第七話
チッタのボディが弱いことは既に分かっている。
拳闘を少し始めた程度の実力では、ミット付きガンドレッドでボディを殴られて体を折るのも仕方がないこと。
故に腹筋を鍛える。
厚い腹筋を作り上げることでボディ対策も綿密に練りあげるのだ。
「腹筋千回? もっと辛いぞ。五種類の腹筋をそれぞれ三〇回、サーキットトレーニングとして三回回すつもりだ」
なお現状腹筋を鍛えるためには、これだけの回数をこなす必要はない。半分根気を鍛え上げるための訓練になっている。
サーキット一回あたりが印象以上に厳しいのだ。
V字腹筋から始まる各部位を効率よく鍛える筋トレ方法。
そんなものは鑑定スキルの詳細検索でも出てこないが、筋肉にどれだけ負荷が掛かっているのかは鑑定スキルで観察できる。
こうして見つけることに成功した、五つの種類の腹筋方法をチッタに試させるまで。
(回数を重ねれば腹筋が強くなると言うのは、もはや願望に近い幻想だ。アスリートのよく陥りがちな幻想)
俗に遅筋、速筋に区分される筋肉の種類。
回数を少なく負荷を短時間に一気にかけることで得られるのは速筋、何百回と腹筋運動を繰り返すなど時間をかけたトレーニングで得られるのは遅筋である、と言われる。
チッタに欲しいのは両方だが、強いて言えば今は速筋の方だ。
速筋は盛り上がりが出来て厚くなる。ボディを守るための肉の鎧が欲しいのだ。
故に、短時間で負荷を大きくかけるようなV字腹筋などが好ましい。
他にも、正面だけじゃなく脇腹なども鍛える捻り腹筋なども追加する。
「はっ、はっ」
単調肉体労働の経験が長いためか、或いはオーガ種族ゆえか。
どちらにせよチッタの体力は高い。スタミナが高めなのだ。
それでも息が上がるのはトレーニングの負荷が大きいことと、彼女自身こんなトレーニング未体験だった、というところが大きいだろう。
実に努力するものだ。
一方で。
腹筋にひたすら打ち込む彼女をよそに、俺は相変わらず型を反復していた。
俺は拳闘選手でも何でもないので、体幹作りをする必要性は薄く、むしろ彼女にきれいなフォームを指導する必要があるので地道にスキル上げ作業に打ち込んだ方がいい。
(実に地道なトレーニング。いずれはチッタのモチベーションも下がるかもしれない)
俺は考えた。
別にチッタが怠けているわけではない。ただどうしてもこれは作業、途中で慣れのようなものが出てしまうのも当然だ。
人は機械ではない。モチベーション管理もまた俺の仕事の一つ。
「近いうちに一旦模擬試合を挟んでみよう。二ヶ月かけてゆっくり体を仕上げていけばいいが、それまでの間にもちょくちょく刺激になる訓練を挟まないとチッタも意欲が削げるだろう」
「……いいんすか? このまま地道に、訓練するの、オレ、嫌いじゃないっすよ」
腹筋をしながら答えるチッタは、少し逞しくなった気がする。
俺はああ、と答えた。
このまま地道に続けるのもいい。チッタの意欲にも今のところ翳りは出ていない。
ただ、チッタは弱点が多いはずだ。俺の気づかないような弱点がきっとまだ沢山あるはずなのだ。
スパーリングで一旦それを見てみたい。
本来ならば、スパーリングなんてこんなに早く行うものではない。もっと基礎を培ってからの話になるのだ。
しかし、この世界のボクシング……拳闘は、技術的にもそこまで成熟していない。喧嘩の延長線上、というと聞こえが悪いかも知れないが、体格による階級分けが存在しないという時点でどのようなものなのか窺い知れるというものだ。
二ヶ月しかない。それが決め手でもあった。
「別に訓練でもいいが、先に弱点も探しておきたい」
だから戦え。
そう彼女に告げると、彼女は黙ったまま頷いた。
◇◇
スパーリングの結果は面白かった。
