第五章
第五章 不連続な事件と関わる和田
可能な限りの情報を得た和田は、書類を見ながら事件等を頭の中で整理し始めた。
まずは、下半身をも曝け出し放置された死体。異状はしかし、それだけではなかった。先述の、若きキャリア警部全裸絞殺体事件のことだ。左腕に一か所の刺創。解剖所見には、凶器は幅1ミリメートル強で片刃の薄く鋭利な刃物とある。カッターナイフとみて間違いないだろう。挿入の深さは最大値22ミリだった。これも剖検によるのだが、傷周辺に強い皮下出血が見られた。生体反応というやつで、生前につけられた刺創と断定している。
被害者が自ら刺したものでないことははっきりしていた。ロープに飛び散った血痕が付着しており、四肢緊縛以後の刺傷だとわかるからだ。
その刺創の部位、数、大きさから犯人に刺殺の意図がなかったことは明らかだ。この程度では血友病でない限り、失血死には至らない。事実、出血量自体たいしたことなかった。そして首には、凶器となったタオルが巻かれたまま残されていた。ホテルの備品であった。
ならば、左腕を刺した犯人の目的は何だったのか。生前の被害者をいたぶり苦しめるためだったのか?それにしては一か所だけである、少なすぎやしまいか。それでも仮に苦痛を与えるためだったとして、では果たしてただそれだけだったのか?和田には、犯人が何か別の意図を有していたように思えた。しかし今はそれに対し思索する時ではないとした。
調書を読み切り全体像を掌握しておいてもらいたいと、星野から先刻依頼されたからだ。ということは明日にでも、矢野係に難事件解決要請というお鉢が回ってくるに違いない。
そう予測しつつ先に進んだ。顔にはハンカチを掛けられていた。同期の警部補にその事実を教えられたとき違和感をもった。犯人が近親者の場合、死者の顔を見るに忍びない等の後悔や死者に対する憐憫、見苦しい死相を曝すのは可哀そうなどの同情で顔を覆うのだ。
しかし明らかにこの犯人の意図は違う。恥態を放置しただけでなく、サイトで醜態を公開したと考えられるからだ。犯人の二つの行動は、明らかに矛盾している。
三十三年生デカは、ついそう考えてしまう。ではなぜハンカチを被せたままにしたのか。犯人の意図は?この謎が気になって仕方がない。一方、矛盾するが犯人の単なる気まぐれとも、経験から思えるのだ。いくら計画犯行でも、重大犯罪を起こしウロがきた人間というやつは不可思議な行動をとってしまいがちである。しかもそれを覚えてもいない。逮捕後に不可解行動の理由を問うと首をひねられた、なんてことが何度かあったからだ。
気になりながらも読み進んだ。死体発見は犯行の翌日だったわけだが、発見が遅れたのは部屋のドア外側のノブに、“起こさないで”の札が掛けられていたからだ。さらに、「主人が、執筆に集中させろと申しております。それで、外からの電話も従業員さんの入室もご遠慮ください」との電話が、犯行直後とみられる四月十四日土曜日午後十一時に部屋からフロントに入っていた。ただし、受送話器部分から犯人の耳紋は出たが、DNAは出なかった。ハンカチか何かを被せていたから、唾液が残らなかったのだろう。
さて、死体発見当日となる翌日曜日の午前十一時少し前。外部からの電話でシーツ交換の依頼があった、それでハウスキーピングが入室し、廊下は言うに及ばず、隣の部屋にまで響く叫喚「ぎゃ…~」を発したのだった。で、110番通報とあいなった次第である。
死体発見から三時間後、司法解剖は完了した。日曜日だというのに異例の早さだった。身内意識というやつで死体になっても優遇?されたからか。執刀したのはO大学病院の法医学教室の准教授であった。死亡推定時刻は土曜日の午後十時から十一時までの一時間。
ちなみに、司法解剖より二時間半近く前に司法警察官による検視が行われていた。
結果は以下の通り。発現した死体硬直がピークにあった点から死後十二時間プラスマイナス一時間、死体体温(直腸内温度30℃)から死後十二時間プラスマイナス最大二時間、すでにかなり進んでいる[目の]角膜混濁具合から死後十時間以上経過、極点に達しつつある死斑の固定情況(血痕点在の位置に鑑み、死体の移動や体位の変更は考えにくい)から死後十二時間前後経過、死体の乾燥具合(眼瞼や口唇を覆っていたハンカチが通常の乾燥を少々遅らせたため通常より誤差が出やすい)と、刺傷の乾燥具合から死後十二時間プラスマイナス一・二時間等であった。
剖検と検視所見はおおよそ合致していたのである。また、死斑がより強く出ている点、眼瞼裏にうっ血があった点、射精していたこと等も両者はそれぞれの立場で示していた。
検視に当たった警部は、絞殺による窒息死として帳場を設けるよう進言したのである。
剖検でも同様、死因は絞殺による窒息だった。その解剖所見の概略内容。
1 首にはスポーツタオルが巻かれていたが、索条(頚部圧迫用の凶器)痕をほとんど確認できなかったことから生地の柔らかい同タオルで絞めたとした 2 絞殺だが舌骨や甲状軟骨に骨折はみられず。柔らかいタオル等が索条の場合、または被害者が若い場合には骨折しないことも充分にありうる現象だ 3 左腕の刺創…深さ、幅、生体反応あり等既述 4 死体所見…死後硬直や死斑等の状況、眼瞼裏のうっ血点も確認。既述した検視と同様の内容 5 死亡推定時刻…既述 6 胃の内容物…未消化の牛肉やポテト・人参等のこなれ具合から食後2~3時間(睡眠薬の薬効で胃の活動が鈍っていたとも考えられる) 7 睡眠薬が消化器からはごく微量、血液からも少量検出された。強い効果のゾルピデム(酒石酸ゾルピデム、商品名マイスリー)で、睡眠導入剤としては即効性短期作用型に入る。経口投与により、胃腸にて速やかに消化・吸収される性質。微量の検出だったのはその性質のためである。血漿中濃度が低かったのは、ゾルピデムの消失半減期が2.1から2.3時間であるため、経口後比較的速く減少してしまったからだ。ただし、服用時間が死亡推定時刻のどれくらい前か、その正確な時間は不明 8 その他の薬物は検出されず 9 血中アルコール濃度は0.15%。個人差はあるが酩酊初期と判断される。千鳥足になったり嘔吐の症状を出現させる人もいる。【このあとも捜査資料を読み進んだ和田は、ホテルマンへの事情聴取からもわかったこととして、被害者は介護されていた旨を知る。血中アルコール濃度から考え、睡眠導入剤がすでに影響していた可能性は高いと判断した】 10 精液以外の体液として唾液やバルトリン腺液等の女性器分泌液はペニスから検出されず【ゆえに性交渉がなかった、とは断定できない。コンドームを付けた状態でオーラル行為を終了させた可能性もあり、射精後に何らかの理由によりコンドームを持ち去ったとも考えられるからだ。遺留品にコンドームが含まれていないのは、その可能性もあるということ。持ち去った場合の理由だが、コンドーム表面に付着したDNAを検出できる唾液・バルトリン腺液を残したくなかったとも】 11 ただし、男性絞殺体においては、射精がみられることもある。比較すると若い男性に多く所見。
性交渉の有無については、どちらの可能性もあるということだ。
剖検を読んだ捜査員たちは当然、睡眠導入剤の入手経路もあたった。
被害者側から追った捜査員は楽だった。風邪以外での診察を受けていなかったからだ。当然、処方されていない。新妻も、夫が睡眠導入剤を服用した事実はなかったと証言した。
残るは犯人側からのアプローチだ。こちらはかなりの人員を当てた。だが、マイスリーは一般的であるため、処方した医師、あるいは薬局の特定には到らなかったのである。
ところで捜査の常道である訊きこみだが、捜査会議という一応の手続きを経て所轄の役回りとなった。“パシリ”扱いという、殺人や誘拐・人質立て籠もりなどの凶悪な事件で警視庁や道府県警本部が出張ってきたときにみられる、ありふれた、いつもの光景だった。
…各捜査員の動きを追うために、それでは時間をシフトするとしよう、まずは死体発見日の夕刻にだ。
履き古され、もはやくたびれたとしか表現できない革靴が発する弾まない足音を大理石仕様のロビーに鈍く響かせて、定年間近のデカが刑事になりたての新米を伴ってホテルのフロントに向かった。満を持して臨んでいることを、男の背中が雄弁に物語っている。それにしても、鬼瓦より迫力があり時代劇の悪役がうってつけのご面相のベテランは新米に、「お前は一言も口出しすな」と、タバコの害毒によるのか黒ずんだ唇に、おのれの節くれだった人差し指を真っ直ぐに立てて当てた。はてさて、威勢だけが取り柄のチンピラもビビる眼がすでに威嚇していたのだから、人差し指によるパフォーマンスは不要だったろう。
