれ変わったらあの馬鹿共に復讐してみたいわ」
「なら何故逃げなかった。奴らの一人でも襲わなかった。お前には脅威があった。お前がそんな臆病な女だとは思わなかったよ」
「家族がいるのよ。血の繋がっていない鎖で繋がれた家族が」
あるいはそれは同じ境遇な哀れな友達。同じ施設で育った仲間。兄弟みたいなもの。呼び方なんていくらでも用意できそうだ。
「ただの復讐じゃ誰も救えないのよ」
やるからには徹底的にしないと。施設を壊して、仲間も逃がして、いろいろしないと、復讐にもならない。
男の答えはなかった。顔を上げればあの遠くから見えていた趣のある建物がすぐ目の前になっていた。
息苦しいのは重苦しい屋敷の雰囲気のせいもあるのかもしれない。
人ならざる者。吸血鬼の住む館。
「ついたぞ」
「……そうお別れね」
「ふん。分かってるな」
「えぇ」
口数が少なくなるのは不用意な問題を起こさないための処置だろう。
扉の隣にある今どき珍しい呼び鈴を鳴らす。
「誰だ?」
「ベル運送会社です。お届けに上がりました」
短く切った白い髪。金色の目で身長がおよそ百八十。線は細く紳士的な印象を受けるが少しばかり、細い目は眠そうだ。
「ああもうか。そっちが」
私はスタート端を広げて淑女のように振る舞う。
「はい。こちらが『人類酒』になります」
大統領の宣言後、共生の世界でも吸血鬼が人の血を吸うことは人々の中では恐怖として広まっていた。そんな中で人の血を吸血鬼の嗜好と捉えた人間たちは、自分たちで用意することにした。
それが私たち嗜好品として育てられた人間。その中でも私たちは教養と容姿に丁寧に調整され、非合法の贈呈品、嗜好品として最高級。
法外で胡散臭いそんなものを容易く買えるのも吸血鬼たちの財力の成せる技と言える。目の前の男もそんな者の一人だろう。
屋敷に入ると赤いカーペットを踏んで今度は白髪の男の背を追う。屋敷の中は全体的に暗く静かだ。長い廊下を左に曲がり、すぐ傍の扉の奥に案内される。中央に長い机、暖炉があり、皆が食事をする場所のようだ。
「早速召し上がりますか?」
「黙れ」
圧力を感じる冷たく低い声が返ってくる。まったくこんなことばかりだ。
「顔を見せろ」
言われた通り、フェイスベールを上げる。遮るものがなくなると、呼吸が少しだけ楽になった気がした。
「美しいな」
男の冷たい掌が頬を撫でる。溜息交じりに吐き出された声を出した男も、世の女性を魅了する哀愁が漂っていた。
「哀れだ」
「同情は必要ありません。この為に育てられて来ました」
「同情? 愚かな。これは哀れみだ」
口数の多い吸血鬼だ。さっさと煮るなり焼くなり吸うなりすればいいのに。
「人間はどうして同胞を害することができる。生存と秩序のため以外にこのような行いをする。理解できない」
男はブツブツと怒りを潜めているが声が漏れていた。これはすぐには吸われない。
どうにも私の周りに集まる男は陰気な奴ばかりだ。ろくな人生ではない。
「少しお屋敷を見てもよろしいでしょうか?」
尋ねた理由はこの男の前だと息が詰まりそうだったからなのか、あるいは要望を受け入れられると思ったからだろうか。淑やかに慎ましやかにお願いをしてみる。
「別に構わないが二階にはあがるな。外にも出るな。二時間後にはここに戻ってこい。お前の飯の用意などない」
「私が召し上がられるのに面白いことを言ってくださるのね」
眉間の皺が余計に深くなる。追及はしないで部屋を後にした。
なんというか、期待外れのようでもあり私自身の偏見を改めようとも思った。人の血を求める者など、残忍で冷酷な存在と相容れない人外だと思っていた。
静かな建物だ。最も私が比べられるのは、いつも小さく振動してあの施設とだけだけど。L字型の建物で廊下の突き当りが階段になっていた。約束通り階段の前で折り返す。あまり見る場所があるほど広い建物でもないようだ。
「人間?」
上階から少し怯えを含んだような少年のような声が届く。振り返れば金髪に白シャツとダークブラウンのズボンを履いた、時代を見間違うかのような雰囲気の美青年の姿があった。先ほど男性のご子息と思ったが彼は吸血鬼だ。それは嘘だったのだろうか。それとも実は吸血鬼も生殖で増えていたのだろうか。
「えぇ」
柔和な笑みで答えると、彼は破顔した。
「すげー初めて見た。なぁ俺と遊んでくれよ。遊びっていうのはテレビゲームなんだけど、ダイブする奴じゃなくて」
青年は興奮したように早口で説明する。どうやら私という人間が珍しくて、何を思ったのかゲームに誘っているようだ。ダイブというのは最近の体験型のゲームスタイルのことだろう。吸血鬼もテレビゲームをするのは少しばかり愉快だ。本当にどこか、半世紀ぐらい遅れている人たち。
