第二十三話
チッタをおんぶしながら控え室から出る。
歩けない彼女(正確には歩けるが疲労困憊している)を運ぶのにはこうするしかない。だが、構図が奇抜であるためか、周りの人の視線がさっきから絶えない。
かたや女オーガ。かたや小間使い臭いガキ。
面白い組み合わせっていえば面白いだろう。
「トシキか。そこのチッタって嬢ちゃん、いい腕してやがったな」「ああ森熊さん」「すまなかった、俺には発言力があまりなかった。……悔しい採点結果になったかも知れねえが、許してくれ」「いえいえ、そんな。森熊さんには感謝しかしておりません。ありがとうございます」
「のうトシキや。今度は第二のキャシーでも育てるつもりかの?」「アリオシュ翁、これはこれは」「久しぶりに血の沸く戦いであった。ワシからも感謝を述べよう。弟子もいい刺激になったじゃろうしな」「ありがとうございます。主人である私も誇らしく思っております」
「やあトシキ。いい試合を見せてもらった」「ハワードさん? どうしてこちらへ」「何。衛兵たちの指揮をとって警護を強化していたのさ。領主がお見えになっているからね。……すまないがこの辺で失礼するよ」「はい、お疲れ様です。またうちをよろしくお願いしますね」
「この度はおめでとうございますトシキ様。大変良い試合でしたね」「ミロワール様ですか! お久しぶりです。そちらこそリカル選手の準決勝進出、おめでとうございます」「ありがとうございます。私もリカルが準決勝まで進んで大変誇らしく思っております。……お急ぎのようですね、呼び立ててしまい申し訳ございません」「いえいえ、こちらこそ慌しくですみません。また近いうちにお伺いするかと思いますので、そのときにでもよろしくお願いします! では!」
「ふふふ、おんしはいつも面白い人でありんすね」「え、ちょ」「ふふふ、取って食う訳にゃありんせん。落ち着きなんし。わっちゃあただ、娘を殺さずに生かしておいてくれた分は感謝してござりんす。その後のおいたは目ぇ瞑っておきんしょ。ね?」「そうですか、また、うたかたの夢でお会いしましょう」「そねぇな意地悪言わんでおくんなんし、わっちぁおんしのこと好きよ?」「はは、参りましたね……」
先ほどから何故か顔見知りの面々と出くわしている。
森熊の大将は採点官として忙しそうであった。
アリオシュ翁はその逆、全くマイペースであった。仕事はないのだろうかと思ってしまった。
ハワードは領主がお見えになっている、だなどと微妙に聞き捨てならないことをのたまっていた。
ミロワールは相変わらずミステリアスな雰囲気をかもし出していた。気になるのは、何故ミロワールはあれほどリカル選手を上手な拳闘士へと育て上げることが出来たのか、という点だ。しかしそれを聞き出す話術は俺にはなかった。
そして天空の花マハディは、一般人に変装しており、喋りかけられるまでは気付かなかった。舌に彫りこまれたオームの聖文字も確認したので、本人で間違いない。鑑定スキルを使いながら人ごみを歩いていたつもりなのだが、やはり人の量が増え処理する情報量が増えると見落としも生まれるようだ。
「おんし。ちょいとよござんすかえ?」
「はい?」
「早めにお戻りなんし。ヘラちゃんから、ちょいと困ったことになりんした、と耳に挟み申しんてねぇ、後生だからとわっちに拝みぃするもんだから、こうやってわっちぁ足運びんしたんよ」
「え? 困ったこと?」
「ヘラちゃんに言われりゃあお断りできんせん。あれぇ、今はヘティちゃんだんしたか。ともかく、急ぎなんし」
「ええ、はい。ありがとうございます!」
簡素に礼を済ませて、マハディの下から立ち去る。「また会いんしょ?」と微笑むマハディは優雅だなあと思いつつ。
改めて考えを巡らせる。
急げ、とは。
何やら穏やかでない。そもそもたおやかで落ち着いた印象のマハディがせっついているのが中々不安をそそる。
歩調を早めて奴隷たちの下へと急ぐ。
(急げと焦らせるパターンで最悪なのは……)
思いつく限り一番最悪なのは、ステラが何かしらの発作で命の危機だというパターン。イリに一応錠剤ポーションを渡してはいるが、体力を回復するだけの錠剤なので早い内に俺が診るかしないといけない。
二番目は、うちの奴隷たちがトラブルを引き起こしてしまったパターン。もしも相手が領主とかであればもう目も当てられない。
