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空が青いので死ぬことにしました

作者: 村崎羯諦

 朝、いつもより少しだけ早い時間に目覚める。重たい羽毛布団を持ち上げてベッドから降りると、フローリングの床は氷のように冷たくなっていて、呼吸を止めたみたいに身体が縮み上がる。分厚いベージュのカーテンを開ける。窓の表面についた結露を寝巻の袖で拭うと、網ガラスの向こうに目がくらむほどの澄んだ青空が見えた。どこまでも高くて、雲一つない青空。その青を見ているだけで吸い込まれそうになって、穏やかな朝の柔らかい光に包まれているとすべてがどうでもよくなって。だから私は、空がどうしようもないくらいに青くて澄んでいたから、今日というこの日に、死ぬことを決めた。


 窓を開けると、部屋の中に冷たい冷気が流れ込む。窓から差し込む朝日が部屋の中で光の柱を作り、舞い上がったホコリと塵がキラキラと輝きながら、ぐるぐると渦巻のように踊っている。朝早いのに、遠くからは車が走る音が聞こえてくる、誰かと誰かの喋り声が聞こえてくる。昇り始めた太陽の反対方向に目を向けると、くすんだ養生ビニールに覆われた家があって、その上で数人の大工さんがあくせくと動き回っていた。耳を済ますと少しだけ、彼らが鉄パイプを叩く音が聞こえてくる。カンカンカン、カンカンカン。


 電気ケトルに水を入れ、お湯を沸かす。吹出口についた水滴を手で拭う。右の手首が濡れた袖と触れ合って冷たい。私は部屋を見渡してみた。ベッドの寝台に置きっぱなしの雑誌、表面がひび割れた携帯電話。リビングの真ん中に置かれた円卓。その上には手の形をした凹みのできた空き缶。せめて掃除はしておこう。みっともないのは嫌だから。


 栗色のチェスターコートを着て外に出る。ポケットに手を突っ込むと、入れっぱなしのマスクに指先が触れた。マンションの外に出ると、空気はいつもよりも乾いていて、口から溢れる吐息は小麦粉のように白かった。駅に向かって、住宅街の中を歩いていく。足早に歩く人から追い抜かれたり、寄り添って歩く二人とすれ違ったり。一軒家とマンションがまばらに立ち並んでいて、淡黄色をした冬の太陽が顔をのぞかせたり、引っ込めたり。日向は暖かくて、でも、日陰はキンと冷たくて。思い出したように吹く北風に流されて、道端の落ち葉がカラカラと音を立てて私の前を横切っていく。


 行きつけのホームセンター。行きつけのコンビニ。両手に持ったレジ袋。掃除用具やら洗剤やらに混じって、詰め込まれた首吊用の綿の紐。思いつく限りの色んなものが詰め込まれた袋は一方だけが重たくて、持ち手を握る指がキリキリと締め付けられた。大通りを車が通っていく。歩道を自転車が通っていく。たくさんの人が歩いていく。私は赤信号で立ち止まる。三歳ぐらいの男の子を抱っこした父親が隣に並ぶ。男の子がぐずって、それからくしゃみをする。私の方をちらりと見る。それからまた、顔をあげて父親の顔を見上げる。信号が青になる。私と隣の二人が違うタイミングで歩き出す。それでもうお別れ。さようなら。私はすれ違う人とぶつからないように注意しながら、右と左のレジ袋を持ち替えた。


 部屋に戻って、レジ袋を床に置く。部屋の中は外よりは少しだけ暖かくて、湿気がこもっていた。掃除機をかける。雑巾で床を吹く。鱗のようにこべりついた洗面台の水垢をこすり取る。途中で窓を開け忘れていたことに気がついて、窓を開けた。太陽はいつのまにか南の空へと移動していて、窓から差し込む光は少しだけ強くなっていた。蛇口から流れる水で手を洗うと、冷たさで痺れのような痛みが指先に走る。蛇口を締めても、指はまだその冷たさを覚えているみたいに、うっすらとピンクで、感覚がなくて、まるで自分の身体の一部ではないような気がして。


 積んでいた本はビニール紐で縛ってまとめる。読みかけの文庫本、惰性で購読していた雑誌。古本屋で買った分厚い本はアーモンド色に日焼けしていて、持つとずっしりと重い。パラパラとめくるとカビの匂いがする。私は古本は古本でまとめてビニール紐で縛った。横に巻き、縦に巻き、十字の部分で結び目を作る。一回目はうまく行かなかったから、もう一回。フローリングの床には箪笥を引きずった時にできた細かい傷がついていた。私はその上にまとめた本を積みあげる。


 一段落して私は円卓の前に座る。掃除の途中で見つけた便箋を取り出して、インクが切れかかったペンで文字を綴る。窓を締めると、外から雑音が聞こえなくなって、キュッキュッとペン先が紙の上を走る音だけが聞こえてくる。漢字を思い出せないから携帯で調べる。指はまだ少しだけかじかんでいてうまくいかない。書き損じた言葉は二重線で訂正しておく。終わりの言葉を付け加える。ごめんなさい。かしこ。


 外から夕方のチャイムが聞こえてくる。立ち上がる。窓のそばに立つ。遠くの空を見る。今朝はあれだけ青かった空は茜色と紫色の入り混じった色になっていて、地平線の近くだけは燃えるように赤かった。窓を開けると、昼の陽気が嘘みたいに冷たくて、甘くて乾いた冬の匂いがした。遠くのマンションのベランダでは洗濯物がかけっぱなしになっている。北風に吹かれて洗濯物が揺れる。風が止むと、また元の位置に戻る。まばたきのたびに夕焼けは地平線の向こうへとゆっくり沈んでいって、それにつれて視界は薄い靄がかかっていくみたいに暗くなっていって、四角い窓に切り取られた家の明かりが、提灯のようにぼんやりと浮かび上がっていく。


 窓を締める。部屋は静かで、少しだけ寒い。レジ袋から買ってきたロープを取り出す。カーテンを閉め、レール部分に紐を通して輪っかを作る。部屋の照明に照らされて、紐を結んでいる私の手の影がカーテンに浮かび上がる。つり革みたいな輪っかと、小さな2つの手の影。まるでじゃれあっているみたいで、少しだけおかしかった。


 円卓をカーテンレールの方へと近づけていく。円卓の上に立つ。紐を引っ張ってみる。レールが軋む音が静かな部屋に響く。レール部分を見てみると、カーテンを留める金具が一つだけ外れていたから、それを止める。両手で縄の輪っかを掴む。鼻から息を吸い込むと、買ったばかりの綿の匂いがした。いつの間にか指の感覚は戻っていて、第一関節と第二関節の間にぴったりと収まった紐の冷たさが伝わってくる。かかとを上げる。ぐっと背伸びをする。両手で紐を握りしめたまま自分の首を輪っかの中に入れる。首と紐があたる部分が、少しだけざらついていた。


「幸せになりたかったな……」


 両手を輪っかから外す。右足を円卓の縁にかける。それから私は右足に力を入れながら、一歩だけ前に進んで、円卓から飛び降りた。

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