「いいですよ」
私はその申し出を快諾し、禁じられていた上階へ進み始めた。青年はガッツポーズをして階段を大きく鳴らしながら階段を駆け上がった。
階段近くは薄暗いほどだが、二階の廊下には窓がついている面もあり、陽光が道を照らしている。
「グーラなにやってたの? なにそれ?」
真紅。
紅玉のような瞳が侵入した室内で私を射抜いた。赤い目、長くウェーブした金の髪。黒をベースにしたゴシックドレス。フィクションのような美少女がソファに寝転がりながら、ポテトチップスに手を伸ばしてた。
「こんにちは」
「わぁいいドレス。なになに? 誰? 何しに来たの?」
少女は踊るように跳ねながら私の前に来る。物珍しそうにドレスの布地をマジマジと顔を近づける。
「わぁ美味しそう。人間なんだ」
「そうだぜ、ルクス。せっかくだからこいつとゲームしようぜ。いっつも俺たちでやってじゃつまんないだろ」
「あんたは負けてばかりだもんね」
「うるせぇ」
部屋の前で棒立ちしている私をよそに、二人はせっせと机と椅子それから別のコントローラーを用意し、ソファとは別の椅子を運んでくる。
それはさながら嵐のようで、見慣れない客人を見た者はこのような歓待をするのかと新鮮に映った。何より二人が仲睦まじい家族のように見えたのが、私の知らない温かさを感じた。
「いつの時代もゲームにはコーラだよな。姉ちゃん飲めるか」
グーラによって三人分のコーラが目の前の長机に置かれる。机の上はコーラに、袋の空いたポテトチップスに雑多に積まれた菓子箱でぐちゃぐちゃだ。
私はというと、ルクスと呼ばれた少女からコントローラーの扱い方を受けていた。初めて握るものなのに手に馴染むのは、素晴らしい造形によるものだろう。
ずっと昔のことが頭をよぎる。施設に居た頃、私にも仲の良かった二人がいた。三人で施設からの脱出なんて話し合って、一人は途中で出荷されて、もう一人は病気になって死んでしまった。テレビゲームなんて教養としか習わなかったけど、ボードゲームは遊ぶ機会が多かった。
「うわぁ。お姉さんすごい呑み込みが良いね」
「頭は良いの」
「じゃあこれはどうだ!」
画面の中で予想外のエフェクトによって、私の操作していたキャラクターの残機が減ってしまった。
「今のは?」
「必殺技だよ。下のゲージが溜まったら使えるんだぜ!」
ルクスが私の手からコントローラーを攫っていく。画面の中では同じように派手なエフェクトの後、グーラの残機が減っていた。ゲームにありがちな一発逆転の手段ということか。
「こうやるの」
ルクスは指を動かしてやり方を教示する。
「そんな強くないよ。グーラは派手すぎだから、最初にコンボ決めたら勝てるよ」
「つまんないこと言うなよ~」
そうこの騒がしい二人の喧騒は、懐かしく大切だった日々を思い出させてくれた。人のことは安息をよく覚えているものなのかもしれない。心地よく死に迎えそうだ。
「わぁお姉さんつっよ。もしかしてやったことあった?」
「いいえ。……手先は器用なの」
得意げに微笑んでみるが、視界は霞んで、指先も少し震えてきている。そろそろ限界なのかもしれない。
「ちょっと喉乾かない」
ルクスが声を潜めるような低い声で、グーラに言葉を投げかける。
「ねぇねぇグーラ、飲んでみたくない?」
陽気な空気が反転する。まずいと思って、立ち上がろうとするが左肩をルクスに強く握りしめられて、爛々とした彼女の目と半開きの口から鋭い犬歯が顔をのぞかせる。
「……そうだね、ちょっとだけならお父さんも怒らないよね」
グーラの声も上擦っていて、興味を抑えきれないと私の右肩を抑える。
駄目だ。二人は駄目だ。
「離して! 駄目です! あなたたちは、駄目です!」
必死に声を上げて、体力を振り絞るが二人はビクとも動きはしない。
「「いただきます」」
よく似た二つの声が両耳にこだまする。二人は器用に私の首筋に噛みつく。座れるように、有らん限りの力で抵抗するが、それでも意味はない。
「ああああああああああああああ」
だから最後に精一杯声を上げた。階下のあの人物に届くことを、手遅れにならないことだけを願って。
噛みつかれたところから、血が吸われてどこか熱を感じる。次第に眠気と一緒に意識が闇に落ちていく。
「うっ」
苦しくうめく声は私のものじゃない。グーラは喉を抑えてのたうちまわり、ルクスは体を揺らして机に大きな音を立てて倒れた。
あぁやはりこうなってしまった。夢のような楽しい時間は、悪夢のような惨劇によって終わりを迎える。