流石にうちの奴隷たちもそこまで馬鹿ではない、と思いたい。対外的な振る舞いはきちんとしつけているつもりなのだが。
悪いパターンを考えるときりがない。
無事でいてくれよ。
そう願いつつ俺の奴隷たちが陣取っていた観客席に戻れば、人だかりがそこにあった。
やはりか。
悪い方向の予想が当たったらしい。
喧騒の空気を感じ取りつつ席に戻れば、「あ! 主様!」という声がする。
ミーナが手招きをしていた。
その表情に余裕はない、どこか俺に縋るような表情であった。
「ああ、なんと君達は美しい!」
「……嬉しいお言葉ですが、その、困ります」
「いや! 何度でも言おうとも! 君達は美しい!」
見知らぬ中性的な男に言い寄られるユフィ。
取り敢えず鑑定スキルを使って、この男が何者なのか判明した瞬間、俺は絶句してしまった。
「どうか、僕の愛を受け取っておくれ……」
アルベール伯爵の『息子』の中には、一人放蕩『娘』がいる。名をベリェッサ。
又の名を、「美狂い」。美に目のない女だ。
◇◇
(……オレは、強くなっただろうか)
(……強さって結局何だったんだろうか)
(こんなにぼろぼろになるまで戦ったのに、結局答えは分からなかった)
商人様の背中に揺られて、チッタはまどろみの中にあった。
意識が重たい、このまま眠ってしまいたい。先程から続く疲労のぶり返しと、肩の荷が下りたような安息感が眠気を誘っている。気付けばまぶたが下がり、首が船をこいでいる。
少し寝ていいぞ。その代わり後で起こすからな。
商人様は優しくそんなことを言っていた。
何でも本当は寝てはいけないらしい。
拳闘の試合の後、殴られた場所が熱を持つらしい。そのまま熱を出してうなされてしまうらしいので、寝る前に温めの湯を何度か浴びてから寝る方がいいとか。
それにそもそも、チッタはこの後準決勝進出者として賞を受け取る必要がある、寝るなんてしてはいけないのだが。
後で起こすから。
そう言ってチッタら奴隷を甘やかす商人様は、ちょっと甘い人だと思う。
揺られながら。
チッタは先ほどの試合を思い返していた。
充足感。そしてほんの少しの悔い。後は、覚えていない。覚えていないというのは嘘だが、今は細かく思い返すのが疲れる。だからぼんやりした頭でぼんやりと思い返すと、充足感と少しの悔いの感情が自然と想起されたという次第だ。
(あともう少しだと思ったのにな)
左スマッシュは決まっていたと思う。あの腕の感触なら、きっとダウンを奪えていただろうと思う。いや、実際に奪っていたはずなのだ。そう聞いた。
キャシーはダウンから立ち上がり、チッタがダウンから立ち上がれなかっただけ。
つまり、本当に僅差の勝負だったのだ。
(もう少しで、勝っていた)
勝っていた。もう少しで。
言葉にした途端、チッタは急に気付いてしまった。自分がもう少しで勝っていたということに。
それはチッタが欲しいものだった。
強くなりたい。その証が欲しい。
ふとそう思っただけの、何気ないその気持ちが、チッタをここまで押し上げた。曲げられない信念だとか、壮絶な過去だとか、そういう物ではない。ただ単純なその思いがここまで導いたのだ。
不思議な話だ。
チッタは思う。途中で投げ出していてもおかしくはなかった。自分でも何でここまでひたむきに打ち込めたのか分からない。どうしてこんなことを続けたのか分からない。
痛いだけなのに。
負けることもあるのに。
世の理不尽に直面することもしばしばあるのに。
(そうだよ、何で打ち込んでしまったんだろうな)
理不尽だらけなのに、どうして没頭してしまったのだろうか。
それを考えると、急に悔しさが膨らんだ。
そう、理不尽。
体型は全くもって大柄な者が有利な世界だ。それだけで勝負の半分は決まってしまっている。嫌でも分かった、身をもってその有利不利を味わってきた。
更に、客の期待も伝わってくる。こっちの選手に勝って欲しい。こっちの選手には負けて欲しい。こんな戦い方をして欲しい。そういう無邪気な要求が、時にリングで戦う自分を否定して、辛い。
採点官の判断まで理不尽。あからさま、というにしてはやや証拠が足りないグレーゾーンで行われる調整。せめてルールだけは公平に、と思っていたチッタにも浴びかかってくる理不尽。
自分の努力の意味とは。
頑張ってきたものを不意にされたような気がして、酷く辛い。
(本当、どうして諦めなかったんだろう)
ほら、無理だ。
