終着駅~ここではないどこか~
地下鉄のプラットホームで、俺は終電を待っている。
傍らに書類を詰め込んだ鞄を置き、ベンチに座って。
終電の時間になってしまったのは、例のごとく終わらない仕事のせいだ。
まったくいい加減にしてほしい、明日から出張だというのに。
思いつつ、俺は上着の右ポケットに手を入れる。
てのひらに収まる大きさの硬めの紙。表面をなぞると、小さなパンチ穴が開いているのがわかる。
なんとなくホッとする。
俺は間違っていない、という安堵。
このままここで待っていても大丈夫、というそこはかとない安心感。
ベンチに座り直す。
時間も時間だからか、地下鉄駅のプラットホームには誰もいない。
ここはいつも通勤に使っている駅ではない。
会社から30分ばかり歩いたところにある、寂れた雰囲気の地下鉄駅だ。
ここから乗って終着駅で降り、駅前のビジネスホテルで一泊してターミナル駅へ向かう。
ターミナル駅の中にテナントとして入っているカフェで、ゆっくり朝飯を食って出張先へ向かう。
自宅へ帰るより、その方がはるかに身体を休める時間が取れるし、ゆったり過ごせる。
当然ホテル代は持ち出しになるが、最近、出張前日はこうして過ごすことが多い。
下着類はコンビニなんかで買えるし、スーツのしわはシャワーの後の浴室にでも吊るしておけば、少しは伸びる。
自宅から向かうより一時間以上多い睡眠時間や、質のいい旨い朝飯を食える価値は、ホテル代よりずっとある。
(でも……何でこうなるのかな?)
ため息をつきながら思う。
まるで何かに呪われているかのように、俺は、激務というか労働基準法を超える労働時間で働くのが普通、の職場で馬車馬のように働く羽目に陥る。
今勤めている会社は、転職前に勤めていた会社と比べればホワイトな職場環境だと思う。
少なくとも入社した頃は、定時で帰れる日も多かった。
言わせてもらうが、仕事が出来ないせいで必要以上に残業している訳ではない。
自分で言うのもナンだが、むしろ俺はソコソコ出来る方だという自負がある。
では何故こうなるか?
単純に仕事量が多いのだ。
もたついている同僚の尻拭いをしているうちに、いつの間にかそいつの仕事を俺が担当することになり……なし崩しに、その仕事は俺がやって当然という空気になってゆく。
元々担当していた仕事は当然俺の仕事のままであり、誰も替わってくれない。
それでも、頑張れば何とかまわしてゆけるので俺もつい、そのまま仕事を抱える。
こんな風についつい仕事を抱え込んでしまうのは、俺の悪癖だという自覚はある。
だが、俺に仕事を押し付けた連中も大概ではないかと内心思う。
皆、自分の仕事でなくなった途端、これ幸いとばかりに大喜びで手を引き、さっさと定時で帰りやがる。
形だけでも『元々は自分の仕事だから手伝います』とか、『半分くらい引き受けます』とか言う奴はひとりもいやしない。
(恩知らずめ)
呪詛めいた言葉を口の中で噛みしめ、俺はベンチの背もたれに身を預ける。
何だか眠くなってきた。
うとうとしている。
自分でもそれがわかっている。
まずいなと思いながらも目が開かない。
俺は今、うたた寝しながら夢を見ている。
今回の切符を買った金券ショップが夢に出てきた。
別にいつも利用している店じゃなく、たまたまというか半分気まぐれで立ち寄った店だった。
だからか、その店がどこにあったのか曖昧だ。
夕映えの町角、とろりとした飴色の光の中、幻のようにその店はあった。
歪みを感じる古びたガラスで作られたショーケースに、各種チケット・金券・プリペイドカード等がそっけなく陳列されているだけという、こんな状態で商売が成り立つのかと客の方が心配になるような店だった。
白髪をきちんと結い上げた地味なおばさんが一人、店番をしていた。
「いらっしゃいませ」
品よく整った顔立ちのおばさん店員は、低めの声でそう言ってほほ笑む。
「買い取りですか?」
「え?ああいえ……」
特に用もないままいつの間にか店内に入り込んでいた俺は、なんとなくきまりが悪くなり、意味もなく右手をポケットへつっこむ。
新幹線だか特急だかの乗車券を持っていたのは確かだが、俺は別にこれを売りにきたのではない。
むしろ買いにきたのだ。
ここではない、どこか、へ……。
ハッと目が覚める。
左側のポケットにいつも入れているスマートフォンを取り出し、時間を確かめた。
