第一話
第一章
「………………うぅん」
眼を覚ますと蒼然とした天井がぼやけ眼に映った。
(……寝ちゃったのか)
中学校から卒業証書を手に帰ってくると、夕飯の用意をして少し休憩を取るつもりでソファに座ったらそのまま眠ってしまったらしい。
キッチンの方に向かって鍋のふたを取るといい匂いが漂った。
(よかった。料理は済んでる)
カレーのスパイシーな匂いが鼻孔を擽り空腹を誘う。
(灯さん、今日は何時に帰ってくるんだろう?)
同居人が帰ってくる時間はいつもバラバラでなんなら帰ってこない日もある。
鍋に火を掛けてキッチンを離れ、リビングにあるテレビを付けた。
映像が映り、真面目そうなキャスターがニュースをつっかえることなく読み上げた。
『先日の一家殺人事件の続報です————』
(ああ、この事件か)
少し前に起きた大きな事件だ。家の住人が消えたように居なくなってしまった事件で、警察は事件性があると判断し捜査している。
夜逃げなど住人たちが意図して家から出たのであればこんなに大々的に報じられることもないどころか事件にすらなるはずがない。その家には殺人事件だと警察が判断するに足る確固としたものが残されていたからだ。
家のリビングが真っ赤に染まっていたらしい。
この地域で起きた事件で、学校では『赤い部屋』という噂話が語られていた。
警察が見えないように隠す前に生徒がそのリビングを目撃したそうだ。
実際には部屋の中がどうなっていたのかはわかっていないが『赤い部屋』たるゆえんはリビングの窓が真っ赤に染まっていたからだそうだ。
(灯さん大丈夫かな……)
近場で起きた事件なので、同居人が心配になってしまう。
「あっ」
(そういえば鍋に火を掛けっぱだった)
リビングに急いで戻り、ふたを開けるとグツグツになったカレーが出てきた。
「よかった。いい感じだ」
かき混ぜようとおたまを手に取った時に玄関が開く音が聞こえてきた。
(今日ははやいな)
おたまを置き、速足で玄関に向かうと、
「おかえ……うわっ⁉」
愕然とさせる現象が起きていた。
紅い長髪が床にくず折れていたのだ。
(またか、まったく……)
「あかりさーん。ご飯できてるよー。おーい」
「……………」
……返事がない。ただの屍のようだ。
はぁと溜息を吐くと慣れたように自分より大きな紅髪の女性を抱え上げて寝室に運ぶ。
(慣れてるって言っても重いんだけど)
意識の無い人間は重くなるとよく言うが、特に頭がぐったりとしているせいか左腕が凄く重い。力なく左腕に寄りかかる頭部を見下ろすと、瞠目してしまった。
(今日は一段と、怪我が多い)
彼女と暮らし始めて結構立つが、この人が普段どんな仕事をしているのか全く知らないのだ。
(いや、何度も知ろうとしたんだが……)
寝具の上に寝かせて毛布を掛け、その尊顔に付いた傷を物色するとリビングに戻って救急箱を片手に戻ってくる。
(寝ている間に手当しておかないと起きたときにうるさいからな)
消毒液で湿らしたティッシュぺーパーで傷口を綺麗にして、化膿止めを塗ってガーゼを張る。消毒しているときに染みたのか少し嫌な顔をした。
(しばらくしたら起こして夕食にしよう)
その間にシャワーでも浴びようと思い立ち、浴室に向かう。
この家の主人曰く、湯船に入ると眠ってしまうのでシャワーだけであれば十分とのことなのでこの家には湯船が存在しない。
前に本で読んだ、湯船にザッブーンと入るのをやってみたくもあるが無いものはしょうがない。温かいシャワーを全身で浴びて一日の汚れを落としていく。
一頻りシャワーを浴びると浴室から出て、用意した着替えを身に着けてキッチンに向かった。
また少し冷めた鍋に火を着けて、濡れた髪をタオルで拭きながら眠り姫を起こしに向かう。
「おーい。起きて、灯さん」
「………………」
余程疲れていたのだろうか、掛け声だけでは起きそうにない。
体を強く揺すればさすがに起きるだろうが、この家に住まわせてもらっている身としてはそんな乱暴なことをするわけにもいかない。
さて、どうするか。
「……………」
「スゥ~スゥ~……」
灯さんの寝顔を眺めて苦しまないように起こす方法を考えていると吸い込まれるように右手が灯の髪に伸びた。
その髪を撫でて弄んで『くすぐったくてこれで起きてくれればいいな』と思いながら、サラサラな紅髪を慈しみを込めて触り続けてしまった。
「あっ」
しばらくそうしていると『うぅん……』と顔を枕に埋めてしまった。
「仕方ないか……」
灯さんを仰向けにさせてから、背中に腕を回して座る体制にさせると優しく揺すった。
「灯さん。起きてくれ」
何回も揺すっているとゆっくり瞼が開いた。