人生の終わりはなんとも無慈悲で後味の悪いものだ。
「おい。人間、起きろ」
振動が体を揺らす。
勢いよく体を起こすと、二人とゲームをしていた部屋のソファで寝ていたようだ。どうやら私は生き残ってしまったようだ。いやそんなことよりも二人だ。
「えっとご主人様、彼らはどうなりましたか?」
眩暈を抑えながら彼に尋ねると、唇を噛んでいかにも不機嫌な表情が視界に入った。
「お前に主人といわれる筋合いはない。……隣の部屋で寝込んでいる。お前何をした」
私は彼の名前を知らない。主人と言わずにどう呼べばいいのか。
殺意すら感じる瞳に射抜かれ、これは隠し通せそうにはないと判断。どのみちこうなってしまえば、私は彼に飲み干されるということもない。もう私は役目を果たせない。無価値な私が今までの決まりに大人しく従う必要なんてもうない。
「二人の様子を伺ってよろしいでしょうか?」
「駄目だ」
「その答えだけで十分です。医療道具、その注射器とは言いません。鋭い刃物か、透明な器はありませんか?」
ふらつきながら立ち上がった私は、うわ言のように尋ねる。隠しておきたいなら、危険な状態のはず。早くしなければ、考えもまとまらないまま必要な行動を起こそうとする。太陽の高さは先ほどと、そんなに変わらない。
血が抜けたからか、あるいは使命感か、いつもより強い力にひかれているみたいに、体は動く。
私を飲み切ってもいないし、間に合う可能性は十分に高い。
「おい」
声に振り返ると壁に追い詰められて、男の整った顔が近くになる。獰猛な獣に睨まれているようだ。暗闇で猛獣と目が合ったような根源的な恐怖を感じる。
「時間が貴重です。だから今は私のことを信じてください。殺すのなら、私の話を聞いてからにしてください。二人のために! お願いします!」
「勘違いするな、お前の価値は私が決める」
「口答えするなら、どいてください。邪魔です」
彼の腕を避けていこうとするが、腕を掴まれるとどれだけ力を込めてもビクともしない。
「どうしてそんなに必死になる。お前は私を殺しに来たのだろう?」
「そうです。それが二人を助けない理由にはなりません」
「お前は何者だ? 暗殺者というわけでもないのだろう」
「話せば邪魔しないでもらえますか?」
質問ばかりにうんざりする。男の疑問を解くことが、事態を動かすために必要な問題と定めることにした。体に込めていた力を緩めると、私の腕を握っていた男の手も外れた。
「知っての通り、私は人類酒。あなた方、吸血鬼の嗜好品」
生涯語ることのなかった、自らの出自をまさか吸血鬼に語ることになるとは思いもしなかった。
前置きもほどほどに、私は「私の正体」について話し始めた。
人類酒。それは人間が吸血鬼のために用意した嗜好品。人類酒の説明ならそれで十分だ。良質な酒の条件として、従順で教養があり、女性で清廉な魂を持ち平均的な体格が望ましいとされている。飲まれるために学び体を作り二十歳ほどで出荷される。非効率、非人道的な人類酒を造るのも人間であり、市場ではまた別の名前の商品とされて取引されていると聞く。
人間の悪意と欲が生み出した商品。人間と共存を選択する吸血鬼の多くは、社会的な立場だけでなく、黄金や歴史的な価値のある美術品など背景には豊かな資産を持っている傾向にある。人と違って、だいたいの吸血鬼は金持ちだ。ただし、人間の悪意はこんなものではない。
数が多く延命が可能になったとしても、世界の漕ぎ手は人類だったはずだ。吸血鬼が我が物顔で人間に混じることを快く思わなかった人たちはあることを思いつく。
そうだ吸血鬼を排除しよう。
世の中では人と吸血鬼の融和派が多く、表立って排除する動きはせいぜいデモ程度。それでは数ある思想の一つでしかない。
より確実に、吸血鬼だけを殺す。そのために人間の一部は、人類酒という吸血鬼に対してのみ意味のある贈呈品を作り始めた。
そして人類酒の内に毒を混ぜた。
古代インドの歴史に毒娘というものがある。赤ん坊のころから、少しずつ毒を与え馴染ませ大人になる頃には少女の体は恐ろしい猛毒となっている。その娘を敵国の王族に嫁がせることで暗殺してしまおう。そんな話だ。現代の医療技術によって人の体に溜め込み毒を選び、執念深く熱心に管理された。猛毒の血を吸血鬼は飲み干すことで彼らを殺す。そんな信仰めいた正義を聞かされて、私たちは育てられてきた。
私たちの存在は人間の尊厳を取り戻すためにある。上っ面な言葉でも、それが私たちの生きる意味だった。吸血鬼を殺す。そのための道具。
「それが私です」
一階の食堂で腰掛けながら、私はひとしきり話した。
