第九話
後一枚だけ描きたいと思ったアントニは、自分がそんなに生き汚いとは思わなかった。
どうせこの性格だ、後一枚と言わず後何枚でも描きたいに決まっているのだ。一枚描く毎にこの一枚に全てを捧げよう、今死んでも後悔しないようにしよう、そう願掛けをして描いたのにも関わらず、今までずっと次に次にと描くことを渇望してきたのだから。
心を震わせるような最高傑作を過去にすること。一種のカタルシスのような、得も言えぬ快感。芸術をこよなく愛するアントニは、同時に、それをより美しい美によって上書きして台無しにしてしまうことも愛していた。
征服してやったという情欲に似た想念だ。自分が長い時間を積み重ねて積み上げたものを崩していくあの背筋を走る解放感だ。
実に暴力的な情欲がアントニの中に一つある。
しかし、それは一つだ。
アントニは複数の芸術への愛を持ち合わせていた。
例えば、芸術と共に心中したいと願ったことがある。
芸術は悲劇であるとアントニは思う。悲しみ、悔しさ、ままならなさはいずれも芸術である。
泣くことにより心が綺麗に洗われる。悔しさやままならなさは心に鬱積する何かを与え、それはやがて人の心に根を張り、その人の言葉となり考えとなる。
芸術は強く言葉を発しているのだ。
人は泣きたがる不思議な生き物で、悲しみや悔しさをその身にため込むことで溜息の出るような感情に身を沈める。そしてぽつりと、その感情と共に心中したいと願うことがある。
芸術作品と共に心中したいと思うのは、一つの贅沢の極みだ。
死んでも良いと思って日々を生きることと死にたいと思って日々を生きることを勘違いして、ペシミズムに自分を甘やかして死を願うあの贅沢を、しかしアントニは深く理解している。
死への情念。タナトス。
芸術の一つ。
だからこそ、あのベリェッサにもまた甘い顔をしてしまうのだが、それは年寄りの感傷の一つかも知れないとも思われた。
例えば、芸術に身を食べられたいと願ったことがある。
あのベリェッサも同じ気持ちを持っているようだが、アントニにもまたその気持ちを深く理解していた。
この身は卑しい。
つまらないことに腹を立てたり、考えが浅ましいものであったり、高邁なものを受け付けない後ろ暗さがあったりと、とにかく我が身は矮小な一人の人間であるように思われる。
芸術は偉大だ。
その大いなる美は、自分の矮小さや罪を包み込んでくれるようなものに溢れている。弱り切った感情に染み渡る優しさが、自分をゆっくりと満たして、浄化していく。
そして一方で、苛烈でもある。自分を突き刺すような絶対者。余りに鮮烈でつい跪いてしまいたくなるような真理。己の身を光が焚くような、そのような感覚は、神を仰ぎ見て絶対なる何かに見惚れるようなものがある。
芸術が自らの体を食むのだ。
芸術にかじり取られて、体が分解され、そして芸術という大きな体系、一つの世界の構成要素となっていく。自分を養分にして芸術という蝶が孵化する、それを眺める父性愛、母性愛のような感情。
自分が偉大なる何かに取り込まれるのだ、と思うあの快感。
芸術に身を食べられたいと思うのは、その混ざり合った感情の果てにあるものだ。アントニはそれを理解していた。
例えば、芸術は人の身をずたずたに引き裂くような何かでなくてはならない、と思ったことがある。
時に芸術は人を攻撃する。
突き放すようなメッセージ性。人の弱さを糾弾する暴力性。理不尽なまでの人格否定。あるいは正論をもってして、人の弱い心を踏み砕き塗りつぶしこれでもかとまでに貶める。
強く突き放す否定の言葉は、人に鮮やかな衝撃を与えるのだ。
その時不思議なことに、人は感動する。
愚かを愚かと嘲り笑い、弱さを徹底して叩き潰す暴虐的な残忍性に、人は羽虫のように引き寄せられて感動をするのだ。
ならばいっそ、芸術はそうあるべきだ。
強くたたきつけるようなメッセージは、それもまた芸術作品。
アントニが自分にはその才能が足りぬと思っている分野の一つが、その、芸術に人の身を裂くような暴力を込めるというものであった。
例えば、芸術は徹底して無でなくてはならないと思ったことがある。
自然は調和した存在であり、美しく、ありのままである。
芸術はそれに従う道具である。美は予め隠れており、それを掘り出す作業の道具が芸術なのだと。
彫刻の石はヴィーナスの形を彫るのではない、最初からヴィーナスが埋まっておりそれを傷つけないように丁寧に掘り出す作業が芸術だ。
カンヴァスの上に描かれる絵もまたそうなのだ。既に完成形の美しい景色がカンヴァスの上に隠れてあって、それを筆を使って丁寧に掘り起こすのが芸術なのだ。
芸術は、それ故に無である。
喧しく自己主張するのではない、ただ美しさを、美の世界という空想からこの世へと顕現する。絵画は窓のようなものであり、彫刻は寄り代のようなものだ。
美という想念を宿す作業。否、正しくは既にそこに隠れている美という想念を丁寧に拾い上げるその行為が芸術なのだ。
思想は要らない。
飾り立てた文句も要らない。
ただ美を宿すものであればよい。
アントニが最も芸術に愛されていたとき、アントニはそう考えていたのだった。
芸術とは何か。
一言で定義するような言葉はないとアントニは思う。あくまで一つの芸術に過ぎない何かが、芸術とはこうだ、と主張するだけであり、芸術はそのようにして数多の文化と文脈を重ねてきた。
アントニはその数々の芸術を、最も分かりやすい場所から観察してきたただの傍観者であり、時にそれと共に走ろうとした時代の人であり、時に不遜にも『美』とは何なのかという核心に触れようと迫った探求者であった。
それは未だに分からない問いである。
芸術は一言では言い表せなくて、それこそアントニの思い出の数だけ芸術が存在するのだった。
(どんな芸術であれ、このジジイは正面から向き合って、それぞれに思い入れを抱くほどに、芸術全般を愛したのですじゃ。きっと、形を失った今でも愛しているのですじゃ)
もしこれから先、粘土細工のような立体芸術の道に進むとしても、アントニは芸術を愛するだろう。
もしこれから先、芸術を断念することになったとしても、アントニは芸術を愛するだろう。
どれほどの時を経たとしても、願いの果てのアントニの心がそこにある。
(後一枚、どうにかして描きたいのですじゃ。あとたった一枚だけが)
芸術とは、それ以外の生き方を知らないアントニにとって、これを失えば世界が色を失うような、そういう物なのであった。
分からぬものに没頭する。それがいかにも愚かしいことであることかは痛いほど知っている。そしてそれは形を失った今、より一層思い知らされている。
人生にもう一度があるというのなら、アントニはそれでも芸術を選ぶ。
だが、それでもアントニが今一度を願わずにはいられないのは、芸術を愛していたからなのであった。
「描きましょう。たくさん描きましょうよ。寧ろ、貴方の作品を世に出しませんか?」
若き商人トシキは、あっけらかんとそう言うのだった。




