幸せの靴
森の奥に住む魔女が作った靴を履くと幸せになれる。その噂は王都にも届いていた。辺鄙な田舎の森のそばにある店にはひっきりなしに注文が入る。そこではひとりの少女が切り盛りしている。あまりの人気のためにどんどん依頼がたまっていく。彼女は寝不足で少し疲れていたが、目の前で自分の作った靴を嬉しそうに履く女性を見ると気分が良くなった。
ビーは靴に魔法をかけることが出来る。その人にとっての幸せを呼び寄せることができるのだ。ただ、それはすべての人にとっての幸せではない。全員めでたしめでたしのハッピーエンドなんてないからだ。
「マッケイン様、どうですか?」
「すごく素敵だわ。軽くて、歩きやすくて。どこにでも行けそう」
「ええ、その靴を履いていればどこにでも行けます。マッケイン様の望む未来にも」
「ねえ、あなたの靴を履くと幸せになれるって本当なの?」
「はい。マッケイン様にとっての幸せに辿り着ける靴を作りました」
「ありがとう。とても気に入ったわ。これは感謝の気持ちも込めているから受け取ってね。素敵な魔女さん」
ずっしりと重さのある皮袋には靴の値段の何倍もの金貨がつまっていた。ビーはそれを見てにっこりと笑った。
「こちらこそありがとうございます!」
足取り軽く歩いていく女性を見送り、ビーは伸びをする。まだまだ彼女の靴を待つ人はたくさんいるから少し眠ったらまた作業を始めようと思い、長椅子に横になる。
寝不足で疲れていたからか師匠の夢を見た。孤児だったビーを拾って名前をつけて育ててくれた人。ビーの家族。だけど、魔女だから死ぬまで名前を教えてくれなかった師匠。
鼻が長くてとんがってはいなかったけどそれ以外は大体の人が想像するような魔女だった。真っ黒のローブに長くウェーブした白髪。目つきが悪く皺くちゃの手には大きな紫色の石がはまった指輪をいつも付けていた。
ビーが6歳になる頃には雑用を手伝わせ、10歳になる頃には簡単な魔法を教えた。厳しい人だったけど情がないわけではなくて、町の人たちからも尊敬されていた。ビーも師匠のことを誇りに思っていたし、彼女みたいな魔女になりたいというのが昔からの夢だった。
でも、ビーには師匠ほどの才能は無かった。それでも革製品に魔法を付与するのが得意だったため、鞄や靴を作って売ることにした。薬は師匠が作り、小物をビーが用意して売って生活をしていた。師匠が亡くなってからは薬を取り扱うのはやめて靴一本に絞って商いをした。まだまだ半人前のビーにはひとりで全てをこなすのは難しい。それでも、師匠から念押しされて魔女として国に届けを出していたのでビーの意思を無視して事を通そうとする者はいなかった。
2刻ほど眠ってから伸びをする。胸から下げたペンダントの先には紫色の大きな石がはまった指輪。長い髪を後ろに括るとナイフを研ぎ始める。新しい靴を作る時はまず道具の手入れからというのは師匠に教わったことのひとつだ。
道具の手入れが終わってからは依頼に合った皮を用意して加工をしていく。その人が求めているものが明確であればある程作り易い。何故なら具体的な方が魔法を付与しやすいからだ。
次の依頼は裕福な商人の妻のものだ。夫に対する愛情がすり減っているのでそれを取り戻したいと言うものだった。彼女にとっての幸せは本当にそうなんだろうか、と一瞬考えたけれど、ビーはいつも通り靴を作り始めた。
裕福な女性に合うしっとりとした黒革を選ぶ。紐を付けるか付けないか、どういうデザインが良いかなど考えることは沢山あった。方向性が決まったら予め測っていたサイズに合わせて型紙を起こす。それから鉛筆で転写していく。夫をもう一度好きになりたいと言うのは優しい願いだと思う。だから、ビーは依頼主が幸せになれる靴を作ろうと気合を入れた。
