第十九話
いざリングの上に立つと、緊張がじわじわとやってくるのだから質が悪い。入場門を潜り抜けて覚悟を決めたあの一瞬なら、緊張はなかった。しかしこうやって眩しいリングに立って、四方の観客を見回すと気付く。緊張がもう一度やってきたことを。
心臓の鼓動が早くなっている。膝が急に笑い出す。
チッタは思い知った。緊張は一度に襲ってくる暴風のようなものではない。海のようにどっぷり肩まで浸るものであり、そして絶え間なく波がある。
胸が重たい。心臓がやけにうるさい。膝は笑うし、呼吸のリズムを意識するとどんどんずれていって変になっている。
「続いて赤コーナー! オアシス街最強の拳の持ち主! キャサリン選手の入場です!」
キャシーへのリングコール。
チッタは向かい側にある、もう一つの入場門を見た。そこには悠々泰然とした女傑の姿があった。
リングまで一息に駆け抜けたチッタとは異なり、キャシーは、王者のような風格をまとわせてそのままリングへとゆっくり上っていった。
「……」
対峙する。
見上げねばならない人物と戦うのかと思うと、気持ちが潰れてしまいそうになる。
リング上での睨み合いに沸き立つ観客がいるが、チッタは暢気なものだと思ってしまった。今から始まる試合を、彼らは知らないのだ。
キャットファイトだ。
どっちも女か。
拳闘はいつから下品な娯楽になったんだ。
いいぞ、もっとやれ。
有象無象の言葉がチッタに届いた。侮辱されているような気がした、だが意味をかみしめる前に言葉が耳から抜けていくような感覚がして、まともに考えられない。
明らかに気持ちで負けている。
「……ふっ!」
両手を打ち合わせる。
6オンスの軽いグローブが打ち鳴らされる。
弾性包帯を巻いて、黒墨で「これを外して内側に石などを握り込まないように」と印をつけて外したら一目瞭然になるよう封印したもの。その上から被せたボクシンググローブは、予想に反して重く柔らかい。
魔物の革で出来ているためか、局所的なダメージを分散させることに優れているそうだ。
手を打ち合した実感が腕に伝わって、少しだけ集中を取り戻すことに成功した。
「ふふ」
キャシーから笑い声が聞こえた。
マウスピースとして皮を噛んでいるためお互いにあまり喋れない。しかしキャシーが何を言おうとしているのかは分かった気がした。
やる気満々だね。
チッタは目で返礼した。
もちろんっすよ。
(借りは返させてもらう)
両者ともにリングの中心へ、というレフェリーの指示が聞こえた。
レフェリーがボディチェックを済ませ、ゴング係に視線を送る。
一息。
精神統一するのに十分な時間が流れて、そして、ゴングが打ち鳴らされた。
「お願いします」
互いに拳を合わせ、試合の火蓋が切って落とされた。
まずはお互いに距離を取る。これはインファイターのチッタとしても定石の動きであった。
相手の得意の間合いと自分の得意の間合いを見極めないといけない。その上で、ウィービングで相手の懐に入り込むイメージを掴むのだ。
両者はリングの上を円を描くように回った。サークリング運動で距離を調整しつつ。
「ッ!」
チッタが動く。
一気に踏み込み、左ジャブの連打。
目隠しのように相手の視界を制限してガードを誘う。そこから全身を跳ね上げさせての渾身の右ロングフック。相手の左ガードの上を思い切り叩いた。
「くっ」
爆発音のように大きく乾いた音が鳴り響いた。キャシーの顔が少しゆがむ。
そして観客の空気も一瞬にして変わった。これはキャットファイトではないと、今更になって思い知ったかのようであった。
成功だ。
チッタはもう一度距離を取った。今のはあくまで挨拶だ。あの渾身の右は捨てパンチでしかない。ここからもう一度試合を立て直す。
再び緩やかにサークリング運動に入る。チッタに合わせキャシーもサークリング運動に入り、相手の側面に隙あらば飛び込もうと牽制し合う。
(右を意識させることに成功した。これでオレのフィニッシャーが右ロングフックあたりだと目星をつけるはず)
試合作り。
器用じゃないチッタには、あの商人様から教えてもらった数パターンしか実践できない。それでもそのパターンはどれもチッタにとって有効な戦略となっている。
体が覚えている。
だから、後は動き出せばよいというだけであった。
「シッ!」
マウスピースから漏れる呼吸。
再び動いたのはチッタ。ゆったりした立ち上がりから緩急をつけての左ジャブ。目隠しというよりもやや顔面に食い気味の連打に、キャシーはガードで左を払おうとした。
そこに。
左のボディフックが食い込んだ。キャシーが一瞬上体を崩して、一旦遠くに飛びのいた。
(ジャブで顔面を意識させてからのボディ。これも有効か)
基本のコンビネーションの一つ。相手は一瞬たじろいだ。
この隙を逃さないように前にさらに詰める。
躍り出るようにジャブ。そこから潜り込むように低い姿勢から右ストレートを放った。しかし。
「!」
予想していたのか、右ストレートはヘッドスリップでかわされる。ヒットの瞬間に顔面をそらして勢いを殺す高度なテクニックだ。
