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不連続・連続・不連続な殺人事件  作者: 大矢 主水
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第七章~第九章

第七章  走る空間にあって、犯罪を許さない矢野たち


 和田が星野の執務室にいたころ、一台の車が大阪市内へ向かっていた。

運転しているのは矢野警部で、死別した妻の両親と、祥月命日の墓参りの帰り行程にいた。もっとも今は警部ではなく、プライベートな一個人の立場であったが。

「お疲れさまでした」俳優の阿部寛の若いころに似て眉目秀麗の矢野は、後部席に座る二人に、犯罪者には掛けることのまず無い温和な声でひとこと言った。

短かったが、心がこもっていたことは二人に通じた。

「いや…、一彦君の方こそ」車内のバックミラーの中の元義理の息子に、眼で謝意を伝えた。愛娘の貴美子から初めて紹介されたとき以来、“一彦君”と呼んでいる。息子もほしかった夫婦にとってはそのとき、本当の愛息を授かった、そんな想いが心を満たした。特に、長い居酒屋経営で人を見る眼には自信のある親父は、一発で気に入ったのだった。

 矢野も、優しかった両親にどこか似ている二人に、心の底から甘えることができた。

その辺りの事情も含め理解してくれる現在の妻の真弓。寛容な質で、前の家族との付き合いを許してくれてもいる。矢野は心底から感謝しつつ、できた女房の真弓にも甘えているのだ。その代わりといってはなんだが、精一杯の優しさで抱擁しているつもりである。

 貴美子の母親は目を閉じ深く頭を下げた、かけがえのない存在の矢野に対し。

「それにしてもあれから丸四年、早いもんやな」親父(矢野はどこか甘えるようにいつも“親父さん“と呼んでいる、貴美子の死後も変わることなく)のこの言葉、毎年のことだが感慨深い。永久(とわ)の別れから何百回も()いてきた大きく静かなため息が三人を包みこんだ。一人っ子の、短い闘病の末のあっという間の死であった。諦め切れなくて当然だった。

 ちなみに、夫婦は三十年以上、大阪市内で居酒屋を営んでいる。

接客をする仕事中とは違い、私生活では物静かな母親があらためて礼を言った。「お忙しい身なのにわざわざ…。本当にありがとうございます。あの子はほんとうに幸せ者です」

「たしかに…そうやな。毎年こうやってあの子に会いに行ってもらって」

「何をおっしゃいます」とだけ言った矢野は、あとを呑み込んだ。――こんな僕に連れ添ってくれ支えてくれた貴美子に、せめてもできることです。でもできることならもう少し、いやもっともっと生きていてほしかった――と。だが、日頃の想いを口にすれば、二人は喜びもするだろうが、死の悼みからかえって苦しませることにもなると知っていたからだ。

「それもこれも、今の奥様のおかげやし。ほんま、感謝しないと」

「そのとおりやな。前妻の墓参りを許してくれる女性ってなかなかいてないやろうし」

 現夫人の真弓に対しても謝辞を忘れない夫婦であった。

高速を安全運転で走行する矢野は、時折バックミラーに視線を向けながら黙って聞いている。安全運転は警察官としてだけでなく、この大切な、矢野が少年期に殺された、優しかった両親を髣髴させる人たちを事故に遭わせるわけにはいかないからでもあった。万が一があれば貴美子を悲しませることになる。それだけは避けなければならなかった。

「ところで一彦君」できれば養子縁組をし、法的に息子になってほしいとの念願を心に潜ませているが、いまだ切り出せないでいる親父であった。仕方なく別の話になった。

「事故や殺人などで若い女性が亡くなると、娘を失った身としてはことのほか胸が痛くなる。例えば二年近う前のことやが、ナイヤガラの滝での転落死。それと一年ほど前には、別のお嬢さんが自宅マンションの階段を転げ落ちて…」搾り出すような言の葉はここで千切れた。苦しいのである。しかしある思いから気を立て直すと続けた。「これはわしの勘やけど、二人は姉妹やなかったかと思うねん。どちらもええと…それほど多くない苗字やったんや、確か。なんちゅう苗字やったかなぁ…。あかん、思い出せん」結局、記憶は蘇ってこなかった。「それにどちらも二十代で年も近かったからな…、ああ…」溜め息をついたのは、憐憫が心を支配したからだ。「もし姉妹やったら親御さんの嘆きや悲しみは如何ばかりやろか」切歯しながら、「それを思うと、こっちの心も千々に乱れて息苦しゅうなる」子供に先立たれた親の悲痛が、表情にも声色にも滲んでいた。

普段、ニュースを見ない元義母は「えっ!またそんなことが…」あとは言葉を呑んだ。が、こちらもいかにも辛そうに沈んだ声であった。

 仕事柄、詳細を知っていた。が、「話を変えませんか」とても話す気にはなれなかったのだ、せめても祥月命日のこの日だけはと。それで不明にも、いい加減に聞き流していたのだった。本部に戻ればイヤでも“死”と向き合わなければならない立場である。

なんとなれば、凶悪犯罪と立ち向かう仕事を選んだからだ。それは、無惨に殺された、忘れがたき両親への供養のためであり、否、今はこの世から悲劇を失くすためであった。むろん理想にすぎず実現困難だと、いや不可能に近いと頭ではわかっているのだが、それでも無為では生きていけないのだ。また、生きている意味さえ貧弱になるではないかと。

星野も藍出も知っていることだが、未だに憎い犯人は捕まっていない。

それどころかとうに時効成立で、もはや罰することもできなくなっていた。そういうわけで、両親殺しの犯人を見つけ出すために、仕事に邁進しているわけではなかった。

もっとも、警察官に成り立てのころはそうではなかったが。

「僕らに気を掛けてくれるんは嬉しいけど、あの子も、この世から不祥な死を無くしたいと望んでいるやろう。そやからといおうか、これは僕の勘やけど」刑事にしたいくらい、親父の勘はたしかに的中率が高かった。「一年前のがもし事件なら、犯人を捕まえてやってほしいんや」これが、さきほどの“ある思い”であった。「こんなことをいうのも、この世に想いを残したまま逝ったあの子への供養にもなると信じてるからや」親父は懇願の相で首を伸ばすとバックミラーの中の顔を、元義母も運転する矢野の斜め後ろ顔を見つめた。

 これほどの切ない想いと自分への信頼を心奥から吐露されれば、人として心が動かないはずなかった。民間人には明かさずとのデカの矜持(きょうじ)を忘れたことはないが、両親を殺された彼の、凶悪犯罪をば許さじとの使命感はそれより強い。矢野警部の頭に、今の件が鮮明に蘇っていた。ただ、担当事件に日々忙殺されており、女性の名前は忘却の彼方に消えてしまっていたが。当時、報道された事実から、デカの勘が、事故死とした警察発表に“違和感あり”と告げたゆえに、数年前まで部下だった平田警部補が所属する署の事件だったこともあり、詳細を聞いたのである。それで、違和感が疑惑へと変わった。転落を誘発した可能性の人影がほの見えたからだ。しかし、見立てに異を唱えられる立場にはなかった。

