第二十話
「不公平よっ!」
悲鳴のような声。
ユフィは俺の隣で、歯ぎしりをせんばかりに怒っていた。
どう見てもチッタが優勢だったのに、互角だと審判したあの判定にまだ腹を立てているようであった。
「どうしてもチッタを負かせたいのね! 汚いわ! 何でよ! チッタが何をしたって言うの!」
泣きそうな顔の彼女を、俺は「落ち着け」と宥めておいた。
ステラと目が合う。お互いに苦笑を交わす。
「ユフィ、今は黙って見守ろう」
「何で落ち着いていられるのよ! こんなの、おかしい!」
「……今は、な」
そう。
俺の鑑定スキルが調べ上げた所によると、不審な採点官アコーギは拳闘大会の運営に噛んでいる人間らしく、裏で賭けボクシングに携わっている可能性があるらしい。
採点官の机の上の用紙に書かれた訳の分からない記号(鑑定スキルにより遠くの物も把握できただけで、俺はそんなに目は良くない)を鑑定したら、賭けのオッズだと判明。
採点用紙に紛れさせて運営スタッフに手渡ししているが、運営スタッフの名前を鑑定してみると、すぐさま分かった。この辺で違法賭博に携わっている男アルレッキノーの奴隷だった。
全ての線が繋がっている。
あの不審な採点官は、大穴のチッタの勝利を阻止すべく動いているのだ。
(下らない話だ)
かといってどこに密告すればいいという話ではない。
アコーギの不正を暴くのには当然危険がある。アルレッキーノに因縁でもつけられては、小市民の俺に太刀打ちは出来るまい。
今は黙って見過ごすしかないのだ。
今は。
「セコンドとしてあの場に居合わせられないのが悔しい限りだとも」
このままではチッタに毒や痺れ薬でも仕込むのではという不安が脳裏をよぎった。
流石にそんな風に、証拠を残すような手口で不正を行うとは思えないのだが。それも毒なら採点ミスとかと違って、申し開きも立たず一発で不正関係者が捕まってしまう。
だが万が一はある。
ここからは慎重に、チッタの身の回りを鑑定することにした。
「チッタ……頑張って……」
祈るようなユフィの隣で、俺もチッタの無事を祈った。
焦ってはいけない。
ここからが勝負所。
チッタはそう自分に言い聞かせて、もう一度立ち向かう。
ジャブ、ストレートのワンツーに、左ショートアッパーの三つ目をつけて交戦。
左アッパーを見せつけるためだ。
しかしキャシーはそれを上回った。ワンツーを丁寧にブロックして、三つ目の左ショートアッパーにカウンターの右ストレートを合わせてきた。
相手は、左アッパーのモーションは覚えてしまったのだろう。
鮮烈なカウンターが炸裂し、チッタにもろにぶつかる。
思わず倒れ込みそうになってしまうほどの一撃。
(まだだ!)
カウンターを合わせられるのは分かっていたので、そこまで腰を沈み込ませてはおらず足も踏ん張っていない。
さらに当たる直前にショルダーで流そうとして、しかし頬に流しきれない七割程のカウンターをもらった、というところだ。
ここまでしたのに、はっきり言って強烈だ。
せっかくキャシーに何発もダメージを与えて優位を築いたのに、これでダメージ的にもイーブン、あるいはそれより不利になってしまった。
「シッ!」
下がろうとするキャシーに食いつく。
もう一度丁寧にボディと顔面を打ち分けて、やや攻撃的に試合を組み立てていく。
相手がこちらの動きを覚えたように、こちらもまた相手の動きを覚えている。目と体でかわす訓練がここになって生きてくる。
上体を揺らすウィービングで狙いを絞らせず、速さを意識したストレート系統のパンチで稼ぐ。
(今だ!)