終電が来るまであと10分ほど。
一瞬ヒヤリとしたが、うたた寝をしていて乗れなかった訳ではなさそうだ。
ほっとしながら俺はもう一度、軽く目を閉じた。
ぼんやりと熱を持ったような、鈍く痛む頭。
夢のようなうつつのような、曖昧な感覚。
かつての職場で過労死寸前になり、道で倒れて救急搬送された時も、そういえばこんな感じだった。
古い記憶なのか夢なのか、妄想の中なのかうつつなのかわからない場所で、終わらない仕事をひたすらこなし続ける毎日。
たとえ仕事がきつくても、『出来ません』とは言えなかった日々。
やや大袈裟に言うのなら、仕事をしないと殺されるような強迫観念に囚われていた。
今の勤め先は、あの時とは少し状況が違う。
前の会社で馬鹿みたいに仕事をさせられたお陰だろうか、俺は『仕事』というものの勘どころを捉えるスキルが、いつの間にか異常に高くなっていた。
どんな仕事でも、重要なところとそうでもないところがある。
そこを素早く見出して重要なところに注力すれば、漫然と進めるよりずっと素早く、そして垢ぬけた結果が出るものだ。
俺は最初、軽い手伝いのつもりで同僚のヘルプに入った。
だけど自分で全部やった方が早いから、もたついている相手に苛立ってつい、仕事を取り上げてしまった。
するといつの間にかその仕事は、俺の仕事ということになっていた。
まあ……仕方がない。俺がやった方が確実で早いのだから。
そう割り切り、ひたすら仕事に没頭した。
やったらやった分、結果がついてくるのが仕事というものだ。
クリアされた案件が次々と積み上がるのは快感で、俺は内心ほくそ笑んだ。
この職場で、仕事で俺に敵う奴などいないだろうと。
でも。
何故か誰からも感謝されない。
むしろうっすら嫌われ、無慈悲なまでの量の仕事を次々押し付けられているのが昨今の状況だ。
……ああ、また夢を見ているらしい。
例の金券ショップだな。
店員のおばさんの、控え目なほほ笑みが見える。
「……そちらをお求めですか?」
少し困ったように、彼女はかすかに眉を寄せる。
彼女の視線の先にあるのは、名刺ほどの大きさの黒い紙。
闇を思わせる漆黒に、白の素っ気ない明朝体の活字で『ここではないどこか』行き、と書かれていた。
「正直に申しまして、あまりお勧め出来ませんが。『ここではないどこか』への旅は、終わりのない旅になります。宗教家か芸術家か冒険家か……普通の幸せに背を向けるやり方でしか生きられないお客さま用の、特殊なチケットになりますので」
「は?」
言葉の意味はわかるけど、内容がよくわからない。
俺は間抜け面でおばさんを見返した。
おばさんは、熱を出した幼い子を見守る母親のような目で、じっと俺の顔を見た。
「……そうですね。今のお客さまにはこのチケットが一番相応しいのかもしれません。でも『ここではないどこか』への旅を続けるのには、強い信念や衝動が必要なんです」
よくわからないままに俺は、ひどいショックを受けた。
所詮お前は凡人で、明日も会社へ行ってこき使われるしかない人間なのだと言われた気がした。
「……かまいません」
自分でも思いがけない言葉を、気付くと俺は言っていた。
ハッと身じろぎする。
左側のポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認。
さっきと変わらない時刻が表示されていた。
それほど長くうとうとした訳ではなかったらしい、と大きく息をついた。
(座ってるとダメだな。どうしても眠くなる)
俺は鞄を手に立ち上がった。
意味もなくプラットホームをぶらぶら歩く。
ひと気のないホームに、俺の足音だけがコツコツと不気味に響く。
線路側に軽く身を乗り出し、列車が来る方向を覗き込んでみた。
そこにはただ、暗黒の闇があった。
「わかりました。お売りいたします」
飴色の光の中で彼女は言った。
聞き分けのない駄々っ子を持て余しているような目だった。
俺は財布の中から札を引っ張り出し、彼女へ渡す。
そして黒いチケットが手渡され……。
闇の向こうを覗いていると、何故かぞわっと背が冷えた。
取り返しのつかないことをしてしまった、とでもいう、焦りにも似た胸騒ぎ。
右手をポケットへ入れ、切符を探った。
指先に感じる硬い紙の角、端に入れられたパンチ穴。
(え?)
