第十章~第十一章
第十章 矢野係、本領発揮す
藤浪以下四人で、その建物をぐるり固めていた。逃亡させないためだ。夜も九時半をまわると少し寒く感じられた。空が晴れ渡っているせいかもしれない。無風でよかったと皆思った。そこは、古びたワンルームマンションの角部屋に当たる201号室であった。
しかし目指した名前と表札は違っていた。それで念のために、和田は居住者に当たってみることにした。町会からのお知らせとウソの来訪目的を告げた。出てきたのは冴えない中年男性だった。警部補は適当なことを言いながら三和土をみる。男性用だけで、女性用の靴はなかった。それでも、女性が住んでいないか、それとなく部屋の様子を窺い、香水の残り香などがしないか鼻を利かせてもみた。しかし気配は全くなかったのである。
こうなるともう、訊くにしくはない。「じつは人を捜しているのですが」柔和な笑顔を作った。「この部屋に以前、菅野という名前の若い女性が住んでおられたはずですが、ご存じないですか」ここはウソをつかずズバリ。反応を見るためだった。隠し事をしていれば、表情、特に目の動きに表れる。正面から男に視線を注いだ。
「ここに移ってきて三カ月ほどですが、そんな名前の女性は知りません。若い女性ですか…」近ごろはとんと縁がありません、そう言って小さな自虐笑いをした。
ウソをついているふうには見えなかった。
辞すると、同マンションの一軒一軒、和田と藍出は念のために表札を確認した。ダメ元と割り切っていたが、案の定、該当者名はなかったのである。
同刻、星野と矢野はデカ部屋にて、報告を待っていた。
その住所に、ホテルからのファックスにあった名前の女性は住んでいないとの報告を聞いても、被疑者となった人物のその後に起きた出来事を、星野も矢野もまだ思い出せないでいた。ただ、聞いた微かな記憶が二人ともに、あった。そこで二人はともに頭の中で、菅野拓子という名前を繰り返し呟いてみた。だがどうしても思い出せなかったのである。
ところでこの二人、掛け値なしで優秀に違いない。だが、さすがの彼らとて失念していた、菅野拓子自身に起こった件自体を、である。というより失念していたのは、転落死した女性の名前だけだったのだが。もっと正確にいえば、この時点においてもまだ、転落死した女性と菅野拓子という名前が結びつかなかったのである。
というのも、いくら優秀とはいえ、常に別件を担当している身だ。日々忙しかったのだから仕方がない、いや、ピンと来なくて何の不思議もないのかもしれない。
しかしこのあと、矢野は自分の甘さを心密かに責めることになる。愚鈍だったと自身の不明を、隠れて恥じた。車中で、親父さんがヒントを与えてくれていたのである。にもかかわらず、だ。いくら今日が、先妻貴美子の祥月命日で感傷的になっていたとはいえ。さらには夭折の人生、幸少なかったのではないかと胸を痛めていたとはいえ。彼は自分に厳しい質で、感傷のために、平常心や冷徹さを失ってはならなかったと、きつく戒めた。
それはそれとして、彼とて生身の人間だ。いつもの警部でなかったとしても致し方ない。
とりあえず、撤収を和田に指示した。「その前に、入居者募集のチラシが貼ってあれば…」
「ベタベタと壁に。そこに書いてある連絡先、ですね」つうと言えばかあ、さすがである。
個人名だった。すぐその番号に掛けたところ、出たのは同マンションの大家であった。
矢野は身分を名乗り、用件を伝えたのである。
ものぐさな老人(さもあらん。マンションの廊下や階段に綿埃が溜まっていたのである)だったおかげで、入居者ファイルに菅野拓子のものがまだ残っているとのこと。
帰省先は空欄だったが、保証人・緊急の連絡先は同一人物で、菅野拓造とあった。
大家は、名前から父親だろうと推し、故人の荷物引き取りを依頼したと矢野に告げた。今流行りの遺物整理のプロを使わなかったのは、その代金を大家として支払わなければならないと思ったからだった。だがそんな経緯、むろん矢野に言うはずなかった。
ちなみに転落死翌早朝に一度だけ訪ねてきた刑事は、両親の存在を教えなかったようだ。
そんな裏事情などに関係のない矢野は、故人と聞きやっと思い出した、一年ほど前、階段から転落死した女性の名前を、である。墓参帰りの車中で元義理の両親に話して聞かせた、その件の女性であった。
ところで、矢野が関わった難事件と親父さんの無作の一言に接近遭遇があったのはこれが初めてではない。さらには、事件解決のヒントをもらったことも、二度や三度ではない。
それはさておき、大家である老人は父親の連絡先を教えると、入居者募集中なので皆さまにもお伝えくださいと告げ、電話を切った。
執務室の壁に掛けられた時計は午後十時少し前だったが、矢野は菅野拓造宅に電話を入れた。夜分の非礼を詫び、ある事件に関し重要な証拠品あるいは手掛かりを見つけられるかもしれないので、お嬢さんの遺品を調べさせて頂きたい云々、率直に願い出たのだ。
しかしまさか、拓子を犯人として立証するためだとはさすがに言えなかった。
後ろめたさを感じる矢野に、予期しておくべきだった言葉が帰ってきた。
「どちらの娘の遺品でしょうか」悲痛を押し殺した呟きであった。じつは、拓子には妹がおり、がしかし、その俊子も死亡していたのである。親父さんの勘は当たっていたのだ。
にもかかわらず「えっ…」瞬間、「どちらの」の意味を理解できなかった。不明であった。
凍るような沈黙が、遠く離れたそれぞれの空間を支配した。
ようやくだった、元義父の言を思い出したのは。ナイヤガラで事故死した女性と拓子が姉妹ではないか、をだ。直後、この父親は娘二人を亡くしていたと同情したのだった。
同時に、父親の落胆、いや絶望を忖度してしまった。それでかえって、悔みの言葉が喉につかえなかなか出てこなかった。それでもどうにか、心からの哀悼を伝えたのである。
それさえ空しく聞く父親。妻は絶望から身体を壊し、入院していた。この夫婦は、暗黒の世界で心を痛めながら生をただ虚しく長らえていた。哀れ、地獄に生きていたのである。
「できれば拓子さんの物を見せて頂ければありがたいのです」遺品という二文字を避けた。父親の心情を慮るとあまりに気の毒で、それが、矢野の心に無数の針をつきたてた。
父親は少し迷った。「わかりました。その代わり、線香の一本でもあげてやってください」できればそっとしておいてほしかったのだ。絞り出したようなしわがれ声が痛々しかった。
先方の都合を聞き、「この私がお伺いいたします」と伝えた。
翌晩、藤浪と岡田・藤川を連れて、菅野家の前に車を横付けした。百五十坪ほどの敷地にある築二十年くらいの一戸建てだった。
そのころ、自宅にて晩飯を終えた和田警部補は、ガムテープに犯人が指紋を付けなかった手方を探りだすため、実験を始めるところであった。
小一時間後、紙製だったからこそ付けずに済むことを体得したのである。
ロール状態の紙製は、布製とは比較にならないほど剥がしやすい。そこが味噌であった。手袋のまま、ほぼ未使用状態のガムテープの切り残り部(巻き状態のガムテープの先端)から約二十センチのところにカッタ―ナイフで切り目を入れておく。つぎに、そのカッタ―ナイフを切り残り部に差し込み、ロール側から、そのガムテープを剥がしつつ、犯人はそのまま、仰向けで眠っている警部の口にあてがった。口中にはすでに、本人のトランクスをかまされている。口辺に強く貼り付けるには、カッタ―ナイフのお尻でも使って上から押さえつければよかった。
午後八時。チャイムに応え、仕事を終えたその足で見舞いに寄った病院から帰宅して間もない、スーツ姿の家の主人が玄関ドアを開けてくれた。かの左手には,悲しげな数珠が。
矢野たちが顔に感じた室内からの空気は重かった。そして線香をほの香りとった。ドアの向こう側は閑散としている。一階部だけで三十坪はありそうな家宅にもかかわらず他に人はいないのか、テレビがオフなのか、洩れてくる音声は一切なかった。明かりも、来訪のチャイムを鳴らした直後に点けられた玄関とずっと奥の一室にしか灯されていなかった。
矢野が提示した身分証型の警察手帳を一瞥するでもなく、見るからに疲れた容姿の父親、虚ろな眼が「どうぞ」と招じ入れた。生きる気力がないのか、あるいは賊が突然来襲してき、理不尽このうえなく殺されても構わないとでも思っているのか、異相の岡田を警戒する風でもない。娘二人のところに早く行きたいと本気で願っているのかもしれなかった。
主人が黙って先導した先は点灯されていた仏間で、二人の娘の遺影が飾られていた。やはり、線香が焚かれていたのだった。そして、経本が開かれていたところをみると、帰宅早々に読経し愛娘たちの冥福を祈っていたのだろう。
矢野は、並んだ遺影の、もうひとりの顔にどことなく見覚えがあった。週刊誌か何かで見掛けたように思う。うろ覚えだが、親父さんが言っていたように、ナイヤガラの地で落命した女性ではなかったかと。やはり、親父さんの勘は当たっていた。
他の二人も並んで正座すると、前に座った矢野がまず父親に改めて悔やみを述べた。
岡田と藤川の二人は倣った。
「こちらへ」消え入りそうな声で矢野に、仏壇前に据えられた経机の手前へと座を勧めた。
持参した菊の花束だったが、父親の手によって同様の菊がすでに花瓶に活けられていたので、経机の上にそっと置いた。それから線香立てに火をつけた線香をさし、合掌すると遺影に深く頭を下げたまま黙祷した。二人も続いた。
それを、表情をどこかに忘れた顔のまま眺め、「ありがとうございます。わざわざ、誠に恐れ入ります」と畳に両手をつき、深々と頭を下げた父親。しかし心は虚ろにみえた。
彼らも、神妙で硬い面のまま無言で再度頭を下げた。
それで一連の儀式を終えたかのように父親が、「では」とだけ、あとは立ち上がり二階へ、黙しつつ導いたのである。
開けられたドアの向こうが拓子の部屋だった。
「ここで失礼します。この部屋に入ると辛くなりますので、私は娘たちが待っているさきほどの部屋にてお待ちしております」精気のないかすれ声に変化はなかった。
矢野と岡田は、日記帳の類いを入念に捜した。遺品は整理されていたので探しやすかったが、それでも結局、書棚も机の引出しからも目当てのものを見つけ出せなかった。
藤川は、パソコンへ直ちに足を運び電源を入れた。ブログを捜すためだ。
一年ほど前の、転落死のあった翌日未明、拓子が住んでいた部屋の捜査をしたとき、女性捜査員がすでに読んでいたことは既述したとおりである。
藤川が目にしたのも当然同じ内容であった。そして彼も、ブログに意味を掴みかねる含みが多すぎると感じた。誰にも見せるつもりのない文章なら、もっとあけすけに意図を開陳してもいいはずだ。自分の想いを隠す必要がどこにあろうかと、そう。
一年半ほど前に遡る日記から、藤川が気になった個所を抜粋し要約するとこうだ。【私には資格がない】【値しない】(おそらく、“幸せになる”という言葉を抜いての記述だろう)さらには、【身も心も血で汚れた私だから、一生かけて贖わなければならない】とも。
見目麗しい二十九歳の女性が、人生これからというのに、幸福を放棄するばかりか贖罪の人生に徹すると、そう記しているのだ。
それにしても、と思う。若い人だけに全くもって似つかわしくない。あまりにネガティブではないか。にもかかわらず、その理由を具体的には記していない。だが考えてみると当然で、人を殺したからとは、さすがに書き残しにくかったのだろう。