喉の渇きを感じて手を止めると、4刻ほど時間が過ぎており、ビーは休憩を取ることにした。薬缶に入ったお茶を大きなマグに注ぐと一気に飲み干し、ドライフルーツがぎっしりと詰まったパンをよく噛んで飲み込む。日持ちがするし満腹感もあり美味しいのでビーはこのパンが大好きだ。そろそろ食糧も買いに行かないといけないけれど根がズボラなビーはいつもギリギリまで家に引きこもっているのだ。
ささっと食事を終えてからお湯に布を浸して絞り、身体を拭いた。風呂は面倒なので4日に1回しか入らない。髪は汚れるまでは洗わない。師匠は月に1度しか風呂に入らなかったので自分は清潔な方だとビーは思っている。魔力が貯まりやすい髪はあまり洗わない方が魔法を使いやすいし、何より洗って乾かすのがとても億劫なのだ。
ビーが身体を拭いた後また汚れても良い服に着替えて作業を開始しようとした所で店の扉が勢いよく開いた。今日は来客が無いはずだし新規の予約は1年半後まで受けられないというのを説明するのは面倒だなと思いながらビーは入り口へと目を向けた。
「……いらっしゃいませ」
「おい! 小娘、お前がこの店の店主か?」
「ええ、そうですけど。どうかなさいました?」
「お前が作った靴のせいでキャロラインが使用人と駆け落ちしたんだぞ! どうしてくれるんだ! あと2ヶ月後には結婚式だったんだぞ!」
この世には2種類の人間がいる。客と客以外だ。ビーにとって後者は迷惑以外の何者でもないので早くお帰り願おうと口を開く。
「新規の受付は半年後になります。あと、それがその人の幸せだったんじゃないですか? あなたといることではなく」
「なっ! お前に何がわかるんだ! 俺とキャロラインは8年前から婚約者だったんだぞ。燃えるような恋ではないけどお互いを大切に思っていたんだ!」
「あなたの勘違いだったのでは? それか燃えるような恋を選んだとか。とにかく忙しいのでお帰りください。お分かりとは思いますが登録された魔女に対して手を出すのは違法です。だから、権力や暴力で解決しようとは思わないでくださいね」
ビーは男性を扉の向こうへと押してから閉店の札をかけた。内側から鍵をかけてカーテンを下ろす。とんだ邪魔が入ったとため息をつく。キャロラインという名前は少し前にキャメルの歩きやすいブーツを渡した女性のことだろう。つまらない婚約者と別れて真実の愛の相手と一緒になりたいと言っていた。ビーからすればそこまで気持ちが決まっているならそのまま逃避行すれば良いと思うが、きっと彼女にとってはお守りのようなものなんだろう。だから、ビーはそのブーツに追手から見つかりにくくなる魔法をかけた。
「あんな傲慢そうな男なんて捨てて正解だわ。しかし、また来たら面倒臭いわね」
ビーはため息を吐いてから作業に戻った。依頼は溜まってるし仕事は好きだから1日の大半は働いていた。あとは寝ている。食事も身支度も簡単に済ませている。色んな事情がある人の靴を作るのは楽しい。幸せになったとお礼を言われれば嬉しい。何より靴を受け取った時の顔を見るのが好きだ。お金はたくさん持っているけど買いにいく暇がないから全然減らない。靴を作るのはビーにとって仕事であり趣味であり息抜きなのだ。
靴底用の木を乾燥させたり皮を縫い合わせているうちに夜になった。目が悪くなるから夜に作業はしない。蜂蜜に漬けたナッツとドライフルーツのパン、それにチーズとワインのオレンジジュース割りで夕食にした。酒に弱い体質なのですぐにふわふわと眠気が出て来た。昼間に外で干したふかふかの布団をかぶってビーは目を閉じた。
「師匠、おやすみなさい」
亡くなってから何年も経つのにビーは毎日師匠におやすみの挨拶をする。師匠の身体は魔女専用の墓地にあるけど、きっと彼女の魂はここにあると思っている。師匠とビーは喧嘩をした日でも必ずおやすみと言い合うことを約束していた。約束していた相手はもう生きていなくてもビーは習慣として続けていた。