向こうが左フックを打とうとしたそのタイミングで、やや腰を沈ませていきなりの左ジャブを打ち込んだ。
機先を制する先手打ち。
フックは大回りするパンチだ。だからタイミングが読めたら、こうやって機先を制して攻撃を潰してしまうことも可能だ。
続けて左ボディブロー。
キャシーが思わず顔をゆがめる程には、その一撃は強烈。
隙が生まれる。
ガードがやや下がっているそこに、チッタはフィニッシュブローをぶつける。
「シィッ!」
強烈な音がした。
相手の頬を打ったそれは、そのままキャシーをぐらつかせた。
オーバーハンドライト。背中から上方向に大きく弧を描く打ち下ろしの大型右フック。
奇襲の一撃だが、相手の意識を刈り取るほどの一撃。
キャシーはこの瞬間、間違いなく意識を飛ばしていたはずだ。
(もらった!)
そこからは乱打だ。
朦朧としながらもガードを固めているキャシーに、外回りのアウトサイドから側頭部を狙ったり、ガードの隙間をぬうアッパーで攻撃。
ガードの上の一撃は押しつぶすように。
ガードをすり抜ける一撃は刺すように。
半分グロッキー状態のキャシーを、このまま真っ直ぐ追い詰める。
(勝てる!)
好機。
しかし堅実に行く。このままボディを狙ってガードを下げさせていけば――
「シッ!」
キャシーが動く。
強烈なジャブが来た。何とか横に避けると、そこを狙いすました右ボディブローがチッタに刺さった。
「がっ」
呼吸が止まる。
一閃。ボディブロー一撃でチッタは、足と動きを止められてしまった。
続けて相手から獰猛に踏み込まれる。チッタは何とかガードを取ろうとして、ガードの上から痺れるような攻撃の嵐を受けた。
左、右、左。
上から下から打ち込まれる連続攻撃。
腕が軋む。
ガードの上なのに脳が揺れる。
チッタは、一瞬で劣勢に持ち込まれたことを理解した。
(ならば、カウンター!)
何とか呼吸が落ち着いた。
相手の大振りの左アッパーに合わせて、いきなりの右ストレート。
威力はない。だが相手の勢いが利用された分、相手を怯ませる一撃にはなっていた。
キャシーが一旦体勢を整えようとしたところで、こっちの動きは始まっていた。
相手の打ち始めに飛び込む。
左手で脇を抱えるように。右手を腰に回し、抱きつく。全体重でタックルするようにのし掛かる。
相手の右肩を固めて。
(……クリンチ)
キャシーは虚を突かれたようだ。
同じく観客も、レフェリーも。
余りに激しい乱打戦からのクリンチに当惑しているようだ。
「ブレイク! ブレイク!」
レフェリーが離れることを指示して、一旦両者は引き離された。
これでいい。
貴重な時間が稼がれた。
右ボディのあの一撃は、やや癒えてきた。
ガードの上から揺らされた脳も落ち着いて、はっきりしている。
(凌ぎきった)
クリンチを引き離して再開される試合に、少しばかりの余裕が生まれた。
いける。
ここから一気にペースを握ろう。
そう考えたチッタは足に力を入れた。
一気に踏み込み、ワンツーを披露。
速さを重視したワンツー。威力よりも牽制の一撃。
相手はかわした。
スウェーバックでいなそうとするキャシーを見て、相手の警戒が分かった。
相手は、あの右を意識している。右のオーバーハンドを強く警戒しているのだ。
「シッ!」
代わりにこちらへの圧力もやや減ったことに、打ちやすさを感じる。
一撃二撃の交差。
「そこまで!」
ややあって、2Rが終わった。
長い三分間だと思った。同時に、まだ終わらないで欲しいとも思った。
息を整えながら、コーナーへと戻る。
採点結果は五分か。それともどちらに傾くのか。
「……採点結果です! 10-9! 9-10! 9-10! キャサリン選手が優勢です!」
ああ。
分かり切っていたこと、とチッタは思った。
KOしかないようだ。
短い一分間を、休憩と、次の戦略に向けて使う。
(左アッパーを何度も見せてきた。右は序盤の右ロングフックと、あのオーバーハンドライトで強烈なイメージを植え付けた。……後は、決める!)
お前のサンデーパンチはアッパーだ。
あの商人様のアドバイスを思い出す。
ゴングが鳴る。
最後のラウンドが今から始まる。
もう後はない。
チッタは、覚悟を決めて立ち上がった。
そう言えば最初の頃感じていた嘘のような緊張がなくなっているな、と今更になって気付いた。