ところで感想を懐くことが仕事ではないとさらに読み進み、そして終えた藤川。矢野に声を掛けた。抜粋したブログを見せ、違和感を持ったと告げた。加えて憶測を披露した、”好意を寄せられること自体迷惑。たとえ社会的地位や経済力があったとしても”が象徴する記述に対してだ。これは事実に対するものか、これからを予測しての作文か、が、はっきりしない。さらに、他にも似た記述がある。しかも全部で四度、最後は十一月一日。転落死はその翌日であった。「転落死と無関係として見過すことができないのですが」
矢野も同感し、すぐに命じた。「藤川の直感に従うとして、秘密のブログ、つまりパスワードでガードされたブログや書き込みがないか、確認してくれへんか」本音を表に出していないとすれば、本心を記述したものをどこかに隠しているのではないかというのだ。
藤川は肯くと、矢野が指摘したような書き込みがあるか調べだした。だが、なかった。それで、USBメモリーか何かに保存している可能性を述べた。
ありうることだが、もしそうならば見つけやすいところにはないだろうと矢野。万が一にも、ひとの目にさらすわけにはいかないからだ。それが親であればこそ、よけいに。
三人は手分けして、書棚の本を一冊ずつ、あるいは机の抽斗の裏側、ハンドバッグやカバンなど、手当たり次第に調べだした。が四半刻ののち、草臥れ儲けとなった。
ただし、予期していなかったものを岡田が見つけたのである。小さいながらも手柄だと、秘かにそんな自分で褒めた。抽斗の裏側に両面テープで貼ってあったからだ
「見てください、この名刺。殺された警部のやないですか」
“大阪府警察本部生活安全部係長”との肩書と故人の名前。疑う余地なく当人の名刺であることが、翌日の指紋鑑定で証明された。
二人が会っていたのは、もはや間違いない、となる。なぜなら、簡単に手渡した名刺の悪用横行が問題視されるようになって、最近では、特に刑事による名刺手渡し濫発禁止の御触れが出、今や、よほどでないと手渡さないからだ。ゆえに、誰かから譲り受けたりあるいはもらったり、の可能性はまず無いとみていい。
手渡した場所は、ステーキハウスかそこへ行く直前であったろう。矢野はそうみた。
ところで岡田君、別の大事な名刺を見落とした、というよりもその名前にピンとこなかったので、眼には止めたがスル―してしまったのだった。“バカ田”と叔父から呼ばれるゆえんだ。が、あえて弁護すると、CDやメモリーの発見に全神経を集中させていたのであって、名刺探しにではなかった。よって、余儀にまで頭が回ろうはずもない、バカだから。
さて、今は見過ごされた名刺だったがしかし、日の目を見る日は遠くなかった。
十五分、三十分と経過し皆が諦めかけたとき、ふと、矢野の眼にとまったものがあった。
妹とのツーショットを飾った写真立てに、である。注視すると、違和を感じた。古い写真だが、収められているのが一枚だけとしたら不自然だと。写真に接するガラス窓の外面からプラスチック製の背の外面まで1センチ以上あり、どうみても分厚すぎるのだ。――何かを挟みこんでるんかも――観察力も大事だ、シャーロック・ホームズの科白ではないが。
徐に手を伸ばすと、写真たての背の部分を枠から取り外した。やはり、というべきか、さすがと感心すべきか。
中からUSBメモリーが出てきたのである。アイコンタクトをとりながら藤川に渡した。
二人が固唾を呑んでいるのを、藤川は背中に感じている。
一方、その背中が期待で疼いているのを、二人はおかしみを噛み殺しつつみていた。
さてもさても、保存されていたのは、まごうことなき、探し求めていた隠しブログであった。それも英文であった。
読んで矢野は、やはりと。両親には特に見せられない内容だったからだ。
また、妹とのツーショット写真の裏に潜ませるようにした気持ちも察せれた。二人だけの、あまりに悲しすぎる秘密を、今は亡き妹とだけで共有したかった、矢野には、そう思えてならないのだ。妹の死の真相について、両親は知らないほうが、まだ救いがある、そう、苦汁をひとり呑む思いで、見せまいと決断したのではないか。
三人はお礼とお願いをするために、仏間でぽつねんと佇んでいる父親の前に足を運んだ。
父親は放心していたようだった。
名刺一枚とUSBメモリーを預からせてほしいとの願いに、父親は「お返し戴けるのですね」と尋ねただけで、拒みはしなかった。任意だから、拒否することはできたのだが。
「最後に、ひとつお尋ねしたいのですが」と矢野。
涙がにじむ眼をおもむろにあげ、「何でしょうか」と。先刻よりは力があった。もはやこの世にはいないとはいえ、それでも子を、その人格や名誉を含む存在の全てを、警察から守ってやれるのは自分だけとの想いが本能的に働いたからかもしれない、彼らの来訪の本当の目的を知ろうはずはないのだが。それにしても刑事たちの来訪が、どうにも辛かった。
矢野は、うらぶれた父親の痛みも自分たちに対する警戒心もわかっていた。それでも「拓子さんですが、お仕事は何を?」と、訊かないわけにはいかなかった。
ややあって、「日本での、ですか、それともアメリカでの仕事ですか」と問い返した。
――やはりアメリカで仕事をしていた。しかも、映像製作に関する仕事だったのではないか――犯人の特殊技能から、すでに見当をつけていたのである。しかし、口には出さなかった。「そうですか、アメリカでも。ちなみに、どんなお仕事を?」ととぼけたのである。
父親はまたも力なく、「特殊映像の製作に携わっていました。そっちの専門学校を卒業し、渡米したのです」と答えた。
しかしそれだけでは不充分だった。具体的な内容を知らねばならない。「できれば両方を。日本に関しては、就職先の所在地もお願いします」調書を見ればわかる就職先の所在地を問うたのは、父親が娘のことをどこまで知っているか確認するためだった。大家に提出した賃貸契約書の帰省先を、拓子はなぜか空欄にしていた。その理由を知る手立てになるかもしれないとも考えたからだ。拓子に何ろかの拘泥があったからこそ、空欄にしていたに違いない。彼女の心理状態を知ることができれば、殺害動機を明らかにできるのでは?少なくともその糸口にはなるかと思ったのである。
徐に立ち上がった父親は、自分の手帳を持って帰ってきた。日本での仕事先を述べ、アメリカでの仕事についても知るかぎりを話した。それで拓子の名誉が傷つくとは考えられず、いや、むしろ、並はずれた才能とそれを糧に十年来の夢を叶えたことを知ってほしかったからかもしれない。拓子がこの世を生ききった、何よりの証しだからだ。
その、アメリカでの仕事だが、矢野の推察したとおりであった。
別れ際、「ここは田舎やさかい、大阪に比べたら仕事は少ない…、けど、あんな事故に遭うことはなかった」堪らず泣き声で愚痴を、刑事たちに言っても詮無いとはわかっていてもつい洩らしてしまったのである。そのあとは、もう言葉にならなかった。
翌朝、藤川のパソコンを中心に皆が扇型を描くようにして犇きあい椅子に座っていた。
拓子の実家から前夜持ち帰ったUSBメモリーに収録されていた秘密のブログを、藤浪の翻訳で聞き終えた直後の情景である。寝耳に水であり、驚天動地の内容に、誰ひとり、声を発する者はいなかった。なぜなら自白だけでなく、ブログには妹殺害の犯人を特定していった経緯も、米・日の警察等で受けたひどい応対についても詳述されていたからだ。
沈黙を破ったのは和田だった。「確かな証拠ですね、菅野拓子が犯人だったとの」さすがに重い口である。「それにしても、動機が妹の仇討ちだったとは…。意外でした」
しかし、恥態を曝したまま絞殺された警部が拓子の妹の仇だったというのは事実なのか。拓子の思い違いの可能性も、今の段階では否定できない。当然、検証する必要があった。
のみならず、じつは検証すべきことが他にも存在したのである。
「妹と二人だけの写真の裏にこれを隠していたのは、仇討ちしたことを暗黙のうちに妹に伝えたかったからでしょうか」フェミニストの藍出が続いた。
「おそらくな。プラス、他にも理由があるとみてる。妹の死の背景(俊子は婚前旅行と思っていたが、厳格な父親はそれをふしだらとして許さないだろうゆえ)と仇討ちを果たした件を両親には知られたくなかった、辛く酷いだけでなく、一層悲しむからな。それで、万が一見つかったときのために英文にした。さらには、鎮魂としての意義と秘密の共有のためもあったかもしれん」矢野の暗い声は小さく、そして明らかに打ち震えていた、悲しみと怒りでだ。その怒り、じつは自分たち警察にも向けていたのである。
ところで、動員された二百人近い警察官を手玉にとって迷宮入り寸前にまで追いこんだ拓子だ。怜悧でないはずがない。それほどに聡明な彼女がブログにあったように、捜査依頼を結実させようと涙ぐましいほどに精一杯の言動で説得し、なんとか妹殺しの捜査をと必死で懇願したのである。また、真相究明のために東奔西走もしたのだった。
一方、記述は虚偽で、それをブログに残したとする見方も可能ではある。が、虚偽を残す理由など皆無であると矢野。彼女は、ひとに見せるつもりなど全くなかったからだ。
さらには拓子のことだ。説得に失敗しても諦観を排し、警察が捜査を開始するための方途を考え抜いたに違いない。また、働きかけもしたであろう。それは、想像以上に孤独な闘いではなかったか。矢野警部は、彼女のひたむきで健気な姿を思い浮かべたのである。
だが警察という組織は、ついに、被害者家族の懸命の声に耳を傾けることをしなかった。
絶望に堕する扱いをされ、日ごと夜ごとのぼうだの中、諦めざるを得なくなった。最悪の事態にもはや、腹をくくるしかなかったのである。結句、復讐以外に、鎮魂の手段は無くなってしまったのだった。そしてまごうことなき、最悪の結果をもたらしたのである。
それでも復讐以外の選択を考えなかったのか?と問えば、大切な肉親を殺されていない人の質問だと即座に答えたであろう。察してあまりある被害者家族の憾みが、矢野なればこそ心に痛かった。
ともかくも、警察は仕事をしなかったのである。それが口惜しいのだ。そのうえで、被害者家族を犯罪者にしてしまい、さらに犠牲者まで出したことに、激憤したのである。
「曽根多岐署に問い合わせてもいいですか。こんな通り一遍の応対をしたとは考えたくないですが、今日までの警察一連の不祥事を具にすると、拓子が虚偽を記したとはとても…」藤浪が、憤怒を押さえて提案した。藤川をはじめ、矢野係の総意であった。
「そうしてくれ」矢野は当然だと即答した。「それから、藍出はこの動画を“こば”さんに頼んで解析してもらってくれ」と、件のUSBメモリーを手渡した。
その“こば”さんとは、鑑識課の係長、小林繁男のことである。
小林を指名したのは、多少の無理も聞いてくれる信頼関係があるからだと、藍出は認識している。そして彼は、どこを解析してほしいかもわかっていて、それも伝えるつもりだ。
ところで「この動画」だが、ネットの掲示板やツイッター等を活用したおかげで情報を収集できたと秘密のブログに記している、妹の転落前後の周りの声や転落後の証拠映像を指していた。拓子はこれを根拠に妹殺しの犯人と断定、警部を全裸にし復讐したのだった。
だからおそらく、いい加減なものではないはずだが、映像や音声に不鮮明な個所があるに違いないと。冒頭を見ただけだが推測するに、観光客が市販のハンディカメラで撮影しているだろうからだ。それをそのまま事件の証拠とはしたくなかったのである、海外でのこととはいえ、一度は事故死として処理された件をひっくり返さねばならない。疑惑を差し挟めないほどに確かな証拠でなければならない、矢野はそう考えたのである。