二人に向かい(おもむろ)に口を開いた。ちなみに、明かす内容だが、報道機関が披歴した情報の範囲内にとどめおくことにした。職務規定に違反することはさすがにできないと。

(ところで便宜上、以下のとおり、矢野の口述以上の詳細を記述させてもらう)

約一年前の十一月二日夜、二十八歳の独身女性が頚椎を折って死んだ。

検視の結果、死亡推定時刻は午後十時四十分から同十一時。

あるいは死亡直前の声かもしれない叫びを聞いたマンションの住人はいたが、家賃の安い古いワンルームだけに、隣の部屋からのテレビの音声だろうと思ったという。その時間は午後十時四十分ごろ。十時に始まったテレビ番組から推測したのである。

築二十四年。一階部は貸し店舗が入る四階建て。エレベーターは設備されていなかった。バブル期の建設だから、高騰していた人件費や機材費等で建築費用は思いのほか高くついた。それで、減価償却するまでは手を入れる気のない大家。防犯カメラも当然なかった。

現場は、二階にある女性の部屋を仰ぎ見るかたちの長めの階段。一階が天井の高い賃貸店舗だから、二階住宅部から上より五段ぶん段数が多いのだ。長かったぶん、女性にとっては不運だった、死を招く魔の階段となってしまったからだ。しかもその階段、いつ剥がれたのか、滑り止めがところどころ無くなっていたのである。そんな、ないない尽くしの古マンション。住民も“ないない”でその数は減ってきており、帰宅してきた彼女を見かけた、いわゆる目撃者はいなかったのである。

 仰向けに倒れた変死体だったが、行政解剖はされなかった。監察医制度のない府下だから設備的・人的に簡単ではない、が一つ目の理由。公費削減のため、が二つ目。しかしいちばんは、検視担当官が事故死と見立てたからだ。それは現場に争った形跡も着衣の乱れもなく、強く押されてできる圧迫痕もなかった由。また、指紋から断定された女性の荷物や傘が階段に散乱していた等による。両手がふさがり手すりを掴めなかったとみたのだ。

当該階段や廊下にはPタイルが貼られていた。誰かの傘や荷物等から滴り落ちたのか、激しく降っていた雨の滴とPタイルのせいで階段はたしかに滑りやすくなっていた。しかも二段ぶん、滑り止めがとれてしまっていたのだ。となると、

事故の可能性大だが、それでも検視と並行して現場での検証も行われた。検視の見立て違いということもあるうる。上の判断で、念のため犯罪性も疑っての検証となったのだ。

捜査員たちは、犯罪行為があったとして、想定できるケースがあげてみた。

1殺意の顕著な犯人が待ち伏せをし、不意打ちで階段から突き落とした場合。だが、今回のは当たらない。いきなりの犯行ということはそれまでに二者間でそれ相応のトラブルがあり、由って加害者の姿を確認した被害者は、殺意までは察知しなくても何らかの危険を感じたに違いない。非力な女性ならなおさらである。具体的にはこうだ。階段を上っていた被害者が、玄関前で待ち伏せしていたその加害者に気づかないはずがない。すぐさま危機を察知し逃げようとする。その上体を押され転落した、となる。だが、それだとうつ伏せ状態になってしまう。しかも体に圧迫痕はなかった。ところで被害者に対する加害者、状況からまだ手が届かない距離にあったはずだ。道具を使えば押し倒しは可能だがそれでは圧迫痕を残す。つまり上記の設定だと、死体の状態を説明できなくなるのだ。

2百歩譲って凶暴な面相を隠し、被害者は加害者を認知できなかったとしよう。だが玄関前で佇んでいる人物を初めて視線が捉えた刹那、被害者はまだ階段を上る途中だったわけで、不審者が自分の部屋の前にいれば、若き女性ならなおさら不審に思ったはず。歩を停めて誰何するだろうし、返事がなければ警戒し逃げる体勢を取ったはずだ。上記同様、この時点では、加害者が手を伸ばして届く距離に被害者はまだいない。水平距離もだが、高低差にしても1メートル以上離れているからだ。こう、情景を推測すれば一目瞭然、逃げようと背を向けていたであろう女性が仰向けで転落するなどありえないのである。

ところで玄関前に真新しいタバコの吸殻が落ちていれば、もしくは傘を立て掛けたことでできる小さな水溜りが残っていれば、若くとび切り美しい彼女を待ち伏せする変質者がいたとも考えられるが、その可能性はないとした。吸殻はおろか、ガムやペットボトル等の遺留品もなく、ペットボトルを置いた痕跡(結露が作るリング)等もなかったからだ。

ちなみに、彼女の部屋の玄関前と一階までの階段や踊り場だけが明らかにきれいだったのだが、それは彼女が掃除していたからであろう。逆に、他の階段や廊下等に綿埃が転がっていたのは、大家が、管理人もしくは清掃員を雇っていないからに違いない。その二階の廊下だが、少量の滴は落ちていても、人が佇むことによってできる量の水滴はなかったのである。あれば、階段からは死角となる廊下に犯人が潜んでいたとも考えられたのだが。

 3犯人の殺意が皆無か微小だった場合。たとえば元カレかストーカーが待ち伏せしていて結果揉み合いになり、はずみで転落したケースである。しかしながら、これだと何らかの痕跡を残したはずだ。一つは言い争う声だが、今回、それを聞いた住人はいなかった。さらにだ、揉み合った場合にできやすい概ね三種類の痕跡。それが、あるかないかだ。

①着衣に、破損やボタンの損失などがほとんどなかったという状況。

②Pタイル面にも痕跡は特になかった。争った場合、足を踏ん張る等により靴底と床面に強い摩擦が発生。結果、広義で“げそ痕”とも呼ばれる靴痕、今回のような若い女性のケースだとヒールの痕跡を残すことが多くみられる。が、それもなかった。

③手指の爪に、襲撃者の皮膚片や相手の服を掴んだときの糸片もなかった。

つまり、争ったことを示す形跡は皆無だったということだ。

ところで捜査員のなかには、争った痕跡がなかったのは両手が傘やバッグ等の荷物によってふさがれていたからでは、との見解を示す者もいた。

だが、はたしてそうだろうか?身の危急の場合、荷物を放りだしてでも防御するのではないか、とも。加えての否定意見。襲われた瞬間、裂帛(れっぱく)の声をあげたにちがいない、だ。

ゆえに、検視の所見もそうだったように、誤って転倒した可能性が極めて大きかった。

死体と散乱していた所持品の状況から憶測し、肩ではなく左手にショルダーバッグを、利き手である右手(左手首の腕時計から判断)に雨に濡れた折りたたみ傘(急な雨に遭い、バッグから出したものであろう)とコンビニのレジ袋を持っていたようである。中は一人前のコンビニ弁当だった。女性は、手すりが左側に設備されている濡れた階段を上っていて足が滑り体のバランスを崩した時、不運にもその段の滑り止めははがれていた。危うい体勢を立て直すべく手すりを掴もうとしたが、左手はふさがっていたのだ。一瞬のことであり、しかも利き手ではないぶんバッグを手放すという動作が遅れたのではないか。

