第六話
実に単純な動機だ、とチッタは思う。
強くなりたい、という願いは徐々に彼女の中で形を成しつつあった。
拳を振るう。
良い音を鳴らしてミット(と商人様は名付けていたが、どうやら皮のガントレットの加工品らしい)が弾ける。
人の急所を目掛けてのワンツー。二つ続けて良い音が鳴る。
この音を続けろ。いいな。
我が商人様はそう指示を下した。
所謂パンチングの練習らしい。正しい姿勢で正しいブローを放つこと。それがチッタの目下の課題である。
最初の方こそ、全然だめだった。どうしても腕の力で殴っているらしく、ハードパンチとやらになっていないらしい。恐れ多い生意気かも知れないが商人様も全然だめで、ミットの構えをチッタに合わせて四苦八苦させていた。
この場所のミットだと適合率があまり良くないな。
などと、こちらのフォームを矯正させるためにミットの位置を試行錯誤で探し出しているようだった。
甲斐はあった。
徐々にだが、自分のフォームが正しい物に仕上がりつつあるという。本当に基本のワンツーブローだが、言われてみれば力が上手く伝わっている気がする。
「良いぞチッタ!」
「はい!」
そう言えば、商人様はどうしてこうも指導が的確なのか。
指示が上手いというよりは、細かいところまで目が行き届き、何故か知らないが膨大な知識を蓄えている、という感じだ。
実力もある。
別段反射神経が早いとか勘が鋭い訳でもないのに、何故かフォームが格別綺麗で、防御が下手だが攻撃がお手本通りの上手さ、という感じだ。
「だがまだ甘い!」
「!」
ミット打ち練習は、油断してはならない。
油断するとすぐさま商人様から反撃をされる。ミットで逆に攻撃をされるのだ。
それをチッタは受け流すか回避するかをしなくてはならない。
どうしても大振りに回避してしまう。その隙に二連三連と攻撃が飛んできて、チッタが攻める隙がなくなる。
強い。
もしもこの一撃一撃に殺しが乗っていたとしたら。人を殴り殺さんとする意志と勢いが籠もっていたとしたら。
「余所見をするな!」
「!?」
ボディに一発。
大振りに回避しても、どうしてもボディは体の軸になっている。そのためボディを狙われたらガードするかしないといけない。
チッタの防御は甘い。
ボディに一発入ったとき、チッタは膝を折ることになった。
「……オレ女っすよ」
「知ってる! だから何だ!」
「……へへ、はい!」
立ち上がれ、と商人様は指示をしていた。ならば立つしかないとチッタは思った。
後で腹筋を鍛えるぞ、と商人様は容赦がない。腹筋がボディを強くするそうだ。この分の厳しさだと千回単位で腹筋させられるのでは、とチッタは苦笑いした。
◇◇
(チッタには地味に感謝だな。俺の動体視力が上がっている)
ミット打ちをしながら思う。
何故かは知らないが、ミットを打たれる側は「盾術」「格闘術」「視覚強化」を併合して使用するらしく、その三つに経験値が溜まるわけだ。
視覚強化は多分、元々夜営で暗闇とかを凝らしてみたりする経験からだと思うのだが、ミット打ちでは動体視力の強化に繋がっているようだ。
おかげさまで、反射神経も僅かばかり改善されたような気がする。
(まあ何度もひやっとさせられてはいるんだけどな。やっぱり長いこと現代社会に飼い慣らされていた俺は鈍臭い)
鈍臭さは抜けてない、と思う。
今こうしてチッタの攻撃を捌けているのは、チッタが的確にミットを狙って打っているからだ。
どうしても俺は素人だ。姿勢が崩れてよろけたりする。その瞬間に例えばボディに一閃入ったら、そのまま俺は崩れ落ちるだろう。
その度ひやりとする。
実戦ならば俺は死んでいたと。
しかしチッタは愚直にミットを狙う。今こめかみに一撃くれたら俺は死ぬという瞬間でもミットを狙う。
複雑な心境だ。
お陰でチッタのフォームは良い。良くなっている。無理なく攻めて、お手本通りになっている。
引き換えに急所を狙う勘が鈍くなる。今ここを決めたら勝てるという勝ちどころを学べない。その嗅覚、あるいは判断力を鈍らせている気がする。