一方、星野はこのあと、府警本部長室にて事件解決の目途が立ったと経過報告をした。
犯人逮捕には至らないが、事件解明ということでマスコミ発表できそうだと、本部長は納得七分目で黙って聞いていた。ただし、犯人がすでに死亡しているため、被疑者死亡で大阪地検へ書類を送致するしかなく、それで一件落着となる。
「菅野のブログにあったとおりでした」藍出は、息を切らしながらデカ部屋のドアを開けるなり叫ぶように言った。それから、「うちの係には便宜をはかるようにとの通達が本部長から鑑識にあったらしく、いの一番で解析してくれました」と小さく付け加えた。
ところで菅野拓子だが、名の通った映像製作専門学校卒業後、反対を押し切って映画作りの本場ハリウッドに身ひとつで渡った。そのための準備は万全で、少しも弛まなかった。
まずは、高校生のときから英会話力習得に励んだ。専門学校での成績も常にトップだった。在籍中に専門学校のつてを使い、ハリウッドにある大手のCG製作会社への就職希望も伝えてもらった。卒業の半年前、力量次第では採用するとの返事までもらっていたのだ。先方が提示したハードルの高い実地試験をクリアした結果、念願が叶い渡米したのである。
就職後、彼女は仕事に専念、というより没頭したというがまさに相応しく、おかげで四・五年ですでに中堅クラス以上の腕前になっていたと、父親は涙ながらに語っていた。
例の、死者を冒涜するためのAVまがいのCG映像は、彼女には朝飯前だったに違いない。また、CG-ARTS協会が主催するCGエンジニア検定試験一級合格者リストから、被疑者として浮かび上がってこなかったわけだが、矢野も和田もこれで得心がいった。彼女が腕を磨いたのは本場であり、上記の試験すら受けていなかったのである。
そういえば、菅野からの予約を受け付けたXXホテルのフロントクラ-クが、米語なまりだったと証言していたが、これも肯けた。
ただし矢野だけは、フロントクラ-クの証言や調書の検定合格者リスト云々などから、父親の述懐の前に、その可能性をすでに推測はしていたのである。
CGの本家本元は、なんといってもハリウッドなのだから。
十四の眼が凝視している解析された映像には、ナイヤガラの滝がはっきりと映っていた。
菅野拓子の妹俊子が川に転落する時間帯、そこにいた日本人観光客がハンディカメラで収めていたものだ。新婚旅行で来たカップルらしいことは、交わされている言葉でわかる。直前までは、当然ながら新妻と背景のナイヤガラの滝を写していた。さらに、別の男が発した日本語も入っていた。その部分も解析され、別物としてテープに収められていた。
この、聞き取りやすくなった声を矢野が耳にするのは、少しあとになる。
ところで藍出が先に鑑識で知ったその内容とは…拓子が殺人事件だと警察に強く主張した根拠となる言葉であった。つまるところ、俊子に(ナイヤガラ川への落下防止用)柵を跨ぐよう、男が指示しているものだったのである。声は、カメラの左側を発生点としていたが、それがじつは大事な要素であった。誰のであったかを高い確率で推定できるからだ。
男が指示する声から二十秒後、突然、
背筋の凍るような、若い女性の金切り声が響き、カメラはその方向、左へ十五度ほど角度を変え転落直前の叫びの発声点に向けられた。その地点に寸前までは人がおり、今は存在しないことが続きの映像で判断できた。観光客が皆、激流に向って指をさす姿とそれらの男女が入り乱れるように叫ぶ英語・日本語・他の外国語の興奮の声が収まっていたのだ。
崖から落下した俊子が川に呑み込まれた直後の状況を撮ったものであることは間違いない。拓子はそう解釈した。微かに、水しぶきの発生音も入っていたからだ。
直後、一人の男の背中が画面の左側を占めることとなる。撮影者の左側に立っていて、そこから前方へ移動したからだろう。一瞬だが、背中が走っていった。右手首には、用無し扱いのカメラがぶら下がって揺れていた。いやいやをしているようにみえた。二秒後、他の観光客を押しのけ、崖に設置されている柵に対し何かをしているようにも見てとれた。短い時間だが、両手がゴソゴソ動いているふうだったからだ。しかしそれは、拓子の隠しブログの記述に影響を受けた観察といえなくもない。なにせ、男の後ろ姿が撮影角度的に死角を作り、男の行動をそうだと断言できる状態にはなかったからだ。そのあと振り返った男の右手に、幅4センチほどの黒くて長いものがとぐろを巻くようにして、あった。
その物体は、拓子のブログによると、“男のベルトに違いない”だった。
ところで一瞬だったが、ふり返った男の顔が彼らの眼に留まった。カメラを向けられていたことに気づいたのだろう、男はすぐに顔を伏せて隠したのだが。
「あっ!」皆が息を呑んだ。その顔には全員、見覚えがあったからである。
じつは妹俊子の、この転落の時間帯、拓子はハリウッドにあるCG製作会社の一室で仕事をしていた。ようやくその日の仕事を終えての帰宅後、事故と断定した警察発表を、“観光客ナイヤガラ川転落”の続報として、テレビニュースによって初めて知ったのだ、自宅のリビングでテイクオフの中華を仕事疲れの身体が食べながら。
ちなみにこの時点では、転落者の遺体はまだ発見されておらず、氏名は当然わかっていなかった。翌日、溺死体として発見されるのだが、数分程度の検視のみで解剖にはまわされなかった。すでに、事故として処理されていたからだ。
もし検死解剖していたら、俊子が妊婦であったことを姉は知ることになったであろう。
由って拓子は、男の殺害動機を推測できたに違いない。結婚を迫られ続けたからだと。
ついでにいうと、海外からの観光客の事故だから、まさかその姉がロスにいるとは、地元警察も思っていなかった。彼女に連絡がいなかったのもいた仕方なかったのである。
ときに、このニュースを見た途端、拓子の箸がピタッと止まった。
(非科学的と揶揄する向きもあろうが)きっと虫の知らせや、と姉は信じた。たった一人の可愛い妹のことは、太平洋をはさんでいても片時も忘れたことがない。そんな俊子が、
婚前旅行と称し渡来した。幸せ満身の妹が彼と、今日はナイヤガラの滝に来ていることも知っていた。出発一カ月前から何度か、その旨をメールで送ってきていたからだ。関空からも送信してき、ロス経由バッファロー行きの到着時間、ナイヤガラ観光等も書かれていた。そのあと、ニューヨークでの観光を済ませたら、彼を紹介するために“ハリウッドに行くから待ってて。それまでは彼の全貌、一切、内緒ね。サプライズとして楽しみにしてて”ハートマークで締めくくられていたのだった。
――姉の私が嬉しくなるくらい、本当に幸せそう――と、拓子までがフワフワになった。
そんな浮かれの極みの俊子が、まさか最悪の奈落に墜ち、濡れネズミで果てようとは。
論理ではなく、拓子はそうとした。一方で矛盾と自覚しつつ、受け入れ難くあり得ないと否定したいのである。だいいち、根拠が薄弱だ。が、それでも涙の確信をしたのだった。
ときに、拓子という女性は元々、《虫の知らせ》なるものを信じる質ではなかった、にもかかわらず、刹那、感じたのである、妹の弱々しい声を。――私の亡きがらを引き取りに来て――との妹の悲痛が、耳の奥底で直接響いた気がしたのだった。
心は千々に乱れ、――そんなはずない!――と否定する、こちらも根拠ない楽観として。それで思わずテーブルに置いていたスマフォを手に取ると、震える指で妹を呼び出した。
電源が入っていないとの応答が虚しく返ってきただけだった。倍加する不祥。
嗚呼。しかし今、いくらここで案じていても埒があかないと、震える指で地元警察に問い合わせた。だが夜間の捜索は、二次災害のおそれがあるだけに実施しておらず、由ってニュース以上の情報を警察としても持っていないと言下に。
他方、確証がないために警察に向け、転落者が妹だとの断言もできず、全てが中途半端なまま電話を切るしかなかったのである。
食欲がすっかり失せた拓子は睡眠導入剤を普段の二倍噛み砕き、とりあえず、今は眠ることにした、取り越し苦労だと、心配症のもう一人の自分に無理やり言い聞かせながら。
翌朝早すぎる出社をし、担当している仕事をこなし始めた。かたがつき次第、《虫の知らせ》の実体を調べるつもり、なのだ。心に浮かび上がった、根拠なき確信が事実かどうかをすぐに調べなかったのは、確証もないのに仕事を放擲するわけにはいかないからである。
つまり、今日木曜朝ぼらけの出社は、遠く数千キロメートル離れたナイヤガラに行く時間を捻出するための精勤であった。
託された木・金曜の担当分を完遂し、気づくと窓の外はすでに暗かった。同僚はもはや数人しか残っていない。そんな彼らに声を掛けることもせず、ガチガチに固まった肩と首をまわしながら、ただひたすら会議室兼休憩室へ急いだ。ともかくもテレビをつけ、二十四時間報道番組に切り替えたのである。
画面に映るニュースの内容とは全く別の報道が、テロップとして次から次へ画面の下を流れる中に、疑心暗鬼だった拓子を悶絶させるニュースがあった。
ナイヤガラ川の滝よりも下流から溺死体があがり、服の下に着けていた貴重品入れから出てきたパスポートによると、【菅野俊子、二十五歳と判明】がそれだった。
悪魔がもたらしたのごとき《虫の知らせ》が、最悪の現実となってしまったのだ。「うっ」未経験の衝撃に打ちのめされ、のどが詰まった。「嗚呼」という痛嘆の呻きは、そのせいで洩れることはなかった。ただ息を呑んだまま、意識が遠のいてしまったのだった。
失神した身体がイスから崩れ落ち、音を聞きつけた仲間が何ごとかと駆け寄ってきた。
介抱され、ようやくのこと我に返った彼女は、わけを訊かれてもただただ泣きわめくしかできなかったのである。
懇願して、地元警察が事故死と判断した、その映像を見せてもらった。米国人観光客の一人が撮っていた映像だった。事故とした判断理由の説明は、映像を見ながらであった。
ちなみに、拓子のUSBメモリーに収められていた映像とは、当然違っていたのである。だが、矢野たちがこのことを知るには、《蚊帳の外》過ぎた。結局は、この映像を見れなかったわけだが、しかし、事件解決に影響を与えるものではなかった。
――普段から慎重な俊子が、柵を跨ぐだけでもあり得へんのに、まして川側に身を反らすなんて、信じられへん!――
こちらの映像(ナイヤガラフォールを撮影していた米国人観光客が、叫び声のした右方向へ角度を変えたもので、俊子の恋人とおぼしき男の背中は画面の右側にあった。撮影者の右隣にいたからであろう)にも、さきほど藍出が聞いたのと同じ声が入っていた。当然ながら、こちらは右側から収録したものであった。
聞いた瞬間、拓子は確信した、殺人だと。妹が川に落ちたのは、恋人の欺きの指示に従った結果だったと、拓子は向かいに座を移した白人警察官に懸命に説明した。
が、映像からの言葉を理解できない地元警察署員は、突然やってきた東洋人の言をまともに聞く気などないというような応対で終始した。二日も前に事故死で処理した件である。なにを今さら、なのだ。
それでも、妹の連れの男が姿を消しているのは「おかしいではないか」と強く主張した。加えて男が妹との婚前旅行で渡米した恋人だと、スマフォを取り出しメールをみせた。