靴は、ヒール高約5センチのパンプスだった。ベルトや留め金がないせいか、左足の方だけ脱げていた。左足裏に踏ん張ろうとする負荷が掛かったために脱げたのだとすると、左足が階段に着いたときに滑った可能性が高い。利き足でなかった場合、踏ん張る力が少し弱かったかもしれない。そして不運にも、右足はそのとき宙に浮いていたのではないか。

運の悪さはときに重なるものだと捜査員は思った。仮にヒール5センチのパンプスではなくスニーカーだったなら滑らなかったのでは。あるいは、もし朝から雨模様だったならば、滑りにくい靴を履いて出掛けたかもしれなかった。

以上により、捜査員たちは犯罪の可能性はまずないとみた。それでも念のため地取りも行なった。駅からの帰路、コンビニに寄ったとみて店の防犯カメラをチェックしたところ、彼女が映っていた。それで不審者の有無を確認したが、そんな形跡はなかった。映像に刻まれた時刻は十時三十五分。女性の足でマンションまで五分。おかげで、死亡推定時刻は午後十時四十分で固まったのである。住人が聞いた転落時の叫びの時刻とも符合していた。

 にもかかわらず捜査員たちは困惑してしまった。なぜならその声や音を聞いた住人が、耳にした時点では転落に由った声や音とは認識していなかったからだ。人が階段から転落したというのにだ。捜査員は、それなりの声や音、振動を感知したはずだと念を押した。

「酒飲んでたしなぁ。それに半分寝かかってたし」男は首筋をポリポリと掻いた。

言いわけがましいと感じさせた口、なるほど酒臭かった。

「けど感じひんかったんやない。まさか、あれが転落音やと思て聞いてなかったからわからんかっただけや。聴き分けるテストならその気で耳澄ましたけどな。それに何ちゅうても、玄関前の大通りは高速に通じてるさかい、夜遅おても大型トラックがしょっちゅう通りよんねん、それも毎晩やで。そやさかい、騒音と振動に慣れてしもたんや。二つは違う種類の音と振動やし似てへんて言いたそうな顔やな。なら聞くけど、転落音やとあんたらそれを聞いた瞬間に確信できるんか?そやろ、できひんやろ。それにワシ、うつらうつらしてたしなぁ。そやのに、わざわざ何の音か確認しに部屋から出ていくなんて無理や。ごめんな、まんが悪かったちゅうこっちゃ。けどええ加減なこと言うよりましやろ」法律違反をしたわけではもちろんない。道義上も、非難されないかもしれない。ただし、酔っていたとはいえ同情の欠片もみせなかったこの人は、他人の死にあまりに鈍感といえた。

一番近くで聞いた人間がこれだ。離れた部屋の住人は、なおさら当てにならなかった。

「それでは転落音の直後、逃げるようにして階段を駈け去る足音は聞きませんでしたか」

 男は、首を傾げるだけだった。

捜査員は勤務先にも当たった。大阪市北区梅田にある、食事を提供する二十四時間営業のチェーン店で、午後五時から九時半までのパート勤務であった。

定時に着替え、通勤帰路時間三十分弱。遅くとも十時すぎには帰宅しているはずだった。それが当夜は、帰途に一時間以上かかったわけだが、それは電車の二十五分遅延が原因であった。約二時間続いた激しい雷雨がダイヤを乱したわけだが、時間経過に鑑み、コンビニに寄ったことを除けば、勤務先からまっすぐ帰ったとみていい。どこかの店で酒類を飲んだ形跡はないということだ。それに雷雨の中、若い女性がまさか、自販機で“発泡酒”でもあるまいし、ならば飲酒(薬物をも含む)による転落とは考えにくいではないか。

捜査員は、彼女のもうひとつの勤務先、午前十時半から午後二時半までの別の飲食店にも当たってみた。結果、

両勤務先において、勤務態度は真面目でトラブルを起こすようなタイプではなかったと異口同音。しかし、どこか(かげ)があるような暗い感じで、人を避けているようだったとも。

それぞれにおける男性アルバイター数人が各人機会を狙って仲良くなろうと近づいても、会話として成立しなかったと述べた。ことに、自分のことに関しほとんど語らなかったというのだ。嫌われているわけではないが、周りからは浮いた存在だったらしい。

同僚のなかには興味を持って彼女の異性関係について尋ねた女性もいたが、意味不明に首を横に振るだけだったと。「触れてほしくないんやな感じた」と同僚は述べた。触れてほしくないという意思表示だったとすると、元カレやストーカーに悩んでいた可能性もある。

ちなみにこの女性、矢野は失念していたが菅野拓子という名前であった。

さて、ここで、死体発見当夜に時間を戻すとしよう。

男女各一名の捜査員は念のため、家の中も調べたのだった。若い女性にしては、写真を収めたアルバムはなかった。パソコンにも携帯にも写真を取り込んでいなかった。女性捜査員が写真を捜したのは、そこに男とのトゥーショットを見つけ出すためだったのだが。

書棚にも抽斗(ひきだし)にも日記帳はなかった。だがパソコンにブログが残されていた。ただし公開する目的のブログではなく、単なる記録ログとして使っている純粋な日記であった。

 読み始めた女性捜査員。知りたいのは恋人や元カレの存在だった。しかし、恋愛に悩む若き女性を髣髴させる記述は全くなかった。ただ慮外だったのが、“自分は幸せになってはいけない”と彼女が思っていたことだ。曰く、【私には資格がない】【値しない】さらには、【身も心も血で汚れた私だから、一生かけて(あがな)わなければならない】等々の記載がそれだった。【血で汚れた…】は何かの比喩だろうか。直截にとれば犯罪者となってしまうが。

しかし後者の解釈は短絡的だと思い、とりあえず読み進んだ。ところが最後近く唐突に、【好意を寄せられること自体迷惑。というより何だか怖い。たとえ社会的地位や経済力があったとしても】との記述にぶち当たったのである。具体的事実を記したものか、あるいはこれからの事態を予測してのことなのか?