うちの素人奴隷達は割と普通に負けていた。フォームを鍛えたチッタと素人では攻めのパンチも守りのブロックも全然違ったのだ。
チッタは純粋に少し喜んでいた。自分が強くなった実感を得て嬉しかったのだろう。
一方で弱点も見えた。
あまり大柄でない彼女、オーガ種族の中ではむしろ小柄なチッタは接近戦、つまりインファイトに持ち込むほうが有利だ。一般人と比べて体格負けしているわけではないのだが、拳闘に出る人たちは大体がキャシーだったり森熊の大将だったりと体格が大きいのだ。
故に、接近戦に持ち込めば戦いやすい。こっちは丁度いい距離なのに向こうは近すぎる戦いを強いられるのだから。
いかにインファイトに持ち込むか。
しかしそのための体と足の捌きがなっていない。踏み込みも早くない。相手の攻撃を避けるテクニックも未熟。何発か素人奴隷相手に良いのを貰っているのだ。
ブロックは何とか物にした。そのブロックで辛うじて相手の攻撃を防ぎつつ接近し、インファイトに持ち込んでいる印象だ。
つまりパンチ一撃が重いハードパンチャーなどの拳闘選手相手では、ブロックを弾かれて逆に押し切られる試合になるだろう。
回避を覚えないといけない。
ウィービング。上体をUの字を書くように動かすことで、相手のパンチを逸らす技だ。
何も完全に回避する必要はない。致命傷の一撃の軸を逸らして、皮膚の上を滑らせるのだ。
そうすれば直接受けるダメージはぐんと減る。ウィービングとは、そういう意味でインファイトに欠かせない技術である。
その上で、タイミングを見てショルダーブロックやエルボーブロックで受け止める。肩や肘という固い部分で相手の一撃を受け止めるのだ。生身で受け止めるよりも遥かに防御力が上がる。ウィービングも相まれば、チッタは益々防御力が向上するだろう。
そう、ウィービングなどのボディワークを活かす必要がある。
足腰の重点的トレーニング、および回避のための体捌きが次の課題と言えた。
(ふくらはぎのトレーニングとして、つま先ランニングをして貰うのは有りだな。あとは砂丘での素足ランニング)
どちらも踏み込みが強くなるトレーニングだ。つま先ランニングは言うまでもないし、砂丘の方は、つま先の力がなければ砂丘の砂に足を取られてあまり前に進めないのだ。
(後は俺がスパーリングの相手になって回避をひたすら練習してもらう)
回避のトレーニングは、ミーナに棒を持ってもらって高速で突きだしてもらい、それをチッタに回避して貰うという手もあるが、それよりは実戦形式の方が経験が積めると考えた。
どうせ俺も素人だ。パンチは早くも強くもないしどこを狙うべきなのかという勘もない。
しかしフォームと技巧だけはある。鑑定スキルで習熟を高め、さらにスキルレベルを上げる事に成功した俺のフォームと技巧だ。
回避のトレーニングにはなるだろう。
ということをミーナに伝えたら。
「……徹底的にやるんですね、流石ですよね……」
呆れたような顔で半笑いをしていた。
「あの、拳闘選手ってプロボクサーとかとは違うんですよね? しかもセコンドとか他の選手つけてませんし二ヶ月みっちりトレーニングとかもしませんよ。いや、ここまでやったらどう考えてもやり過ぎというか大人気ないというか」
「優勝を狙う。そのための全てを惜しまない」
「いやいやいや。あのですね、拳闘って今のところぶっちゃけ体格ゲーですよ。体格が大きい方が有利、っていう正にその通りとしか言いようがない有利不利で大体の勝負が決まってますよ」
「まあな。その点チッタは若干不利だ」
だが、と俺は敢えて答える。
「こんな美味しい状況、どうして見過ごせるっていうんだ? 相手は素人に毛が生えた程度、体格に物を言わせて押し切るだけのファイト。ここに俺のチート知識とスポーツ科学的トレーニングを二ヶ月間漬けしたエリートが一人現れる。……優勝できない訳がない」
