図書館。
歪んだ空間をスルスルと移動していく。色があるようなないような、不思議な空間。もしこのときに優香が目を覚ましたらパニックするだろうと、眠らせたままで移動している。
薄暗い空間に到着すると、優香をビロード張りの長いすに寝かせ、自分も向かいにある肘あてのある椅子に座る。そして指をパチンと鳴らすと、優香が目を覚ました。
「あの、ここは…?」
当然ながら優香はポカンとしている。
「ようこそ。アタシの図書館へ。」
言われて辺りを見渡すと、薄暗くて天井の高い場所。目をこらすと、壁に思えたそれは天井に向かってそびえたつような本棚の列だった。図書館だということはわかったけど、どうしてここにいるのか優香はわけがわからないままだ。そしてなぜだか、薄暗くて本がたくさんあるこの場所の空気は、優香の警戒心を忘れさせた。
「ここは、アタシの世界。そしてアタシは本の魔女であって、この図書館の主なの。」
「本の、魔女?」
「そうよ。魔女にも色々あってね。アタシは物語を作るの。色んな人を好きな物語の中で楽しく暮らさせてあげるのが仕事。」
そう言って指揮者のように人差し指を振ると一冊の本が優香のひざの上にふわりと飛んできて、ページが開いた。ページの絵が浮き上がり、ページの上では楽しそうにウサギと戯れる小さな男の子がいた。
「この子、知ってる…。」
男の子は、幼稚園で一緒だった。あるときからいつもボロボロの服を着て、しょんぼりと過ごすようになった男の子。いつの間にか幼稚園に来なくなった。先生からは引越しをしたと聞かされたけど、男の子のお母さんだけは何度かスーパーやコンビニで見かけていたので、おかしいと思っていた。男の子が行方不明という噂も耳にしていた。
「この子はね、ほとんどご飯も食べさせてもらえず、お風呂にも入れてもらえない。いつもお母さんにたたかれたり蹴られたりしていてね。かわいそうだからアタシが連れてきたの。動物と遊びたいって言ったから、こうしてウサギと遊べる物語を作ってあげたのよ。」
「お引越し、したんじゃなかったのね。」
優香は複雑な表情を見せた。
「優香ちゃんも、どこかで主人公になってみない?」
「学校は?どうするの?またママに怒られるわ。叩かれるわ。大嫌いって言われるもの。」
優香が目に涙を浮かべて言った。ママに愛されたい、嫌われたくないという気持ちが強い優香には、どうしてもママの顔色が気がかりだ。
「心配ないわ。アタシ、魔女だもの。どうにでもできる。」
「この子、行方不明のままなんでしょ?」
「それは、本人が忘れたいと望んだから、帰らせていないだけよ。」
「じゃあ、帰れる?」
「本当にそう望むならね。」
「本当に、ってどういうこと?優香はママのそばにいたい。」
…やれやれ、かわいそうな子だ。あんな母親でも無条件に受け入れているっていうのに。それに引きかえ…。
クローネは愛子のことを思い出してため息をついた。
「優香ちゃんがなりたいものは何?学級委員じゃないでしょ?」
「ママは、偉い人になりなさいって言ったわ。」
「それはママがなってほしいものよね。お姫様とか、魔法使いなんてどう?」
「お姫様のお話ってどんなお話?」
優香は物語をあまり覚えていない。大好きだった絵本は、小学校に上がるころに愛子が処分してしまったのだ。「もうこんな子供の夢物語、要らないわよね。」と言って。そして伝記や図鑑を買い与えたのだ。
「きれいなドレスを着て、パーティをしたり、ダンスをするの。」
「マッチを売ってから、毒リンゴを食べて、ガラスの靴を履いて走るの?」
…すごい設定ね。物語が交錯しているわ。普通に幸せなお姫様になってもらおうかしら。
「そんなに色々あったんじゃ、忙しいお姫様だから、まずキレイなドレスを着せてあげる。どんな色が好き?」
「ママは女の子はピンク色を着なさいって言うの。」
「ピンク色は好き?優香ちゃんの本当に好きな色は?」
「水色。でもママがダメって言うの。」
「じゃあ、水色のドレスにしましょう。」
クローネが人差し指をスっと上げると優香は水色のドレスを着たお姫様に変身した。
「よく似合うわ。そこにある鏡を見てごらん。」
優香は恐る恐る立ち上がって、近くの大きな鏡に姿を映す。
「わあ!かわいいドレス!本当に私なの?」
「気に入ったかい?」
目をキラキラさせて頷くとまたクローネは人差し指を振った。
「じゃあ、ちょっと遊んでおいで。名前はユーリ姫にしよう。」
その言葉と同時に優香は鏡に引き込まれて行った。