結局はそれを、文脈からも地取りからも掴めなかったのを、捜査員は残念がった。

 男性捜査員はまず洗面所に向かった。歯ブラシは一人分のみ。洗面所はきれいに掃除されていた。彼女のと思われる黒髪が一本、マットの裏に付着していただけだった。ブラシに、短髪や染めた髪の毛がまとわってもいない。

それからトイレの便座だが、ふたがなされていた。洗濯機の中、そしてタンスにも、男物の下着はなかった。その他食器等、どこを調べても男っ気は一切なかったのである。

 翌朝のこと、遺体確認のために兵庫県豊岡市からやって来た両親にも異性の存在について尋ねてみた。

しかし弱々しい声で全く知らないとのみ。悲痛を懸命に堪え、そして忍んでいる両親の、ことに母親の泣き腫らした瞼が痛々しかった。

結局、男の確たる存在どころか、陽炎(かげろう)のような不確実すらも見出せなかったのである。

翌日、事故死で処理された。殺人事件として捜査するには、それを匂わせる客観的事実が不足だと、総合的にみてそう判断が下されたのである。

「今聞いてみて、改めて思うことやけど、ほんまに事故かなぁ」親父さんがポツリ洩らした。「いずれにしろ、親御さんはたまらんやろうなぁ」憐憫(れんびん)の情がこもっていた。。

「けど…、殺人やったとしたらもっと気の毒やわ」元義母は涙ぐみ、小さくすすりあげた。

「もちろんそうやが、もし殺人ならせめても、犯人が捕まらんと…」娘ひとりの、しかも病死ですらこれほどな悲嘆なのにとの実感。ゆえに、他人事とも思えず、つい目頭を押さえたのだった。愛娘の命日だから感傷的になっているのでも、どうやらないらしい。

あえていえば、事故とは思えない親父なりの憶測と”勘”が働いているからだった。

 大切な人を失う辛さを知悉する矢野も、二人の会話を聞き、沈痛な表情になった。

しこうして、三人は押し黙ってしまった。

いかばかりの時間が流れただろうか。「事故を疑う理由やけど、ないことはないんや」徐に、親父さんが訥々(とつとつ)たる口調で自論を展開し始めた。「若い女性が、いつもより三十分近く遅うなった夜分に帰宅した。それも防犯カメラが設置されていないマンションにやで。用心しながら、一段一段階段を上るんとちゃうやろか。ことによると変な奴がおるかもしれん、そう、いつもより神経を研ぎ澄まし気ぃつけて上ったと、僕はそう思うで。というのも、近頃は何かと物騒や。実際いろいろと事件が起こってるさかいな。だとしたら、いくら階段が濡れてたとはいえ転落するかな、よほどに不注意な女性でもない限り」

 素人なれど一理あり!じつは矢野も、疑惑の人影を同様の推測のなかにみたのだった。

「それにしても若いのに何で正社員やなくパートやったんやろう。今日(きょう)()、確かに正社員は狭き門やけど」経済的にも大変やったやろうと、いずれにしろ気の毒に思ったのである。

 彼には、親父さんの想いが痛いほどにわかった。まして矢野一彦は、それを天職に!と誓ったデカだ。もし殺人ならば、犯人を野放しにすることなどできようはずがない。

とはいうものの、組織のなかで勝手な捜査はできない。それが現実なのだ。しかし…。

 やがて矢野は、いつもながらの親父さんの直感力にあらためて恐れ入ることとなる。


 

    第八章  難事件捜査に携わる矢野係


午後一時半過ぎ、矢野警部がデカ部屋に入ってきた、星野警視とともに。

じつは和田が退出した二時間後、星野の執務室に矢野が呼ばれ、ある指令を受けたのだった。府警本部に到着後すぐ部屋に来るようにとの、星野からのメールが入っていたのだ。

二人とも、否、矢野の色白で甘いマスクは特に緊張し、やや蒼ざめていた。村山本部長からの名指しといえる指令を受けたのだが、そのあまりの困難さが蒼白にさせたのだ。

 そんな三十分前。管理官は矢野に説明し始めたのだった、貧乏くじに近い指令の。

ある事件を、引き継ぐ形で捜査し解決するというものであった。「ついては、事件の内容を提示するから」と、まずイスに掛けさせた。「例によって、聞きながら調書のコピーに目を通してくれたまえ」星野も座ると概要を説明し、そのあと質疑応答となった。管理官は、調書を持たずに矢野の疑問に答えた。詳細にまで事件を(そら)んじていたのはさすがである。

最後に、新本部長より、多少のことは眼をつむるとのお墨付きをもらったとつけ加えた。

多少のこととは、経費や人員導入量の過多の認可を指すだけではなかった。捜査方針や手法の自主性をも含んでいるとのお墨付きであった。そのかわり、「何をおいても事件解決が最優先だ」と、星野は府警本部のトップに釘を刺されたのである。

談合の詰めとして、二人にとっては恒例の捜査方針を話し合ったのだった。

 その、星野刑事部捜査第一課管理官だが、百九十センチ近い上背でがっしりした体形、なおかつ太い眉と眉間のキズが睨みをきかす強面(こわもて)だ。だけでなく、切れ長の眼が強烈でしかも鋭い光をひとたび放てば、暴力団員や凶悪犯でさえ縮みあがってしまう、ほどである。ところで晩婚の彼だが、家に帰れば愛妻家で子煩悩、やなんて、誰が想像できるだろう。

働き盛りの四十四歳。準キャリア組の中では、出世の速さは記録的だ。上層部も彼の優秀さを認めている証左である。ただし彼は、出世にはさほど興味を持っていなかったが。

そんな星野が、今が潮時と携帯で呼びつけた。すると待機していたのか、一人の青年が入ってきた。敬礼しつつまずは名前をはきはきと、次に階級を名乗った。警部補だった。

ひとつの係に警部補が三人も在籍するのは異例中の異例やと、星野は笑った。

 その笑いの奥を矢野は読み取っていた。加えて目の前の警部補と自分との位置関係も。

それはキャリア組警部補の、彼を鍛え上げる教官役への信頼の笑みであった。和田も藍出も自分の下で鍛えたという矢野の秘かな自負を、さすがの星野は見抜いていたのだ。


「みんな集まってくれ」矢野が、五人の部下に声をかけた。「欠員の補充が決まった。入ってきたまえ」矢野はせっかちな質で、「えっ」とのリアクションをする間を皆に与えなかった。ただ、彼らはそんなやりかたに慣れていた。

警部補へと昇進した部下平野の突然の異動(同じ捜査一課の別の係で定年退職した警部補の補充要員として乞われた)で出来た欠員の補充に、ふた月近く掛かったのである。

一斉に、ドアに視線が注がれた。

「藤浪と申します」入ってくるなり敬礼した。階級では下の岡田・藤川・西岡の三人に対しても、年少者として礼を払ったのである。きびきびした口調で簡潔な自己紹介をし、「よろしくお願いします」で完結させた。

部下の三人は、キャリア組でなりたて警部補という存在を珍しい生き物でも観察するように、じっくりと検分の眼で見つめていた。なにせ、キャリア組の警部補と身近で接するのは初めてなのだ。むろん彼らとて無礼は承知の上なのだが、それでもつい。

ちなみに和田だけが、自己紹介を聞いておやっという顔をした。渡辺直人溺死を捜査した警部補と同姓で、しかもそう多くない苗字だからだ。訊けば、やはり同一人物であった。

「今から捜査会議を行う」星野の部屋で聞かされた、ある事件を解決するようにと府警トップから指令が下された件について、だった。迷宮入り寸前となったがゆえに、強行犯でも断トツに優秀な矢野係を最後の砦と考え指名してきた、そんな裏事情があったのである。