だが、地元警察は見解を変えなかった。「日本語を知らないのだから意味をなさない」とうそぶき、男の声が恋人のだと証明できるのか、そう開き直ったのである。黄色人種の、しかも感情的になった若い女の主張に耳を貸すつもりなど、端からなかったということだ。
「ならば近郊の、二人が泊まったホテルを調べてほしい。カップルだと証明できるはずだ」
「言われなくてもロッジ等も調べたよ。けど、昨日ユーが言ったトシコ・スガノの名前の宿泊客を泊めたところはなかった。別の町で泊まりまたそこに帰る予定だったのでは?」
頑として、事故死を既定の事実とする白人警察官。もはや捜査するつもりはないと言わんばかりだ。それでも拓子は怯まなかった。「現場にあったはずの荷物や妹が所持していたスマフォが消えたのも、連れの男が持ち去ったからとみるのが自然ではないか」と詰め寄ったのである。姉として必死だった、妹の無念を何としても晴らしてやりたいと。
にもかかわらず、「置引きだと、アメリカ人なら誰でもそう考えますがね」と。耳を貸すまいと頑なになるのは、じつは、裏事情を公にはできないという本音が存在したからである。観光地として潤う地元としては、殺人事件を認めるわけにはいかない…これに尽きた。
真実よりも利益を優先させる地元警察の巨大な壁に、別の見方をすれば白人中心の、いわば米国そのものに対し、それでも粘りに粘り、孤軍奮闘、説得に徹しに徹したのだった。
だが拓子は、ますます固陋となる巨大な白い壁に、ついには抗しえなかった。ほんの一ミリの前進もさせることができなかったのである。
努めて冷静だった拓子もついには感情が昂り、大声でわめき罵倒してしまったのである。それが地元警察を一層頑なにしたのだろう、見せてもらった映像のコピー要求さえ、個人のプライバシーを盾にはねつけられたのだった。
やり場のない怒りを唾として、署の壁に吐き掛けたその口で、マスコミにも同じ主張を初めは大人しく展開した。が、地元新聞もテレビ局も冷淡だった。
観光産業がスポンサーになっている事情を勘案するほどの、そんな冷静さを彼女はもはや持ち合わせていなかったのである。
結局、梃子でも動かない白いアメリカに対しては、諦めざるを得なかったのである。
彼女は日本の警察に活路を求め、帰国することにした。八年ぶりであった。
荼毘にふされた妹はその前に、慟哭の両親に付き添われ、沈黙の帰国を果たしていた。
遅れて実家に着いた姉が、荷物を解くのも忘れ真っ先にしたこと。それは仏前で泣くことではなかった。滂沱と流し尽していたからである。妹の部屋へ行き、ネットの携帯対応掲示板(携帯やスマフォとも連動したインターネットの電子掲示板システムのこと)やツイッター等に書き込みしたことだ。
菅野俊子がナイヤガラ川に転落死した前後の映像を、姉として検証したいので有料で転送してほしい、そういう内容だった。祈るような想いで、転落と同時刻に居合わせた世界中の観光客に訴えかけたのである。が、この行動が幸だったのか、あるいは次の不幸を生んだのか…。
翌々日、――心中お察し申し上げます。映像を送らせていただきます。メアドをお教えください。妹様のご冥福をお祈り申し上げます。なお、謝礼の件は気になさらないでください――との、良心的な電子メールが届いたのである。そして肝心の映像が届いたのは、その翌日のことだった。ただし、プライバシーに当たる部分を削除したものであったが。
拓子は、震える指で操作し映像と音声を検証した、微細に至るまで決して看過すまいと。
そうはいっても肝心の映像は画素不足のせいか、細かいところが不鮮明であった。音声も、瀑布が発する音響や観光客の声などの雑音で、肝心の音声が聞き取りにくかった。
それで、大阪市内日本橋の電気屋街で購入可能な機材および彼女が培ってきた技能を駆使し、映像と音声の鮮明化に取り組んだ。執念で、だった。
転送してくれた映像(鑑識の小林が解析し矢野たちが見た映像のマザー)は、ナイヤガラで拓子が見たのと逆の方向へレンズを移動していた。それで、転落者の行方を目で追おうと柵から身を乗り出す観光客を押しのけた男の後ろ姿が、画面の左側に映っていた。彼女にとって欲しかった情報を、おかげで入手できたのである。
問題の男、柵に向かう以前は右手に何も持っていなかった、手首にハンディカメラをぶら下げていたが。にもかかわらず黒いとぐろを、帰りの手は握っていた。この黒いとぐろを、拓子はズボンのベルトと推測した、しかもそれを使い未必の故意の工作が施されたと。
ところで、彼女が米国で切歯する破目に陥った原因の一つ。それは、ナイヤガラの地元警察で見せてもらった映像の限りでは、往路で男が黒いとぐろを右手に持っていなかったとは言い切れなかったためだ。柵へ走る男の右手が映っていなかったからである。
それでも地元署で見た映像で、「柵に取りつけたベルトをしっかり握ってれば安全やから、(ナイヤガラ川への落下防止用)柵を跨げ」などという、恋人が発した誘導をすでに聞いており、そこから導き出した推測をナイヤガラの地元警察に必死でぶつけたのだった。
しかし、取りつく島もなく却下されてしまった。彼らにとって都合のいい理由はいわずと知れていた。意味を理解できない日本語の百万遍より、万国共通の《百聞一見にしかず》にこそ説得力であるのだと。映像に、たとえ一瞬でも背部の右手のベルトが映っていれば、姉の主張を認めたというのか。だが、映っていなかった以上、いかんともしがたかった。
右手が映るのは、男が振り返った以降である。地元警察は、だからベルトだとしてもそれを往路において持っていなかったとはいえず、従って立証不可能だと主張し、結果、門前払いにしたのだった。
むろん拓子は、署員が「インパッシブル」の言葉を残し立ち去るまで食い下がった。「右の手首にはビデオカメラがぶら下がっていたでしょう、ということは右手でカメラを操作していたとなる。それなのにベルトを持てるでしょうか?」どうやという顔で係を睨んだ。
「小走りする前に持ち替えたのかもしれないね、ベルトを左手から右手に。理由まではわからんが」発言は金剛石のように硬く、黄金のように変質しなかった。
ところで、なぜこれほどまでに、往と復での手中のベルトの有無を問題にしているのか。
それは、男が具体的に指示する言葉を、鮮明ではなかったが確かに聞いていたからだ。「俊子、ベルトをしっかり握って絶対に離すなよ。体半分が柵の外に出ても、そのベルトを握ってる限り、絶対に落ちひんから。もっと体を反らし。折角の大自然をバックに、綺麗な俊子をカメラに収めてるんや。頼むから、普段とは違う自分を出してくれ。そやそや、なかなか決まってるで」拓子はつまり、命綱代わりに使っていたベルトだと主張したのだ。
そしてその…、【身体を預けていたベルトが切れたのだから】で絶句していた。
俊子が転落したのは必然だったとしているのだ。未必の故意を主張したのも当然だった。
ところで既述したとおり、地元警察には日本語を理解できる警察官がひとりもいなかった。だから、証拠として採用するのは無理だと、徹頭徹尾、開き直ったのだった。
そういう、非道で理不尽な経緯があり、拓子は、日本の警察を頼る以外なかったのである。もっといえば、そこにしか、もはや望みを託せなくなってしまっていたのだった。
「なるほど。妹さんと男の関係も、ベルトを命綱代わりにしていたことも、疑う余地はありませんね」
さすがに同邦の警察やと目を潤ませた。が、期待を裏切らなかったのはここまでだった。
「しかし、ベルトに切り込みなどの細工があったと確認しないことには、殺人事件だと立証できません。あるいは妹さんが、ナイフか何かでのけぞるよう強制されていたのならば話は別ですが。しかし僕には、恋人の悪気のない指示に従っていたとしか受け取れません」中年の警察官は、風貌からも仕事熱心には見えなかった。「おそらく検察も、未必の故意での殺人だとするのはもちろん、それを立証するための捜査にもゴーサインは出さないでしょう。となると、過失があったか、つまりは過失致死を問えるか、ですが、安全性の確認は、いわばお互い様でしょう。男が一方的に責任を問われる状況にはありませんね」
結局はアメリカの警察と同じかと思ったら、だんだん腹が立ってきた。むしろ、裏切られたと思ったから、よけいにだった。湧き起った憤怒を抱えたまま、すぐさま反論した。「男のベルトなら、男が責任もって安全かどうか調べるのが当然でしょう!」
「見せて頂いた映像では、男物だとは断定できませんし、言葉からも断言できません。妹さんのものでないと証明するためにも、証拠のベルトを見つける必要がありますね」警察官の態度はさきほどから同じで、いたって冷静だった。いや、冷淡であった。
――男が処分したに決まってる。見つけるなんて不可能や!――と怒鳴りつけてやりたかった。アメリカで受けた忘れがたき仕打ちが、怒りの焔を増大させる燃料や酸素供給源となっていたのである。だが、さすがに止した。怒らせてもひとつも良いことはないからだ。
大きな深呼吸をゆっくり数度、増大する怒りをそうやって少しでも冷やすことに努めた。
ところであろうことか、警察官はこの間、今日の昼食を何にするかで迷っていた。所詮、――面倒なことには関わりあいたくない――のである。
そこまではわからない拓子は唐突に、「いや」と鋭く言い放った。このたったふた文字に、相手の言い分に対し全否定を込めたのだ。「見つけるなんて無理です!それにどう考えてもやはり男の責任です。妹の本意ではなくまして率先しての行動でもありません。一方的に男があんな危険を強いたのだから、未必の故意に当たるはずです!」自分の口から出た言葉なのに、吐き出したあとの腹の中で勝手に増幅し、怒りがたぎる寸前に達した。しかし残っていた理性がなんとか押さえつつ、「お願いです。調べてください。でないと、妹は全く報われないまま、苦しみ続けるのです」溢れ出る涙とともに、必死に訴えたのである。
にもかかわらず、「妹さんが亡くなったのですから、ただでは済まさない気持ちもわかります。ですが二十五歳の大人なら危険だからと拒否する、そんな判断もできたはずです」またも、肉親の苦衷や悲嘆に寄り添おうとはしなかった。「結局は求めに応じた、ですよね」
と言われたのには、正直、認めたくはないが一理はあると思った。それで、しばし言葉に詰まったのである。
そんな心の隙を、担当官が衝いた。「だから、男を一方的に責めるのはどうかと。まして未必の故意云々といわれても、さきほども申しあげたように何の根拠もない状態では動けません、我々警察としては。なぜならば、動く以上、税金を使うわけですから」
まるで他人事のような警察官の態度に情けなくなり、反論の言葉をしばし失っていた。
「それに、妹さんが慎重な性格だったなら、事前に正常なベルトだと確認していた可能性が高い」だとしたら、過失致死罪の立証も難しいと言外に告げた。安全性確認という行為は、とりもなおさず柵を跨ぐことの危険性を認識していた、そう解釈できるからだ。
強硬な拓子も、妹ならベルトの安全を確認したはずと認めざるを得なかった。だが、人生の夢にひた走ってきたせいで恋をしたことのない拓子は、女心の微妙を見落としてしまっていた。約八年間会っていなかったことも災いしたかもしれない。俊子の心裡がわからなかったのだ。
安全確認が愛する男を疑うことに通じ、ひいては嫌われるのではないかと、妹はそれを恐れたのだった。それに、愛してくれている自分に危害が及ぶようなことを万が一にもするはずがない、ましてカレの子を宿している自分に、そう信じたのである。
