第六話
油臭い部屋が一つ。
床に無造作に打ち捨てられているのは、カンヴァス、カンヴァス、そしてカンヴァス。人の顔のようなものを描こうとして失敗しているそれらは、歪なまでに精緻であった。
目がある。瞳孔の黒々とした光が照り、眼に血管が走っており、まぶたに生える睫毛は生きたしなやかな曲線と艶を呈している。
目ではないことが一目で分かった。
手が形を覚えているから、それに従ってかかれた目なのだと分かった。何故なら、踊っている。色を乗せているだけ。形ではない。
(血管が渦巻いたり、つながったり、枝が多すぎたりしている)
血走る血管、その形の意味を忘れているとしか言えない。
血管とは稲妻のようにジグザグとした直線であるべき、という前提の知識があるから描いた、というような線がある。
しかしその形の意味を忘れて、血管はいくつか渦を巻いている。何度か隣の血管とつながっては離れている。一つ曲がるたびに分かれすぎて、木のようになっている。
虹彩は渦巻きだった。ピアノの鍵盤のように規則正しい青と黒の交互の螺旋が中心の瞳孔に向かっている。
瞳孔はビー玉であった。
目の中心に黒くてらてら光る、まるで真珠のような球体が乗せてある。それは立体的な表現技法によってぷくりと膨らんでいる。黒目にブドウのような黒子が出来たのではと思うような不気味さがそこにあった。
睫毛の艶と、眉毛は左右対称であった。
右目と左目が左右対称、というのではない。一つの目の眉毛と睫毛が恐ろしいまでに左右対称であった。
精緻さは狂気であった。
美術的な技巧をもって機械的に造形美を書き表そうとした欠片がいくつも見てとれた。
結果として、それらは形の意味を失っていた。
「……分かりますじゃろうか」
「……目ですね」
「目ですかのう」
「……どうでしょうね」
アントニの絵は、まごうことなく神の絵である。しかし同時に思い知ったのは、一見して誰にでも分かってしまう、この作者は病気になってしまったのだという異常性であった。
「……このジジイめは、何でか知らなんだが、何を描いているのか時々分からなくなりますのじゃ。丸という概念は手を回した気がするのじゃがのう、形の整え方はこうじゃったはず、そういう体の記憶がこのジジイの絵を助けておる故、時々こうなるのですじゃ」
「こうなるとは、つまり」
「……鋭いお方でございますじゃ。こうなるとはどうなることなのか、このジジイにも分かっておりませぬ。こう、とは何じゃろうか。確か目を描いていたはず。目、目、目。丸い、丸い、丸い。何度か自分に言い聞かせて描いてみて、おお確か丸い物を描くときはこうやって曲線を描いてみれば美しかったはずじゃと、そんな描き方を自分で再現して描いてみれば、出来上がったのはどうやら目ではないらしいのですじゃ。……果たしてこれは、目ですかのう?」
「……アントニさんは、今自分が描いている形を分かりますか?」
「……時々分からなくなるのですじゃ。そちらを見てくだされ。広い白に書き込まないとだめ、それがカンヴァスなのだ、としか認識できていない故か、上下を間違えてもうたらしいのですじゃ」
アントニの指の先には一枚の絵がある。中央には体を捩った裸婦だったであろう肌色の下書きがある。途中で一旦絵を中断したのだろう。上下を間違えてしまったせいで、どうやら木の絵であると誤解したアントニが、枝葉を付け加えて、幹を黒々しくごつごつと描き込んで、今のようになったらしい。
絵は精緻であった。しかし不気味ですらあった。
女の曲線は、陶器のような硬質で一様な影で作られている。球体のオブジェが胸に埋まっており、鎖骨と喉のくぼみは、蝶の千切れた羽になっている。唇やそこから覗く歯は横顔のそれなのに顔は正面を向いている。
体が覚える絵を切り貼りして繋げた、そういう恐ろしさが漂っていた。
裸婦は、朝日を受けて照らされる木に逆立ちで埋め込まれた趣味の悪いオブジェへとなっていた。
「木の肌は、黒と緑と焦げ茶色と。色は覚えておるのですじゃ。しかし、途中で気付いてしもうたのですじゃ。裸婦の絵がないと。……滑稽な話ですじゃ」
アントニの浮かべる笑みは自嘲のそれだ。
それはこの部屋に足を踏み入れたときから変わっていない。「アントニ・スヴァルツドヴェルグ様。初めまして、人材コンサルタント業をさせていただいております、『人材コンサルタント・ミツジ』のトシキ・ミツジと申します」と挨拶をしてからずっとだ。
自分のことを諦めている、卑下の笑い方。
「聞くところによると、トシキ様はこのジジイめに教育をなさるとのことで。伸びしろも少なく教えがいのない老人にはございますが、何卒よろしくお願いしますじゃ」
「いえ、教育だなんて恐れ多い」
俺が申し入れたのは、今抱えている症状を和らげる方法の模索である。
それは粘土細工を作ること。
この形はこれ、あの奴はあれだ、と認識能力を鍛える一つの療法として、粘土細工は有力である。
小麦粉粘土を練り、触覚と視覚を通じて形の認識能力を鍛える。集中力を高めるとともに、手指の刺激にもなる。副作用や症状の悪化は起きないだろうということで、ひとまずは有効な対症療法だと思われた。
「これから二日に一度お伺いすることになりますが、何卒よろしくお願いします」
「二日に一度、粘土細工ですじゃな。しかし、このような老人と一緒に粘土をこねることになるとは、トシキ様も災難でしょうな」
「災難だなんて滅相もありません」
そうですかのう。
呟くアントニの瞳の奥は、俺の姿を捉えていなかった。
領主誕生祭はついに三日目に差し掛かり、今日をもって終わりである。
実に濃い三日間であった。
一日目はチッタの拳闘。そして令嬢ベリェッサと知り合って夜通し語り合った。
二日目は祭事堂での体育大会。俺はというとルッツや奴隷達に屋台を任せて、芸術博覧会へと足を運んで、令嬢ベリェッサと芸術談義、そこから夜遅くにテントに帰ってあの例の女子会に出くわした。
そして三日目。
アントニと一緒に俺は、今、粘土をこねている。
(……シュールだよなあ。二日に一度は訪れる約束なんだが、二日に一回は粘土遊びかあ)
いつの間にか令嬢ベリェッサまで加わって、謎のお遊戯会みたいになっている。
「いやあ、こういうの楽しいね!」
「ええ、私もお仕事であることを忘れて、ついつい粘土細工をこねること自体を楽しんでしまってます」
「えへへ」
無邪気に笑って粘土をこねている伯爵令嬢を見ると、その光景のほほえましさに思わずこちらまで頬が緩んでしまう。
全く伯爵令嬢らしくない。
顔立ちは気品を感じるそれなのに、ちょっと綺麗な街娘のような素朴な可愛らしさがそこにあった。
「……粘土細工ですかのう」
一方で、アントニの進捗は芳しくなかった。
少し形のような物をこねてつくっては、気にくわないのかまた粘土に戻す。この繰り返しであった。
しかし徐々に前に進んでいるようにも見える。形こそ認識できていないが、美のテンプレート通りに何かを作り出そうと試みている、そういう印象を受けた。
「……作りたい物はありませんか、アントニさん」
「作りたい物、ですかのう……」
遠くを見つめるような顔付きになって、アントニはぽつりと呟いた。
そういえば、無くしてしまった、と。