……地下鉄の切符にしては、妙に大きくてしっかりしていないか?
ポケットから切符を引っ張り出す。
指まで染まりそうな深い黒が目の端にかすめ……慌てて俺は、それをポケットの奥へ押し込む。
「このチケットは、お客様ご本人が『旅に出る』と決心された時点で効力を発揮します」
感情のない、淡々とした彼女の声が耳の中で響く。
「逆に言えば『旅に出る』とお決めにならない限り、始まりません。……どうぞお持ち下さい。お客様の場合、お持ちになっていること自体がお守りになるかもしれませんね」
アルカイックスマイルを浮かべる彼女。
意を決し、俺はもう一度、切符を取り出した。
濃い灰色でも濃い青でもない、絶望的なまでに美しい、深い深い黒の地の乗車券。
その表面に純白のインクで素っ気なく、明朝体の活字で行き先が印字されていた。
『ここではないどこか』行き
(な……、な、に?)
指先が馬鹿みたいに震え出す。
乗車券を投げ捨て、俺は出入り口へ通じる階段へ向かって走った。
……アイツにやらせといたらいいんだよ。
ヘラヘラと下卑た笑みを含んだ、あからさまに馬鹿にした口調。
会社の休憩室だ。
俺が衝立の向こうにある仮眠室で仮眠を取っていることに気付かず、同僚たちが言い合っていた。
ちょっと仕事が出来るからっていい気になりやがって。
確かに大変優秀でいらっしゃいますけどね。
だったら、フツーの人間の二倍の仕事は難なくこなせるでしょうよ。
まったく、まったく。
あのままやっててもらいましょう、ご本人も嬉しそうだし。
ぎゃはははは、という無遠慮な笑声が響く。
おそらく、周りに自分たち以外いないと思い込んでいたのだろう、はばかることなく大きな声で話している。
誰が聞いているかわからない社内で、同僚の悪口を言い合う。
連中はやっぱり馬鹿なんだなと、歯噛みしながら俺は思う。
耳を塞ぐように毛布を引きかぶり、きつく目を閉じた。
(ここ、も……、いや)
乾いた嗤いが頬に浮かぶ。
(ここは俺の居場所じゃない……)
「このチケットは、お客様ご本人が『旅に出る』と決心された時点で効力を発揮します」
感情のない、淡々とした声。
「逆に言えば『旅に出る』とお決めにならない限り、始まりません」
あの日の金券ショップのおばさんの声が不意に聞こえる。
あの店は今の会社へ来る前、過労で倒れそうになっていた時に、ふらりと立ち寄った店だった、そう言えば。
ここではない、どこか。
本当に行けるものならば。
煩わしい付き合いなど必要ない静かな場所へ。
俺の……俺だけの居場所、へ。
旅立つ。そう、旅立つとも今すぐに!
半ば自棄になって俺は、閉じたまぶたの向こうの闇を、怒りを込めてきつく睨んだ。
息が切れる。
もうかなり走っているのに、ついさっき降りてきたはずの階段が何故か見つからない。
そもそも、この駅のプラットホームはこんなに長かったか?
「……そんな。なんでだよ!」
ゼイゼイと肩で息をしながら、俺は立ち止まった。
さっき投げ捨てたはずの黒い乗車券が、少し先の黄色い点字ブロックの上に落ちている。
俺は辺りを見回す。
相変わらずひと気のない、静かなプラットホームだ。
己れの呼吸音ばかりがやたらと耳につく。
思い付いてポケットを探り、スマートフォンを取り出した。
表示された時刻は、さっき確認した時刻とまったく同じだった。
『旅に出る』とお決めにならない限り、始まりません。
低めの物静かな声が、混乱した頭の中でわんわん響く。
俺はガクガク震えながら、何かに引かれるように腰を折り、黒い乗車券を拾い上げた。
ぶるぶると震える指の先、漆黒の紙に純白の文字でこう書かれていた。
『人生の終着駅』行き
(え?えええ?)
乗車券に書かれた行き先が、変わっている?
『ここではないどこか』行きだったはずなのに……。
急にひどい寒気がした。
ハッと顔を上げ、壁に取り付けられている駅名標をきちんと見た。
『人生の終着駅』
LEDライトで明々と照らされたプラスチックの駅名標には、はっきりとそう書かれていた。
俺は長い長い絶叫を放つ。
静かな静かな構内に、俺の絶叫だけが闇のはるか向こうまで、虚しくこだましていった。




