そんなんじゃない
「どしたの、達臣?」
朝の教室。自分の席で物思いに耽っていると、耳に心地よい落ち着いたアルトボイスで話しかけられた。
顔を上げると案の定そこには、友人である猫崎朝陽が立っていた。中性的な顔立ちに緩い笑みを浮かべている。
「あぁ……いや、登校途中に変な場面を見ちまってな」
「変な場面?」
朝陽は不思議そうに小首を傾げた。そして、続きを促すように目配せをしてくる。丁度いい。誰かに意見を貰いたかったんだ。
「――駅前でのことなんだけどさ。前の方から大学生っぽい男の人が歩いて来たわけよ」
うんうん、と朝陽が相槌を打つ。
「この男の人、背中を丸めてるわ肩は落としてるわで、なんかすげえ辛気臭ぇの。歩くのも億劫そうで」
「朝は憂鬱だもんねぇ。分かるかも」
朝陽は深く頷いて、共感するようにそう言った。
「俺も毎日めんどくせぇなぁって思ってるから、その人に親近感覚えたわけよ。心の中で頑張れとか言ってた。……するとさ、肩を落としてるその人の後ろから、その人の友達みたいなのが走って来んのよ」
「へぇ?」
朝陽が何かに気付いたような表情をする。そう、ここからが本題なのだ。
「友達はその人の後ろから走り寄って肩からぶつかるように、――その人の腕に抱き付いたんだ。朝から暗いぞ、元気出せよ! とかなんとか言いながら、そのままの状態で話続けてんの。ぶつかられた彼も最初は驚いてたけどすぐに、おうありがとな、とか普通に返しててさ。結局、二人は腕を組んだまま駅に入って行っちまって……、これっておかしくね?」
「え~、そうかな? その人は友達に励まされた訳でしょ? 特に変な場面でもないんじゃ」
分からない、という風に朝陽は首を傾げる。あれ~?
「いやいや、友達同士で腕を組むのはおかしいだろ。いくら仲が良くても、俺は男に抱き付かれたら気味が悪い」
「女の子たちは友達同士でよくしてるよ?」
「そりゃ女子だから良いんだよ」
「それは偏見だと思うな。性別が違うからって、友達への接し方を変えるのはおかしいと思う」
少し窘められるように言われてしまう。むぅ、そうなのだろうか? 確かに一理ある気はするが。
「あっ、じゃあさ」
何か思い付いたようで、朝陽は両手を小さく打ち鳴らした。いたずらっぽく笑いながら、こちらを見る。
「僕たちも腕を組んでみない?」
「……なんで?」
なんで。
「そう言えば僕たち、腕を組んだことがないなぁって思って。経験したことがないから、偏見も生まれるんだよ」
「いや。いやいや。……え、冗談だよな?」
「えっへっへっへ」
朝陽は答えず、代わりに怪しい笑い声を上げ始めた。さらに、腰を低くしていつでも飛び掛かれる体勢になる。
「待て、分かった! 腕を組むから、飛び付くのはやめろ」
両手を突き出しながら、必死に懇願する。席に座っている今、腕どころか顔を抱きしめられかねん。
「じゃあほら。立って、達臣」
くそぅ。なんでこいつ楽しそうなんだよ。
渋々立ち上がって、ん、と左腕を朝陽の前に差し出す。
「おおぅ……なんか、亭主関白っぽくてドキドキした」
うるせぇよ。早くしやがれ。
「それでは、失礼しま~す……」
そろり、と朝陽の腕が俺の左腕に巻き付く。細くて、少しひんやりしていた。何故かはわからないが、微かに緊張する。
「ど、どうかな?」
今さら恥ずかしくなったのか、朝陽の頬はほんのりと赤くなっていた。声も少し上ずっている。……そういう反応するなよ、周りの奴らに変に思われるだろ。
「べ、べべ別にっ? なんとも思わないぞ?」
俺も人のことは言えなかった。
いやだって、こいつなんかすげぇ良い匂いするし、腕に感じる感触が男子とは思えないほど柔らかいし、見上げてくる顔がやたら可愛いしで、あぁもう!
「達臣……」
潤んだ瞳と、濡れた声。なんだ? 何が起きている?
混乱する俺の耳元に朝陽は口を近付けて、熱い息と共に囁きかけてくる。
「――僕に抱き付かれるの、気味が悪い?」
頭がぼぉーっとして、思考が上手く纏まらない。気付いたら、小さく首を左右に振っていた。
「にひっ」
朝陽は一つ笑うと、腕を離して俺から少し距離を開けた。腰の後ろで手を組み、俺の顔を覗き込むように見上げてくる。
「ほら、変なことじゃないでしょ?」
どこか勝ち誇ったような表情。俺をからかうことに成功して、得意気になっているようだ。
「あ……あぁ。そう、だな」
だが、俺はそれどころじゃなかった。
朝陽の子供みたいなその笑顔を、正面から見ることが出来なかった。手を添えた胸の奥では、心臓が馬鹿みたいに高鳴っている。
いや、違うんだ。これは想定外の出来事に驚いているだけなんだ。
だから、これは―――、『そんなん』じゃない。
【終】