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寝室

作者: kiyashi

不信感と私怨について書きました。

 南向きの窓が少しだけ明るく変わったように見えた。白く薄いレースが露わになっていく。その傍に置いた古いバッグは、いつか彼女が少ない給料から搾り出したもの。表面の荒れた革が、今起きたばかりの細い眼に映っている。寝ぼけた頭を少し揺らすと、時々その金具がきらめいていた。彼女は裸になった上体を起こしてから動かず呆けていたが、そのうち背後から伸びた手に抱き寄せられ、また横になった。「おはよう」と、男の声がする。彼女は何も言わず、彼の方を向き直って、その細い身体にしがみついた。「よく眠れた?」再び男の声。彼女は間を置き、そして頷くだけだった。温かくて優しい声の余韻を噛みしめながら、また目を閉じた。

 

 普通と違う朝にも、もう慣れてしまった。暖房の小さく唸る音だけが部屋に充満する。以前なら、雀の鳴き声が聞こえていたはずだ。窓を開けて正面に垂れる電線に、いつも並んで鳴いていた。でも、もう聞こえない。この街にはいない。時々カラスがやってきて、細い路地裏のゴミをついばんで去っていくが、彼女はそれを見たことが一度や二度しかなかった。それは、灰色がやけに暗く見える朝のことだった。

 

 そうだ、灰色の。……灰色の広い街にある。ここは確か八階くらいまであるホテルで、この部屋は何階だったかな、覚えていない。時計を確認したい。きっとまだ朝になったばかりで、六時くらいだろう。それなら、もう少し眠れただろうか。昨日はとても疲れていたのだから。今また始まってしまった、身体の奥を撫でられるような感触に震えながら、そんなことを考えていた。堪えられなくて、声が漏れる。そのことがまた彼の指先を、興奮と享楽が呼び起こすあのじれったさで動かし続けていた。

 「寂しくなるよ」彼女は今日帰ってしまう。だから。

 「愛してる」彼女がいなければ忘れられない。だから。

 

 「しようよ」と、昨晩彼女は言った。「悲しいこと、全部忘れたいの」

 誰かの浮気相手にしかなったことがない女。最初は15歳の時で、その時はされるがままに鳴いていた。でもよく笑う女だった。それは過去の汚らしいだけのあれらの行為をまるで忘れているかのようで、綺麗なものを見て当たり前に綺麗だと言う彼女を、隣の男はいつも奇妙に感じていた。それらの不純な過去を無視して普通に生きていくことが可能なのだろうか? 彼はいつもそう思っていた。或る二人の待合いが、その夜のための準備でしかないと考えるのと同じように、彼にはその過去の残滓が、ほかのすべてに染み込んで離せないような気がしていた。そう、恐ろしかった。そのすべてを、塗りつぶして欲しいと、彼女は言った。彼女は今ようやく、たった一人として愛されるという、あるべき姿を手に入れたと思った。


 重ねた唇と舌を離さない。一枚だけのブランケットはベッドの下にずり落ち、少しの肌寒さを感じながらも、頭は何も考えていなかった。どれくらいの時間そうしていたのかも分からない。ただある一つの瞬間、携帯電話のアラーム音が鳴った。二人はその微細な動きをやめ、女はそばのテーブルからそれを取り、耳に当てた。隣の男も、相手が誰なのか知らない訳では無かったから、ただそれを眺めていようと思った。

 『……おはよう』

 電話の向こうからそう言うのは男の声。

 「うん」女は返した。

 隣の男が少し嬉しそうにするのは当たり前だ。彼女も分かっていた。

 『寂しくて、眠れなかったんだ』

 電話の男は笑っているようだった。遠くにいる男だと、彼女が話していたのは彼の事だろう。

 「わたしもだよ。……会いたいね」と、彼女。

 彼女には相手の息遣いがよく聞こえている。だから、彼が泣いているのもわかっていた。

 『信じているからね』不意にそう聞き取った瞬間に、彼女はこれからのことをまた考え直すことになった。

 

 「信じている」なんて口に出すようになったら、もうその時点で終わりが見えてしまう。問題は信じるか否かではなく、疑わずにいられるかどうかだ。一度疑ってしまえば、そこから抜け出すことはない。「信じる」という、本当の暗闇の中をまさぐるような動作が無為に終わってしまうのを何度も見てきた。疑いが間違いのないことだと悟ったとき、それは男の息の根を止めるのに十分すぎる。彼は疑い、そしてもう止められないだろう。そしてまた、現実がどうであっても、彼の想像の中で疑いは映像となり、彼の心を蝕んで離れなくなるだろう。彼にとっては、不安の行き過ぎたその余剰が、何よりも真実の様に見えるのだから。


 『愛してる』 


     *     *     *

 

 電話はいつの間にか切れていた。自分がそうしたのかもしれない。別にどうだってよかった。

 隣の男は嬉しそうだ。彼女が彼を、彼だけを愛していると、思っているから。けれど彼女が彼らを疑わないでいられるのは、興味が無いというだけのことだった。どちらのことも愛してはいない。失っても傷つかない。しかしどちらにもただ一人の女として愛されている。それが求めていた幸せだったはず。心が明らかになれば彼らを殺せるくらい、女に心が無かったとして、彼女はそれを受け入れる。身体の快楽以上に純粋なものがある? 心なんて純粋でも綺麗でもない。すべてを偽るのも、私を裏切ってどこかに捨ててしまうのも、心がひとりでにやることじゃないか。そう思っていた。誰かが彼女を不純だと言うたび、彼女はそれを何度も確かめた。

 忘れさせてあげなきゃならない。そのために自分がここにいるのなら、僕はどうだっていい、幸せだと偽れる。隣の男は頽廃的なドラマの中にいるような気さえしていた。これからきっと続いていく長い時間の中で、つらい過去の記憶を薄めて、新しく上書きした思い出で隠してやりたい。そう決心して、もう一度彼女を腕の中に隠した。


 夜が明けた。

 照明を消してもすべてが映る部屋の中。クリーム色に染まった広い寝室の中。二人は抱き合って目を閉じている。誰にも邪魔されない。ここでは想像すら必要が無く、奪われたそれは疑いに変わることも無く、自嘲気味に男は眠っている。涙の痕は拭われることもなく、それは彼女だけが気づいた気の毒な信頼心の残滓だった。

 彼女は考えた。この温度の無い部屋に突然捨て置かれてしまった人間は、いまが真冬だと気づいただろうか? 外に出て初めて身を震わすように、隣の男が崩れていく瞬間がすぐそこまで迫っているかもしれないのに。あまりに違い過ぎた温度が隣り合っている、この不細工な景色が、ふざけている。私はずっと遊んでいただけなのだ。必死になって男を弄んでは、泣きながら遊びを続けるよう願った小さな子供だ。まだ大人になれなかった。これからだって、ずっとそうかもしれない。こんな私が誰かを愛せるだろうか? ただ愛されることでさえ、私を変えることができなかったというのに。

 ここは限界なんだ。いまになって気づいたんだ。


     *     *     *


 暗く、小さい寝室に横たわっている。

 昨日放り投げたままのポーチから、ガラス瓶を取り出す。

 中身を少し取りこぼす。

 隣には誰も居ない。 

 真冬ってこんなに寒いんだ。

 埃まみれのカーペットの上に、ぼろぼろと、錠剤がこぼれていく。

 手がひどく震えているから。

 きっといつになっても、安心なんかできやしない。


お疲れ様でした。

ありがとうございました。


さようなら。

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