「こんなことを言うのは僕も辛いのですが、以上の理由で、妹さんも納得済みの結果の、“事故”と判断するしかないのです。それとも、強要されていたとでも主張なさいますか?」応対した警察官は切り口上であった。いや、拓子にすればむしろ挑んでいるような、もっとはっきりいえば、「証拠を持って来い」と突き放しているような冷酷さを感じたのである。
同国人なら親身になってくれるはずとの当てがはずれた反動は大きかった。だから「そこまでは」のあと、口ごもったのである。拓子は、日本の警察からも否定される事態を全く想定していなかったのだ。それだけに…、単なる落胆では済まなかった。
無言になった拓子を前に、担当者は警察官の職責を果たそうとしたのか、「証拠品としてそのベルトを押収できれば、まだ捜査のしようもあるのですが…。お気の毒とは思います。が、我々としては手出しのしようがないのです。たとえば」それとも、さすがに悄然とする女性に対し、酷なことを言ったと反省したのか、アドバイスのつもりなのか、「確たる目撃者、あるいは殺人を証拠立てる何かを提示して頂ければ、当方といたしましても新たな対応をする用意があります」または、打ち萎れる女性に対する慰めなのか、そう補足した。
しかし、拓子にとっては補足になどなろうはずもなく、「殺人の証拠?…もしそんなものがあれば、現地警察も殺人事件として取り扱ってくれたでしょう」地元警察と大同小異のおざなりな応対に、先刻までは憤怒だったものが、悲嘆からやがて無力感へと徐々に変貌していきつつ「何の権限も組織力もない私にできることは全て致しました。微かな疑惑でもそれを追及するのが警察の仕事ではないのですか」涙声をふりしぼりながら言った。「それに、怪しいとは思いませんか。恋人が川に落ちたのに、心配もせず姿をくらますなんて。現に、他の観光客は警察を呼べとかレスキュー隊に連絡しろとか叫んでいるのですから」
「お気持ちはわかりますが」
――気持ちがわかるなんて。なんで軽々しく言えるんや――そうぶつけてやりたかったが、必死で抑えた。相手も人間だ、感情を害させてしまえば、頼む側にとって不利益になるだけだと。いま何が何でも促さねればならないのは、捜査を決断させることだった。
「客観的にみて、残念ながら怪しいとまでは言い切れません。もし相手の男が妻子持ちだとしたらどうでしょう。関係を隠したいと思うのでは」と冷淡のまま、ひとつ咳払いをした警察官、「あるいは、…こんなことを申し上げては失礼かと存じますが、世間によくある事例で申しますと、片一方の独りよがりといおうか、妹さんは純粋なだけに恋人だと思い込んでしまった。しかし男にすれば遊びでしかなかった。それならやはり、荷物を持ってその場から逃げるでしょう。まあそんなわけで…。もう一度、証拠を見つけたうえで来署頂けませんか」関わりあいを避け、この場を終わらせたいとの心情を露わにした。
拓子の要望を容れて事件化に肩入れするとなると、まずはアメリカ地元警察の協力を仰がなければならない。加えて、協力と一言でいっても、人的・物的両面の全面的協力を得られるよう、地元警察と交渉しなければならない。
しかし、それが極めて困難なのは自明だ。彼らはすでに事故として処理し、そう見解を発表した。しかもメディアを通じ世界に向け発信したのである。これが覆ったりすれば、地元警察は面目を完全に失う。そんな、恥を世界に曝してまでして、有色の異邦人のために事件の可能性を認め、しかも協力までするだろうか。だから、府警の警察官の立場で、事件と確定もしていないのに、《火中の栗を拾う》のは避けたいと思うのもしかたなかった。
「……」拓子は全く言葉を失った。もはや何を言っても、国家の都合や威信という厚い壁に跳ね返され、個人の切なる願いなど簡単に蹂躙されてしまうからだ。
失色の唇が凍った。が、蒼ざめたのは顔だけではない。鉛と化した心もだったのである。
落胆程度ならまだ良かった。微かだが、希望を持てたからだ。
乗り越えられない絶壁を前にもはや歎息すら忘れ、途方に暮れてしまっていた…。否、この程度では、心情表現としてまだ適格ではない。さらにいえば、失望とも違っていた。
ただ張っていた気持ちが微かな残滓としてあったぶん、その場ではなんとか立ち上がることはできた。とはいえ、何も考えられないほどに頭が混乱しており、そして絶望したのである。それだけだった。次の瞬間、気の停止が身体に出た。貧血を起こしたのである。
「グワ」とも「ガッ」とも、得体のしれぬ奇妙な声が洩れた。急激に意識が混濁し、その場にて気絶してしまったのである。曽根多岐署の床は、ことのほか冷たかった。しかし、奈落に堕ちた拓子はそれを感じ取れる状態には、すでになかった。
これほどに苦衷のみが満ちた心情にあっても、両親には決して告げなかった、経緯の一切を。完全に黙していたのは、俊子の死だけでも父母は打ちひしがれているのに、その心の傷に塩を刷り込み苦しみを増幅させるマネなど、とてもできなかったからだ。そっとしてあげることが、せめても親に対する思いやりだと信じたのである。
警察でのあまりの仕打ちに絶望した拓子だったが、数日後、諦めるにはまだ早すぎると思い直した。そこで、
ネットで検索し、大阪で一番大きな弁護士事務所に相談しに行ったのである。人材を豊富に抱えているに違いないとの素人としては当然の判断をしたからだ。
だが現実は、大きければそれだけ経費がかさむいっぽう。景況の低迷が長く続いたせいで収入が落ち込み、経営は苦しくなっていたのである。そこを選んだ彼女にはなんの過誤もないのだが、刑事事件を扱ってもたいした収入にはならないという現実がこの事務所を覆ってしまっていた。高報酬の民事事件のみを扱う偏重主義だけが自らを救いうるのだと。
一件当たりの報酬が数倍から数十倍、高くなるからである。つまるところ、当てられた弁護士は成り立ての若手だった。彼は慇懃な態度ながらいの一番、算盤を弾いたのである。
これで、彼女がどんな風に遇されたか、言わずもがなであろう。
親身な応対のはずもなく、通り一遍、曽根多岐警察署の警察官と大同小異を述べたのである。事務所経営の裏事情に無知だったとはいえ、拓子には不運としかいいようがない。
客に対するまさかの扱い、そのおざなりぶりに拓子は腹を立てた。思わず詰め寄ったのである。「一市民の訴えでは動かない警察を動かせるのは、法律の専門家である弁護士さんだと、そう信じてここに来たのに、どうして何もしてくれないのですか」
「まあまあ」落ち着くようにとの意で、上からの声であった。「残念ながら我々に捜査権はありません。捜査のノウハウに関しても精通していません。また、警察を動かせる手だても持ち合わせておりません」次の言葉を発するまで数秒の間があいた。「これは僕の実感ですが、法律というのは第三者のようなものだと。相反する二者のどちらにもまずは与せず、違反や不当行為のなかった方の味方になる。ただし違法を証明できなければ法律は味方してくれません。つまり、少なくとも犯罪行為を疑うに足るだけの証拠がいるのです」
ここでも絶望の壁を仰ぎ見なければならないのかと、悔しさのあまり唇をギュッと噛んだ。次の言葉が出てこなくなってしまったのである。思わず涙がこぼれた。
さすがに気の毒だと同情した弁護士は、「この映像を手に入れることのできた貴女だ、目撃証言だって入手可能でしょう」と。しかし所詮、他人事だった。「たとえばですね」
「言われなくても、撮影なさっていたご夫婦に伺いました」涙目のまま唐突に口を開いた。「しかし覚えていない、というより、男がベルトを持っていたことすら気づかなかったとおっしゃっていました。だからといって諦めきれません。それで、新婚旅行の同じツアーの方を照会してもらいました。でも、結果は同じでした」嗚咽が、喪失感の肩を震わせた。
「……」弁護士は、テーブルに打ち伏した紅涙の美女になす術なく、ただ座視していた。
今度こそ、依る術を全て失ったと肩が落ち、やがて心は凍結していった。だから、大阪地方検察庁に直接行くという知恵は湧いてこなかった。高校卒業と同時に離日したせいで日本の世事に疎く、そこまでは思い浮かばなかったのかもしれない。
しかしどうだったであろう?足を運んだとしても、取り扱ってくれなかったのではないか。殺人と想定できるだけの証拠が希薄すぎるうえに、最重要な同盟国との間で小さな外交問題に発展することは想像にかたくない。三権分立とはいえ、検察の幹部は、《火中の栗を拾う》の愚だとの政治的判断を下すだろうからだ。その判断は、純粋に国益だけを考えてのものではないだろう。検察官自身の立場も考慮したうえでの断となったであろう。
いずれにしろ、拓子の心はぽつねんと果てない闇夜の中、生きる気力などあろうはずなく浮遊していた。身体は夢遊病者のように呆け、時間だけがその上を過ぎていたのである。
母親は異変に気づいた、むろん、娘の懊悩の真因を知るわけではないが。優しい言葉を掛け、励まし、元気になってもらおうと陰に陽にあれこれ腐心したのだった。そんな心遣いが功を奏し、また、親に心配を掛けることは不本意と思ったこともあり、食欲は相変わらずなかったが、母親の手料理を胃に押し込むようにして食べ、部屋に閉じこもるのも止めた。そして、母親と一緒に散歩をし、数日後には共に街へ服を買いに出かけたりもした。
元々、本意でなかったとはいえ活動したおかげで、身体だけでなく心にも精気が蘇り始め、数週間後、やっとのことで両親を安心させるまでになったのである。
肉体的疲弊から復活したことで、拓子の萎えきっていた精神に変化が生まれた、総てにヤル気を失っていたことがウソのように。
こうして日にちが経過するほどに、それが頭をもたげ始めたのだ、……復讐心がである。
涙は枯れ果て、水分を失った心に、復讐の焔がメラメラと立ち上がっていったのだった。
別の見方をすれば、理性を消滅させる絶望が心を完全に支配した拓子だからこそ、妹の復讐を誓えたのである。肉親愛という、法よりも情に棹さした結果の復讐心は、法に見捨てられたと思い知ったせいであり、他に手段を、完膚なきまでに失ったせいであろう。
結果の、姉が企んだ復讐……。だが、それは最も邪悪な犯罪であった。
――実行するからには――命を奪うだけでは妹の心の安寧は得られない、と。さらに自分の静謐も、だった。拓子が死者に鞭打つ恥辱を与えたのは、性欲のはけ口に妹を利用したことに対する報復の意味を持たせ、愛情を裏切った酷薄非情な男だと世間に宣言し、あるいは周知させたかったからだ。それだけでなく、
向後の女性が男選びするうえでの思量の普遍的資料としてもらうためだった。――見てくれや地位などではなく、愛情に対し、あらゆる意味で応えてくれる男を見つけるべし――との、拓子が世間に向け発したこのメッセージは、受ける側の女性の感性が鋭敏なら、きっと伝わるはずと信じた。不幸にさらされる女性は、金輪際、妹までで「もう充分」だ。
俊子をせめても、犬死にはしたくなかったのである。
ところで…、「あっ」と、映像を看視していた矢野たちが息を呑んだのは、一瞬、映った男の顔が、XXホテルでの全裸絞殺体警部の生きているそれだったからだ。
こうして事件は概ね解決した。ただし、矢野たちがもはや知りえないことも残った。