暫時ののち、死亡推定時刻に勤務していたフロントクラークと、ホテルが提供した部屋で挨拶もそこそこに机を挟んで座った。その間に、これも提供してくれた宿泊台帳のコピーに一瞥をくれた。見ておきたいと、事前に要望を伝えていたからだ。
早速、矢継ぎ早の質問が始まったのである。「チェックインのとき、女の顔、見ましたよね」デカはまず肝心の質問を投げかけた。迫力ある顔に似合わず、声は意外にソフトだった。「人物の特定に役立つような特徴とか、何でもいいです。覚えておいでではないですか」
問われて、「う~ん」フロントマンは思い出そうとしばし瞑目した。が、申し訳なさそうに首を横に振ると、「大きなつばの帽子に黒いサングラスをかけていらっしゃいました」客を安心させる、職歴十五年の誠実が宿った眼で刑事を見つめつつ、そう答えたのだった。
服装について、捜査会議にて防犯カメラ検索班からすでに得てはいた。それでも尋ねたのは、フロントではサングラスをはずしていたかもしれないと淡く期待したからだった。
――ああ、やっぱり――人相を伏せるために違いないが、たしかに、お偉方が疑ってる娼婦のいでたちと云えんでもない。けど、眠剤を飲ませて殺したんでは、これからの商売、あがったりや_このデカも、SM嬢の犯行とはどうしても思えない一人だった。
そんな憶測など、フロントマンは知る由もない。で、続けた。「そんなわけで顔の下半分しか見えませんでした」三十代後半の、正直者と誰もが感じる面差しがさらに、「髪の色も、帽子に全て収まっていたので…」役立っていないことを自責するようにポツリ告げた。
一方、デカは、協力的なホテルにも目の前のホテルマンに対してもありがたいと思った。
ただ地取りは芳しくなかった。見えていた部分で、大きなホクロやキズ・そばかす・その他目を引くような特徴はなかったというのが、デカが知りたがっている答えの、残念な内容であった。「見えた部分でいうと、鼻筋は通り唇は薄めで、それに色の白い人だなぁと」続けて、美人に見えたと言おうとしたが止めた。好み等の個人的意見でしかないと思ったからだ。それにしても接客業が身に沁みついているのか、観察眼はなかなかのものだった。
人相を隠していたのだから仕方ないが、残念なのは情報が、捜査を大きく前進させるほどではなく、心許ないが、似顔絵作りになら少しは役立つか、くらいだったことだ。
それでもこのあと、作製した似顔絵や同映像をテレビのニュースや新聞で公開した。
だがやはり、犯人に繋がる有力な情報は得られなかった。なかには、協力的な情報も含まれていたが、面白半分やかなりいい加減なものが大半であった。協力的な情報も、時間帯や場所、服装等が違っており、捜査陣は、結果的には踊らされた格好となったのである。
一方、帳場が秘かに期待した防犯カメラの映像解析からわかったこと、つまるところ、おおよその年齢と身長と体重及び推定体型、服装だけであった。
具体的には、二十代半ばから三十代前半、161cmプラスマイナス1㎝、50kgプラスマイナス3kg…これだけでは、人物の特定は困難ということだ。
ただ云えることは、動画撮影用カメラ・帽子・サングラスと睡眠導入剤・カッターナイフなどを用意している点、ありふれた遺留品等、どうみても計画犯行である。
よって当夜の服装だが、直後に着替えもし処分もしたであろう。さらには、以前から周囲に印象づけている服装で犯行に及ぶバカもいない。つまり、服装の線から捜査しても無駄足になるということだ。これは和田自身の経験的推測である。そして正しかった。
「ところで変な質問をしますが、本当に女性でしたか?」
訊かれた方は怪訝の眉根となった。
「おネエや女装趣味など、近頃はいろんな人がいて、それで一応」差別に繋がりかねないので少し言いにくそうに。ご面相からは、デリカシーの持ち主だと想像しにくいのだが。
「なるほど。ですが声も肩幅もそう、指や首の具合も、どう見ても女性でした」断言した。
それに対し、念のための質問でしかなかったので、鬼瓦の表情に変化はなかった。
一方、新米はというと、ただただメモをとるのに必死だった。
「あ、思い出しました、目の細かいレース地の白い手袋をされていました。覚えてはいたのですが、…こんなことには慣れていませんので、つい失念してしまいました」警察官からの訊きこみを受けるなど産まれて初めてのことであり、無理もなかった。
ところで手袋だが、指紋を残さないためだろう。ならば宿泊台帳、そして部屋からも指紋は出てこないに違いない。鬼瓦顔はそう思った。(事実、出なかったことは既述した)
「何度か泊まったことのある客だといいのですが」指紋を検出できず人相もわからない今回の事件に対し、長引きそうだと覚悟しながら問うた、不発に終わるだろうと予想しつつ。
「私の知る限り、初めてのお客様だったのではないかと」
「やはり」だが落胆はしなかった。「では、男性の方はどうでしたか?」
「来られた時、お顔が見える状態ではなかったので」
なぜか?とは、デカはこのときは保留し、府警本部の人事課が保存していた、被害者が生きていた時の制服姿の写真を見せた。
手にとって見たあと首を傾げながら、「こちらもやはり、初めてだと思います」と言った。
「では、防犯カメラの映像とこの写真、他の方にも見てもらえるよう、あなたからおっしゃっていただけますか。映像の方は、あとで僕が用意しておきますから」このまま手ぶらで引き下がるなんてできない。定年を来年に控えている割には、熱心なデカである。
フロントクラークは快く引き受けたのだった。ところで後日談だが、全てのフロントクラーク・ベルボーイ・ドアマンに見せたにもかかわらず、男女ともに見たことがないと言っていたと。ただし、ひとつだけ新たな情報を得た。別のフロントクラークからだった。
捜査の役に立つかどうかと賢しら口の前置きをし、「電話でのご予約のときの、“スイートルーム”の発音が米国語ふうでした」そう教えてくれたのだ。といって、ハ―フかクウォーター、またはアメリカ留学経験者等々だからとするのは早計だ。一言の発音でそんな憶測をするのは推理物の世界の話であって、実際の捜査ではあまり採用しない。捜査は基本的に、確実性に重きを置いているからだ。目撃証言よりも客観的な防犯カメラの映像を重要視するように、物証による科学捜査が主流なのである。
ここで鬼瓦は、本意でない質問をした。それは…、見当違いだと現場の人間としては思っているのだが、上の意向を無視はできないからだった。「失礼かとは存じますが、こちらのホテルに」と、ここで言葉を切ると首をゆっくり大きく回しあらためて内装に目をやった。さすが、市内北区でも一等地に屹立する高級ホテルだ、客室でもないのに絨毯も机も上物に見えた。退職後、こんなホテルに妻を連れてきて長年の労に報いたいと思いながら、「いわゆる娼婦は出入りしますか?」客の耳を心配しないで済むと安心しつつ尋ねたのだ。
「そんな商売の人は」大胆なミニスカートに胸元の大きくあいた服装とけばけばしい化粧を想像しながら「気が引けるのか、見かけたことはありません」首を横に振った。「ですが、普通の方と同じような服装や化粧でもって」ホテルの顔といわれるフロントクラークだけに、娼婦についての表現も婉曲的だった。「そのままお部屋の方に行かれた場合、私どもといたしましては、…把握しかねます。この点、ベルボーイやドアマンも同じだろうと。それにですね」と、ホテル利用者の目的だが、宿泊以外にも多種多様であると説明した。
「ゴージャスな食事やラウンジで夜景を楽しむ等々。なるほど」肯くと、「では質問を変えます。その女性の言葉はどうでした?関西なまりだったとか、です」
「言葉少なだったので…、それでもニュアンス的には関西の方ではなかったかと」
続いてさきほど引っ掛かった点の質問をした。「男性の顔が見える状態ではなかったとおっしゃいましたが、それはどうしてですか?」所轄とはいえ、有力情報を引き出し、デカとして捜査会議で良いところを見せたいと。これは人情である。
被害者は、チェックインした女性客とタクシー運転手に両肩を担がれて運び込まれたとのこと。「『医者をお呼びしましょうか?』との申し出には、『それには及びません。酔いと睡魔のせいですから、部屋で寝かせれば明朝には元気になるでしょう』とのご返答でした」
返事の間もデカの習性で相手の眼を見続けていたが、おもむろに宿泊台帳のコピーに視線を移し「チェックインは女性の名前で17時半とありますが、飛込みですか」と問うた。