そういう感情に何度襲われたか。あの準決勝の試合だって、途中で弱気になって心が折れそうになった。
諦めないというよりは、もはやすがりついていた。
今までの努力を無意味にされたくないから、すがりついて戦っていた。
不毛だ。
今すぐ辞めなくてはいけない。
その結論は不思議と、自分の中で納得できた。反論が見つからなかった。むしろ諦めたいと思う自分がそこにあった。
(でも、オレは諦めないんだ)
もはや意地か。
それとも理由のない、「本当に辞めてしまっていいのか?」という恐れの気持ちか。
チッタにある感情はその二つが近い。
それ以外の理由は、どこに行ってしまったのか分からなくなった。
(……そうだ、諦めない理由が他にもあったな)
どこに行ってしまったのか分からなくなった、訳ではなかった。
すぐに一つ理由を見つけてしまった。
キャシーに一回、舐めたような試合をしてしまったこと。一方的にやられるだけで、五回もダウンして、無様な姿をさらしたあの試合。
あれをなかったことにしたい。商人様に色々教えて貰ったのに。自分もそれなりに頑張ってきたのに。周りの奴隷たちに、チッタは強いと褒められてきたのに。あんな試合になってしまうなんて。それはダメだ。あのままで終わってはいけない。
そういう後悔が、一つ、理由となってチッタを突き動かしていた。
(まだあった、理由)
名前を残したいと思った。
確か商人様が新しくトシキへと変わったとき、「名前を残したいと思わないか」と演説されたのだ。
あの演説に、一瞬だけ心を刺激されたのだ。
名前を残すってどんな気持ちなんだろうと思ったのだ。
そんな好奇心。
あるいは、もし自分が拳闘大会で優勝してしまったらどうなるんだろう、なんて馬鹿げたことを考えて一人わくわくしていたあの時の気持ち。
あれもまた、一つ、理由となってチッタを突き動かしていた。
(何だ、いっぱい出てくるじゃないか、理由)
何故か商人様の言うことを聞いていると、どんどん強くなっていくというのが楽しかった。
だから頑張ってきた。それも理由の一つ。
拳闘をやってみると奥が深くて、どんどん楽しくなってきた。駆け引きのスリルが楽しかった。
それも理由の一つ。
拳闘で自分が上手になっていくのを、商人様も周りの奴隷たちも喜んでくれた。頑張ろうと思った。
それも理由の一つ。
(ああ、そういえばそうか。……拳闘に憧れたんだ)
そして、理由がもう一つ。
拳闘に憧れたこと。
あの日、オアシス街の蚤の市で、人生初の拳闘大会の観戦に、心が躍ったのだ。
キャシー選手対ハワード選手。女なのに、オーガなのに、力強くて立派なそのキャシーの戦いぶりに、憧れたのだ。
キャシー選手対森熊選手。肉と肉のぶつかり合い、というべき重量戦。動きが軽やかで唸ってしまうような前半戦と、後半の意地の張り合いのような熱い展開に、憧れたのだ。
そう、チッタの心に焼き付いてしまった。
あんな拳闘がしたい。
そう願ったのだ。
(……強さって結局、何なんだろうな)
チッタは、数々の理由を思い出した。
拳闘をやっている理由は、きっとたくさんある。ちっぽけな理由がたくさんある。きっかけは一つだけだったかも知れないが、続けていくうちにいつの間にか、理由がたくさん生まれてしまって、チッタはますます拳闘にとりつかれてしまったのだ。
(諦めたい理由もあるけれど、拳闘を続けたい理由もある)
拳闘を続けたい。
たから、強くなりたい。
論理の順序がいつの間にか逆転している。強くなりたいから拳闘をしたのではなかったか。
そういえばそんな気持ちもあったな、と、チッタは半分忘れていた。
そして突然切なくなった。
(ああ、そうか。後もう少しで勝てたんだ)
後もう少しだったのに。
それを考えた途端、急に涙がぶり返してきた。
締め付けられるような後悔がまたやってくる。勝利まで指がかかっていたのに、なのに勝てなかったのだ。
勝てよ、オレ。
そう自分を内心で叱咤する。
勝てたのに、という気持ちがますます強くなる。
(……強くなりたい、お願いだから)
強くなりたい。
その決意はさらに固くなった。
あの商人様は、背中で泣くのを許してくれるだろうか。
止まらない涙をそっと押し殺し、商人様に気付かれないように振る舞うのは、チッタの小さな意地。
強さとは何なのか。誉れとは何か。
その答えをチッタは知らない。ただ、それが欲しい理由がまた増えたことだけはチッタにも分かった。