今となっては、憶測や推測しか手はないのだが。ひとつは、妹の恋人を、拓子がどうやってエリート警部と特定できたかである。次に、誘い出した手口、もしくは会うことを強要したときに使った口実の実体だ。さらには、他にも。
以下は、矢野が考え抜いたその憶測である。
映像には一瞬だったが、顔は映っていた。しかしそれだけではどこの誰兵衛だかわからない。かといって、妹の俊子が拓子に直接伝えたり何某かのメッセージを残していたとは考えにくい。正体を知る手掛かりがあれば、もっと早く殺害していたはずだ。つまり、他に何の手掛かりもなかったから、映像入手後も、復讐までに時間が掛かったのだろうと。
今回もソーシャルメディア、つまりは拓子が得意とするネットの掲示板などを利用したに違いない。人物を特定する手段として、最も効果的だったであろうからだ。
人を特定したい場合、美談に仕立て上げてその恩人を捜しているとでも書き込んだうえで写真を併載し、謝礼をしたい旨でもって締めくくればいい。ニセ情報も多く返ってくるだろうが、なかには有力情報を返してくる人もいるだろうからである。
たとえばこんな作り話。
今は亡き母親が数年前、旅行の途中で財布を失くして困っていたとき、二万円をそっと出して「これ、使ってください」と言ってくれた男性がいた。あまりにありがたかったので、芳名と住所を聞き携帯で写真を撮った。むろん返金と、あわせて謝礼をするために。
時はたち、死の数カ月前、「あのときは本当に助かった」と母親。病床にあって繰り返し感謝していたが、認知症を発症したためにその方の素性を全く覚えていなかった。それからまた時は流れ、やがて初七日が終わった。母親の供養のためにと親族が、再度の謝礼をすべきだと。そこで住所録や携帯に取りこんでいた情報を調べたが、該当しそうなのは見当たらなかった。「困りはてた結果、ご協力願いたく掲載しました。写真を見て、知人のなかにお心当たりのある方、教えていただければ幸いです。どうかよろしくお願いします」
こんな内容を、中りが出るまで繰り返し掲載すれば、やがてはヒットしたのではないか。もちろん、他の方法を用いてもできただろうが。
いずれにしろ情報提供者のおかげで、時間は掛かったが犯人を特定できたのである。おかげで、エリート警部は醜態を世間にさらす破目になった、地獄に堕ちたあとも、だった。
次の疑問だが、脅しをかけて会うことを強要したとみた。
ステーキハウスでの、卑下したような警部の態度から推して、拓子が発したのは、おそらく脅迫めいた言葉ではなかったかと。当然、最初は電話でである。自宅の電話番号を調べるための口実を、警戒されにくい女性ならばいくらでも用いれたであろう。
「お前が犯人であることはわかってる。ある日本人観光客から証拠映像を入手したから言い逃れはできん。否認するなら、証拠映像を報道機関に持ち込むまでや。けど私もバカやない。そんなことをしても、俊子が生き返るわけやないから。それに、妹を返してくれとも言わへん。ほんまはそう食って掛かり、お前を困らせたいけど…。でも、涙を呑んで、あんたを許してもええとも思う。ただしどうするかは、あんたがみせる誠意次第や。詳しいことは、会ってからにしたいが、あんた、どうする。会うの、それとも会わんつもり」
突然脅迫された警部は、寸刻深慮したはずだ。映像を撮られていたことは紛れもない。その映像所持が事実ならば、転落させるために俊子を誘導した言葉も入っているであろう。公開されれば栄達を含む総てを失うことになる。最悪に堕するに違いない。まずは会って、映像を吟味する。それで、証拠が映っていれば、何としてでも許してもらわねばならない。
だがもしダメだった場合…、警察官にあるまじき蛮行を繰り返したのではないかとも。
こうして対面することとなった。果然、堕地獄への扉に手を掛けたのだ、二人ともが。
さらには、知りえない脅しの具体的内容。つまり、拓子がステーキハウスで警部と交わしていた会話の内容だ。これも、推測・憶測の類いとして部下に語った。
皆は聞きながら、情景を頭に描いた。
「否定すれば、身の破滅を自身に招くことになるわ。だからまずは素直に認めなさい。そして当然のこと、謝罪もしてもらう。両親にも」むろんウソである。両親に、俊子の死の真相を告げるつもりなどないからだ。「そして俊子のお墓にもひれ伏すのよ」
「その前に証拠の映像を見せてください」と、警部は主張したであろう。ハッタリに騙されるのは何としても避けねばならないと思いつつ。
「見せてもいいけど、映像を取り込んだパソコン、ホテルに置いてきたわ。でもコピーだから、バカな考えはダメよ。私に何かあれば、友達が警察と報道機関にマザー映像を持ち込む段取りだから」強気に出ることで証拠映像の話を信じ込ませ、同時に、殺させないための自衛策を採ったとも思わせるべく、聡明な拓子ならこれくらいの巧妙なウソの防御網を張り巡らしたに違いないとも推測した。自衛策云々も、話全体を真実足らしめるためだ。
とにかく睡眠薬を飲ませ部屋にひき入れれば、あとは彼女の思惑どおりに進むのである。
「あんたみたいな奴、相手はどうせ出世絡みなんでしょうね。事件の前に何があったかまでは知らんけど、とにかく俊子が邪魔になった。だからって、殺すことはなかったでしょう!」完璧と思える計画を立てた拓子だ、結婚相手もその目的も調べ上げたとみていい。
それに対し、警部は答えなかった、というより答えられなかったはずだ。殺害を認めることになりかねない、だから、黙秘か忌避を謀ったに違いない。
拓子は姉として、それでも強硬に追求したはずである。
「何とか言いなさいよっ!」鋭利な視線とともに、声は小さいが先の尖った言を射った。
「予断や当て推量での殺人者扱いは迷惑このうえないです。ともかく、証拠とやらの映像を見せてください」と、警部はあくまでも主張し続け、態度を変えなかったと思う。
彼女も警部の頑なを予測していたであろう。それでも計画を果たすため会話をもたせた。酔わせ、なんとしてもトイレに行かさねばならない。だからだ。「いがみ合ってるばかりだと折角の料理が。それに他のお客も変に思うから、グラスのワイン、飲んで。さあグッとあけましょうよ。お互い、もう立派な大人なんだし」睡眠薬を飲ませるタイミングを作るためには時間を稼ぎ、利尿効果のある酒を度を過ごすほどに飲ませ、尿意をもよおさせる必要があった。「もう一杯いかが。それにしても俊子が大好きになったの、わかる気がする」
酒が、男の不埒スイッチをONにしたかもしれない。この女も抱いて俺の魅力にのめり込ませれば、あるいは軟化するかもしれん、などとバカげた甘い想定をしたとも。
一方、「場合によってはこれを不問に付してもかまわない。あんたが心から悔い改め、命日には必ずお墓参りするなら」くらいのウソの甘言を洩らしたとも考えられる。目的は報復なのだから、それまでは少しでも希望を持たせ、油断させる必要もあったであろう。
以上の推測等に、大きな間違いはないだろうと言った。彼の独壇場であった。
くどいようだが、あくまでも推測でしかなく、もはや裏付けをとることは不可能なのだ。
ところで矢野警部。自らが口にする普段の禁を冒し、それでも推測を披露したのは、事件が一応の解決をみ、冤罪を生んだり、予断や思い込みに陥る心配がなかったことと、長年培ってきた心理捜査法で真理の探究ができることを、部下たちに教えたかったからだ。
彼の心理捜査法とは、事件を起こすのは人間であり被害者もまた人間であるから、それぞれの気持ちになってなぜ事件が起きたのかという動機はもちろん、その背景までに思いを巡らせる捜査手法のことである。
これを応用すれば、犯人特定に役立つだけでなく、身元不明の被害者の人物特定につながったり、凶器の隠し場所捜査など、いろいろな局面で捜査力を発揮できるからだ。そのためには人間観察力や洞察力、想像力などを徹底して養う必要があるのだが。
心理捜査法――むろん、後付けではない証拠の裏付けが必要なことは論を俟たない。
「そう、まさに報復やった。そやから拓子は絞殺を選択した。妹が溺死、つまり窒息死した以上、同じような死に方で、せめても同程度の苦しみを味わわせ、思い知らせてやりたかった。ホテルの湯船で溺死させたかったというのが、あるいは本音かもしれん。しかしいくら睡眠薬で眠らせているからといって、また手足を縛ったからといっても、非力な女性にはベッドからの運搬は困難だし、相手は若い男性、しかも日頃から格闘技の訓練を積んでいる刑事、まかり間違って途中で覚醒したりすれば逆に自分が大変な危険を伴う」
「なるほど。女性ひとりで、大の男を湯船にまで引きずっていくのは、正直きついでしょう。まして、中に入れこむとなると。女性だとできてもせいぜい、浴槽の縁に上半身をもっていき顔を水中に沈めるくらい。しかしその方法だと、呼吸困難の苦しさのゆえに眼を覚まし、反撃されないとも限りません。両足を折り曲げた位置を利用して蹴りあげられればひとたまりもなく、さらに、もみ合っているうちに、自分の方が床などに頭をぶつけるという不測の事態が起こる可能性もありますからね」藍出も想像を逞しくした。
そして和田のみならず、絞殺を殺害手段としたその理由もなるほどと了解したのだった。
「あのぅ、婚前旅行のつもりだった妹の俊子が」その話題ならすでに終わっているし、タイミング的に鑑み場違いやぞ、というようなことを尋ねてもいいのかなと不安げな西岡だったが、それでも「ベルトらしきものを命綱だと信じ込んだのはわかるのですが」ナイヤガラの滝観光において、溺死に潜む背景に、ある疑問を持ったので、矢野に教えを乞いたいのである。「ベルトが確実に切れないと、あの男は目的を達成できないわけですよね」強い正義感が、全裸で殺害された被害者であり、しかも身内にもかかわらず「あの男」と侮蔑をこめて、この男に言わしめたのだった。
「つまり、こういうことか」矢野は新米刑事に対し、忖度しつつデカとしての力量を測ることにした。「ベルトが確実に切れる工作をどうやってしていたのか。予め切断しておいたベルトを切れていないように、セロハンテープで繋いだのでは…。いや、いくらなんでもそれではバレるやろう、と」こう、わざとボケた憶測を開陳したのである。
「いやぁ、さすがにそれはないでしょう…。僕が思うに、ベルトの切断面に瞬間接着剤を塗布し」
「まあ、そんなところやろ」矢野は、質問の内容もだが、瞬間接着剤を使ったのだろうという、自分と同じ推測をしていた西岡に満足した。「さらにいえば、思惑どおりになるよう、切断面にそれをどれくらい塗布すべきか、何度か実験しその加減を決めたのでは…。僕が犯人ならそうするさかいな」
ところで、矢野も部下たちの誰もが口にしなかった、拓子の血肉の情を一同、秘かに憐れんでいた。犯罪を許すことはもちろんできないが、止むに止まれぬ心情に同情を禁じ得なかったのも真情だった。人情であった。
そのあとのこと。証拠品を返却するにあたり、父親が発した呟くような、沈鬱な声が耳朶から離れることは生涯ないだろうと、矢野警部は心涙に胸中むせながら瞑目したのだった。
その呟き、“拓子が犯人だったと、なんで暴いたのですか!今さら…。あの子も、もうこの世にはいないんですよ。…鞭打つなんて真似をどうして……”というような恨み事や憤りの言ではなかった。胸ぐらをつかむようなこともしなかった。
むしろ、その方が矢野には楽だったかもしれない。しかし事実は。
「私たち、これから、何を糧に生きていけばいいんでしょうか……」