フロントクラークはコピーを一瞥すると、「いえ、ご予約の欄に“T”とございますので、お電話だったのではないかと」即答した。
「チェックインのとき、被害者は?」ネットで予約しなかったのは、足がつくからだと。
「いえ、お一人でした」
「女性が先にひとりで、ですか…」殺害すると狙いを定めた警部用の、誰にも見られない現場確保のためになした行動。やはりそうだったのだ。「それで荷物は?」
「たしか…、ハンドバッグとキャリーバッグでした」どちらも、映像解析から量産品だと知ることになる。
その中にロープやガムテープ・カッターナイフ等々を忍ばせていたのだろう。
「帰宿時の持ち物は?」特に意味はないが捜査会議で突っ込まれたときのために、被害者を伴った時間帯の手荷物を確認しておきたかったのだ。
「ハンドバッグのみでした」
被害者の様子から、予め液体状にした睡眠薬など外で要るものはハンドバッグに入れておいたと推測した。
「で、支払いを済ませましたか」可能性はゼロに近いが確認しないわけにはいかなかった。万が一クレジットカードでならば――そんなドジは踏んでないやろうけど――身分がわかる。あるいは現金払いだったとして、その紙幣が残されていれば指紋を検出できるのではないかと、淡い期待を懐いての質問だった。犯行日以前のことだが、財布に紙幣を入れたときは手袋をしていなかった可能性が高く、そのときに指紋を付けたとの期待であった。
「いえ、未払いです」初めて不愉快そうな表情で短く答えた。受けた損害を考えると当然だ。部屋は当分の間使えないし、血痕付着の絨毯なども新調しなければならないからだ。
このベテラン、ちょっぴり残念そうな表情のまま、次の問いを発した。どうやらわかりやすい性格のようだ。「22時から23時にかけて、両隣や真下の部屋などから、フロントに苦情は来ませんでしたか?もめごととか床に何かが落ちた時に発する大きな音や声の」
「いえ」明確に否定した。「こう申し上げてはなんですが、犯行があった22階という階層だと、まずそういったトラブル類はありません」一泊約十万円を支払う階層の人間に、他者といらぬ争いごとをする者はいない、そう言いたかったのだ。「あれば記憶に残ります」
品格のない輩がこのホテルに泊まるとしたら暴力団の幹部クラスだろう。だが立場上、チンピラ然の振舞いでは恰好がワルい。だから素人相手にもめ事を起こすようなマネはまずしない。そういう点では場所柄をわきまえている連中だと、ベテランもわかっていた。
それにだ、被害者は睡眠薬を飲まされ猿ぐつわまでされていたのだから、犯人との間にトラブルがあったとは考えにくい。ただし左腕を刺されたとき、丸害が叫び声を発した可能性はある。だがそれを両隣の客は聞いていないか、聞いても大したことではないと判断し、フロントに電話しなかっただけかもしれない。あるいは、すでに猿ぐつわをされていたから発し得なかったとも。これは計画犯罪である。よって後者であろうと、これは和田。
「何か思い出されましたら」と、携帯番号を書いたメモを渡しながら、「こちらに連絡ください」殊勝に頭を下げた。
この所作も鬼瓦には似合わなかった。新米は、こみあげてきた可笑しみを懸命に堪えた。
調書の、フロントへの訊きこみまでを読み終えた和田は、背筋を伸ばし首を左右に何度か回し肩を上下させた。固まりかけた体をほぐすとタバコに火を点けた。
一服の間に、犯行当夜の両隣と向かいの部屋さらに真下の客に今夜、電話をかけようと決めた。殺人があったと思われる時間帯とその少し前に異常な声を聞いていないか確かめるためだ。それと…、ひょっとしたらサングラスをはずした女性の顔を見ているかもしれない。だが、当時の捜査員がそれを訊きこんでないとは考えづらい。それでもあえて捜査員が失念したとしよう。ではあっても、一年半も前の記憶が当てになるとも思えなかった。
とはいえ、矢野係として僅かな不明点や可能性を放置することなどできるはずがない。
ゆえの十時間後だった。しかしだ、やはり宿泊客の、誰一人として叫びなどの異常な声を聞いてはいなかった。ましてや、顔を見た人などいなかったのである。
鬼瓦がフロントクラークに入魂の訊きこみをしていた時刻より遅れること四時間、所轄の、別の訊きこみ担当者二人。こちらも親子ほどの年齢格差の新旧コンビだった。が、息があっており、被害者たちを乗せたタクシー運転手の証言を重要とみた。バックミラー越しではなく被疑者を間近で見ていることが、ホテル前の街頭監視カメラの映像からわかったからだ。これもその映像のおかげだが、どこのタクシー会社かすぐにわかった。
21時にあがる運転手を訪ね、その中年男から以下の証言を得た。さても、来訪の目的を聞いた直後から口まめが始まったのだった。多弁だからとて証言を疑う理由はないが。
タクシーに乗る前、被害者はすでに、謎の女の介添えなしでは歩けないほどだったと。
すでに睡眠導入剤を飲まされていた可能性が高いと推測できる。乗せた場所と時間、そして一番知りたい同伴女性の顔や特徴などを、饒舌の間隙をぬって捜査員は訊いた。
「午後八時五十二分、大阪市北区曽根崎新地一丁目のステーキハウス前から」と業務日誌を見ながら。ついで、「なんて香水か知りませんが、男心を蕩けさす良い香りでした。顔はグラサンで見えませんでしたが、出るとこは出てるええ体でした。できればあんな女と」
「えへん」刑事は大きな咳払いで二度目の道草を許さず、目的地の、人物特定へと向かう道を進ませるため無理やり、話を同行させた。
仕方なく「それとレースの白い手袋をはめていた、特徴といえばそれだけで」と続けた。
情報を得るための刑事の辛抱は、地取り捜査における屋外の暑さ寒さだけではない。
質問に答えて、運転中にホテルの部屋までの介添えを頼まれたときの言葉づかいやイントネーションから、関西の女の人だと感じたとも。
「支払いはどっちが」
「女性が自分のバッグから。ですが、財布は男物のように見えました」
店を出た直後、タクシーをつかまえるまでの間に、被害者のポケットから財布を盗んだ可能性が高いと、ベテランは推測した。――ということは…――いや、今は想像はさておくと思い直し、そのあとのことを詳細に訊いた。結果、一万円のチップを渡すときも同じ財布からで、しかも手袋をはずすことは一度もなかったということもわかった。――あつかましいというより、自分の指紋の付いた札で支払いたくなかったからや、きっと。この推理が正しいとなると、子細に至るまで計画された犯行――ということになる。
ホテル周辺の訊きこみに当たった捜査員たちは、捜査会議でいい報告をできずにいた。
そんな彼らを尻目に翌日の午後二時、前日に続き新旧コンビは、被害者の胃の未消化な内容物と昨夜の運転手の証言から、北区曽根崎新地一丁目のステーキハウスを手始めに訊きこみに当たった。ビンゴだった。犯人と被害者はやはりここで食事していたのである。
若い方が、2002年十月一日よりの現行規格で身分証機能のみとなった”警察手帳”を示し、一昨日夜の接客係を呼んでもらった。三人いた。犯人とおぼしき女性の似顔絵と被害者である警部の写真を見せると一人が残った。二人が着いた席を担当した係であった。
ここでも質問は、古株の方がした。
「このお二人なら、午後七時二十分ごろご来店され、あそこのテーブルでご飲食なさいました」捜査員が提示した似顔絵と写真をいちいち指で指し示しながら若い女性店員は、刑事ものドラマでよくあるシーンを現実に実体験していることが嬉しいのか、顔を上気させている。指したテーブルは広いフロアーの隅であった。出入り口並びにレジの向こう奥になっているため、他の客席からは死角となる。人目を避けるには格好の席というわけだ。
捜査員は、誰がその席をチョイスしたのか確かめることにした。「あなたがあの席に案内されたのですか?」こういう場合、誘導尋問にならない質問の仕方の方が有効なのだ。
「いいえ」とかぶりを振り、「一週間前、私がご予約の電話を女性の方からお受けし、人の眼を気にしないで済む席とのご要望であちらをお取りしたのです。ご予約は七時半だったのに少し早く来店されたので準備が完了してなくて。それでご来店時間が七時二十分ごろだったと断言したのです」敬語の連続に舌を噛みそうな今どきの女子で、せいぜい二十二・三歳。茶髪にピアスそれとカラーコンタクトの、一見頼りなげにみえる外見。だがどうしてどうして、見た目からは想像できないほどに、どうやら正確な記憶力の持ち主であるらしい。さらには、まだ訊いていない有用な情報までをはきはきと答えたのだった。
「予約は女性がした。で、名乗りましたか?」名乗ったとしても偽名だと思いつつの質問。