大阪府警察本部長が吐露した「星野管理官を総括に据えた少数精鋭の矢野係に対し、難事件の解決を期待している」を、そのまま皆に伝えたのだった。

まずは情報だが、地取りでかき集めたものが玉石混淆なれど溢れるくらいにある。

あとは、幾多の難事件を解決してきた星野・矢野の名コンビがそれらを快刀乱麻で選り分けるであろう。そのうえで、彼らとその部下たちならば、闇に閉ざされた真相に強烈な光を当てつつ事件を解決してくれるのではないか、新本部長に就任して半年余りの村山知憲は、二人の高名を知るにつけ期待し始めたのだった。

しかし矢野にとっては、そんな期待はありがたくもなければ嬉しくもなかった。むしろ迷惑なのだ。たしかに、凶悪事件を憎み、その解決のためにデカになったのだったが。

それにしてもと、重く圧しかかる期待には閉口する。が、かといって警察の威信をこれ以上崩壊させるわけにもいかない。石に噛りついてもとの決意が、尋常でない緊張を、矢野の心に隆起させたのだろうか。むろん緊張は、指名された以上は犯人を逃さない、――必ず法の裁きを受けさせたる――との強い覚悟の表れでもあった。

事件の概要を説明する矢野の緊張感が皆にも伝播していった。さもあらん、暗礁に乗り上げた困難な事件を引き継いだのである。事件の名称を聞いた刹那、誰もが嫌がる貧乏くじだと、口には出さないが一人残らず実感した。

その事件、和田が星野から渡された調書の中にもあったものだった。星野の部屋を訪ねたあとで思わずした予測は的中してしまった。ただし、矢野係にまさか数時間後襲来するとはさしもの彼も思惑が外れた。それにしてもと和田、因縁めいたものを感じ背中がゾクっとした。何かに憑かれでもしたかのように、自ら調べ始めた事件だったからだ。

 そしてこののち、さらに因縁と因果が連続して続くことになろうなどとはこのとき、さすがに知ること能わざるなり、であった。



第九章  不連続だけれど連続性のある各殺人事件等の捜査に矢野係着手


死体発見は2012年四月十五日日曜日午前十一時過ぎ。死亡推定時刻は前日午後十時から十一時。同日午後七時半過ぎから八時半過ぎに摂った食事の消化状況や死斑の固定化・死後硬直の弛緩具合・皮膚や粘膜の乾燥具合・体温低下等を総合的に判断した結果だった。

 そう、彼らが受け継いだ事件とは、エリート警部全裸絞殺事件、であった。

当時の本部長は息子の恥辱と事件の長期化に耐えられず(は、表向き)辞任引退し、捜査の最高責任者だった長野刑事部長は異動という名の左遷を余儀なくされた、その原因となった世間騒然のあの事件である。

「何でも構わんから忌憚のない意見を聞きたい。不思議に感じた点や疑問も大いに結構」調書を聞かせ終わった矢野は、とりあえず自分の見解は後まわしにすることに。「とにかく解決に向け、皆で頑張ろうやないか」やや陳腐ながら、思いのこもった決意表明であった。

 すでに構築された信頼関係のお蔭で、皆も奮い立ったのである。

 星野管理官は無言のまま、彼らの士気の高さに、満足げに笑顔で肯いていた。

 星野と矢野を除き、事件にいちばん詳しい和田が口火を切った。「犯人は、なぜ左腕をカッターナイフで刺したのでしょうか」星野と矢野の意を汲んで、年下の五人に考える体勢をとらせると、「暴れたり騒いだりしたから、それを阻止するため?やろか。けどそれはないと思う。すでに手足の自由は奪われており、猿ぐつわをされてた可能性も高いからや」上司二人になり代わったつもりで五人を見渡しながら続けた。「猿ぐつわはまだやったとしても、ナイフで脅せば騒ぐのを止めるやろうし。むしろ刺すことで、大声を出させてしまうしな。ところで、両隣や向かい側の部屋の宿泊客は叫び声等を聞いてなかった。ここはやはり、猿ぐつわされてたとみるべきや。そう考えれば、痛めることで恨みを晴らしたかった、としか考えられん。ならば犯人は、丸害と過去に何らかの関係があった人物となる」

「なるほど。しかも相当な恨みを持ってる、ですね」西岡が感心して言った。

「けど、あくまでも仮説や。感心するには、ちと早い。恨みを晴らすのが目的やったとしたら、小さな疑問が湧き起こるんや。何で一カ所だけやったんや?しかも傷は、たったの2センチ強といかにも浅い」むしろ縦長に切り裂いた方が、痛みは激しいに違いないと。

なのにそうはしなかった。和田の言のとおり小なりとはいえ不思議であり矛盾でもある。

「人ひとりの命を奪うための計画まで立てて実行したほどの恨みやったとしたら、もっと傷つけてやりたい」そう思うのが人情だと、すでに情報豊富な和田は一般論を述べた。

「たしかに。怨恨が動機なら、何カ所も刺して思い知らせるでしょうね。…僕ならそうします」普段は冷徹な藍出だが、真直ぐな性格のせいで今は熱情家に変身してしまった。というのも、フェミニストでもあったからだ。弱い女性を守れない奴は男として失格だとさえ思っている。そんな藍出だから、加害者の女性は被害者から以前、心に相当のキズを負わされていたに違いない、そう考え、思わず熱い思いを吐露してしまったのである。予断に左右されているという意味で、人間としても捜査官としてもまだ若いといえた。

「おいおい、穏やかやないな」言ってはみたものの、星野はこういう藍出を嫌いではない。

「済みません。僕としたことが、つい」素直に首をすくめた。

ここまでは同じ推測の矢野が、弟分の軽い失態にはあとでお灸をすえることにし、「それで…」と先を促した。ところで、さすがに推理が速い。詳細を知って幾分も経っていない。

「眠剤の血中濃度と半減時間から」鑑識から得た知識だった。「また証言からも、ステーキハウスで飲まされた可能性が大。となると二時間前後の経過となり、丸害はまだ眠っていたはずです。またそうでないと、警察官たるもの、易々と手足を縛らせなかったでしょう」SMプレーを端から否定しているのだ。そして、このあとの仮説を提示する前に、犯人になったつもりで状況を想像してみたと述べた。「眠剤による睡眠から覚醒させるために刺したのではないでしょうか。なぜ復讐されるのか、殺されるのかを全裸にした警部にどうしても理解させたかった。反省や後悔を促し、死へのさらなる恐怖を味わわせるために」