その姿に眼を伏せた矢野は、このとき、掛ける言葉を見つけることができなかった。
第十一章 それでも、捜査は次へ
星野の執務室にて。矢野警部は、「拓子が大阪市近郊で独り住まいをしたのは、復讐前後の心身の異状を、両親に覚られないためだったのではないでしょうか。そして復讐のあとも両親と同居しなかったのは、大罪に穢れた身心を四六時中、両親に曝したくなかった。むしろ、曝せなかったのかもしれません。僕が感じた父親の印象ですが、《渇しても盗泉の水は飲まず》という質の人物ではないかと。それで拓子にしても、厳格な父親との同居自体、針のむしろに座らされているような日々を想像したのでしょう。しかしながらといいますか、だかかといって、特殊映像づくりの仕事に復帰するために再渡米したのでは、両親にとってはあまりにも酷だと。うちひしがれている両親にすれば、残る一人の子供まで失ったに等しくなるわけですから。それで、いつでも会える大阪に留まったのではないでしょうか」で締めくくった。こうして報告をし終えたのである。
目を瞑ったまま受けていた星野。技量を日本で活かさなかったのは、検定合格の資格がなかったからか、警察がやがて自分に疑いを向けてくることを恐れたからかとも考えつつ。
重い沈黙が、しばし二人を包んだのだった。やり切れぬ想いが二人の心を支配した。
ややあって、――果たして?…――二人同時に、疑惑が去来したのである。
「じつはな、以前から気になってたんやが、拓子の転落死…、はたして単なる事故なんやろうか?」そう、先に口にしたのは星野であった。
「ええ、疑う余地ありですよね。というのも、ブログにあった【好意を寄せられること自体迷惑】の記述です。たしかに、男からの求愛を、どこか心待ちにしていると読めなくもありません。ですが、拓子に心を寄せる男がいたとみる方が自然ではないでしょうか」
肯いた星野、「拓子という女性は自分の夢を果たすため、学生の時からCG技術習得に励み英会話力も身につけた。人生の設計図を若くして描ける、そんな聡明さを感じずにはいられない。また、証拠の映像を探し出して解析し、妹の死の真相にも辿りついた。加えて、完璧に近い計画犯罪を練り実行もした。つまり、論理的思考ができる頭の良さは並大抵ではない。そんな女性が、好意を寄せる男を望むような夢想をしたとは、僕にはどうしても思えない。拓子には似つかわしくないというのか、違和感すら懐くんや。なるほど、女心は理解しがたいし、人間という生き物は多面性を持ってる。しかし…」首を傾げた。
「僕もそう感じました。しかも、妹を失った悲しみが癒えていないのに、一方で、男関連の夢想をしたとはとても。むしろ逆で、男なんか全く信用していなかったに違いないと」
「それにな、もうひとつ気になるのが、【というより何だか怖い】のくだりや」
先述の【迷惑】に続く記述のことである。
星野は続けて、「男は裏切ったうえに、保身で妹を殺した。これがトラウマになってないはずがない。よって、愛を語りかける男がいても信じれるわけがない。【何だか怖い】は、当然の心境やと思う」そう推し量ったのだった。「それに、【社会的地位や経済力があったとしても】云々、具体的に過ぎひんか」そんな男がいたと読みとる方が自然だというのだ。
「管理官も、言い寄っていた男の存在を感じておられるのですね」自分も同感だとし、「ただし地取りからはそんな男、いや、微かな影すら浮かび上がってきてません。それで確信できないでいたのです」尊敬する上司の発言を初めて知り、心強いと受け取ったのである。
とはいっても、所詮、心証でしかない。今のところ、確証は何もないのだ。
「疲れてるやろうけど、拓子を事故死とした調書を徹底的に洗い直してくれへんか」
矢野とて、もとより、そのつもりだった。
開いた調書を前に、翌日も星野の部屋で向かい合っていた。
「拓子が勤務先で男を避けていたことは、地取りにより明らかです。男を信用できなかったからで、それなのに、夢想とか将来への予想を記したなんてどう考えても。むしろ当時、好意を寄せる男がいた、の方が自然です。だからといって、彼女の死に関係しているとは、少々飛躍に過ぎますが。そこで父親に電話しました」携帯の番号を聞いておいた。矢野の八歳年上の姉で、精神科医の幸が休日に実施している、“被害者とその家族、擁護と支援の会”という、心痛や心労を軽減させるためのボランティア診察を受けてほしいと申し入れる心組みだったからだ。父親の先日の呟きに対する、答えのつもりでもあった。
同じ境遇の幸も、違う立場で、犯罪被害者と家族を少しでも救援したいのだ。
「で、葬儀にそれ風の男が現れたかどうか尋ねたんやろ?けど来てへんかった」訪問時の矢野に、父親がその辺りを告げていなかったことから、葬式には現れなかったとみたのだ。
「お察しのとおりです。それにしても、何もかもお見通しとは、正直参ります」むろんお世辞や追従の類いではなく、実際、感心しているのである。
ちなみに、矢野が父親に問うた内容は、列席者の中に住所が大阪市内かその近郊で、正体を明かさなかった男、あるいは悲嘆にくれすぎていた男はいなかったですか、だった。
父親自体、葬儀のときも尋常な状態ではなかったので、「断言はできませんが」と断わりを入れたうえで、そういう男の存在を否定した。「ただし、『記憶違いということもあるので、会葬帳を今夜見て、もう一度記憶を呼び覚まします』とのことでした」
翌朝のことだが、大阪市内かその近郊在住の見知らぬ男は、勤務先から一名ずつ男性が列席しただけで、あとは親戚縁者がほとんどのこぢんまりしたものだったと。同級生らしい男性も数人いたが、彼らは大阪を通勤圏にするには遠い、地元の者ばかりだったとも。
これらの情報から、思いを寄せていた男は列席しなかった可能性が高いとみていいだろう。薄情だったからか、それとも…。
「転落死に関係してしまい、これ以上拓子に関わると身の破滅に通じるから参列を避けた、そうみることもできるな」すでに写真で見知っていた星野は、美形だった拓子の容姿を思い浮かべながら、いい寄っていた男について想像した。「少しも振り返ってくれない拓子に、《可愛さ余って憎さが百倍》まではなかったかもしれんが、自尊心を傷つけられ、男は小さな復讐を試みた」こんなふうに何ごとも疑ってかかるのは、刑事の性だろうか。
「可能性ありますね、ストーカー的異質な愛情と憎悪がないまぜとなった男の匂いが、ブログから感じれますしね」【なんだか怖い】の記述を指している。「そして転落死した夜、男はその場にいた、もちろん憶測であり立証はむずかしいですが。ただ、彼女の生活パターンは定則性にすっぽり収まっていますから、ストーカーならずとも彼女を尾行、あるいは探偵社に依頼すれば、住所や勤務先それに帰宅時間くらいなら簡単にわかったでしょう」
「そうやな」星野は同意した。「喧騒な声を聞いたり、ゲソ痕などの争った形跡はなかったとあるから、揉み合ったはずみで転落したり、まして突き落としたりがあったとは考えられんが、だからといって男がその場にいなかったことにはならない。何ごともなく、ただ雨の滴に足をとられて転落したと推定するよりは、予期せぬことに驚き転落した、その方が可能性は高い」表裏両ブログから感じ取れる慎重居士な性格の拓子が、両手を荷物でふさがれていたにしろ、雨の滴に足をとられるほど迂闊だったとする方が不自然というのだ。
車中での親父さんも同意見だったと思い出した。昨今の変質者等の犯罪多発から、その女性も慎重だったはずとの理由をつけて。「管理官がおっしゃったとおり、聡明な女性です。人生設計を、高校生の段階で立てていたくらいですから」と、星野と同意見の矢野。「実家を離れて約九カ月、自宅としたマンションにはエレベーターがなく、Pタイル貼りの階段でしかもところどころ滑り止めが剥がれていた。だから雨の日は滑りやすいくらいわかっていたはずです。当然気をつけて上っていたに違いありません。だとすると、特別な原因もなく足を滑らせ転落したは、いくらなんでも説得力ゼロ。雨で床が濡れてるなんてのは特別なことではありませんからね。たとえば、男が玄関前で座って待っていて突然立ち上がったとか、うしろから急に声を掛けたとか。で、その線で洗い直そうかと考えています」
「転落の原因はそんなところやろ。けど、はたして男を特定できるか、それが問題やで」とて、矢野の顔を凝視した。「はは~ん、何か思いついてるな、その眼の輝きは」
「可能性は、ゼロではありません」矢野がこの言葉を口にしたとき、自信が少なからずあると誰もが知悉している。「名刺です。拓子は、殺した警部の名刺を保存していました」
捨てるのはいつでもできる。残しておけば、あるいは何かの役に立つこともと考える女性だったのだろう。
「とすれば、告白するにあたり、彼女を安心させるためにその男は名刺を手渡し、身分を明かしたのではないかと。それは自身の肩書や身分にある程度以上の自信を持っていたからで、ならば、男の名刺が保存されていても不思議ではありません」
星野は、【たとえ社会的地位や経済力があったとしても】を基にした推測だなと思った。
「早速父親に連絡して、先方の都合がよければ再度の捜索をお願いしてみます」
矢野が退出してから四時間、結果を待つ間、星野はあることに思考を巡らせていた。男はどこで拓子の存在を知るに至ったかということにだ。まさか、アメリカではあるまい。
そしてそれ以上に、男が誰かを仮定できないものか考えてみたのである。それにはまず、拓子の転落死の調書と藤浪が作った渡辺直人事故死のそれに再度目を通す必要があると。
ではなぜ唐突にも直人の死と結びつけたのか?以前得た荒情報において、長いデカ生活で研き抜いてきた捜査勘にピンと引っ掛かる何かがあったからだ。二つの件のおぼろげな時期の一致であった。捜査勘に引っ掛かった以上、念のため、見極めずにはおれなかった。
そして、直人事故死の調書からやはり!と。必要な情報をいくつか映し撮った網膜は、視神経を通し彼の鋭敏な脳に伝達したのである。男を仮定するに必要なヒントであった。
拓子が死んだのは、昨年の十一月二日、激しく降る雨の夜だった。時間は十時四十分ごろ。その時間にアリバイのない、そしておそらくは社会的地位と経済力のある男性。むろん、これだけでは雲を掴むような話だった。だがこの条件に該当する男性に、心当たりに似た微かな残像があった。たしかに、紙のように薄い可能性であろう。しかし情報がないに等しい状況下では、実状、この線で追ってみるしか手立てがなかったともいえた。
さて、その残像の正体だが。拓子がブログに記した時期と同時期に外出を頻繁に行い、ある日を境にその外出癖が突風直後の灯火のようにパッと消失した男性のことである。加えて、時間的だけでなく空間においても、二人に繋がりがなかったとはいえない点
星野の手元にある調書が、その事実を、そっと囁いてくれたのである。
星野の鋭敏な触覚にふれた、そんな若い男。言うまでもない、渡辺直人であった。
蛇足だが、渡辺直人といえば、藤浪が約半年前に担当し“風呂場での事故死”として処理された研修医のことで、先日射殺された渡辺総合病院院長の義理の息子でもあった。
彼は家政婦の証言によると、死の八カ月前から約二カ月間、夜間の外出を繰り返していたという。それが、ある夜を境にカットアウトしたのである。
しかも、社会的地位と経済力を備えた妙年の、恋をせずにはおれない二十七歳だった。
