第十話
萎縮。
テントの中を簡易リングと見立ててのスパーリングは、チッタの思った以上に上手くいかなかった。体が重たく、イメージしていたよりも手ごたえを感じない。
何度か打ち込んでいる。何度も打ち込んでいる。ボディを打って、ガードを下げさせての顎へのアッパー。定石通りの愚直な戦法をチッタは続けている。
しかし効いていない。
目の前の女拳闘士は岩のように硬い。ボディ狙いの一撃も的確にガードし、フットワークを生かしてガードの隙から横腹を叩いても硬い筋肉の感触に阻まれる。
攻撃が全く効いていないのでは。
脳裏に浮かぶ嫌な予感が、先ほどからこびりついて離れない。
(集中しろ!)
自らを激励し、もう一度愚直に左ジャブと右ストレートのワンツーブロー。効いていないならもっと力を込めるのみ。チッタにできることと言えばそんな簡単なことのみだ。
大振りになるな、力むな。
外野から指示を出す商人様の声。頭では分かっているのに体が従わない。
目の前にそびえる巨岩に、チッタは焦っているのだ。
(この程度なのか)
強くなったと思ったのは錯覚だったのか。チッタの脳裏に嫌な言葉のみが次々と浮かんできた。拳に伝わる感覚が、とても遠い。少しは近づいたというのは思い上がりだったのか。
焦りが拳を早くした。
その分荒くした。
「!」
拳一閃。
視界が揺れ、脳が直接揺らされるようなあの感覚にふらりと膝を折って気が付いた。顎を拳で打ち抜かれたのだと。
視界が暗転し、グロッキーのような感覚と、ふわりと浮かぶような感覚が混ざりこんだ。
立てない。
それだけでチッタは悟った。まやかしを。
一ヶ月で強くなったと彼は言っていた。どこが強くなったと言うのだろうか。
(……)
目が覚めたような気分であった。
所詮はこのようなものだ。期待するだけ馬鹿らしい。そんな諦念に似た感情が一瞬チッタを襲った。
何故戦っているのだろうか。
その理由に疑問をもった瞬間、チッタはまずいと思った。何か折れてしまう嫌な予感がして。
無理に自分を奮い立たせて立ち上がる。
カウントはおそらく十以上を取られている。実際の拳闘大会ならば負けているこの状況で、それでもチッタは諦めないために立ち上がった。
諦めないというこの感情が縋りつくという感情に似ていることに、チッタは歯噛みするような気持ちだった。
◇◇
「想像以上だ」
俺のつぶやきは傍にいたチビどもに聞こえたかどうか。想像力と感受性が高すぎるネルはさっきから涙目になっている。イリは無言のまま見据えているし、ユフィは険しい顔で歯を食いしばっている。
何でこいつらこんなに魅入っているんだと思った俺は、同じように考えていた様子のステラと目があった。苦笑するステラは三人ともを撫でていた。落ち着かせるためだろうか。
(感情移入は、俺一人がしているものだと思ったが)
やはり1ヶ月も一緒のテントで練習する姿を見てきたからだろうか。試合を見ている奴隷たちはチッタに同情的だった。
強い姿。
練習にはつらつと励む姿。
チッタと言えばそうであった。
そんなチッタが今は膝を折って、四度目のダウンで地に伏していた。
あの強いチッタが。
少しばかりショックの強い光景だ。ある意味象徴的な光景でもある。
奴隷たちは見入っているようだった。
或いは目を離せないのかも知れない。
象徴だ。
奴隷の自分たちが頑張ったとしても、それは今のこのチッタなのだ、その道に優れるものに悠々となぶられるだけなのだ、という象徴だ。そう捉える奴隷たちがいるかもしれない。
(いや、考えすぎだろうな)
誰もそんなに極端に悲観的な考え方をしている奴隷はそう多くいないはずだ。そう考える奴隷たちがいるかもしれない、程度に頭の隅に置いておく。
俺は考えるのを途中で止めた。
あくまで俺がそう思っただけだ。俺の勝手な想像だ。
逆に勿論、俺がそう思いついたということはつまり奴隷たちもそう考える可能性はあるということでもあるのだが。
それよりも。
(チッタ、勝負はここからだ)
重要なのはチッタだった。
俺があれほど強い強いと誉めて自信を付けてきたチッタが、これでどれぐらい心にダメージを受けるかという所だ。