 矢野は肯きながらも、口を挟まなかった。睡眠薬の血中濃度等が微量だったのは被殺害時、すでに半減期を過ぎていたからだろう、にも同じ意見だった。

「つまり、刺したのは恨みを晴らすというより目を覚まさせるためで、絞殺によって怨念を晴らしたということですか」叔父の仮説を言い変えただけのバカ田君、感心しきりだ。

「入念な計画犯罪という点からも相当な恨みを懐いていた、となりますが。帳場は、そんな人物はいなかったと結論づけています」説得力のある仮説だと先輩に同調しながらも、藍出はその弱点を指摘した。批判ではなく、被害者に対する新たな角度からの徹底した身辺調査をしない限り該当者は出てこないと言いたいのだ。一理ある意見だった。

むろん逆の考え方もある。被害者の過去をもう一度洗い直すべきなのか、だ。なぜなら、帳場が徹底して洗い出したはずである。にもかかわらず、見落としていた可能性が残っているだろうか。仮にあったとして、その残り物に福があるというのか。あえて捜査し直すとなると、問題は捜査の方向性を定める着眼点であり、よほどの新たな切り口であろう。

なるほど難事件やな、そんな不具合な空気を察したのか、「こんなことを言ってはなんやが、捜査方針に偏りがあったと僕はみている」矢野が口を開いた。「が、今さらそんなことを言っても始まらん。ただいえるのは、だから見落としがあっても不思議やないということや。そこで、僕らは僕らなりの視点で探ってみようやないか」と、士気を鼓舞した。

 信頼する指揮官の言に、貧乏くじ的見方は雲散霧消していた。

 さらに和田は、猿ぐつわの目的について被害者の左腕を刺したときに大声を発させないためだったとの当然の見解をとった。それは、刑事部長が交代したのを機に、縮小した捜査本部が、実家に居を戻していた被害者の新妻に確認をとった結果、和田が推測したとおり警部の下着と確定したからだ。犯人が用意した新品ではなかったわけで、やはり変態プレー云々は見当違いだったとした。被害者は昏睡の間に下着を脱がされたうえ、口に押し込まれたとみて間違いないだろう。

つまり、娼婦を犯人像とした長野前刑事部長の憶測は邪推だったと断言した口で、   以下は自分の憶測だとの断りを入れ、「激痛で目覚めた被害者に、犯人は汚れたパンツを含ませていると告げることで恥辱を倍加させたんやないやろうか」とした。この手段といい、下半身を曝したまま放置しさらに恥態をネットのウェブサイトに掲示したことといい、被害者への恨みには、性が絡んでいるのではとの想像を披歴したのだった。

 ただこの憶測の欠点は、前の帳場が被害者の学生時代からの歴代女性を捜査した結果、動機を見つけられず一応のアリバイも皆にあり、性に絡んだ女性群から被疑者を見出せなかったことだ。だからといって、帳場に見落としがなかったと言い切れるわけではないが。

たとえば恨みを持つ女性が捜査線上外にいた、という可能性だ。あるいは、露見しなかった動機を持つ犯人が歴代女性のなかにじつはいた、等である。

「ところで」と岡田。「白のハンカチを顔に被せた意味を我々はどう考えたらいいのでしょうか」死に顔を何かで覆うという行為は情愛を持った犯人がしがちで、恥態をサイトに掲示した行為とは明らかに矛盾するといいたいのだ。和田が判断に窮した矛盾である。

「お前はどう考える?」叔父の和田が、逆に問うた。

「ええっ?」奇声をあげたものの、頭の上がらない叔父に、「質問したのはこっちや」ともいえず、錆かけた脳の歯車を軋ませながら動かしてみた。「そうですね、死相の醜さを曝すのは可哀そうだと…」と。バカ田の、錆の回った脳にはやはり油を注す必要がありそうだ。

「下半身を曝させているのにか」と、あえてわかりきった事実を浴びせた。それだけに、手厳しい一言となった。容赦しなかった叔父の心は、――矢野係のなかで、せめても半人前くらいの戦力にはなってほしい――だった。

 辛すぎるはバカ田君、心で舌打ちしながらもしょぼくれた犬のように黙るしかなかった。

ところで和田、次の発言は矢野警部にこそ聞いてほしかった。「白いハンカチは“男女の別離”を意味すると考える向きもあります。が、醜く歪んだ死相を犯人は単に見たくなかった。そのために予め用意していたのではないでしょうか。人の死相のなかでも窒息死はかなり醜穢(しゅうわい)ですしね。それからもう一つ。全裸を、特に下半身露出を強調する、そのための演出だったとも。事件解明にはあまり関係ないかもしれませんが」

 たしかに憶測程度には違いないが、間違ってはいないだろうと全員納得した。

「あのぉ、わからないことが…、いいでしょうか」今度は藤川が発言した。「なぜタオルで絞殺したんでしょう?カッターナイフで頸動脈を切るほうが事は早く済むでしょうに」

「それやと体半分に相当の返り血を浴びてしまうぞ」藍出がすぐさま、欠陥を指摘した

「ですが、全裸か下着姿で切れば、浴びた返り血をシャワーで洗い流せますし」

「腕を刺した程度の血痕と違って、身体ごと洗い流さなあかん。それでは余分に時間を使ってしまう。腕を刺した程度なら洗面所で済む。犯罪者心理からすると、犯行後は少しでも早く現場から離れたい、や。計画犯罪ならば、よけい、そうするやろ」藍出も手厳しい。

引き継ぐように、「憶測やが、少しでも時間を掛けて苦しませたかったからや。絶命までに数分は掛かるし、窒息死というやつは相当苦しいらしい」和田が答えた。有意義に過ごした午前中のおかげで、思料する時間があったからだ。「ついでやが藤川、タオルを凶器にしたのは細い紐よりも掴みやすいぶん、非力な女性でも力いっぱい絞められるからや」

しかし、絞殺を殺害手段として選択したもう一つ理由が窒息死にあったことまでは、和田にも矢野にもわからなかった。それを知るための情報をまだ誰も得ていなかったからだ。

「ところで和田さん」藍出はさらに先輩の見解を聞きたかった。「犯人はなぜ、眠剤を使用したのでしょう。眠っていては性交渉など…」藍出らしからぬ愚問に思えた。

部下たちのバカな質問に少し苛立ちを覚えた和田は最後まで言わせず、「どうやら帳場の捜査方針を引きずってるみたいやな」と苦言を呈した。「暗礁に乗り上げたんは、前提が間違おてたからや。ズバリ言うわ、抵抗させんため…」に続けて、当たり前のことを聞くなと口から出かけた直後にピーンと、藍出が発した質問の意図を察した。“犯行をスムーズに済ますためだった”、などは承知したうえでの問題提起だったのだ。

前刑事部長だった長野は、なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか、不思議だと暗に言いたいのである。眠っていた被害者と性交渉できたはずなく、さらにそのあとで金銭トラブルが発生し殺害した、だから犯人像を娼婦に絞った、というのも解せないと、そう。

 星野は二人のやり取りを聞いてもはや隠すべきではないと、事実を明かすことにした。

長野は小我の野望に自身呑み込まれ、事実直視を放擲してしまった。否、自分に都合のいい犯人像を作り出し、遺留物や証拠のうち好都合なものだけを採用し、犯人像に合致する被疑者を犯人に仕立て上げようと目論んだ。さらには出世のためなら冤罪をも厭わない、そんな驕慢に支配されていたのでは、とも述べた。ために、目くらます欲望の狂気が(たた)り、迷宮入り寸前だと言った。こうした秘匿なき披歴は、矢野係を信頼している証左である。