首を傾け、脳内の“海馬”の抽斗を開け閉めしたあと、「沢田貴子さんでした、確か」と言いつつレジ横のパソコンで確認した。「記憶どおりでした。携帯番号と住所、要ります?」
若手は先輩からの目配せの指示に従い、ディスプレイの見える位置に移動し、名前や電話番号などをメモした。そのあとすぐ、その番号に掛けた。しかし出たのは男であった。身分を明かし、念のために住所と名前を訊いてみた。やはり、別の住所に住んでいた。
その間「たいした記憶力ですね」と、ベテランは持ち上げてみせた。いい加減な証言では困るので、その辺の探りを入れるという意味もあった。
「場所の指定をなさったお客様、わたし初めての経験だったので。それに入店時からずっとあんな、人相を隠そうとするこれ見よがしの格好してたら、かえって目立つでしょ」
“これ見よがし”なんて若い女性には不似合いと感じながら、「男の方は?」と訊いた。
「いえ、女性の方だけでした。男性はその代わり、どこか気落ちしている風に見えました」
見た目はおバカキャラだが、同じ年代の男ならここまで鋭い観察眼を持っていないのではないかと、店員と年が近い二十代後半の捜査員は変に感心しながらメモをとっていた。
ベテランが気になったのは男の悄然で、二重の意味でなぜ?と問わずにはいられなかった。「来店前、すでにケンカでもしてたからでしょうか」わかるならば悄然の原因および悄然にみえたわけを知りたかったのである。
「いえ、そんな風には」刺々(とげとげ)しいとか、男女の関係がこじれた様子でもなかったと。
「では恋人同士という風?」違うはずだが、いずれにしろ二人の関係を知ることは重要だ。
しかし、すぐ否定の動作が返ってきた。「ケンカしてても、深い関係の男女ならわかります」女性は確かにその辺り敏感だ。「むしろぎこちない…、気まずそうでよそよそしい雰囲気でした。それと男性がリードされてる感じ。立場的に弱いのか、気圧されてる風でした」
捜査員は三十八年来の女性経験から、とはいっても妻を入れてたった三人しか知らない女性の顔を思い浮かべつつ、天の賜物といえる女性の勘は真相を見抜く力を有すると、常日頃から敬意を表している。「では、女性の方がリードしていたというか、積極的だったと」
「そういうのとも違う、かな。そや、男の方がしきりに頭を下げていたよ」
「むずかしいなあ」何をもって違うというのか理解しかねた。それに、頭を下げていたというが、謝罪なのか、何かを依頼していたのか判然としない。「ぶっちゃけたとこ教えてもらえたら、捜査員としてありがたいんやけどな」目の前の店員だけが、問題の男女をじっくり観察できた目撃者なのだ。まだ若いが、天与の勘を持ち合わせているはずと期待した。
「んんん…、やっぱ、わかんない」どう表現していいかわからないのだ。
――お前はおバカタレントか――成人男性ふたり、そう、思わずツッコミそうになった。
「けど、雰囲気はなんとなくヤバそうやった」ランチの時間を過ぎた客のいない時間帯だったせいだろう、いつの間にか、普段の話ぶりに変わっていた。表現しやすいからだろう。
彼らもこの時間を狙って訊きこみをかけたのだった。従業員が急かされないからで、そのぶん正確な証言を引出しやすい。おっさんデカもこの“ローラ”に合わせ、くだけた問い方に変えた。その方が証言しやすそうだったからだ。「どんな風になん、ヤバそうって」
「うまくは言えんけどどこか危なっかしい、普通やない男と女…。ぼそぼそしゃべる女に、男は手ぇ合わせてたこともあったし。けどう~ん、わかんない。これ以上は訊かんといて」
抽象的すぎて具体的な表現に困っているのかと判断し、「角度を変えて訊くから教えて。たとえば女性が薬みたいなもん飲ます仕草してなかった」六十路手前は、“ヤバそう”をそう取った。明らかに世代間ギャップである。ちなみに薬だが、睡眠薬を念頭においていた。
「つきっきりで見てたわけやないから、そこまでは」
お説ごもっとも。とはいえ質問と答がどこかしっくりきていないし、このまま手ぶらで引き下がることもできなかった。「酒を勧める回数が目立つほどに多かった、なんてのは?」
「んんん?目立つほどに多かったかどうか…。けどそういえば、飲み干したばかりのグラスにワインをすぐに注いでるところ、二回ほど見たよ。『強いですね』って言いながら」
――やっぱり。どうしてもトイレに行かせたかったんや――酒類には利尿効果がある。むろん、酩酊させる必要もあった。「それで、男はトイレに行きませんでしたか」
「はい。手招きで呼ばれて、場所を訊かれました」
「そのときの男性やけど、呂律はどうやった?それと足元…、ふらついてなかった?」
「話ぶりは少し酔ってるかなぁってくらい。でも歩きは普通」この時点ではまだ、二人の人間に介護されなければ移動できない状態、ではなかったのである。
「その間、女性はどうしてた。男のグラスを手元に持ってきたとか」できれば目撃していてほしかった。が、
「だからっ」店員としての仕事に勤しんでいたから見てないと、少しむきになった。
ここはひと言詫びておいたが得策と、刹那に手を合わせ小さく頭を下げた。桜の紋を背負うデカといえども客商売と同じで、怒らせたら負け。あとの仕事がしにくくなるからだ。
「あっ」とここで、何かを思い出した様子。ちょっと言い訳がましく、「動かした瞬間は見てへんけど、グラスが女の人の手元に二つあり、片方だけ中をクルクルかき混ぜてました」
――よっしゃ――小躍りしたくなった。――やっぱりここで眠剤を飲ませたんや!――もちろん絶対的な証拠ではないが、状況証拠としては重要な証言だと。念のため正確な時間を確認することにした。
「確かあの晩、小さな地震があったよね」ローラもどきは突飛なことを言った。
捜査員は二人とも覚えていなかった。無理もない、震度2であった。それほどに微弱な揺れだったから感じることすらなかったのである。
「かき混ぜてたのはそのほんの少し前。…わたし子供やったけど、阪神淡路大震災のあの大揺れが今でもトラウマになってて、それで、少しの揺れでも…」だから覚えていたと。逆にそのおかげで、女性客の不可解な仕草を忘れてしまっていたとも頭をかきつつ述べた。
若い方の捜査員が早速、スマフォで地震の発生時間を調べた。「午後八時四十四分です」
睡眠薬は即効性で、速ければ服用後七・八分で睡魔に襲われるということだった。そしてグラスへの混入は、タクシーに乗り込む八分ほど前ということだ。急かされた被害者の警部がワインを飲み干すに長くて二・三分。薬効発現時間と符合する証言であった。
古株が、「お前も質問があれば訊いてみろ」と促した。昨日と今日、言われたとおりにし、仕事もそこそここなしたご褒美のつもりだった。
ならばとて、質問は以下のとおりとなった。 1 ヤバい雰囲気と感じた正確な理由。 2 食事中、サングラスをはずさなかったか。 3 支払いはどちらが。 4 以前の来店の有無。最後に、 5 女性を絞り込みたいが、特徴的なこと何か覚えてないか。だった。
女性店員は年の近い捜査員に対し、ごく自然に友達感覚のため口で答えたのだった。 1「訳ありの男女にみえた。席に着いて間もないころは、芸能人のお忍びか不倫カップルかと。いずれにしろ男はどこかオドオドしてたし、どんな関係のカップルなんやろうって。それに、会話が洩れないようヒソヒソ声やったから。おかげで内容がわからんかったんは残念やけど」と、ここまではよかったが「似顔絵の女性、誰なん、女優さん?やないよね。どんな事件に関わったん?」との逆質問。公開されたニュースや新聞を見ていないようだ。
「今晩遅めか明日のニュース番組見たらわかると思うで。申しわけないけど、僕みたいな新米が下手なこと言うたら、あとで叱られるから」悪いな、と手を合わせた。
ふ~んと仕方なさそうな声を洩らし、「若いと、何かにつけ辛いやん」この年下の女性は、新米には嬉しくもない同情を発した。「ところで質問は何やったっけ。あ、そや」野次馬根性を破れそうなオブラートで包むように潜め、「雰囲気からやけど、女性の方が男を責め立ててたというんか、叱るような口調に感じ取れたし、それに男がぼそぼそ答えたり謝ってるようにみえたけど」と述べた。しかし、眼はカラコンをしていても正直だった。この手のゴシップ的きわどくてヤバい話は大好きといわんばかり。芸能人の離婚や破局に血が一滴でも流れようものなら、狂喜乱舞のワンダーワールドなのだ、この娘にはきっと。
2 は、なかったよ。 3 は、男性がカードで、とそっけなかった。