次の日、強くとドアを叩く五月蝿い音でビーは目を覚ました。今日は午後に貴族の令嬢が来る以外は予定はなかったはずだ。しかもまだ朝早い。普段なら寝ている時間に起こされてビーは不機嫌だった。どうせ昨日の男だろう。居留守を使うことも考えたけれど五月蝿いしこちらが我慢するのも違うよなあと思ってドアを勢いよく開けた。
バンという音とうわあという悲鳴が重なった。確かな手応えがある。多分ドアにぶつかったのだろう。
「どうしました? 受付は半年後までしていませんが」
「おまっ! お前!! いきなりドアを開けるな! あっ、鼻血が出てる」
「あ、出てますね。さあお帰りください。営業時間外です」
「なんて生意気な小娘なんだ」
「あなたこそ随分と傲慢ですね。依頼以外で次に来たら本当に追い出しますよ?」
「じゃあ、靴を作ってもらう。俺がキャロラインと復縁できる靴だ」
「それってキャロライン様には幸せではないんじゃないですか? わたしは幸せになる靴は作れますが復縁できるかどうかは保証出来ないですよ」
「なんて使えないんだ。魔女のくせに」
「ああ、そういう態度でしたらお帰りください。わたしに対して失礼な方に時間を使いたくありませんし」
ビーがドアノブに手をかけると男はその手を掴んだ。その瞬間、ビーの長い髪がぶわりと舞って紫色の瞳が爛々(らんらん)と輝く。ひと睨みすると男はへたりとその場に座り込んだ。
「女性にいきなり触れるなんて失礼ですよ? ほら、さっさとお帰りください」
「…………綺麗だ」
「え? 今何か言いました?」
「魔女殿、酷い態度をとってすまなかった。改めて俺に靴を作って貰えないか?」
変わりすぎた態度を不審に思いつつも謝られたのでビーは依頼を受けることにした。
「はあ、まあ良いですけど。じゃあそこの椅子に座ってください。採寸するので」
「ああ。わかった」
「初めに言っておきますがあなたの靴が出来上がるのは半年後です。そして、復縁出来るかはお約束できません。でも、あなたを幸せにする靴を作ります。だから、わたしに対してさっきみたいな失礼な態度を取らないでくださいね」
「ああ、わかった。本当にすまなかった」
ビーは慣れた手つきで男の靴を脱がせて採寸をした。形は悪くない、むしろ綺麗な足だ。ふくらはぎの筋肉のつき方を見るに肉体労働はしていないだろう。見たまんま貴族のお坊ちゃんだとビーは考えた。
「どんな靴が良いですか? 多いのは恋愛絡みですが仕事とか健康とかそういうのも願えますけど」
「そうだな、恋が叶うとかどうだ?」
「復縁は難しいと思いますが? まあ良いでしょう。そうしたら半年後にまた来てください」
「いや、進捗を見に来る。勿論差入れも持ってくる。迷惑料だと思って受け取ってくれ」
そこまで言われると断りにくくてビーは黙ってしまった。でも、何か持って来てくれるなら楽かもしれないなと思い直した。
「わかりました。たまになら良いですよ」
「ありがとう魔女殿。いや、名前を聞いても良いか?」
「何を言ってるんですか?」
ビーは呆れた顔でため息をつく。まったくこのお坊ちゃんは世間知らずだ。
「まずは自分が名乗りましょうね」
「マクスウェルだ。マックスでも良い」
「それから、これは一般常識なんですが、魔女は家族以外に名前を教えません。強い意味を持つからです。だから、魔女殿で良いです」
「そ、そうか。すまなかった。俺はどうも世間知らずで」
そうでしょうね、と言いかけてやめた。素直なところは美点だろう。良く見れば見目も悪くない。さらさらの小麦色の髪に琥珀色の瞳をしていて、黙っていればモテるだろう。でも、思い込みが強くて喋ると残念だからキャロラインさんに捨てられたんだろうなと思った。よっぽど女性側の精神年齢が上じゃない限り気の利かない男はモテないのだ。
「それじゃあ魔女殿。また来る」
「あんまり早い時間は寝ているので来る時は昼過ぎに来てください」
「わかった。では、失礼する」