「……凄く悪い顔してますね」
優勝賞金。或いは知名度向上効果。
どちらもかなり魅力的ではある。
面倒ごとに巻き込まれる可能性は、逆にそこまで高くならないと予想される。拳闘大会に八百長があるとしたらそれに巻き込まれるかもしれないが、多分なさそうだからだ。
貴族リーグのあるフェンシング大会とかじゃなくて良かったと思う。貴族が出場するような大会の場合、もしも相手に勝ってしまって恨みを買えば付け狙われるし、逆に結果を出し過ぎたら目を付けた貴族にお抱えの教師として売ってくれと催促がうるさくなるだろう。
拳闘ならばチンピラ冒険者に目を付けられるかも、という程度のリスクはあるが、拳闘で自分を負かしたチッタを抱えていて、アリオシュ翁と繋ぎがある俺に因縁を付ける冒険者がどれだけいるのか、という話だ。
良いビジネスだと思う。
「うーん、そういう下心なかったら主様凄く格好良かったんですよ? 今もまあ格好良いですけど」
「何だよそれ」
「いや、さっきの主様のスパーリングで奴隷達の目が変わりましたよ」
ああ、チッタにひたすら回避させまくる訓練の奴か。
「いや、主様やっぱり普通に強いですって! 本当に冒険者やってみる説ありますよ!」
「いやないから」
聞くところによると。
どうやら体格もそんなにがっしりしてなくてこの間まで小間使い的なことをしていた俺は、侮られていたらしい。
いや侮られているという程ではないが、扱いは優しいし、会話も普通に出来るし、色々と『甘い』と思われていたのだろう。謎に色々営業を思いつく手腕を見て『この人は商人として凄いんだろうけども、まあ話しやすそう』みたいに思われていた節がある。
それがあのスパーリングだ。
俺は出し惜しみをしなかった。
取り敢えず身に付けまくった技術を惜しみなく披露した。見た目が派手なだけで相手へのダメージが余りない(本来はそうではないのだが俺の筋力不足のためそうなった)、みたいな技まで披露した。
結果、チッタは全く俺についてこれなかった。
元々回避が不得意なチッタだったが、それでもガードまで破られるとは思ってもなかったのだろう。
お世辞にもチッタは、俺の攻撃を捌くことが出来ていなかった。
「何か、主様ってあんなに軽快に戦えるんですねって感動しましたよ」
「そうか」
端から見たらそうなのだろう。
だが俺本人から見た試合の展開では、あまり満足のいく試合内容ではなかった。
腕が長くないのにフリッカージャブ(斜め下からのジャブ。軌道がしなって読みにくい)とかで攪乱したが、リーチが短いので曲芸的な意味しかなかったし。
コークスクリュー(捻りを入れたパンチ)はそこそこ効いたのだろうけど筋力不足でほぼ意味がなかったし。
フックは面白いようにガードされたし。まあフックはヤバいフックはヤバいとチッタに念入りに警戒しろと教え込んだからなのだが。
つまり、端からみたら俺は派手でも、スパーリング内容としてはそこまでチッタを追いつめていた訳ではないのだ。
見た目が派手なだけだ。
強いて言えば、サウスポー戦略はチッタに効果があったと思う。
時々サウスポーの構え(基本と左右逆転させた構え)を入れて、チッタのインファイトの距離感を失わせる小細工をしたのだ。
しかしこれは観客受けが悪かった。あまり凄さが伝わらなかったみたいだ。これが一番多分チッタを結構追いつめたと思うのだが。
そう思っていると、ミーナが「いや本当に凄かったですよ!」とフォローを入れてくれた。
「何か、ユフィが凄く尊敬してましたよ。ちょっと見直したとか言ってましたよ」
「嘘だろ?」
今日一番の驚きかもしれない。