ボ~と空間をしばらく見つめると近くにあった僕の顔に気づいた。
「…………」
「おはよう灯さん。やっと起きたね」
灯さんは眠たそうな眼をしたまま息を吐くとそのまま瞼を閉じた。
「……あれ?ちょっと灯さん⁉」
また寝ようとしている灯さんに焦って、さっきよりも強く揺すった。
「…………」
(あっ寝たふりしてる)
「灯さん、灯さん?灯さん寝ないで」
「……ふふ」
「あっ、今笑ったでしょ。起きてるでしょう?わざとやってるでしょう?」
起こしても起きない。というか意図的に起き上がらない。
(僕を困らせて楽しんでいるなこの人)
「ああ、もういい」
「……うわっ」
もう起きているならこのままリビングに運んでしまおうと考え、先程と同じように抱えて寝室を出ると、普段食事を取るテーブルまで運んで席に着かせた。
「今用意するからちゃんと食べてね」
僕はそういうとキッチンに向かい食器棚からカレーを食べる準備を始めた。
灯さんは、椅子まで運ばれて少し驚いたのかちょっとの間、目をパチクリさせるがすぐに『くぁ……』と欠伸をしてテーブルに突っ伏してしまった。
僕が二人分のカレーをテーブルに運ぶ頃にはまた半寝状態だったが、お腹が空いていたのか匂いにつられて顔を上げた。
「いただきます」
「いただきます」
ここに来て、ちょうど3年。僕はこんな日常を過ごしていた。
最初の頃は、この部屋はものが散乱しており、そのせいか狭くてゴミ捨てまでロクにできていなかったから異臭すらしていた。
およそ最悪といわれるであろう部屋の第一印象。
それでも静かなこの場所に僕は救われていた。
鼓膜を破りそうなほどの怒鳴り声も悲鳴も、窒息しそうになる息すらしづらい重たい空気もない、ただ静かな部屋に心が休まったこと。そのことは時間が経った今ほど感慨深く思う。
当時の灯さんは特に家に姿がなく、そして僕は生きる気力が無くただひたすら時計の音を聴いて過ごしていた。
無調理で食べられるパンやら缶詰などの食べ物を灯さんは大量に部屋においており僕は空腹になるとそれをもそもそと食べていた。
静かな部屋で静かに摂った食事は涙が出るほどおいしかった。
部屋の汚さに気づくほど気力が回復して、少しづつ家事をするようになったんだ。
ざっくりいうとそれから今日までの僕の歴史はそんなところだ。
「そうだ。灯さん、今日卒業式だったよ」
辛さで口がヒリヒリしてコップに手を伸ばしながら僕はなんともなく口にした。
「そう……もう三年たったのね」
灯さんは昔を回顧するように眼を細めると、そのままゆっくりと唇を和らげてこういってくれた。
「あっという間だったよね3年間」
「至恩。卒業おめでとう」
慈愛の籠った声音に瞠目してしまい口に含んだ水を一瞬飲むのを忘れてしまった。
「灯さんのおかげで、僕は同級生と同じように少し涙ぐみながら笑顔で卒業できたよ。本当にありがとう」
「……………」
「灯さん。灯さん。……おい、寝るな」
「寝てないよ。感動して泣いちゃいそうになったから瞼を閉じて涙を堪えただけだよ…………ぐぅ」
食器を綺麗に空にして、机に突っ伏しながら涙を堪えている灯さんは楽しそうにしているこの人に癪だが感謝をしてもしきれない。……今は癪だけど。
「まぁいいや。それで、どうして灯さんはその美人のお顔に怪我をして帰ってきたんだい?」
「転んだんだよ。ペットボトルのキャップに躓いて」
ポイ捨ては本当に良くないよねと、いつも似たようなおかしな理由で怪我をしてくるこの人に僕は嘆息をしてしまう。
「絶対に言わないよね。そんなに大変な仕事してるの?いつも疲れて帰ってくるし、俗にいうブラック企業で働いてるとか」
「いい女には秘密がつきものなの。……それより私眠すぎて動けないから寝具まで運んでくれ」
テーブルに突っ伏して力尽きたような弱い口調でいい女発言をする灯さんは何の説得力もなかったが、どんなに問い詰めたところで絶対に言わないから僕はおとなしく灯さんを寝室に運んだ。
「よっと……それにしても灯さん重くなったね……」
「えっ⁉うそッ!」
「うん、嘘。相変わらず軽いから逆のこといいたくなっちゃった。明日からはもっとハイカロリーな夕食を用意しないと」
「もう……あっ、じゃあ明日はオムライスが食べたい」
「はは、好きだねぇ。わかったよ」
そんな会話をしながら寝具に寝かせ、毛布を掛けてあげた。
「じゃあ、おやすみなさい。灯さん」
「おやすみ。至恩」
最後に電気を消して寝室を後にした。リビングに戻って食器を台所に持っていって片付けて慣れたもんだなと卒業式があった今日だからか感慨にふける。
明日から春休みに入るから、他にも色々作ろうかなと献立を考えながら自分の部屋の戸を閉めた。