こんなに人と喋るのはいつぶりだろうとビーはふと思った。師匠が生きてる時はたくさん喋っていた。お客様とはそこまで深く話したりしていない。いきなり態度が変わったのは不思議だったが依頼は依頼。彼に似合う靴はこれから考えていこうとビーは決めて二度寝するために布団に入った。
起きてから作業をして暗くなったら眠る。普段と少しだけ違ったけれど概ねいつも通りの1日だった。
布団の中でビーはいつの間にか師匠の声を思い出せなくなっていることに気づいた。顔も朧げになって来ている。でも、ゼラニウムとラベンダーのポプリの香りをかぐと師匠の温かさを思い出す。枕元に置いたポプリからは今日も師匠の香りがした。
次の日からマクスウェルの貢ぎ物攻撃が始まった。珍しいお菓子に花束、アクセサリーに香水や香油など若い女性が喜びそうなものを持って来ては仕事の邪魔になるからとすぐに帰って行く。ビーはマクスウェルが意外とそういうものに詳しいことに感心して彼への評価を改めた。そして、彼にお茶をいれて話したりするようになった。
ビーはいつの間にかマクスウェルが来ることが楽しみになっていた。出会いは最悪だったけれどマクスウェルは良いやつだ。美味しいものや綺麗なものに詳しい。ビーは靴に合わせる服やアクセサリーを見るのも好きなので出不精な自分の代わりにマクスウェルが持ってきてくれるのはありがたかった。
ある日、マクスウェルはいつもの時間に来なかった。ビーは珍しいなと思いつつマクスウェルの貢ぎ物のお菓子を食べた。見た目も可愛くて甘いお菓子でビーはそれをとても気に入っている。ビーが美味しいと言うとマクスウェルはそのお菓子をしょっちゅう持ってくるようになった。ビーはいつも興味深そうに仕事ぶりを見てくるマクスウェルがいないのは少し物足りないと感じた。
夜になり柔らかい毛布に包まるとすこしだけ寂しい気持ちになった。これは気のせいだとビーは思い込むことにした。
「師匠、おやすみなさい」
目をつむればいつもぐっすり朝が来る、はずなのにその日は全然眠れなかった。
次の日もマクスウェルは来なかった。ビーは不思議に思った。でも、よくよく考えてみればマクスウェルの依頼が達成されるのは半年先だし彼のことをビーはあまり知らなかった。色々気がつくし元婚約者にも優しかったのかもなと思うと胃がむかむかした。師匠オリジナルレシピのハーブティーを飲んでも胃の調子は戻らなかった。
1週間経ってもビーのもとにマクスウェルは来なかった。彼からの貢ぎ物もなくなったのでビーは久しぶりに街へ出た。パン屋と酒屋と果物屋に行くことにする。その前に顧客簿に書かれたマクスウェルの住所を見て、大体の位置を把握した。もしかしたら体調を崩していて連絡をできないのかもしれないとビーは考えたのだ。
お気に入りのパンを買い、りんごとオレンジとワインを買ってビーはマクスウェルの家の前に来た。マクスウェルの家はとても大きく豪邸と呼べるものだった。少なくともビーの家の10倍は広い。やっぱりお坊っちゃんだったのだなと納得しつつ豪邸を眺めた。それから家に帰ることにした。来てみたは良いが何を喋れば良いかわからなかったからだ。ほんの気まぐれだと自分に言い聞かせてビーは来た道を戻る。
すると向こうから見覚えのある男が歩いてきた。マクスウェルだった。その隣には可愛らしい栗毛の女性がくっついている。キャロラインだ。ビーは真実の愛はどうなったんだと思ったがマクスウェルが来ない理由には納得した。ビーが作った靴はその足にはなく華奢なヒールのパンプスを履いていた。
ビーはなんだか逃げ出したくなった。マクスウェルは見た目も良いし仲良くなれば案外良いやつだ。気もきく。便利で良いやつだ。だから、こんなに胸が痛いのは気のせいだ。
ビーがマクスウェルに見つからないように方向転換をしたのに彼はこちらに気付いて目を見開いてからずんずんと歩いて来た。隣にいたキャロラインを置いて。久しぶりに見たマクスウェルはなんだか前よりもキラキラして見えた。