「愚かな。本当にお前も人も愚かだ」
どうやら彼は私の話を信じてくれたようだ。今起きている事態を考えれば当然か。眉間に手を当てて、深いため息をつくことを隠そうともしない。
沈黙が広がる。不思議なことに私の体はここに来た時よりもいくらか楽に動かせる。壁に掛けられた時計を見ると、秒針が同じ場所を反復している。
「どうするつもりだった?」
「私の血を使います。話の通り私の体は毒に侵され続けています。だから私の血には抗体があります」
ドレスの裾を捲って、白い手首を見せる。血清の作成は実践したことはないが、作るのはそう難しくないと聞く。抗体の摂取は早い方がいい。
「それだけでは駄目だ。お前の毒は呪いを帯びている。ただの毒が我々に効くものか。その程度で霊殻を蝕めない。お前の血は我々を殺すために作られている」
レイガイという聞いたことのない言葉を呟く。男は眉間に手を当てて何やら苦悩しているようだ。
「一方的に尋ねて、あなたはどうするつもりですか?」
「黙れ!」
「黙りません。二人が手遅れになるようなら、私はあなたをどうやってでも殺します」
机を強く叩き男が立ち上がる。地響きが空気を震わせ剣呑な空気が部屋に満ちるが、私は睨むことをやめなかった。
「忌々しい。本当に、このような策しかないのが忌々しい。アーサーめ。やはり同族に災厄を撒くか」
「アーサー?」
「六十年前の愚かな大統領だ」
「けどその人は、次の時代を作りました。あなたは不満ばかり口にして何もしていません。意気地なしです」
「…………」
沈黙を裂くように家の外で鳥が羽ばたいた音が室内に響く。男は何も言い返さずにしばし瞑目する。私は椅子に座り直し、答えを持つことにした。
真偽は不明だが、私の血は呪いが混じりただ治療するだけではいけないようだ。
「チッやはりその手が確かか。嘆かわしい。おい人間、名前はあるか?」
固く編むように指を組んで、男は重苦しく尋ねる。
「十七番。友はリイーラと呼ばれていました。あのあなたのお名前は?」
「あぁ名乗ってはいなかったか。……本来であればお前のような家畜に名乗るものではないが、契約を結ぶ以上そうも言ってられない。私はスペルビアと言う。くれぐれも礼儀は尽くせ」
随分と傲慢な態度だと思いながら、彼の名前を内で反復する。
「ではスペルビア様。私はどうすれば良いのですか?」
名前を教えあうことで信頼が得られたのならば、私たちはいよいよ二人を救うために動くべきだ。
今度は屋敷の古い主人が重々しく口を開く。
「リイーナ、お前には死んでもらう」
それで二人が救われるなら、喜んで答えよう。
その後の用意は彼がすると言われて、それまでの間、私に言いつけられたことは絶食だった。スペルビアとの話が済んだ後、ルクスとドーラの顔を一瞬だけ見ると別の部屋に隔離されて過ごしていた。二人にはスペルビアが何らかの処置をし、私も少しばかり眠っていた。
日が落ちてから、私はスペルビアの私室に案内された。廊下とは対照的に優しい光が室内を照らしている。
スペルビアの私室はよく整理されていた。机の周りにはディスプレイとコンピューターやラック。壁際の棚には異様に古い書物の箇所もあれば、最新の記憶媒体を保管している場所もある。古風な吸血鬼かと思ったが、一応最新の文明人でもあるようだ。
部屋の中央に視線を向ければ、少しくぼんで床がありそこに意味深な魔方陣が書かれていた。
「来たか」
「これはいったい?」
「死んでもらうと言ったが、正確に言うならお前には吸血鬼になってもらう」
「私が?」
そのために時間を待ち、場所を用意したのだろうか。魔方陣の周りは石の床になっているようで、彼の足音が静かな室内に響く。
「そうだ。吸血鬼に成ったお前が二人に吸血し毒と呪いをその身に移す。手順としてそんなところだ」
「この魔方陣は?」
「お前の体があまりにも有毒なので、直接血液を与えることは避けたい。一方で新鮮な血を与えたところで、血と毒が反発し吸血鬼になる前に死ぬ可能性もある。そのための処置がそれだ」
どうやら私の知る法則とは別の吸血鬼側の都合があるようだ。少し寿命が延びるだけだ。覚悟は何も変わらない。死ぬ意味が少し変わるだけで、泡のような命を終えることに違いはない。未練はない。
「さて始めようか」
男はそういうと小さなナイフで掌を裂く。浅い傷のはずなのに、動脈を切ったように血の流れは途切れずに彼の用意した杯に零れることなく注がれる。
「我々が血を吸うと語り継がれるのは、我々が血と相性が良いからだ。栄養補給、情報収集、武器としても、我々は血液で行うことができる。そしてその血をほかの生物に与え、空想でありがちな眷属という立場にすることもできる」