「ということは支払いのとき、まだ意識はしっかりしてたんやね。トイレの場所を訊いたときはしっかりしてたみたいやけど」証言を遮るように、若手が思わず尋ねた。店内で睡眠薬を飲ませられなかった可能性、少ないとはいえ依然として残っていた。捜査員としてじつはそれを恐れたからだ。薬を入れていたとの決定的な目撃証言があればよかったのだが…。解剖所見から、睡眠薬服用はここでなければならなかった。注射痕やクロロホルムの痕跡が残っていれば別の手段で被害者を意識喪失させれたが、胃からの吸収である以上、ここを逃すともはや不可能なのだ。しかし思惑は外れた。即効性とはいえ七・八分は掛かるのだ。タクシーを待っている間に「飲ませた」では、困ったことに時間的符合をみない。
ところでデカの困惑をよそに「『まだ意識は』って?…まだってことは…店を出たあと、意識を失くしたんですかぁ?」と、興味本位の質問で肩透かしを食わしたのだ。言わずもがなの若手捜査員のひと言にだぼハゼのごとく、好奇心露わに喰いついてきたのだった。
若手は反省し、証言協力が必要だったので支障のない程度で簡潔に説明し答えを促した。
野次馬根性を満たされ、「意識しっかりしてたよ、自分でスーツの内ポケットから財布出してたから。けど足元は多少危うかった。酔ってるからやなかったん?」そう告げたのだ。
足元のふらつき、薬効が出始めたからであろう。胸を撫で下ろすと質問を保留し、レジ記録を確認してもらった。支払いの正確な時間から、意識が朦朧としだした時間も類推できる。タクシーに乗り込んだ時間との差が数分あれば、その間に混濁した可能性は高くなる。いずれにしろ、服用後、睡眠薬の効果発現所要時間も調べなければならないと考えた。
記録によると午後八時四十九分。ワインは一本だった。
4 初めてやと思う。けど顔を隠してたから断言は無っ理~。 5 色白で鼻筋はシュッと。唇は薄めやった。おそらくかなりの美形やと思うわ。あんな口と鼻になりたいな。それとねぇ、白くて目の細かいレースの手袋をしてた。訊かれたから思い出したけど、食事のときもずっと。そういえばトイレから出てきたときもしてた。あんな人、初めて見たよ。
指紋採取の手間を、捜査する側にとって、悪い意味で省いてくれたということだ。
指紋採取は諦めざるを得ない。が、時間の逆算ならできる。勘定を済ませタクシーに乗り込むまでに約三分。運転手によると、乗車時すでに睡眠薬は効き出していたようだ。これは、女性接客係の証言とギリで符合する。つまり、睡眠薬入りワインを飲み始めて約三分、飲み干したあと席を立ち勘定するまでに一・二分。合計で七分ほどになるからだ。そして乗車時間は六分。この間に薬効はさらに進み、運転手の介添えも必要なまでに意識を喪失していた、そうみて間違いなさそうだ。
トイレに立たせその間に睡眠薬混入、会計直前の服用へと誘引した謎の女。まずは計画どおりであり、このタイミングがいちばん都合良かったからではないか、とデカはみた。
捜査員の三割は、帽子サングラス姿の女性が映る写真と似顔絵を手に、訊きこみの輪を次第に広げながら目撃者を捜していた。写真は、防犯カメラの映像から処理して得たものだった。この訊きこみに十日を費やした。だが無念にも、全くの徒労に終わったのである。
まずはタクシーに乗った形跡だが、全くなかった。また、結構目立つ格好ゆえに目撃者は相当数いたが、犯行後の足取りは当初おぼろげだった。それでも目撃証言を繋ぎ合わせ、同じく北区梅田一丁目に建つ大阪駅前第一ビルまではどうにか辿り着けた。だがここで忽然と消えたのである。結局、犯人が上手だったということか。
そこで帳場は考えた。そして得た推測は、トイレで着替えたから…とすれば防犯カメラの映像検索も意味をもたない。同ビルは午後十二時まで出入りできる。ホテルを出たのが午後十一時過ぎだから充分に間に合う。キャリーバックの中身はゴミ箱に捨て、キャリーバックをトイレに置き去り、着替えをし目立たない服装になって、人ごみにまぎれてJR各線や各私鉄、地下鉄各線の駅に向かえば、縦横斜めと路線は二十近くある。もはや追跡は不可能だ。
こうして手詰まりのまま、捜査は空回りしていくのだった。ひとえに、長野刑事部長が娼婦犯人説を基にした捜査方針に固執しその方面を中心に捜査を展開させているうちに、時間ばかりがいたずらに過ぎていったからである。しかし元はといえば、長野と彼にお追従する、捜査の現場経験が少ない超エリート連中が指揮したこと自体が無謀だったのだ。
時すでに遅しと、事件から約一年。捜査本部は、体制が変わったとはいえ、いまだに解決の糸口すら見つけられないまま、半年後には完全に暗礁に乗り上げてしまったのである。
千載一遇とばかり、野望に狂った長野刑事部長の誤った捜査方針が元凶だったことは間違いない。大事な初期捜査時からの本源的失策や逸失による取り返しのつかないダメージだったと、以後、現場の捜査員たちには臍を噛む日々となった。が、《あとの祭り》である。
グリコ・森永事件は、指揮をとった元大阪府警本部長の過失と無知が元凶、に似ていた。
和田とて、この最悪の結果は当然知っていた。それでも読後、悔しい吐息を洩らした。寸時、気分転換にもう一服し、星野が作成させた、別の事件の資料を読み始めたのである。
大阪市内福島区にある渡辺総合病院の病院長渡辺卓四十二歳が、自宅玄関前で、秘書が運転する車から降りたところを狙撃されたのだ。2013年十月十一日金曜日午後九時過ぎ、ライフル銃(凶弾からそう推定した)で後頭部を撃ち抜かれての即死だった。
射撃した場所は、入射角度や死体に与えたダメージなどから、翌朝には特定できた。捜査員がおよその見当をつけ、同行の鑑識が遺留物検査をし、微かだが発射残渣を検出したため特定できたのである。ただし薬莢は落ちてなかった。犯人が持ち去ったからであろう。
渡辺邸から約150メートル離れた五階建て古マンションの屋上であった。腕の良い狙撃者なら問題ない距離だ。しかも、と和田は思慮した。夜間だけに面のわれる心配が少なく、否、凶行後の逃走を妨げる事態も起きないだろう、犯人はそう計算したのではないか。
ちなみに、現場を精査した捜査員の見解はこうだ。入射角度からみて、犯人はうつ伏せでライフルを構えた。また狙いすましている点、さらには被害者が一人だけとの理由から、通り魔的凶行ではないだろうと。狙いすましたというのは、銃声が一発だったと訊きこみでわかったからだ。つまり、渡辺卓を狙った犯行とみるのが自然ということである。
銃声についてだが、住民はまさかそれとは思わなかったという。閑静な住宅街で一帯は平和そのもの。「車のバックファイアやと思た」と、異口に同私見だった。
ところで、マンション屋上部で犯人がうつ伏せでライフルを構えることができたのは、古いマンションタイプにおいて時折見かける、四囲を金網フェンスで囲った屋上だったことと、屋上四囲の、外壁へ通じるパラペット(立ち上がりのコンクリート)が、高さ二十センチ程度であったことによる。だからうつ伏せでも、身体を安定させられたのだ。パラペットがもっと高い状態だった場合、犯人が寝転べばその銃口は夜空の星にあいさつする破目になった。狙撃した地上のホシは、このことからも場所を選ぶうえで下調べしていたと思われた。むろん、行き当たりの偶然を完全に否定しうるものではないが…。
犯人にとっての場所的要件だが、まだあったと考えられる。屋上に侵入しやすくしかも他人が上がってこないことだ。当該マンションは、この点でも魅力的だったに違いない。
屋上には上がれないよう、普段、手前の扉に南京錠を掛けていたと大家。が、壊されていた。簡単に壊せる程度の鍵だったからだ。
要件を満たしたので、ここを狙撃場所に選んだと捜査員は確信した、そして和田も。
ミスショットなしに一発で仕留めた手並みから、プロを雇った殺しの線も含め、捜査は進められている。プロを雇ったとすると、これは仮の話だが、政治的動機も無視できない。だが書類によると、渡辺病院長自身、政治家に転出する動きを見せてはいなかった。また、特定の政党や政治家との関係は希薄で、せいぜい付きあい程度、特に親しい団体にしろ個人にしろ存在しなかったともある。となると、動機が政治がらみとは考えにくくなった。
ライバル病院との水面下での熾烈な患者獲得競争も現実に存在した。しかし、それが殺人の動機とも考えにくい。病院長が死んだところで形勢が変わるほど、患者の病院選びは気まぐれではないからだ。何より、優秀な医師の存在こそが関心の的なのである。
すぐに立ち上げられた帳場だが、動機を持つ人物を、渡辺病院関係者・現患者とその家族・元患者とその家族の中にいないかで当たり始めた。概ね、怨恨の線ということになる。