鑑定スキルの適合率では計れない強さ。
それを磨くためにも、俺もまたよろけない必要と、急所にミットを持ってくる技術が必要になる。
(そうか、まがりなりにも急所にミットを持ってくるのは、急所をミットで守るのも同然。俺の盾術スキルが鍛えられるのも道理というわけか)
などと訳の分からないことを考えながら、今日のミット打ちの練習はこれにて終わった。
次はサンドバッグならぬ皮袋打ちをする練習だ。
俺の出る幕はあまりない。
チッタに「次は皮袋への打ち込みだ」と指示を下し、一旦商売テントに戻った。
「あらお帰りなさい」
「お疲れさまです」
「……」
ヘティとイリが俺を言葉で迎え、相変わらずユフィが軽く頭を下げる程度で反応する、という三者三様。
普段通りだ、と俺は思った。
ヘティはいつものように「はい、この間のポーションの売り上げも計上しておいたわよ。あとそろそろ商人ギルドに荷物が届くころだから午後に受け取りに出かけるわ」と実に優秀であった。ヘティを労うために紅茶を作ることにする。ちなみに魔法で冷やした紅茶を、である。
「冷えた物を飲むだなんて、貯蔵庫がある店じゃないと無理よね」
贅沢だわ、とヘティは満足げであった。
俺も贅沢だと思う。昼の暑い砂漠で、こう冷たい物を飲むことが出来るのは貴族だけだと思っていたが、本当に魔法は便利だ。
イリも冷たい紅茶に満足らしく、珍しくふぅと息をついていた。ちなみに手が翼のハーピーでは紅茶のカップを持つのは難しいので、両手持ちである。
微妙な顔をしていたのはユフィである。贅沢な魔法の使い方に反応に困っているのだろう。でも紅茶はありがたいのか普通に飲んでいる。
「まあな、ヘティ。……魔法さえあれば貴族並の暮らしなんて難しくはない。それならば貴族並の生活を送らない方がおかしいってことさ」
「……馬鹿げているわ」
ぽつりとユフィが語る。
すわ何事かと思って彼女を見ると、彼女はしまったというような顔をして、どうにも無理やり話を切り替えようという雰囲気で切り出した。
「いや、別に清貧を美徳とは思わないけど、貴族並の生活が出来るなら貴族並の生活を送らなきゃ、という考え方はきっと違うわ。その考え方は人を不幸せに……」
「ああ、いや、そんな難しい話じゃない」
俺は思わず割り込んだ。ユフィが言わんとしてることは分かったけど、そんなことを言っても埒があかないことになりそうだったからだ。
「余裕がある人間とない人間とでは、確実に何かが違うぞ。本当にこれは俺の経験則でしかないが、でも本当に何かが違うんだ。だから、魔力程度でどうにかなるなら奴隷達にも余裕を提供してやりたいと思っている。新鮮で冷えた水とか、快適な寝床とか」
「……」
何かを言いたそうな目。
ユフィはこうやって話を遮られるのを何より苦痛に思うのだろう。それだけこいつはいつも本気なのだ。肩の力を抜けばいいのにと思う。
こんな事、これからざらにあると言うのに。
「暑い日は、冷たい物が欲しい」
イリはぽけっと可愛いことをコメントしてくれる。
でも半分は空気を良くするために敢えてコメントしていることを、俺は知っている。
「ええ、今度はアイスクリンとかも良いかもね。作れたら美味しいでしょうね」
「それならヘティも水魔法とかをもっと鍛えなきゃな」
「ふふ、甘味のためなら頑張れそうね。この世の少ない娯楽の一つだもの」
アイスクリンって言い方何となく古くないか、と思ったりしたが指摘するとヘティが拗ねて甘える可能性大なので黙っておく。
甘える彼女も可愛いが、駆け引きは微妙に疲れる。何故か時々交渉スキルの経験値が手に入るぐらいなのだから推して知るべしというやつだ。
「この世の娯楽の一つか」
ふと、俺は今付き合っているボクシングを思った。この世の少ない娯楽の一つ。
それはどれぐらい楽しいものなのだろう。贅沢な生活にとんと慣れてしまって逆に一周回って平穏に生きたがる自分からすれば、その感覚は失って久しい。
ユフィが何を言おうと思ったのか、ふと気にかかったがもう忘れることにした。