淡々と話しながら、男は血杯を持って私に歩み寄る。
「ただし我々は人間とは違い、霊殻という器を持っている。人と吸血鬼を分ける点があるならばそれだ。人間の肉体とは別の強度と考えてもらって構わない」
「レイガイですか」
「恐らく理解の外だろう。これを説明する理由は、お前には今から霊殻を得てもらう。そうしなければ、お前は今ここで死に、あの二人も無事ではないだろう。死ぬことはないがな」
血杯を差し出し、私はそれを受け取った。スペルビアは私に魔方陣の中心に行くように、命じ彼は別で古い本の用意をしていた。
「部屋の明かりこのままなんですか?」
「確かに夜目は効くがわざわざ暗く必要もない」
不思議なことを訊いてくると思ってそうだ。儀式の際に周囲が暗いことはありがちだが、私の見てきたものは、フィクションにおける演出だったようだ。
「血杯を飲めばすぐその場で屈め。どうせのたうち回ることになる。自分の肉体の意識を強く持つことを心掛けろ。霊殻というのは虫の甲殻のようなものだ。鎧をイメージしてもいい。人から変成する以上、人の形を意識する方が掴みやすい」
男は滑らかに語るが、六十年前ならそういう設定と笑い話にできたとも思えてしまう。
渡された器に見れば揺れとともに小さな波紋が広がる。波が収まれば部屋の明かりがそこに映る。その場に座り、一度スペルビアの方を見ると小さく頷いた気がした。
「飲みます」
杯を唇にあてて、口内に血の味が広がる。瞼を閉じ一気に飲み干す。
飲み干した直後は、液体が胃の中に広がっていく感じが広がる。胸焼けはするが、案外大したことないかと思った瞬間、喉が酷く乾き、それが焼けているように感じ始める。眩暈がして地に伏せば、今度は体の内を焼くような強烈な痛みと息切れが始まる。手足が痺れ、滝のような汗が止まらない。気絶し、激痛で目を覚ますのを何度も何度も繰り返す。
渇く。
酷く渇く。
水が欲しいと手を伸ばせば、見えない壁に阻まれる。
地面に書かれた魔方陣上に見えない壁があり、私の邪魔をする。
渇きは、飢えに変わっていく。
痛みも痺れも、感情も、思考も、全て書き換えられていく。
人の形。言われていたそれに思考を収束させようとする。くだらない。
人の形は、化け物の形だ。この悲劇を引き起こしたのは人だ。
怒りが私の意志をか細く紡ぐ。それでも、飢餓感は衝動に変わり、私の耳は、目は、鼻は、獲物の気配を探る。
匂いがする。
上階から食欲をそそる。強い匂い。
行かなければ。
私はきっと死んでしまう。
「おいリイーラ、気をしっかり持て」
頭部に強い衝撃を感じると、急に夢から覚めたように視界が戻ってきた。
暗い部屋をおかしなことに下からの光がかすかに照らす。私は腕の中に、白い人形を抱いていたのかギョッとして身を引けば、それは陶器のように白い肌を持ったルクスだった。
周囲を見渡せば、ベットに投げ捨てられたようにグーラの姿もあり、私とルクスの間に割って入ろうとしていたスペルビアの姿があった。
「あれ私は一体」
「ようやく正気に戻ったか」
よくよく見れば彼の左腕の服がボロボロに破れていた。血痕も飛び散っているが、怪我自体は見られなかった。ぼんやりと、再生能力という伝承は実際に存在しているのだなと思い至る。
「あれ?」
平衡感覚が保てなくなってその場に倒れこむ。私の抱いたルクスも、人の切れた人形のように私の上に覆いかぶさるが驚くほど軽い。
見上げる天井の木目が注視すればいつもよりも細かく見える。暗闇と認識いても、昼間と変わらぬほど周囲の様子を理解できた。
起き上がりスペルビアと一緒に、ルクスとグーラをベットに運びなおす。
随分不思議な充実感と満足感が体に広がっている。久しぶりにお腹一杯に食べたようで、これまで私と連れ立ってきた倦怠感も疲労感も今は体から家出したように、驚くほど気配を感じない。
今ならなんでもできそうで、笑えて来てしまう。
「随分とご機嫌だな」
「えぇ。調子が良いの」
「人間をやめた感想は?」
少しだけ答えに迷って、
「悪くない」
と小さく答えた私は、きっと悪い顔をしていただろう。
「だが、お別れだ」
スペルビアは短く私に告げると、階下に飛び降りた。意味を考えようとしたら、懐かしい苦しみが私を襲い掛かった。
強い吐き気。それから眩暈。ずるずるともう一度その場に倒れて、床に空いた穴から一階に落ちていく。衝撃はあるが、痛みは感じない。ただ猛烈な、意識を失う前とは別種の苦しみが私の身を襲う。私がよく知る苦しみ。呼吸は苦しくなり、首を回した先で、スペルビアが私を見下していた。