病院関係者だが院の内外でたて分けて事情聴取することとなった。現在勤務している医師・看護師等、事務関係者が内部だ。ちなみに病院理事長は被害者の妻、渡辺恵子五十三歳であった。約半年前、息子が浴槽で事故死したその母親だ。被害者は入り婿であった。
外部とは、当院を辞めた医師・看護師等、元事務関係者と出入りの業者である。
捜査本部も、そして捜査資料を読んでいる和田が考える捜査の方向性も、一致していた。
不当(本人がそう思った場合も含む)解雇等の退職理由は動機になりうると。または恨みを懐いている出入り業者。たとえば多大なバックマージンを要求され、会社との板挟みで病気になった医療機器メーカーの社員がいても不思議ではない。見つけ出すのは難しいだろうが。
それにもましての困難が、病院への患者の本音の評価を知る作業だ。殺害動機を持つほどともなれば隠蔽や虚偽という、人間ならばこそが作る壁や陥穽に阻まれることとなろう。
なかでも医療ミスの有無の捜査こそは、その典型だ。生半可な捜査では表に出てこない。
病院側は当然、必死で隠そうとする。患者側も、動機があからさまにならないよう心掛ける。たとえ復讐を果たしても逮捕されたら自分たちの負けだ。病院は刑事罰を問われないからである。したがって、医療ミスという真相は闇を棲みかにしてしまうに違いない。
医療ミスと、言うは簡単だが、警察にも検察にも医学の専門的知識がないぶん、捜査自体暗中にての手探りとなる。今回の事件でも場合によっては、闇の中で暗号を解くような捜査となるかもしれない。挙句の果てに、殺害動機すらわからない可能性も。となると、犯人像がおぼろげにも浮かび上がらなくなってしまうのだ。
だからといって手をこまねいているわけにはいかない。捜査本部は、捜査の鉄則ともいえる、一番身近な存在の妻にも疑惑の眼をむけた。妻が犯人なら、プロの狙撃手を雇ったと考えられるから、アリバイの有無は関係ない。問題は動機があるか、である。
女好きとの評判から病院長の身辺調査をし、浮気や隠し子の有無を調べ上げた。たしかにお盛んだったが婿養子という立場上、特定の相手はいなかった。風俗やホステス相手の性欲解消であり、妻の恵子もギリギリ大目にみていたようだった。年齢差十一歳の姉さん女房に引け目を感じていたのか。あるいは女遊びを理由の離婚では不具合だと、病院の評判低下回避のために辛抱したのか。もっとも外に子供を作っていれば、話は別だろうが。
ところで特定の相手がいないぶん、当然なのだろうが隠し子も出てこなかったのである。
入籍を前に、渡辺家も卓の過去も調べあげた。結果、有能な医師である。前妻はすでに死亡しており、さらに子供はいない等。むろんこれが卓を婿養子にした大きな理由だった。
つまりは現妻の犯罪として捜査を推し進めようにも、大きな壁にぶち当たったのである。
そこで、女遊びよりも強い動機となりうる、例えば多額の使い込みや財産乗っ取りなど、妻と渡辺家を裏切る行為の有無も入念に調べあげた。が結局、見出すことはできなかった。
動機面で、疑惑を根拠あるものに進展させるまでには至らなかったということだ。
それでもと、捜査員は粘った。さらなる追跡法は、妻恵子名義の銀行口座等の金銭の動きであった。プロの狙撃手を雇ったのならそれ相応が支払われたはずだと、金融関係を当たった。しかし簡単ではなかった。金融関係と一口で言ってもまずは数が多い。加えて、個人情報の中でも重要な情報だけに、各行から取引自体の提示に難色を示されたからだ。
渡辺理事長は取引銀行にとって超がつくお得意、融資先としても貯蓄額の多い客としても。機嫌を損ねるは愚の骨頂なのだ。それでも一応、社会貢献という建前から情報提供が事件解決に果たす可能性と、金融機関が死守せねばならない情報の重みとを天秤にかけたようだ、難色はその結果であった。
こうなると、就任半年の府警本部長が動かざるを得なかった。大阪府警はここ一年半、未解決殺人事件を多く抱えるという黒星続きで、世間からは無能だとか給料泥棒呼ばわりされ、非難や冷笑に曝されてきた。だからこの事件だけは何としても解決したかったのだ。
まず、全国銀行協会会長に頭を下げた。郵貯のトップ代表執行役社長にもお願いをした。「それならば」と限定的協力で妥協した。各機関が警察の要望に合わせた調査をし内容を報告するという妥協だ。経済事件に限らず、重要な証拠となる場合は令状を取り強制捜査もできるが、あくまでも状況証拠程度でしかない以上、“お願い”するしかなかったのだ。
一行を除き、取引銀行数行はしかし、ここ一年の間で、短期間に合計が百万円以上のまとまった金銭の動きはなかったと情報提供した。
ところで報酬としてスナイパーは当然のごとく、現金のみで小切手などは受け付けない。しかも手付けと成功報酬に分けて受け取るから、帳場はとくに事件以後の大きな引出しに注目した。一行のみ一度だけ、数百万単位が引き出されていた。その報告に帳場は一瞬色めきたった。だが、すぐに失望が覆った。葬儀費用だったからだ。金額も一致していた。
別の高額引出し法について検討がなされ、すぐに結論が出た。一行での引出しに拘らなければいいと。それで、複数の金融機関を使った同一時期の引出し状況を調べてもらったのだ。その合計が相当な高額となるかどうか。しかし一年前以降で、各行の引出し合計金額だが、十万円にもならなかったのである。この程度では凄腕のスナイパーは雇えない。
それにしてもセレブの金の使い方ではない、何か裏があるのではと主張するベテラン捜査員が何人かいた。だが、理由はつまらないほどに簡単だった。夫人は金額の多寡を問わず買物も公共料金等も、たとえば旅行費用なども全てクレジットカード払いだったのだ。
家政婦が買う食料品や日常品もクレジットカードで支払わせていた。だから、まとまった現金を引出さなかったのである。
そこで帳場は考えた。偽装名義の口座を作りそこから報酬を渡したのではないかと。しかし各行は全否定した。渡辺恵子ほどな立場の顔を見知らない行員はいない。顧客管理は重要ゆえに、偽装口座をむざむざ作らせる無能な行員はいないと口々に断言したのである。
ならばとて、夫名義の口座を調査対象として依頼。だが、疑惑の目を向けた捜査員にとって残念な結果に終わったのである。生前時の、不審な金銭の動きは全くなかったからだ。
残る最終手段。消費者金融等から借りる手立てだ。予め、捜査から身を守る手錬として。だとしたら返済のため、いずれ、理事長はまとまった金額を引出すだろうと見立てた。その場合は告知をと各行にお願いしたのである。しかしこれも空振り三振に終わるのだった。
それでもの渡辺恵子犯人説。その仮定の動機だが、帳場の見解とは違い、和田が拘泥するとしたら、やはり息子の死である。ちなみに故病院長にとっては、実の子ではなかった。
さても長男の死だが、初動捜査の結果、殺人を疑う材料は出てこなかった。それで本格捜査のための帳場は立ち上げず所轄のみの捜査となり、結局、事故死で処理したのである。
それでも、待てよと和田。もし跡取り息子の死に、再婚の夫の卓が関わっていると妻が確信したとしたら、“復讐”という揺るぎない殺害動機が存在したことになるではないか。
しかしながら捜査本部は、息子の件と今回とは無関係とした。それよりお盛んだった桃色遊びの相手の中から、動機を持つ人物を洗い直したのである。激しくトラぶった女性がいないか、再度の入念な洗い出しに方針を決めたのだ。きっかけは、動画投稿サイトにモザイクのかかった被害者の性行為動画が流入しており、秘密裡の女性関係を暴露されたからだ。ただし、警部全裸絞殺事件のときの映像ほどには、出来はよくなかった。動機はやはり男女関係のもつれによる怨恨、となると浮気相手が犯人ということに。
また、必死の捜査を嘲笑うかのような事件六日後のこの動画投稿だが、目的が夫人を犯人に仕立て上げるためと考えればそれなりに辻褄が合うとみる捜査員もいた。
一方、警部全裸絞殺事件の模倣か?はともかく、動機は嫉妬だとする単純な観点から、疑われたのはやはり夫人であった。だが、動画投稿は夫人とは別人であろうと。恵子が自らに疑いの向く愚行をするはずないのだから。
以上のごとくに始動して十日目の捜査だったが、すでに多岐にわたって進められていた。大阪府警察だけでなく、警察全体の威信がかかっているといっても過言ではないからだ。
しかしながら、初動捜査の遅れや誤謬などなかったにもかかわらず、これといって進捗していないようだ。暗中模索といおうか、結局は捜査に一筋の光明をいまだ見いだせぬまま、であった。
