第十話
「はい、描きましょうとも」
俺があまり簡単にあっけらかんと言うものだから、アントニは呆気にとられて言葉を失っていた。
粘土をこねる手を止めてこちらを見つめている。
見つめている目が俺へと焦点があっていないことに気付いて、俺は少しはっとしたが、しかしそのまま言葉を続けた。
「ええ。アントニさんが描きたいなら描くべきだと思います。そもそもそれを引き留める人はいません。皆がそれを望んでいます」
「……描きたいと思えば描ける、という話ではないのですじゃ」
アントニは小さく「それなら描いておりますじゃ」と、どこか諦めを匂わせて語った。
描きたい何かが描けない、それが今のアントニの苦悩なのだろう。今までの話を総括して得られる結論はそれだ。俺の勝手な推定だが、恐らく大きく間違っているということはなさそうであった。
俺はそれを否定した。
「描きたいと思えば描けますよ」
「……どういうことですじゃろうか」
「一旦描いてみて、違うと思ったら直すんです。今も昔も、それの繰り返しです。形が分からなくなっても、きっと出来るんですよ」
「違うと思ったら直す、ですかのう。このジジイの駄目になった頭で、違うと分かりますじゃろうか」
「分かりますとも。私はそう確信しております。……寧ろ」
「寧ろ?」
「貴方の作品を今すぐにでも世に出したいと思っています。いかがですか」
世に出したい。
俺がそう話すと、アントニは一瞬だけ動揺した。動揺したがすぐに平静を取り戻し、却って落ち込んだように言葉を返した。
「……世には出せますまい。芸術家の端くれとして、それだけは誇りが許しませぬのじゃ」
「誇り、ですか」
俺は一言区切ってから続けた。
「そちら、詳しくお話お聞かせ願えませんか。実はアントニさんに再びお仕事をして欲しいとの依頼が出ておりまして、その件についてご相談できればと思っております」
「詳しくですかのう」
「はい」
「……少しお待ち下され」
アントニはそう言うと、ぽつりぽつりと言葉を選んで、しかしああでもないこうでもないと何度も言葉を選びなおしていた。
その独白は、言葉にしにくい感傷を語るように苦しげである。聞こえてくるそれは、アントニの分裂した芸術への思いをそれぞれに含んでいる。
形が見えなくなった自分に、絵を描く意味はない。
絵を描くならば本気でそれに打ち込まなくてはならない。命を刻む行為がなくては絵を描くことにならない。
絵を描くという事はつまり、その対象に美を芽吹かせること。美の見えなくなった自分の目ではそれは適わない。
端々から聞こえる断片的な言葉は、やがて一つの溜め息により止まった。
ようやくアントニの中で纏まったらしい。
「……お待たせしましたわい。このジジイの言葉を聞いていただけますじゃろうか」
「はい」
「難しい話ですがのう、このジジイは絵を描きたくない訳ではないのですじゃ」
「そうですか」
「ただ、絵を描くのであればそれは本気で打ち込んだものでなくてはならないのですじゃ」
「はい」
「それこそ命を削るような、本当にそれ一つに芸術としての命を吹き込むような、そういった行為が必要なのですじゃ。そうせなんだら、芸術は人に何も伝えることが出来ませんのですじゃ」
「……」
「このジジイは、絵描きですじゃ。絵描きの端くれですじゃ。絵を描くためにはどれほど絵を観察する必要があるのか、知っとるつもりですわい」
「……」
「絵は生き物ですじゃ。どこをどう整えたら美しくなるのか、どう手を加えたらより生き生きと言葉を発するのか、試行錯誤を経て千変万化する生き物なのですじゃ。とても繊細で、それこそ見逃しそうになるようなものが、美なのですじゃ」
「……」
「……こんな体たらくに、そのような繊細な作業は出来るべくもないと分かっとるのですわい」
「……はい」
「形も分からない。カンヴァスの上下すら間違える。挙げ句の果てに、描く絵は意味不明なものばかり。……何をどう間違えたら、このようなジジイが、そんなこと出来ますじゃろうか」
「……」
「それ故このジジイは、絵を描きたいと思っても、絵を描いてそれを世に出そうだなどとおこがましく恥ずかしい真似をしようとは思わんのですじゃ」
「……なるほど」
独白は一旦ここで終わった。しかし、何となくだがまだ続きがある気がして、俺はもう一歩踏み込もうと思った。
心理グラフが、まだ何かを隠している可能性が高いことを俺に教えてくれた。
だから、少し無神経な聞き方になることを覚悟して、より核心に近付こうと話を繰り広げることにする。
「では、どこをどうすれば美しくなるのか観察できる目があれば宜しいという事でしょうか」
「……そのようなものが有りますならば、の話ですじゃ」
「僭越ながら私、美術に造詣の深い者に少しばかり心当たりがございまして、いつでも手を借りることが出来ます。そういった細かい作業でしたら、私にお任せすればある程度はお力になれるかと」
「……」
嘘ではない。俺には鑑定スキルがあるのだから、そのような細かい作業は俺が出来るのだ。
芸術スキルにより鍛えた美的センスに基づいて少しずつ修正を加えて、鑑定スキルにより価値の数値の上下を根気よく観察するのだ。そうすれば改善することは不可能ではないのだ。
しかし、アントニの返事は否であった。
「それでは、意味がないのですじゃ」
「踏み入った質問になりますが、意味がないとは何でしょうか?
美しくしていく改善作業が困難だから、芸術作品を世に出さないというのでしたら、そちら改善作業は私どもにお手伝いさせていただけませんか。そうすれば芸術作品を世に出せるかと」
「……違うのですじゃ。それは、明らかに違うのですじゃ」
「違うのでしたら、その細かい部分もアントニさんご本人にお任せします。お手伝いでしたらいくらでもお力をお貸ししますが、無理にとは申しませんので」
「……」
「技術的な面でしたら、お望みならいくらでもお力をお貸しします。ですので、アントニさんの仰る、技術的に不可能というご意見は理由にはならないかと思われます。……他に理由があるならお伺いしたいのですが」
「……適いませんのう。本音をお話しせねばなりませぬか」
アントニの顔が少し歪んだ。
「このジジイは、絵を描くのが大好きでしたわい。自分の手で美に触れることがどれほど楽しかったか。今思い出しても、涙がでるほど嬉しかったものですじゃ。……もう意味はないのですじゃ」
「……」
「もう、形が分からないのですじゃ。美しさを美しいとはわからないのですじゃ。今描いている美に触れられないのですじゃ。……絵を描く意味を失いましたわい」
「……美しいと感じられないから、ですか」
「その通りですじゃ」
「なるほど。納得がいきました」
美しく感じられないから。そう語ったときのアントニの表情が全てを物語っていた。
彼の穏やかな表情は、この時最も大きく変わった。全くの虚無だったのだ。大事な物を失って希望全てが色褪せた、恐ろしい表情がそこにあった。
そしてだからこそ俺は、彼の心理グラフの動きに希望を見いだした。
彼は描こうと思っている。それも切実に。もう少しで説得できるのだと思った。
「アントニさん。……では、再び美しいと感じられる芸術に挑戦しませんか」
「……どういうことですじゃ?」
「もう一度、美しいと感じてみませんか」
息をのむアントニ。
俺はもう一歩だけ彼に踏みよった。
「私は確信しております。貴方の目は神の目です。色の世界の目は、印象派、フォーヴィズムの画家がどれほど望んでも得られないものです。
貴方が見ている世界は、最も抽象化された色の世界です。誰も見たことのない、見ることの適わない特別な世界です。その美しい世界を、是非描いてみませんか?」