「それがお前が我々に与えようとしたものだ」
疑問を口にしようとするが、かすれた空気が漏れるだけでは言葉は紡げない。
「言ったであろう。死んでもらうと。お前は二人に渡った呪いをその身に受けた。そして今のお前の体は我々と同じだ。お前の呪いは、我々を殺すためのものだ」
なるほど、それで死んでもらうか。恐ろしく納得できてしまう。
「かはっ。……ハァハァ。賭け……しませんか?」
痙攣する腕でなんとか、体を起こそうとする。きっと彼の不愉快そうな目で私を見ているだろう。
走馬灯のようにいろんなことを思い出す。特にドーラとルクスが笑い声を思い浮かべると、ついついお姉さんぶった笑みを溢してしまいそうになる。
施設で育った私よりも先にいなくなった仲間たち。成績が悪いからと出荷されていった兄弟。運命を呪う機会は何度もあった。終着がここなら不幸に沈む同じ境遇のものがいなくなることを切に願おう。
吸血鬼を化け物というのなら、人だって十分に化け物だ。
何が正義の行いだ。私の生をそんなものに巻き込まないでくれ。幸か不幸か私は人間をやめている。
ならば生き残れたら、
「私が生き残ったら復讐させていただきます」
「お前が私にか」
「ハハハハ、違い……ますよ」
恨む相手がいるのなら、私に兄弟を殺させようとしたらあいつらだ。容姿はドーラとルクス二人の方がずっと素敵だが、無邪気に笑っている姿がそっくりだったんだ。私が随分長いこと忘れていた二人に。
「そこまでする理由があるのか?」
この吸血鬼は本当に人のことを分かっていない。
「カー………」
掠れた声は、言葉にならず、音だけが抜けていく。
人をやめた私が、人のために命を賭ける必要などどこにもない。
命は私のために使う。体の力が抜けていく。火照る体に床板の冷たさは心地良いが少しばかり物足りない。
再び眠りに落ちていく体に、心の中の私はせせら笑っていた。
田舎の夜は随分と星空が綺麗だった。空はどこまで続いていて、宇宙に描かれる天体は果てを知らぬほど広がっている。
体が随分と軽い。今までの調子が良いとは比べられないほど、全能感すら抱きそうになる。
ルクスとグーラは今頃穏やかに寝ている。スペルビアの言ったように人間として私は死に、彼らの同胞に迎えられた。スペルビアの策は毒や呪いを治療するのではなく、元々の器にしまうというものだった。
二人の吸ったものを私が更に吸い出したのだ。
頬に当たる夜風。屋根先から、広がる世界は静寂に満ち、思案に暮れるのにはもってこいだ。
血を吸った光景は、背徳的で私が道を踏み外したことを強く意識させた。美しい二人の血を吸うことは、恐ろしく甘美で人類酒に容姿の美しさが求められた理由を理解した。美しいものは気分を高揚させ、スペルビアに止められなければ吸いつくしていたかもしれない。
人の道を外れ、人として私は確かに死んだ。
それで良かったと思うのは、私の心にはいつまでも施設の人間に対する怒りが燻っていたからだろう。
今日までの人生が、突然永遠の時間に変わってしまった。厳密な話では、私の体は毒と呪いに侵されて本来の吸血鬼ほどの寿命は得てはいないが、終わりは随分と遠のいてしまった。
足音が聞こえて耳聡くそちらを振り向けば、二人分のコップを持ったスペルビアの姿があった。
「気が利くじゃない」
「ふん。勝手に賭けをして、勝手に同朋として振る舞うお前の図太さには悪魔も逃げ出す」「悪魔ってこの世にいるの?」
「さぁな」
受け取ったコップに舌をつければ、コーヒーの苦みが口の中に広がる。
「まったく気まぐれで酒を買ったのが、随分な騒ぎになった。クーリングオフも受け付けていないとは、まったくどこを訴えればいい」
皮肉を口にしているが、緊張は抱かない。彼は元々不愛想な性格なのだと勝手に結論づけると怒るだろうか。私はそれを無視して話しかける。
「行ってくるわ。帰る家と思っていいのでしょ」
南西の空ではドームのような街の明かりが見える。
「不服だがあの寝起きの二人が揃ってお前の心配をしたのだ。ここで私がお前を追い出すことは公平性に欠く。リイーラは荷物を取りに行ったと伝えおく。行くなら夜の内にしておけ」
「そうね」
靴を整えてから、私は勢いよく跳躍した。新品だったドレスは血や私の引っ搔いた痕でもうボロボロだった。破れた場所から肌を撫でる風は冷たく心地いい。
目標を見定めて、屋根から勢いよく飛び出す。空が広い。大地は私の歩みを力強く受け止めて、私はさらに一歩飛翔する。
視界は遠く、世界は広い。川も、山も、ビルも、何もかも私の歩みを阻みはしない。