「魔女殿! 君のところに行けなくてすまなかった」
「良いんですよ。おめでとうございます。キャロライン様帰ってきたから靴はもういらないですね。キャンセル料はいらないです。マクスウェル、良かったですね。あなたの幸せは靴なんてなくても戻ってきましたね」
「違うんだ。いや、この状況を見ればそう思うよな。明日いつもの時間に行く。だから話を聞いてほしい」
「なにも聞くことなんてありません。あ、プレゼントはお返ししませんよ。大事に使います」
ビーは早足で歩き出した。後ろからキャロラインの甘えた声が聞こえて来る。真実の愛はどうなったんだとビーはもう一度思った。マクスウェルの良さに気付いたのかも知れない。見た目が良くてお金持ちで優しく気がきく男。みんなが欲しがる宝石みたいな男。
ビーは上を向いて歩いた。油断すると涙がこぼれてしまいそうだったから。わかっている。マクスウェルのことが好きだから苦しいのだ。こんな気持ちは知りたくなかった。復縁を望む8年間も付き合っていた婚約者が戻ったのだ。マクスウェルが嬉しくないわけがない。気まぐれに優しくした魔女のことなんてマクスウェルはもういらないのだろう。ぼんやりと景色が歪む。マクスウェルの家とは比べ物にならない狭い家に戻ってから、ビーは声を出して泣いた。
「マクスウェルのばか、大嫌い。キャロライン様も真実の愛はどうしたのよ。メッキが剥げちゃったの? 離れてからマクスウェルの良さがわかったの? ばか、ばかばか。もう、みんな嫌い」
ビーは腫れたまぶたを冷やしながらベッドの上に横になる。初恋は実らないと聞いたことがあったがこれがそういうことなんだなと思った。ビーは自分が恋をするなんて考えたこともなかったし、これから先自分の名前を誰かが呼ぶこともないと思っていた。
でも、マクスウェルの声でビーと呼ばれたらきっと幸せだろう。誰かを幸せに出来ても自分にその魔法はかけられない。ビーは誰かを幸せにする靴を作れれば幸せだった。その前は師匠がいれば幸せだった。風邪を引いたときの薬湯、痩せた冷たい手、温かなパン粥。師匠はビーに家族を教えてくれた。彼女の名前は知らないけれど、それがなくても良いと思える関係だった。
師匠のことを考えるとビーは温かくて寂しい気持ちになる。マクスウェルのことを考えると苦しくて悲しい。だから、最低な日を終わらせるためにビーはいつもより早く布団の中に入った。
「師匠、おやすみなさい」
明け方に目覚めたビーは昨日進められなかった分の作業に手をつけた。冷たい水で顔を洗って濃いめのコーヒーを淹れて飲む。苦いコーヒーは好きじゃなかった。でも、いつの間にか生活の中に無いと物足りなくなった。マクスウェルの存在もビーにとってはコーヒーと似ていた。最初は苦手だったのに好きになるなんて思ってもいなかった。ビーのことを真っ直ぐ見て、言葉を聞いてくれる人は師匠が亡くなってからはマクスウェルだけだった。
作業を続けていて、どうも頭がスッキリしないのでビーはハーブを入れたお湯で濡らしたタオルで身体拭くことにした。さっぱりすれば気分も変わるだろう。
作業で汚れても構わない皮のエプロンを外して真っ黒の飾り気のないローブを脱いで、下着も全て取り去った。そして、お湯に浸けたタオルを絞って身体を拭き始める。綺麗になると気持ちが良い。今日の夜は湯船に浸かってもいいかも知れないとビーは考えた。そうして新しい下着を身に付けているとドアが何度かノックされてから開いた。
「すみません、今はやってないです」
「魔女殿、俺だ。マクスウェルだ、ってその格好どうしたんだ?!」
「身体を拭いてたんです。あの、出てってくれません?」
マクスウェルは顔を真っ赤にしてドアから離れた。それからビーに声をかける。
「すまなかった。ノックしても出ないから居留守かと思って」
「はあ、普通勝手に入ります?」