「ちょっといいですか」岡田が、おそるおそる訊いた。「性交渉がなかったのに、丸害はどうして射精してたんです。まさか夢精する年でもないでしょうに」

矢野は、こんなバカ田でも経験を積ませて一級品のデカにする自信があった。それで、和田の甥という関係とは関わりなく、自分の係に配属されるよう上層部に頼んだのだった。

「絞殺などの際、失禁や脱糞することがある、くらいは知ってるよな、もう四年なのに、まるで新米デカさん」趨勢で教育係になった和田が、呆れかえりながらも説明した。

 先輩たちの丁々発止を、現矢野係配属順位では五番目となった西岡が黙って聞いていた。

「はい。窒息死によく見受けられる現象です」苦手でしかない叔父が解説を始めたので、より神妙に耳を傾けた。

「それと同じような現象や。解剖所見にその点も記してあるから、会議のあとで調書と併せて目ぇ通しとき」こういう質問は向上心から発したものだから、稚拙だがまだ許せた。

「もうひとついいですか」矢野が発した、どんな質問でも構わないの言葉に甘えて岡田は続けた。「ホテルマンによると、帽子の女は初めての客でしたよね」

「フロントクラークらの証言によればな」

「だとしたら、ロープをベッドの足にくくれるとどうして知っていたんでしょうか?足のないベッドもけっこうありますし…」月一で風俗嬢と行く各ラブホのベッドを思い浮かべながらの質問だった。

藤川が即答した。「それはきっと、インターネットで調べたか何かで。あるいはパンフレットで、かもしれません」

「『きっと』や『かもしれません』はアカン。確かでないと前には進めへん、真相に辿りつけんからな」不確実の上にどんな立派な論理を重ねても、所詮は砂上の楼閣だと矢野は自身の経験則としての捜査の鉄則を言った。

矢野の捜査における指針の一つは「後悔することがあっては絶対にならない」であった。

詳説すれば、犯人を逃がさないは目標でしかなく、冤罪を生まないことこそが絶対条件だ、である。そのために、不確実の上に論を積み上げることをさせない。憶測をそのままに捜査を無理に押し進め、予断から被疑者を想定し捜査することを禁じたのだ。長野とは真逆であることはいうまでもない。「被疑者に不都合な情報だけを選別し、有利なものは無視あるいは排斥して捜査を進める。その結果が冤罪を生む」過去幾多の失敗を繰り返させないためだ。無実の人を犯罪者にしない、これが矢野の捜査訓であり、口癖でもあった。

「早速やが、例のホテルのベッドの足がどんな具合か、ネットで調べてみてくれ」

 操作する藤川の背中越しに、全員がディスプレーに集中した。

しかしホームページで紹介されている、犯行現場と同じ造りのスイートルームの写真からでは、ベッドの足の状況まではわからなかった。

 背後から手を伸ばした藍出がホームページのトップページに画面を戻すと、そこに掲載されたXXホテルの電話番号をプッシュした。

藍出がフロントから聞きだした情報は以下のとおりだった。①ホームページに掲載したスイートルームの写真以外のものをネットで見ることはできない。②ホームページに掲載された写真は少なくともここ一年間は変更されていない。③旅行代理店に置いてあるホテル案内のパンフレットの写真でも、ベッドの足の状況までは確認できない。④ただし、グループホテルの広報の一環として、パンフレットコーナーをロビーに設置している。

「そのパンフならもう少し詳しいらしく、あるいはということで今調べてもらっています」

 藍出が説明し終わるのを待っていたかのように、ホテルマンからの入電だった。

「このパンフレットの写真ですと、ベッドの頭側と足側両方の足の部分が写っております」

 今度は、電話機のスピーカーから流れる声に、皆嬉しそうに肯いた。

藍出はホテルマンに礼を述べ電話を切ったあと、「先に、ファックスしてもらったので、その写真を見てください。たしかに手足をくくることは可能です。ということは、帽子の女が事前に、しかも目立たない服装でホテルにやって来て、ロビーに置いてあったパンフレットを予め持っていった、で間違いないしょう」こう呟き、それから唸った、当惑げに。

 表情の理由がわかった西岡は、「ロビーに置いてあればそのままいつ来ても持ち去れるわけだし、クラークに(めん)を曝すこともない。特別奇妙な行為でもないから目撃者も出ないでしょう」人相の特定は困難だろうとの、藍出の無念さを代弁した形となった。

 何事につけ前向きな藤浪と違い、藍出はどちらかというとネガティブだ。つい、最悪のケースを想像してしまう。「頼みの綱は防犯カメラだけですね」祈るように言うと、藍出はリダイヤルした。先のフロントクラークに、防犯カメラがパンフレットコーナーに向けて捉えているかを見てもらった。祈りが弱かったわけではないが、残念な結果に終わった。

切ろうとする藍出を制し、フロントクラークにしばらく待っていてくださいとお願いした矢野。「そこを捉えてないとすると、ホテルへ事前に出入りした犯人を、映像から見つけるしかないやろ。その日にちやが、事件の一週間前の前後まずは二日、いや、おそらく後ということはないな」との推理の一部を部下に披露した。同時に、事前に出入りした時間の間隔だが、長居などの目立つことはせず、せいぜい十数分程度と考え「ところで随分前なんですが、そちらのホテルではディスク残されていますか」と、今度は電話口に向けて。

そのとき岡田は藍出に対し、「何で一週間前に絞るんです?」と小声で。こいつは相変わらず頭を使わない。

「ステーキハウスの予約は一週間前やった。殺害の計画が練り上がり帽子などの購入もほぼ完了したから予約を入れたと考えるべきやろ。なら、ホテルをどこにするかも決めてたはずや。少なくとも当たりくらいつけていないと計画が破綻しかねんからな」

 このやりとりの間に、矢野がクラークから聞いた答えもバカ田の能力同様、残念なものだった。ホテルの規定で、保存は三カ月と決まっていたからである。

「なるほど、噂にたがわずです。さすがに矢野係は皆さん鋭いですね」藤浪はお世辞ではなく、本心で感心していた。――岡田巡査長は別ですが――との本音を呑みこみつつ。

「今ですね、念のために他のホテルのも調べてみたんです。やはりと言うべきか、キタ(大阪市北区)にあるどこのシティホテルのホームページもツインの寝室の写真に、ベッドの足まで写っているのはありませんでした」移動した藤川は別のパソコンの前に座っていた。犯人がどこのホテルにするかの決め手をツインのベッドの足と想定し調べていたのである。ツイン以外、例えばダブルベッドだと、被害者の手足をベッドの足に縛りつけるのに距離があり過ぎて手を焼く。シングルの部屋だと、男を連れ込むには不自然だし、ホテルの従業員に変に思われて、記憶されやすくなる。どうせチェックアウトしないなら、どんなに料金が高くても構わないはずだ。そう考え、キタのシティホテルのホームページを検索してみたのだった。…貧乏人の発想と嗤うなかれ、これぞ庶民感覚なのだ。