記憶の匂いを注意深く感じれば、轍の痕跡からでも目的地を見定めれた。人知を凌駕するこの存在は確かに恐怖だろう。
「ついた」
以外に近いと感じるのは、ほとんど一直線で目的地についたからだ。白いコンクリートと塔のような建物。警報装置を見かけて、わざとそれを鳴らした。外壁も、コンクリートの壁も少し力を入れれば壊せる予感がした。
呼吸はまったく乱れずに、数百キロを移動してきたとは思えない。
吸血鬼になることで私は力を得た。呪いは才能に変わり、私の力と変じた。呪いと毒とを吸った経験が、私に血と共にその二つを操る術と授けた。人間をやめたのだから、人間の味方をする必要もないだろう。その結論に至ると気持ちが軽くなり、私に負わされた理不尽を打倒しようと思い至るのに時間は掛からなかった。
敷地内でサーチライトを見かければ、それに石を投げつける。砲弾が直撃したように鮮やかにガラスが割れる音、混ざり始める足音、騒ぎ始める人の声も耳に届く。それを無視して上質な毒の香りが私を誘ってくれて、穴倉のような寄宿舎には容易く辿り着く。
鉄の扉を勢いよく開ける。周囲に人の潜んでいる気配はある。当然だ。一日前には私は同じようにここにいたのだから。
言葉を発する必要はない。ただ毒を呼びよせればいいだけ。
吸血鬼の誕生には、その前後の出来事が大きく関わる。命の危機ならば生存欲求が。恐怖を感じたなら、鋭敏な感覚が。変性する際に構成される霊殻が応じた能力を得る。吸血鬼も生物なのだと思わせる事象だ。
そして私は毒と呪いを吸うという才能を得た。霊殻によって毒の許容量は増えて、私を殺す力を毒は失った。それを知ったら私を育てた者たちは何を思い、何と言うのだろう。
人の呻く声、歯を鳴らして震える音。まだ入り口前に私はいるのに、室内の音が私に情報を伝える。内と外で怯える人の気配を捉える。
「あなた方の毒は私がなんとかしました。……あとはベルを頼ってください」
用意した言葉を冷淡な口調で発する。ずっと昔ここから逃げ出した女性だ。利発的で私の先輩でもあった人物。工場での騒ぎを彼女が聞いたなら、きっとなんとかしてくれるだろう。今は世界の裏表を渡る運送会社を経営している天才。
私は冷酷な吸血鬼。人ならざる者になったもの。毒を抜いて、出口も作ったなら、同郷への義理は十分果たしただろう。
「リイーラ!」
振り返れば私の後輩の姿があった。私がいつまでたっても出荷されなかったから、一番にはなれなかった子。
勉強なんてできても意味はない。それは味を良くするための儀式だった。みんなそんなこと分かっていたけど私たちは満身していた。いつか自由を掴むために。今思えば、一人でも脱出してしまったことが私たちに希望を見せていたんだ。
私は彼女に微笑みを浮かべて、その場を後にした。部屋から出て北側の外壁を、わざと音を立てて破壊する。中央にある塔のなだらかな足場に降り立ち周囲を見渡す。パニックになっているのか火の手が上がっている。秘密裏な施設だからか、随分と防犯設備は古臭いものを使っていたようだ。
警備の塊を見つければその場所に軽い毒の煙を散布する。無色透明にもできるが、分かりやすい紫色の霧で見せる。如何にも有毒なのだ。わざわざ吸うことはしないだろう。
まったく何様なのだと思わず奥歯を噛み締める。腹立たせるのは、私たちを生産していた者どもだけでなく、人間をやめてすぐに復讐を実行した私自身。
こんなことをしたかったのか私は。友は帰ってこない。苦しみは決して癒えない。役目を投げ出した私を許す人間はいない。
生きてきた過程も意味もひっくり返したんだ。私はもう人ではない。殺そうとしていた吸血鬼。
「二度も死にぞこなったんだ。……切り替えよう」
死を覚悟するのは得意だった。中毒で死にかけたこと。出荷されることになった日。スペルビアに死んでもらうと言われた時。
「生きてみようか」
遠くの空は未だに暗いままで、眼下では警報と警備の者たちが迷路のような毒霧に手を焼いている。北のほうでは麻布を被った人の団体が壁を越えて森の中に消えていくのが目についた。
帰ろう。もしも追い出されたなら、また別の生き方を考えよう。
夜が明ける前に屋敷に戻ると、興奮が冷めたからか疲労で地面に伏した。思えば毒もたくさん吸ってしまったので、多少調子を崩すことがあったのかもしれない。
家に入ればスペルビアが出迎えてくれた。私の衣装を見ると眉間に皺を増やして、シャワーを浴びてさっさと寝ろと命じてきた。
