第十一話
「大丈夫か、チッタ」
「……ああ」
近寄って様子を見てみる。座り込んでいるチッタは、どことなく遠い目をして考え込んでいた。打ち所は悪くなかったか、などを鑑定し直す。
試合中も鑑定していたが、差し当たり命に別状あるようなダメージは見受けられなかった。念のため今現在深く調査しているが、そういった危険は見当たらない。
無事なようだ。
つまり今チッタがぼんやりとしているのは、むしろ心因的なものによるのだ。
「チッタ、今日は休むか?」
「……」
返事はなかった。
鑑定スキルの心理グラフでは、二つの心が揺れ動いているらしく、このまま休むのはまずいと思う焦りの気持ちと、いっそ諦めたいという気持ちの二つを示しているように見えた。
この無言は、そのまま黙って返事を待つべき無言だろう。
「……」
チッタの顔を見た。涙の痕が少しだけ見えた。
悔しさだろうか。それとももっと別の何かだろうか。それを問いただすことはちょっと、今の俺には出来そうもない。
「……練習します」
ぽつりと呟くチッタの言葉に続きがあるような気がした。練習します、いつもやってるので。
日課、あるいは惰性として練習をしようという気配が窺われた。
気持ちは何となく分かった。
日課、惰性として練習するのは、実は長期的には悪くない。
むしろ人間は、トレーニングをすることをサボろうとする生き物だ。だからこそ惰性、日課、としてそれらをこなすのは実は長期的な眼でプラスになる行動なのだ。
放置するのが正解である。
放置してもチッタは準決勝まで拳闘で勝ち上がるだろうし、トレーニングで強くなるだろう。
今ここで下手な同情で茶々を入れることこそおこがましい。俺はチッタに何も与えてないのだから。
「練習メニューを考えておこう。それまでの間、ストレッチからだ」
「……はい」
もう一つ、重要なことがある。
心が弱っている奴に必要なものは説教ではない。むしろ日々と変わらない扱いである。踏み込まないことも優しさだ。
踏み込むことを優しさだと勘違いするのは傲慢だ。
俺は優しくない。
利用者である。
カイエンには説教も何もしていない。ただ奴の復讐に手頃な案件があって、奴の願いと俺の利益が重なって、アリオシュ翁に後を任せたのみ。
ルッツにもだ。料理できる奴隷が必要な俺と、料理をしたいけどとまごついている奴隷がいて、俺はそれをこれ幸いと便乗したのだ。
マリエールなんかは、ある意味別の意味での利用だっただろう。ヤコーポへの人脈繋ぎでもあり、同時に「ミュージカル」の設立と「fantasy tale」の物語設定の関係性を試したモデルケースである。
立ち位置は常にそうだ。
態度を少しばかり優しく同情的にするのは、ちょっとした人情だ。逆に言えば、人情の部分はあくまでもフレーバーでしかない。
これを傲慢というのだろう。ユフィの潔癖な瞳を思い出した。
「あと、ダメージが残っているようだから今日は激しいトレーニングにならないぞ。いいな」
「……はい」
いつもより一拍ほど遅れた声は、どことなく湿っぽい。察しが付くほどチッタは凹んでいた。
「敗因は何だ」
「……実力の差です」
「そうか」
「……」
「実力の差、というのは何だ」
「……実力、というか。力も向こうが上で、テクニックも向こうが上だったと思います」
「どうしてそう思ったんだ? 力は上かも知れないな、チッタをことごとくパンチ一撃で沈めてきたからな。でも、テクニックはどうだ。キャシーの何にテクニックを感じた」
「……ブロックの上手さと、的確に攻撃を当ててくるところです」
「そうだな。上体をU字を描くようにして相手のパンチを流すウィービング、しゃがんで避けるダッキングによる回避はチッタの方が上だろう。だが、的確に攻撃に反応して防御するのはキャシーの上手さだろう。あの堅い防御をいかにどう突破するのかがお前の課題になるだろう」
「……」
「チッタはどうすればいいと思う?」
「……それは、その、……基本に忠実に行くしかないっす」
「基本に忠実に? どう行くんだ。どう行きたい? 基本だなんて沢山あるぞ」
「……その、ボディブローとかでボディを狙って、相手のガードを下げさせてからの、顔へのワンツーブローです」
「そこにたどり着くまでの距離はどう詰める?」
「……目と体で避けること、あと足で避けること、です」
「そうだな、俺はそう教えたと思う。だからこその身体を左右に揺すって相手に狙わせないウィービングだし、足で避けるためのフットワーク強化の練習だ」
「……」
「チッタ、お前の体格は小さい訳ではない。しかし拳闘に出る選手たちはどうしてもお前より体格に優れる奴らが多い。そいつらに距離を取ったボクシング、つまりアウトボクシングに徹されたら、お前の勝ち目はどうしても薄くなる。ウィービング技術と更に鍛えて、近くに踏み込んでから得意のインファイトに持ち込むんだ」
「……はい」
「あるいはインファイターとしての破壊力を高めるか。パンチは基本的に四つ。牽制のジャブ、真っ直ぐのストレート、下からのアッパー、遠心力を付けるフック、の四つだが、チッタにはジャブ、ストレート、アッパーを教えてきた。フックは遠心力がかかる分大振りで避けやすく、隙も大きい。……だがあえて、そのフックを磨くのもいいだろう。遠距離から放つから読まれやすく危険なのであって、接近してから放つのならばありだ」
「……はい」
「テクニックは武器だ。保証する。チッタはかなり上手い。信じられないかも知れないか、この世界において言うならば相当テクニックが高いはずなんだ」
「……ありがとうございます」
「チッタに教えているのは三つの構えだけ。両手を顎に回してがっちり守り、相手のワンツーを誘ってウィービングで避け、サイドステップで有利な位置に飛び込んで、そこからインファイトに一気に持ち込むピーカブースタイル。右目の下に右手を置いて左手を前に出して、左手で相手のパンチを弾いたりと左手を起点に戦うことが出来るオーソドックススタイル。あとは顔の左右に腕を立てるように高くガードを保持して、足のステップワークと腕による顔面へのブロック、カバーで、守りながら相手の打ち始め打ち終わりを狙っていくアップライトスタイルだ」
「はい」
「どれも接近戦で戦うお前に必要と思われる技術だ。だが、拳闘がまだ成熟してないこの世界においては、乱打戦、つまりラフファイトに巻き込まれることが多くなるだろう。その場合、低くクラウチングの姿勢で潜っていって、そこからインファイトに持ち込むのがお前の勝利パターンになる」
「……はい」
「チッタ、お前の得意のパンチは今日からアッパーだ。アッパーで、お前に優勝を見せてみせる」
「……はい」
「だから、チッタ」
「……何ですか、商人様」
「今度は勝てるようになっている。間違いなく勝てるとも。その実力が付くまで、俺はお前との練習に付き合う。約束するとも」
「……努力します」
「そうか。それなら嬉しい」
「……ありがとうございます」
「そして、チッタ」
「はい」
「勝ちにいく戦い方が欲しくないか?」
「……勝ちにいく、戦い方」
「クリンチワーク、同モーションのショートアッパーとスマッシュ、変則フック。どうだ?」