「それは本当にすまない。普段は作業をしている時間だったから……。魔女殿、俺の話を聞いてくれないか? このままでも良いから」
「わかりました。とりあえず服を着るので少し待っててください」
とは言えローブを被れば支度は終わりなのでビーはすぐにドアを開けてマクスウェルを招き入れた。ビーは今更マクスウェルに訪ねて来られても迷惑だった。素直に彼の幸せなんて願えない。マクスウェルが前みたいに嫌なやつだったら良かったのにと思った。
「どうしたんです? キャロライン様は?」
「魔女殿、聞いてくれ。キャロラインが戻ってきたけど、俺は前のように心動かされなかった。キャロラインのことを大事に思って大事にしていた。でも、俺は彼女のことを好きじゃなくなった。浮気された時はカッとなって酷いことも言ったけど、家のこともあるし戻ってきたら許して復縁するつもりだった」
「はあ、何が言いたいんです?」
「魔女殿、良く聞いてくれ。俺は君のことが好きだ」
「え? そんな事、信じられません。わたしが女性としてキャロライン様に勝てる部分なんてひとつもありませんし」
「そんな事はない。魔女殿には良いところがたくさんある。俺が失礼な事を言っても許してくれたし、笑うと可愛い。真剣に作業をしている顔も好きだし、良く食べるところも良い。俺は君とずっと一緒にいたい」
「そんなの一時の気まぐれです。マクスウェルはキャロライン様のことを8年も想っていたんでしょう?」
「そうだった。でも、俺はもう、君のことしか見てないんだ。あの日、怒った君の瞳があまりに美しくて驚いた。それで好きになったんだ。馬鹿みたいだけどあの一瞬で恋に落ちた。君に少しでも良く思われたくて色々プレゼントしたし、下心ばっかりだった。君に近寄る男はみんな殺してやりたかった。嫉妬して、すごく格好悪かった。でも、君が俺に対して他とは違う反応をしてくれたことに気づいて、それがとても嬉しかったんだ。だからキャロラインが戻ってきた時、すごく焦った。君との距離は縮まっていると思ってたから、あんな風に突き離されて悲しかった。でも、中途半端な態度を取っていた俺が全部悪い。キャロラインにはもう元には戻れないと伝えた。好きな人ができたことも。俺は、君が好きだ。魔女殿、どうか俺と結婚して欲しい。俺の幸せは靴がなくても君のそばにあるんだ」
「……そんなの、ずるいです。知らなかった。わたしだって、あなたのことを」
マクスウェルは目をぱちくりと開いてからへにゃりと笑った。そして、ビーのやわらかな頬に触れる。
「俺のことを、何? 教えて」
「……あの、わたしの名前はビーって言います。魔女は家族にしか名前を教えません。その意味があなたにわかりますか?」
「ありがとう。君の名前を教えてくれて。とても素敵な名前だ。ビー、君のことを愛している。だから、俺と結婚してください」
マクスウェルは胸ポケットから小さな箱を取り出して、その中にある指輪をビーの左手の薬指に嵌めた。サイズがぴったりの金の指輪、それを見てビーの瞳から涙がぽろりと溢れた。
「はい。わたしでよければあなたの家族にしてください。あと、名前を呼ぶのは2人きりの時だけにしてください」
「わかった。そうするよ。あの、君にキスをしても良い? すごく嬉しくて我慢できないんだ」
「我慢できないのに聞くんですか? 良いですよ、どうぞ」
ビーが目を瞑るとくちびるにの柔らかなものが触れた。キスってこんなに幸せな気持ちになれるんだとビーは感心した。これからそういうものをマクスウェルと見つけていきたい、と思った。
昔々、幸せになれる靴を作る魔女がいた。彼女はとても優しい夫と3人の子どもたちに囲まれて、その生涯を終える直前まで靴を作り続けた。彼女が最後に作ったのは愛する家族の靴だったという話だ。
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