言われたとおりにすると、替えの衣装が用意されていた。なんとなく思っていたがこの家主、随分面倒見がよろしい。シャワーから出ると、寝具と部屋の用意がされていた。わざわざ準備したのかと家主に訊くと、ルクスの部屋に案内したと答えられた。迷ったが疲れていたので大人しくご厚意に甘える逡巡するが生で一番ふかふかなベットと柔らかい布団にくるまるとすぐに寝付いてしまった。
「うーん。快調」
不思議なことに濡れた髪も、汚れた手先もいつの間にか綺麗さっぱり元に戻っていた。
朝ではない気がする時間に目覚めてみれば十数年連れ立った吐き気も倦怠もどこかに行ってしまった。人生で一番体が軽い朝を迎えた。
部屋を出ると食堂の方で声が聞こえて、そちらに向かうと三人が話していた。
「起きたか」
スペルビアの金の瞳と目が合う。スペルビアの隣に座っていたルクスと、振り返ったグーラの赤い視線が注がれる。
二人の肌は白いが、その眼には活力がともっていることはすぐわかった。
「おはようございます」
「おはよー」
「やっほー」
私の答えに、グーラとルクスの陽気な声が返ってくる。二人とも気にしてないのだろうか。
部屋の前で立ちっぱなしもなんなので、私も席に着くことにした。グーラの隣に座ると、体面に座っていたルクスが金の髪を揺らしながら私の隣に座りなおして、おもむろに腕を組んできた。
「あのルクス?」
「いいじゃん。なんだかこうしていたいんだもん」
助け舟を求めてスペルビアを見ると、わざとらしいため息をつかれた。
「そいつら毒に対して依存がみられる。いいか、くれぐれもそいつらに血を吸わすなよ。忌々しい」
「そんなものがあったのですね」
「お前らを作った奴らは、よほど我々を殺したいようだ。恐らく人類酒一本で運よく死ななかった客が次の毒を求めるための細工だ」
用意周到というか、執念深い連中だ。私たちの世話をしていたのは科学者風の人物は、恐らく末端で製造を命じていた人間はまだ別の場所にいるのだろう。そいつらは本当に吸血鬼を本気で排除したがっていたのだろう。
「親父、俺たちはリイーラを吸ったら駄目なのか?すげー美味かったぞ。どうせ毒なんか効かないんだから、ちょっとぐらい?」
「そうよ、リイーラすっごく美味しかったわよ!」
左右から鳥の鳴き声みたいな二人の声が届く。ルクスの舌が唇を舐めるのが視界に入って、思わず強張る。
「駄目だ。今のリイーラは我々の同胞だ。それにそいつの毒は、霊殻を得たことで力を強めている。私としてはそいつに気軽に触れることも避けたいほどだ」
「そんなの病気扱いじゃん! パパ嫌い!」
ルクスの腕の力がさらに強まる。体の中に感じる毒の気配とでもいうべきものを、できるように抑えるように心がけることにした。
「分かった、分かった。喧しい奴らめ。いいか、絶対に血を吸うな。リイーラも絶対に吸わせるな」
「はい」
「えぇー」
「そんなのってないぜ」
「黙れ、黙れ。そろそろ出かけるぞ。準備しろ」
ルクスとグーラが不満を表すが、スペルビアは虫を払うように手を振る。書物や映画の中でしか見たことのないシーン。本当に家族というものは、気心の知れた仲なのだと知る。
「あの出かけるってどこに?」
「買い物だ。どうせ行く場所などないのだろう。同胞にしてしまった以上。しばらくは面倒見てやる」
「えっリイーラここに住むの!」
「マジ! やった! あっ親父新しいゲーム買ってくれよ」
「ダウンロードで済ませろ。いつまでも古いものばかり使おうとするな」
スペルビアが部屋を出ていくと、グーラはその後ろを騒がせながらついていく。
「ねぇねぇ、リイーラ。服持ってるの? ないなら私の貸してあげる!」
立ち上がったルクスは私の腕を強く引く。彼女に引かれるまま、立ち上がって食堂をあとにする。
喧騒が心地いい。彼らとは知り合って時間は経っていないが、家族とはこんな感じなのだろう。
先のことなんて何にも考えていなかった。生きることに必死だったのか、それとも目の前にある死を抱きとめるのに一生懸命だったのか。どっちにしても未来があるというのは、こんなにも不安で不透明なことなのだろう。
急ぐ必要はもうない。すぐ死ぬことはもうないのだ。それは安息であるが、ふと永遠に気づくと少し怖くなった。生を手に入れたのに、死ぬべきタイミングを逃したようにも思えてきた。
生きることを恐怖するなんて初めてだ。それが少しばかり嬉しくて、思わず頬が緩んだ。
「リイーラ笑ってる! どうしたの?」
「少しこれからが楽しみになりました」
「私も!」
スペルビアの急く声が聞こえる。吸血鬼のくせにガレージから車を持ち出して、日中を四人でドライブに行くようだ。
それは夢みたいで戸惑ってしまう、そんな新しい日常の始まりだった。