正直な所、予想以上だった。
俺はずっとチッタに「お前は強くなった、勿論敵は強いけども、準決勝までは進めるだろう、ともすれば優勝も有り得ると踏んでいる」と言葉をかけてきた。
そして実際チッタは強くなった。
ただし、予想以上に敵が強かった。未だに準決勝には進めると確信しているが、優勝出来る可能性はちょっと甘く見積もりすぎたかもしれないと思っている。
強すぎたのだ。
体格差はやはり大きかった。筋肉が多ければ防御も厚いし、見た目に反して運動も早い。基本的に体格差は、そのままそっくりリーチと破壊力と速さに比例するのだ。
結果は今チッタが誰よりも身に染みて実感しているだろう。
「……壮絶ですね、主様。……チッタ、泣きながら戦ってませんか?」
「ああ。五回目ダウンしたら一旦休憩を入れよう」
ミーナの呟きに、俺はそろそろ限界を感じ取っていた。外から客観的に見ても、これ以上の戦いに意味がないことは分かるのだ。
俺だけじゃないようだ。
チッタの膝が崩れた。
「そこまで!」
俺は声を張り上げて試合に割って入った。
気が付いたらしいキャシーは、その段階で手を止めていた。俺をちらりと見て「遅かったね」と苦笑していた。
その仕草はまるでチッタの勝ち目はなかったと言っているようにも見えて、一瞬だけ癇に障ったが、俺は一方で彼女の言葉に頷いてもいた。
ちょっと信じたくなりまして。
そんなセリフが口をついて出てきそうだった所だったが、別の言葉に置き換えた。
「どうでしたか、キャシーさん」
「……さっきの拳闘かい?」
「はい」
強かったですか。
そうは口に出すことは出来なかったが、その答えを俺は聞きたかった。
その代わりに俺がキャシーに対して真っ向から向かい合った。大きな威圧感に俺は息苦しさを覚えた。
「いやあ強かったよ。何かスポーツにしっかり打ち込んでいる、みたいな雰囲気だったさ。姿勢も綺麗で」
「……そうですか」
「単純に今回、私がベテランだからちょいと新米を揉んでやろうと意地悪しただけさ。きっと強くなるよ、この子」
「……ありがとうございます」
スポーツ。揉んでやろう。意地悪。
キャシーから放たれた言葉は、表向きどれもチッタを誉める言葉であったが、しかしこの三つばかりの言葉に漂うニュアンスは、対等であることを認めていない。
チッタはキャシーと対等ではなかったのだ。
俺はキャシーを見つめた。
一ヶ月の付け焼き刃にしては上出来だろう。
彼女を改めてまじまじと見たが、体格の発達具合といい、漂う威圧感といい、並大抵ではない。
もし俺が同じように一ヶ月を与えられたとして、このキャシーと先ほどのようなスパーリングが出来るかと言われると否である。
上出来なのだ。チッタを褒めることこそあれど、責める所などないのだ。
だが、それを伝えて何になるというのか。キャシーにああそれなら強いよと言ってもらえたところで、何になるというのか。
(?)
足首を掴む感触がした。下を思わずちらりと見ると、チッタが半分だけ顔を上げていた。
唇だけが、もう一度戦わせてくださいと囁いていた。
「……一旦休憩しよう。続けるにしても、一旦休んでからいろいろ反省しての方がいいだろう」
俺がそう宥めると、申し訳無さそうにキャシーが頭を下げた。
「あー、悪い、トシキさん」
「ああ、キャシーさんは都合が悪かったでしょうか」
「いや、まだちょっと時間はあるけど、そろそろ店に行かないとな」
そうでしたか、これは失礼しました。
俺はそう答えてから、キャシーを一旦店先のテントに案内し直した。案内し直してからキャシーに紅茶を勧めて、少しだけ雑談をした。
案内するためにスパーリングを行ったテントを後にするとき、背後にいるチッタが気にかかった。気にかかったが、今しばらくは奴隷たちに任せておいた。
後で様子を見よう。そういう考えが伝わったのか、キャシーは「あの子によろしく言っといて、強かったよ」と微笑んでいた。
伝えておきます、と返した俺の声は営業用の声色よりもう少し調子がずれていたと思う。