 しかしこのアプローチの仕方では、残念ながら袋小路に迷い込んでしまった、そう思った刹那、岡田が、バカ田ならではといおうか、らしいことを口にした。

「ネットで調べるくらいなら大した手間ではないですが。梅田界隈のシティホテルちゅうてもかなりありますよね」と容喙(ようかい)したのである。

「何が言いたいんや」矢野は即座にピ~ンと感じとった。岡田のピント外れのさしで口がラッキーパンチになるのではないか。岡田の快刀?(かい)刀?(かい)刀?いや、(かい)刀がときに乱麻を断つの譬えで、突拍子の快挙を、今まで何度かみせてきたからだ。

刑事テレビドラマ“古畑任三郎”における、今泉巡査の役どころである。

「手間の話です。ホテルをいちいち訪れてはパンフレットを持ち帰る。…なんてけっこう大変やろうなと」無精者の岡田らしい考え方だった。もっと楽な方法があれば、俺ならそれでいくけどな、ただそれだけの発言で、意見というより感想に近かったのだが、

「今、なんて言うた」矢野も同じで手間の掛かる話だと藍出たちのやり取りを聞いているときふと思った。が、計画犯罪のためなら厭うまいにとの考えに落ち着いた。しかしながら、「十軒以上のホテルでそんなこと繰り返してるところを、知人に見られるかもしれん、いやその可能性は極めて少ないんやが、犯罪者心理としては目撃者を恐れたやろうな」よって、しなかったんとちゃうやろか、岡田に触発され、そう考えてみたのだ。頬ずりしつつ(むろんする気はないが)岡田を褒めてやりたくなった。が、賛辞はあとのお楽しみにということで、――たまにこういう《怪我の功名》があるから、こいつを手放せんのや――と、暗夜に光明を見いだした気持ちになった。野球で譬えると、手も足も出ない敵エースの決め球をホームランする意外性のバッターのようで、ときに貴重な戦力となるからだ。

「だとすると、情報収集はどうやったのでしょう」やっぱ、考えない岡田なのだ。

 しかしこいつが下手に深慮する能力を身につけた場合、《瓢箪から駒》的天然力が消滅するかもしれないと、矢野は心配になる。今のままがいいのかもしれないと諦め半分思った。

「この手ならどうでしょう。つまり、パンフを自宅に郵送してもらう、これだと」目撃されることも、顔が印象に残ることもないですからと藤浪。

「それは…、う~ん。だって、例の女は大阪近郊に住んでる可能性が高いんでしょう。関西弁のイントネーションだったって」―もちろん、関西の人間だって日本中いたるところに移り住んでますが―とは、あえて藤川は言わなかった。「なのに郵送を依頼すれば、何で?と変に思われませんか。だって高い料金なんか払わって泊まらずとも、家に帰れるわけでしょう。タクシーって手もあるし。なのになんで予約をいれるんやって、そう、ホテル側の印象に残るでしょう」藤川は、藤浪に敵愾心でも燃やしているのか、妙に突っかかった。

「いや、その心配ならないな。新婚の友だちが、たとえば東京から遊びに来るから、ホテルを予約したいんやでとでも言えば、何の不審も懐かれんやろ。印象にも残りにくいんとちゃうやろか」矢野も藤浪と同じ手を考えついていたため、藤川のを言下に否定できた。

「なるほど。たしかにそれだと変な印象はないですね」西岡が皆の意見を代表した。

「今度は僕がホテルに電話しよう」藤川と藤浪への西岡らしい気の遣いよう、ならびに藤川の負けん気を良しとした矢野は、「お忙しいところ恐縮ですが、事件発生の十日ほど前にパンフレットを郵送していないか、古い事案ですがお調べ戴きたい」と丁寧にお願いした。

 担当の係に代わってくれた。

 今か今かと電話のスピーカーから流れくる声に、期待と不安相半ばで皆耳を澄ました。否。一年半以上前の、パンフ発送依頼に関する情報だ。しかもその依頼者が客になると決まってはいない。だから誰も口には出さないがそんな、古くて価値の微小な情報をホテルが残しておく理由などないとネガティブになり、まるで宝くじに一等を求めるような淡く可能性のあまりに希薄な事態に対し、それでもなお「叶ってくれ!」と祈ったのである。

「代わりました」担当の部署と名前を名乗ると、「お尋ねの件ですが」

 皆、それでも固唾を飲んで返事の一言一言、それこそ聞き逃すまいと息を殺し耳をロジャー・ラビット(ウサギが主人公の米国製アニメ)のように伸ばした。

「七件ございます。読み上げるのもなんでしょうから、ファックスでお送りしましょうか」

 お願いしますと一応頼んだあと、矢野は、それが必要としている情報なのかを念のために確かめるべく尋ねた。ひとつは時期であり、もう一つは依頼者からなのか、だった。

 時期も、先方からのパンフレット郵送依頼という点でも合致していた。

「おかしなことをお聞きします。どうして、そんな依頼を今も保存しておられるのですか」

「ご愛顧を賜ったお客様は当然宝石のように大切ですが、これからのお方にもお客様になって戴けるよう、当ホテルは最大の御もてなしを心掛けております」と、一警察官に対する宣伝も兼ねての答えが返ってきた。つまり、接触があった人間を客へと誘引するダイレクトメールを送るため、個人情報は大事に保存しているということなのだ。

矢野たちが優秀とはいえ、所詮は公務員である。乱立する梅田界隈のホテル競争。どれほどに熾烈な顧客獲得を繰り広げているか、厳しい事実を想定できなかっただけである。

だがデカとして有能な彼ら(バカ田もときに)。当然、犯人は他のホテルにもパンフを要求したと考えた。藤川は指示を受ける前に、各シティホテルの連絡先を画面に出していた。

十数軒を手分けし、対象となったホテルに依頼内容を告げた。それから二十数分後、

すでに送られてきていたXXホテルからの受信用紙の上に、新たに印刷された用紙が重なり始めた。その紙に六人が貪るように飛びついた。

全受信完了直後、各自が受け持ったホテルからの送信内容を、声を出して照合しだした。

矢野が秘かに想定したとおり、同じ住所へ郵送したことを示す記入がいくつかあった。

パンフ郵送を依頼したほとんどは、アトランダムに数軒をピックアップしホテル選択の資料としたのではないか。数軒のみピックアップした人物は、だからこの際除外した。

 はたして、各人が読み上げたなかに、全てのホテルに依頼した人物の名前があった。「おお」刹那、異口同音の歓喜のどよめきで部屋が満ちた。難事件が、解決するのではとの期待と、府警察本部として雪辱ができるのではないかとの感慨がこもったざわめきであった。


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