鉄壁の防御を誇るだけに目が良い。
だがそれも、基本パターンの一つに過ぎなかった。狙い通りだった。
「っ!」
左ロングフックが相手の側頭を撃ち抜いた。よろめいた所へ右を合わせてここからラッシュに持ち込む。
逆ワンツー。
さっきチッタが披露したものはそれだ。右ストレートはフィニッシャーではなく、ジャブ感覚の捨てパンチであった。そこを無理に避けようとすれば、左ロングフックでそれを迎撃する。
変則ワンツーの本命打は左。
相手に右を意識させるために、序盤に大振りの渾身の右ロングフックを放ったのも、それが狙いであった。右がまるで本命であるように見せかけて、右さえ避ければと意識させてからの左だ。
チッタの左は弱くない。
十分フィニッシャーになりうる威力を秘めている。
その左がジャブの手にあるというのは、相手にとってかなりやり辛くなる。
作戦通り、状況はチッタの方へと傾いた。
観客もそれを僅かに理解している。
「シッ!」
今度は相手が打って出た。そろそろペースを握ろうと、強引に踏み込んでワンツー。鋭くも直線的。
チッタは避けた。背中を反らして避けるスウェーバックは不味い。なのでウィービングで横に避け、反動でまた軽く打ち合った。
ここだ。
踏み込んで、左アッパーを放つ。
相手はそれを状態をそらして楽によける。そこを狙う右ボディストレート。命中。だが会心ではない。
お返しに相手のジャブを貰ってしまう。
数歩下がる。
どうしてもキャシーの方がパンチパワーはある。そのことを意識せざるを得ない攻撃だ。
互いの拳が空を切る。牽制。しかし隙あらば切り込む鋭さがある。
「そこまで!」
ここで1R終了の合図。
残り2Rを残しつつ、二人はコーナーへと下がった。コーナーには拳闘大会の運営スタッフがいて、チッタとキャシーにそれぞれケアをしてくれる。
汗をふき取り、水でうがい。
一息ついて、チッタは肩で呼吸を続けた。大きく深呼吸しつつ、一分間という短い時間を全力で休養に回す。
やがて呼吸が少し落ち着いた頃、一分はちょうど終わりに差し掛かった。
「……採点の結果が出ました!」
有効打はこちらが多かった。相手からは何も貰っていない。僅かに勝って、10-9ぐらいだろう。
そう思って耳を澄ませる。
「10-10! 9-10! 10-9! ……互角です!」
互角?
そんなバカなと思いつつ採点官達を見た。森熊の旦那が何か大声で隣へと怒鳴りつけていた。
それをどこ吹く風と、採点官の一人はゴング係に早く鳴らせと促していた。
キャシーも怪訝な顔をしていたが、とりあえずゴングが鳴ってしまった。
(……ちっ)
向こう優位の採点か。
上等、とチッタは思った。ならばKOをすればいい。何よりそれしかないのだ。
ちまちま採点を稼ぐ戦い方はチッタの性に合わない。いつも通りいこう。
そう思うと、却って決心が付いた。
「シッ!」
中央まで駆けて仕切り直しに一気に攻める。勢いを乗せた左ロングフック。
キャシーもそれを予想していたらしく、カウンターを合わそうと手を出してくる。
(フェイントだよ!)
フックは内側からの直線上のカウンターをとりやすい。当然インサイドからキャシーのカウンターがくる、と予想するのはたやすかった。
左ロングフックを途中でとりやめ、足で軽くステップ。即座に体に残っている勢いを右ボディストレートに乗せて、一撃を食わす。
「っ」
そのまま右手で軽くジャブ。サウスポーの戦い方に変えて顔面とボディを打ち分ける。
右利きのサウスポー。商人様が見せた奇襲テクニック。ジャブが右手に来るので、それだけでも相手にかかる圧力が違う。
一瞬距離感を失ったキャシーがガードを固めた。
そこに左ボディフック。
ガードが固い相手はボディから崩す。定石の戦い方。
(小細工はここまでだ)
チッタは馴れないサウスポーをここで解いた。代わりにここからはインファントと更に近付く。
左アッパー、右ストレートとここからは乱打戦。相手のガードの上を滅多打ちにする。
そして。
速さを意識して打った左ジャブの反動をやけに軽く感じたその瞬間、ついにキャシーが動き出した。
「シッ!」
咄嗟にガード。
腕を高くブロックを作って顔面を守ったその瞬間、爆発的な衝撃が走った。
腕がしびれた。
ガードの上から脳へと、殴られたような感覚が走った。
咄嗟に距離を取りつつ肩で顔を守ると、ショルダーにまたおぞましい衝撃が走った。
同時に距離を取ることに成功。
状況がわかった。
今のは、キャシーが放った渾身のワンツーブローだったのだ。
流れも変わった。
キャシーはこの二発で、自分の調子を取り戻したようであった。
(何だこれは)
チッタは悪態を吐きたい気持ちだった。
今まで積み上げてきたパンチが、試合運びが、たった二発で台無しにされた気がして、余りの理不尽さに歯噛みしたくなった。
こっちが死ぬ思いで積み上げた物を、そんなに簡単に。
酷く簡単そうであった。
残酷だと思った。
(ふざけるな……っ)
理不尽への怒りで拳が強くなるのなら、頼むから強くしてくれ。
そう願いたい気持ちを叱咤して、ただ真っ直ぐ構える。