単なる偶然ではなく、また、この仮定に無理やこじつけがないことを確認するために、藤浪にあることを調べるよう携帯で指示した。
同時に、拓子に関し精査した。まずは生活圏や生活パターン、仕事や趣味などである。
――生活圏やが、互いの住所は離れてるから、そっちは無視してもええやろ――気になるのは、昼間勤める飲食店と大阪市福島区にある渡辺総合病院が比較的近いことだ。――けど昼食を摂るとなると、そこは歩いて行くには遠すぎる。美味いもん目当てに車で来店という手もある――が、その飲食店は駅近くにあり、駐車場を備えてはいない。そこで、可能性は低いから後回しとした。――生活パターンやが、午前中にその飲食店に入り午後二時半に仕事を終える。賄いがあれば店で食事を済ませるやろうが、そこまではわからん。とにかく、そのあとどこかで少々時間を潰し、夜間勤務の店に入る。その店は直人の生活圏からは離れているから無関係やろ。待てよ、別のところで昼食を摂るとして、そこで拓子に出会ったちゅうことはないやろか…――小考した。――いや、可能性はかなり低いな。拓子は贅沢のできる身やない。一方、直人はぼんぼん育ちや。まさか牛丼みたいな安さを売りにする飯なんか食わんやろ――発想を変えることにした。「う~ん…」思考を集中させるとき、星野は耳の穴に人差し指を突っ込み目をきつく瞑る性癖がある。外界をできる限り遮断するためだ。――拓子の方から結果的にやが近づいたとしたら。たとえば…、渡辺病院に診察を受けに行ったというのはどやろ。う~ん、これは調べてみる必要あるな――
パックされた豆腐のように、体液に覆われ保護されたピンク系色の脳細胞がめまぐるしく活動し、ピークに近づいた。直後、手をパーンと叩いた。閃いたのである。――そや、拓子は映画好きやった。仕事にしたくらいやから。となると、映画館か、あるいはレンタルビデオ店ということも…。まずは、福島区にあるレンタルビデオ店と仮定し調べてもいいんやないやろか――いや、閃いたとはいえむろん映画関係に限るわけではない。他の場所、たとえば銀行とかコンビニだとか。コンビニだと、福島区内の数十軒を当たることになるが、ビデオ店に比べ困難な点がある。会員登録率が低いからだ。会員ならいつ買い物をしたかのデータが残っているが、そういう情報入手をあまり期待できない。それに、防犯カメラは設置されているが、古い映像を残しているはずもない。――ビデオ店も同じやろうけど――一方、拓子が死亡当夜買い物をしたコンビニは、住まいの近所であった。オンリーワンの品物を置いている特別なコンビニというのでもない限り、あるいは今すぐ必要なものでもない限りは普通、誰もが家の近くで買い物をするだろう。―――スーパーはどやろ?…いや、おそらく、お坊ちゃまは行かんのと違うやろか。だとしたら、服とかの購入ならどうや。けど…このふたり、買いに行く店のタイプが全然違うやろうな――
そこで可能性の高い方から当たることにした。いうまでもなくレンタルビデオ店だった。
ネットで地図検索した結果、互いの勤務先のほぼ中間に位置する、Tレンタルが有望だ。
早速、足を運んだ。拓子は昼の仕事帰りの午後三時すぎに、直人は午前の診察等を終える午後二時ごろから四時半までの空き時間にレンタルビデオ屋に行っていたことがわかったのである。二人とも会員登録をしており、おかげでDVDやCDを借りた時間と返却時間等が記録されていた。その日時が、転落死直近の三カ月間で七回合致していたからだ。
やはり、ここで直人が見初めたとみるのが自然だろう。
七回のうちの四番目は土曜日だった。
この日おそらく、直人は拓子のあとをつけ夜間の勤務先を突き止めた。さらに自宅までも知ることができた。あるいは後日、探偵を雇い、それらを突き止めたのではないか。
その後、めげずに何度も交際を申し込んだ、と星野はみた。おそらく名刺を渡しただろうし、医者という肩書に、女性ならやがてはなびくはずだと、…こんな想像も難くない。
だが彼の案に反し、拓子は頑なだった。自身への覚えがあっただけに、ありえないとの思いが焦りを生んだ。それでつい、ストーカーまがいの行動に出てしまったのではないか。
ではなぜ、拓子は警察に行かなかったのか。理由は二つ考えられる。妹の俊子の死に対しお役所仕事的応対を受け、警察自体に拭えぬ不信感を懐いたから。もう一つは、すでに殺人者になってしまっており、警察を訪れるに気おくれするものがあったから、だろう。
一方の直人。想いが高じて、ついには彼女の自宅近くで待ち伏せしてしまった、のではないか。しかしその短絡的な行動、悪気があったわけでも、不埒な事を考えていたわけでもなかったと思うのだが。ストーカーやセクハラが、最悪の結果しか生まないことくらいバカでもわかる話だ。だから、ただ、想いのほどを率直に伝えたかっただけであろうとも。
調書を基に、星野はこんな想像をした。
「僕のことを知って頂きたいし、貴女のことも知りたい。どうでしょう、一度でいいからお昼をご一緒願えませんか?」というような申し出も懲りずにしたに違いない。
しかし、しかしだ、そんな十一月二日の夜…、何ということか!
まさかの…予期せぬ最悪の、否、あってはならぬ事態が起こってしまったのだった。
部屋へ、ノックして藤浪が入ってきた。彼は受けた指示どおりの、質問に対する先方の答えを携えていた。例の、家政婦からのだった。
明確な返答だったという。直人が外出を突如止め、食欲を急激に減退させた日だが、自分の誕生日だったからよく覚えているとし、「間違いありません」と付け加えた。
答えに満足した星野を、さらに喜ばせる電話が入った。
「その声からすると、名刺、あったみたいやね」星野は、矢野の弾んだ声を聞いて安心するとともに、白い歯がこぼれ、鼻の横にあるホクロが弾けた。
「はい、それらしいのが…」と言いかけたが、星野の思いもよらぬ発言により唇は止った。
「渡辺直人の名刺が出てきた、僕はそう睨んでいる」欣喜をあえて殺した声、そして故意の緩やかな口調だった。だが内奥にては、歓喜の舞いに雀躍と遊んでいたのである。
「おっしゃるとおりです。が、どうしてそれを」長い付き合いの矢野といえど、本当に仰天してしまった。それでつい口をついて出たが、この謎解きはあとまわしになるだろうと。
だが、拓子が転落死した日と直人が急に外出を止めた日(正確には転落死の翌夜から止めた)が一致したことを家政婦の証言で得たと、管理官は告げた。質問に対する答えのつもりだった。あとの謎は自分で解けとでもいうように。
いつものことと矢野は了解した。「面識があったのだから、単なる偶然では片づけられなくなりますね。というより、“男”を直人にあてはめても不具合は全く生じません。むしろ当てはまり過ぎるくらいです。直人とみて間違いないでしょう」
「うむ」肯いた眉はやはり、難しげだった。「その線で捜査するとして、調書によると、拓子の部屋の玄関前や横並びの廊下に、人が佇むことによってできるほどの滴は落ちてなかったとある。拓子が帰宅する二時間ほど前から急に激しい雨が降りだしたともある。だが、いつもの帰宅時間を知っていたならば直人は当然、定則の帰宅時刻に合わせたに違いない。とすると、傘からのにしろ、頭髪やコートから滴り落ちた滴にしろPタイルを濡らしたはずや。そやのに、なんで滴の痕跡が床になかったかを説明せん限り、送検はむずかしいぞ」
「たしかにそうですね」矢野は肯くしかなかった。頭を切り替えねばとしつつ、一言二言、それから電話を切った。直後、こちらの謎の解明を優先に考え始めたのだった。
最大の可能性は、階段を上るうしろ姿に声を掛けた、である。これだと、玄関前にはむろん残らない。しかし問題もある。ずっと後をつけていたのなら、雨を踏む足音や気配を勘づかれる危険性が生じる。尾行がばれた時点で、ストーカーとして恐れられたであろう。そんなバカなマネは避けたはずだ。だいいち、星野が言ったように定則の帰宅時間ではなかったわけだから、駅からの尾行以外は困難だったはずだ。しかも、尾行は危険を伴う。だとすると、やはりその間、どこかで待っていたとなる。ではどこで?
矢野はひとまず、仮説として思考を膨らませたのである。…どうしても話をしたいなら、待ったのは、玄関前から数メートル横にずれた廊下、だろう。でないと接触の機会を逸してしまう。部屋に入ったが最後、ドアを開けてくれる見込みはなかっただろう、が理由だ。横にずれたのは、上がってくる拓子から気づかれない死角となるからだ。そして待ちに待った靴音。よって愚かにも、勇んで拓子の前に現れてしまったのである。
突然のことに驚いた彼女は、慌ててしまい足を踏み外した。哀れ転落してしまったのだ。
直人は蒼白になり慌てて駆け寄った。だが、すでに心臓は止まっていた。ここにいては自分が疑われると考え逃げようとして途中で気づき、待ち伏せしていたことを示す、多すぎて不自然な廊下の水滴をハンカチで拭い消し、それから逃げたのでは?
しかしこれだと、拭き去ったという痕跡に鑑識が気づいたはずだ。痕はなかったとみるべきである。さらには、この説が説得力を有しない以下の理由。自分のせいで好きな人が死んだ、にもかかわらず待っていた痕跡を消したなんて、そんなに冷静になれるだろうか。
さすがに無理であろう。ただし、自己愛の強い人間なら、たとえ好意を寄せている相手がはずみで死んでしまっても、これからの自分の身を案じて逃げることはあるかもしれない。まして医者で、やがて病院長を継ぐ身ならばスキャンダルは厳禁なのだ。
なるほど、この憶測の方がより現実的といえる。問題は、水滴を拭うまでになれたかどうかだ。それよりは、初めから水滴は床に落ちなかった、とみた方が自然だ。たとえば新聞紙でも敷いたというのは?しかしそんなことを、通常するだろうか。むしろ、水滴がなかったための無理やりの理由付けでしかない。だいいち、床にそれらしいものは残っていなかった。直人が回収したからとするのも拭き掃除と大同小異で、説得力を欠いている。
ならば、横付けした車の中で待機していたというのはどうだろうか。ただし、車を常套手段にしていたとは思えない。毎回なら拓子は気づき、そして警戒したであろう。つまり、横付けは雨降りのその夜だけだったとすると、一応の説明はつく。で、確かめることに。
再度の問い「貴女の誕生日の前日、直人氏は車を使っていませんでしたか」に、へそを曲げつつ小考のあと、「珍しかったので覚えています」ベンツで出掛けたと断じた。出勤に車を普段使わないのは、飲酒できなくなるからだとこぼしていたことも付け加えた。
後刻、報告を受けた矢野は、少しく満足したのだった。墓参りからの帰途、若い女性の転落死にもし犯人がいたなら逮捕してあげてほしいと頼まれていたが、その期待に少しは応えられたからだ。
ただし府警本部としては、被疑者死亡による書類送検を見送った。証拠不十分というのが表向きの理由だ。加うるに、新たな目撃者も現れず、被疑者死亡により自供も取れない以上、書類送検しても地検は受け付けないだろうと上層部は星野たちに説明したのだった。
しかし本音は、転落死を事故として処理してしまっており、それを変更することでまたマスコミなどからやり玉に挙げられる、それを恐れてのことだった。
星野以下、不本意な決定に当然猛抗議した。頑張って、闇に隠れていた事実を究明したのだ、誰も知ること能わずの真相を明らかにしたのである。が結局、建て前とはいえ証拠不十分で押されれば、情況証拠ばかりである以上、最後は黙らざるを得なかったのだった。