和田はまたも一服喫した。その間に、医者・妻・殺人事件の三つの言葉から、遠い記憶が今度も呼び覚まされたのだ。――たしか…、八年ほど前に起きた医者の妻殺害事件――であった。若い女性患者が医者を間に挟んだ三角関係の末、その妻を殺したとの事件だ。
一部の週刊誌は、肉体関係にあった医者を“略奪愛”せんとして発覚し、略奪に失敗した女性患者が、嫉妬や憎悪という負の感情を爆発させ事件を起こしたと、当時そう報じた。興味本位の上に予断と憶測で書かれた記事だ、そんな感想を持ったとうっすら覚えている。
ところで、このあと知ることになるのだ、この事件と病院長射殺事件が密接に関わっていたことを。
それはそうと、事件を扱うオーソリティの警察といえど、発生時期が相当にズレているばかりでなく手口まで違うと、それらに関連があるとは気づかないのである。というのも、
とりわけ常習犯という輩は、同じ手口で犯罪を繰り返しやすい。得意な分野の犯罪を手掛ける場合、慣れていてしかも成功を積み重ね安心もできるからだ。特に窃盗や空き巣狙い・スリ等に多いが、保険金詐取目的殺人の犯人も、過去の犯罪事例をみるまでもなく同じ手口を使うようだ。それで多くは逮捕という結末を迎えることになる。逆をいえば犯罪者が分野も手口を変えれば、警察は悪党の尻尾に触れることすら難しいということだ。
なぜなら警察は、証拠品や遺留物とにらめっこしつつ暗中模索し、犯罪の分野や手口も参考に、否、重視し捜査するからである。ゆえに意外性に弱い。それで、複数の事件が不可視の深層で繋がっていても気づかないのだ。刑事稼業の長い和田の実感でもあった。
そして今はまだ、二つの事件がつながっていたことを誰ひとり気づいていなかった。
それでも義理の息子の溺死と病院長の射殺にはたして関連は?と思索する和田。五ヶ月半前、事故死で処理された息子の件、その五カ月後に義理の父親が射殺されたのだ。関連を調べずに済ます和田ではなかった。――およそ半年の間に渡辺家で二人が死んだ――のは単なる偶然だ、でいいはずないと。事と次第では、妻による夫殺しの可能性があるとも。
ただしその場合、殺し屋を雇う費用の捻出が問題となるのだが。高価な宝石や不動産のいずれかを売却して工面したとも考えられる。しかし憶測はここまでだ。事件を担当していないのだから。担当で同期の警部にこのことをそれとなく教えることにはなるだろうと。
あるいは事によると、自分たちが調べるかも?とも。単なる勘ではなくそれなりの根拠があってのことだ。過去にも、矢野係が鞍替え担当した事件があったという事由による。
ちなみに子息の事故死とは、後述する藤浪警部補が当時担当した件、総合病院理事長の息子が酔っぱらった挙句、自宅の風呂で溺死した件であった。
和田は部屋に戻ると、溺死の具体的状況を知るために、まず星野管理官が作製した捜査資料(パスワード入力によって検索できる、先刻のファイル)に隈なく目を通した。
ところでこの件を捜査資料に加えていたということは、警視も忙しいなか疑惑を懐いている、少なくとも事故死と個人的には認定するに至っていない、とみて間違いないだろう。
ただし、和田も気づいていないことがあった。なぜ星野管理官がこんな風に捜査資料を作成したかについてである。じつは、未解決事件解決のための専従捜査をする組織が向後作られる予定だからだ。そのための資料作りは必要不可欠だったのである。
2013年五月十日金曜日午後十時一分、渡辺卓病院長が自宅で入浴しようとして、浴槽内でうつ伏せになっていた息子を発見したと119番通報があったのである。
あまりの事態に動転しつつも、形振り構わず湯船から出すと床に敷かれたマットに寝かせ必死の心肺蘇生法を施した、いわずと知れた心臓マッサージと人工呼吸をだ。たしかに、死体胸部中央付近には心臓マッサージを施した痕跡が強く残っていた。父親というより医者として反射的に出た行動だったと、機動捜査隊の警部の質問に答える形で述べていた。119番に電話したのは応急処置直前だった、とも同警部に口述したのである。
ところで病院長の過去について、溺死体が結局は事故として処理されたせいもあり、調べられることはなかった。その必要性を誰も思慮しなかったからだ。八年近く前に妻が女性患者によって殺された、当事者だったという事実をである。下世話を売り物にする週刊誌が“略奪愛”の果ての殺人と報じ、一時世間を騒がせた事件の被害者家族だったことを。
それはさておき、息子が死んだこの日、院長の妻で病院理事長、そして死体の実母でもある渡辺恵子は、三泊四日の韓国旅行に出かけていて、留守であった。
病院長は執務を終えて午後九時過ぎに帰宅すると、通いの家政婦が調理した冷麺と餃子をつまみにロング缶のビールを飲みつつ、一階のリビングにおいて、部下で若手の心療医が記した小論文を読みながら晩の食事を済ませたと。そのあと、シャワーを浴びようとして息子の変わり果てた姿を発見したとのことだった。午後十時より少し前だったという。
渡辺卓への事情聴取をした機動捜査隊主任は、詳述に不自然さを感じることはなかった。119番の入電記録とも時間的に符合しており、事実、そのせいもあって感じなかったのだ。
ちなみに機動捜査隊とは、凶悪犯罪の初動捜査等で現場に急行する専門な執行隊である。
午後十時半、到着した検視担当官は、床で仰臥状態の若い男の死体にまずは合掌した。
機動捜査隊の警部補は、被害者の自室にあった睡眠薬を飲んだ可能性について言及した。
ところで検視(刑事訴訟法による死体観察)は、死体の損傷(その形状から凶器を推定したり、ためらい傷や吉川線など外力作用【事故なのか故意かも可能であれば報告】による傷か自傷かの判断)・変色(圧迫痕やうっ血など)・異臭等を見つけ出す作業でもある。
初動捜査にて、凶器や薬物使用、その他に由る殺害か事故死あるいは自死か等を含む死因、さらには死亡推定時刻などを短時間にて判断しなければならない検視は、特に殺害の疑いをもつにいたった場合、捜査を左右することにもなる非常に重要な任務なのだ。
まず、死体温度を計るため水銀体温計を肛門奥に挿入。体温の正確な測定法として、検視では直腸内測定が常套だからだ。体温計が仕事をしている間に部下に手伝わせ、死後硬直と角膜混濁や死斑の状況等を手際よく確認した。本来なら死体の乾燥状況もチェックするのだが、少し前まで浴槽に浸かっていた以上、調べる意味がなかった。通常なら目の粘膜や皮膚等の乾燥具合からも、およその死亡推定時刻を割り出す手掛かりになるのだが。
ちなみにいろんな角度から死亡推定時刻を推し測るのは、例えば体内温度測定だけで推定したとすると、以下の不具合が起こりうるからだ。
1 間違った結果が仮に出たとして、他のデータと比較しなかったならば、その誤謬に操られた格好となり、捜査の方向を誤らすことになる。 2 さらに、もし犯人が死体の体温低下を狂わせる工作を施した場合、その工作に踊らされて死亡推定時刻を見誤ることにもなろう。結果、最悪の場合、冤罪という悲劇を生むこともあるということだ。
それ故に、可能な限りの測定方法を駆使するのである。
さて、職務に専念する警部は検視用七つ道具の一つ、ルーペを使い、発見や判定が比較的難しい、鼻口部に細小泡沫を多く含む白色あるいは赤色の液の存在を自らで確認した。結果、溺死と判断した。のち、創傷や扼痕(首を絞めた指の痕)・圧痕(体を押さえつけた痕)等、それらが無いことを確認した。つけ加えるに、外傷がないことから、よって「溺死の原因は不明」としたのである。
一方、眼瞼や口腔等の粘膜への溢血(小出血斑)発現は部下が確認した。顕著であった。
ところで、以下は検視時の仮定の話だが、首にひっ掻き傷があれば防御創の一種の吉川線とも考えられ、死体の爪の間に被害人以外の皮膚や血液が残っていれば、他殺と具申する。刺傷や擦過傷・銃創などの創傷、その他、殴打痕や索条痕(索条とは凶器となったロープやネクタイ等を指す)などの有無やあったときのその状態も観察するのだが、検視担当官はこれらも死因および自・他殺や事故死の判断材料とするのである。
死体にはそれら一切の痕跡だが、全くなかったと報告書に明記した。
参考までに“検視”だが、刑事訴訟法229条で検察官が行うと規定。だが現実的ではない。そこで同条第2項では、検察事務官か司法警察員の代行を認めている。鋭敏な捜査感覚と法医学の専門知識を要するために、特別な訓練を受け死体観察に精通した専門の警察官、通常は警部クラスが担当するのが現状だ。刑事ドラマ等で“検視官”と呼ばれているのはこの人たちのこと。加えて検視規則5条で、検分には医師の立会いが必要としている。
ついては、検死官とは表記しない。検死は、日本の法令用語には存在しないからだ。だが、あえて使うとすれば死体検案のことで、医師法第19条により、監察医や嘱託の警察医等の医師でなければできない専門分野なのである。
つぎは眼球の混濁加減を見る角膜混濁。まだ透明であった。死後数時間で白濁し始めることから、二時間未満と推定した。死体硬直はすでに始まっていた。発現時間には諸条件や個人差もあるので幅を持たせ、死後一時間から一時間半プラスマイナス三十分と。
最後の見立ては死斑だった。だが、なかった。あれ?と首を傾げた。発現し始めていないとおかしいからだ。この不思議を、他の検視結果と合わせ初動捜査担当の機動捜査隊の警部にまずは告知した。そのときに病院長の事情聴取を伝聞で聞き、ようやく納得したのである。縦2メートル、横1.2メートル、深さ0.6メートルの特注品の大きな浴槽に、発見時はうつ伏せ状態だったがすぐに湯船から出し、床マット上に仰臥させ、心肺蘇生法を施したと供述。ところで、結果的にはこの処置のせいで死斑が消えたのだ。つまり、水槽内で一旦は腹部等に発生していたはずの死斑が、応急処置せんと仰向けにしたため、今度は背中の方へと移りだした、時間的にみてその過程にあったということだと。
辻褄が合っていると合点した和田も、死斑に関し検視担当官が疑問を懐き、上記の事情聴取伝聞ののち納得したとの職務に対する忠実を知り、優秀な担当官だと感じた。
その死斑だが、死体の体位に応じ地球に近い側に発現し始める。生命が活動していれば、心臓の拍動により血液は重力に関係なく体内を循環する。だが心停止と同時に血流も止まる。それで万有引力により、血液は地球に近い側に集まりだす。死体が仰向きだと背中側へ、首吊りのようにぶら下がっていると手の先にもだが、多くは脚部に発現するのだ。
少々長い説明となるが、死後七時間以内の初期段階の死斑は血管内のうっ血であるため、体位を変えたり死斑に圧迫を加えたりすると容易に消失する。だが、七時間を越えたあたりからの死斑は、血液の色素が皮膚組織などに深く浸透し沈下した固定系へと変化するため、体位を変えたとしてもあるいは死斑に圧迫を加えようとも、消失も退色もしなくなる。
余談ついでにもうひとつ。死斑の色調あるいは強弱によっては死因をある程度絞ることが可能となるのだ。たとえば、一酸化中毒死や青酸ガス中毒死だと鮮紅色となる。もし緑色を帯びていれば、硫化物中毒死を疑ってよい。死斑の出現が弱いと失血死もあるが、腎不全や慢性肝炎などの病死とも考えられる。河海などでの溺死の場合、発現しないことも珍しくない。が、それは波や水流により死体が上下に回転し位置が定まらないからだ。
ところで今回のように入浴時の溺死で死後一時間半以上なら、波も水流もないために死斑が出ていて当然なのだ。否、窒息死体であるから、本来なら死斑は強く出現しているはずである。検視担当官が不思議がったのも当然というわけだ。
その、機動捜査隊員から“検視官”と呼ばれたベテラン警部は、測定体温からの死後経過時間判定を急ぐことにした。死体現温度35℃を基に諸条件を整理し、なかんずく気化熱による体温低下も計算内に入れ忘れなかった。通常ならば、(今回は風呂場の)気温と湿度や風の有無等・着衣(全裸だった)の内容とその状態・日光の有無や死体への照射具合(夜間なので当然無い)等の各種条件によって体温低下の進み具合はかなり違ってくる。むろん、死者の生前の通常体温を基準とするのだが、今回は三十六度五分とした。被害者の平熱を知る人がいなかったからだ、まして死亡直前の体温となると…。担当官は今現場の各条件を総合的に判断し、経過三十分で五分の下降と計算したのである。
よって死亡推定時刻だが、同日午後八時から八時半ごろと推定した。家政婦が帰宅する同八時少し前「お食事、持って上がりましょうか」と問い、自室にいた直人が「冷麺やろ、少しでも冷たい方がええから、これを済ましたら自分で冷蔵庫から出す」と返事したとの証言、および病院長の供述(後述となる)を知らなかったゆえに、少しズレが生じたのだ。
ところで、検視は解剖より手っ取り早いぶん、出る結論における多少の誤差は織込み済みである。よって、概略でもかまわないことに。特に殺人の場合、初動捜査においては死亡推定時刻と死因の推定こそが重要なのだ。早ければその分、犯人の逃走や証拠隠滅・アリバイ工作等の時間を奪えるからである。
ここで和田、唐突に、…平等であるべき捜査に地域格差などあってはならないと思った。だが変死体検死解剖においてすら、実態は全国一律ではない。行政解剖を主業務とする監察医制度の実施は東京23区・横浜市・大阪市・名古屋市・神戸市のみで、以外の自治体には無い。これが実情だ。だけでなく、人員や使える経費の多寡の問題等、各々の地域で諸般の事情があり、上記の五都市以外では、変死体であっても検死解剖に付さないことも少なくない。これも実状なのだ。もっとも五都市でもその全てを、というわけでもないが。
よって弁護士などが問題提起している。対象が死者とはいえ、憲法の下の平等に反する可能性に。否、そればかりでない、殺人を看過している事態も決して少なくないことにだ。
たしかに経費の加重がネックという現状はある。だが、検死解剖から他殺とわかることも少なからず存在する。にもかかわらず費用云々が理由で、警察が死因や死亡推定時刻等の大事な情報を得られないまま凶悪犯罪を看過しているとしたら、果たして法の下の人権や平等が行使されているといえるだろうか。たとえば角田美恵子主犯の尼崎連続殺人事件。
検死解剖により変死体の死因が究明され、早い段階で主犯以下が逮捕されていたら?…以降殺されずに済んだ人々、また脅迫や洗脳によって凶悪犯罪に加担させられ今も精神的被害に苦しむ、元は善良だった人たち、そんな不幸を未然に防げたのではないだろうか。
警察官としては当然、ひととしても和田は悔しいのだ。
科捜研からの報告書には、多量のアルコールと通常使用量の倍程度のベンゾジアゼビン系睡眠薬ハルシオンが検出されたとあった。その分析法について…。ガスクロマトグラフ質量分析装置や試薬等を用い、死体から採取した血液を分析する検出法、と記されていた。
テーブル上に置いてあった睡眠薬と飲酒を併用したのが本人なら、自殺か事故死であろう、となる。ところであとの家政婦の事情聴取によると、直人の言葉の状態からまだ飲んでいる風ではなく、バーボンのボトルもこの時点では、家政婦がいつも出しておくテーブルの上に置かれたままだったという。ときに、直人とは若き死体の生前の名前である。
家政婦の退去後、直人が二階の十二畳の自室に持ってきたのであろう、リビング用テーブルの上にはベリーオールドセントニック十五年物とグラスが一つ、他は食べ散らかしたままの食器類と小ビンが雑然と。ただしアイスペール(氷を入れておく容器)はなかった。
仮に殺人事件だとして、氷に睡眠薬が混入されていた…としたらアイスペールは犯人が持ち去った、が妥当だろう(翌日の科捜研での検査によると、ボトルの中のバーボンから睡眠薬は検出できず、グラスからのみであった)。だからといって家政婦の線はない。中年女性一人で若い男を溺死させられるはずがない。加えて直人の死亡時、彼女は帰途にあった。そして、邸には他に誰もいなかったのである(後述するが、調書にはそうあった)。つまりこれが、殺人説最大のネックなのだ。
ではと、睡眠薬がグラスからのみ検出された別の可能性について、警部は考えた。食器類の横にあった薬ビンから睡眠薬を取り出し、グラスに入れ時の過ぎゆくままに溶かすというやり方だ。普通なら錠剤をそのまま口に含み、バーボンで流し込めば済む話。なのに、なぜ?しかしながら自殺志願者たるものは、常人とは異質の思考をするともいう。
解せない点はあるが、自殺とみるのが自然だろう。機動捜査隊の警部は、死体が無傷なことや邸には他に誰もいなかったなど現時点で手にしえた情報からそう考えた。
ちなみに司法解剖はされなかった、事件性が希薄という理由で。アイスペールがなかったことで殺人の可能性が小さく浮上したが、あとの義父の証言で疑問は解消されたからだ。
変死体ではあったが、行政解剖にもまわされなかった。検視により、死因や死亡推定時刻がほぼ断定できたこと、打撲痕や扼殺・絞殺の痕跡等、また、死体の爪に血痕や皮膚片はなかった、などにより、争った形跡も認められなかったからだ。さらにいえば現場は豊中市であり、監察医制度を採用していない地域だったことにもよる。いわば地域格差だ。