第十六話
舞台を踊るマリエールの心は、今過去に遡っていた。
(昔のことよね、カイエン。時は経つものね)
思い出すのは、あの馬車での思い出。
傷一つない顔のマリエールが、どこぞの冒険者か分からない男二人、カイエンとクラッドに護衛されていたときの話。
冒険者と会話することはならない、そう申し付けられていたものの、好奇心旺盛なマリエールは結局、クラッドとカイエンの二人と会話してしまっていた。
必要最低限の会話のみ、そのつもりだったのだが、いつも冗談ばかりの二人の会話に、ついつい笑ってしまったのが切っ掛けだった。
嬉しそうに「ほーら! 笑った! 俺の勝ちだろ相棒!」と獣人族のクラッドが小躍りして、もう一人のカイエンというリザードマンは「本当にお前は下らねえことばっかりだぜ」と肩をすくめていた。
後で話を聞いてみると、どうやら冗談ばかり言ってたのはマリエールを笑わせようという二人の作戦だったらしく、どちらのジョークで笑わせることが出来るか勝負していたのだった。
(貴方は変わっていないのね、カイエン)
カイエンの良く使う冗談の一つに、「頭は禿げて舌もべろべろ長くなった」というものがあった。
例えばカイエンがクラッドと話していて、「かーっ、最近の流行りって言えばチャードル衣装だろが、その認識は流行遅れすぎるぜ! 年取ったんじゃねえか?」とクラッドが言えば「道理で頭も禿げるわけだ」と全然関係ないタイミングで冗談を飛ばしていて、幼いマリエールは時々それだけで笑いそうになったものだ。
ひどく懐かしい記憶だ。
あの馬車で旅した短い時間だけだったが、今でも鮮明に残っている。
(……いや、変わったのかしら。どうなんでしょうね)
魔物に襲われてから、カイエンは見たこともない形相になっていた。
息も絶え絶えの親友に「へへ……眠い、あばよ……」と告げられて、カイエンは表情を歪め悲嘆に暮れていた。
失ったものの大きさを怒りで補おうとするような痛ましさがあった。
川で「顔を洗え」と告げる彼は、恐らく二度と冗談を飛ばせない人になるのだろう、と思うほどに、悲しみに沈んでいた。
その背中に負ぶさりながら、マリエールはふと、そう言えば自分もお付きの従者たちを失ったのだ、と思い出し、泣いた。
(……変わったのでしょうね。貴方も私も)
町に帰ったとき、カイエンに待ち受けていたのは酷い仕打ちだった。
カイエンは、友殺しの汚名と依頼人への反逆者という汚名を着せられた。カイエンを庇い立てるものは存在しなかった。
マリエールは無実を訴えようとした。訴えようとして、声が届かなかった。
カイエンが世の理不尽を呪い一声天に猛々しく吠えたとき、マリエールは再び泣いた。
(……私は失ったわ。貴方よりも失った訳ではないけど、大きく失ったの)
マリエールはこの間の邂逅を思い出す。
顔に傷が出来て以来、マリエールの人生は見世物の人生だった。
辛く、そして悲しい人生だった。
自分を否定され続けて、マリエールはもはや、心のどこかに歪みのようなものを抱えていた。
カイエンはそんなマリエールに、変わらぬ姿で現れたのだった。
いや、正しくは、変わった何か、失った何かを抱えながら、それでも変わらない彼の人の良さが戻ってきていた。
俺はカイエンだ。
あの言葉が全てだった。
(……カイエン。私踊るわ。踊って世界を渡るの)
『間違いない』
呆けたように繰り返していた彼の言葉だ。
――間違いない、受かる、今お前は、完璧に物語の主役だった。
その言葉は、マリエールの最も欲しかった言葉である。
(私、感動を伝える歌姫になるの。……そうよ、カイエン)
いつしか、マリエールを苦しめた者たちが感動で打ちのめされて惨めになればいいと、世を呪ったことがある。
今もその気持ちは変わらない。
それでも、あのネルという女の子の言葉が思い返される。
入団テスト本番前に必死に「感動は、素晴らしいのです!」と繰り返していた彼女。
ええそうね、とマリエールは思った。
感動は素晴らしいのだろう。きっと、素晴らしく思われる日が来るのだろう。
(……いつしか感動が、私の心を癒やしてくれるまで、私、歌い続けて、踊り続けてみせるわ)
マリエールは、また、少しだけ泣いた。
演劇が終わり、マリエールが静かに頭を下げたとき、しばらく多目的ホールは静まりかえっていた。
その余韻が程よく溶けたとき、ようやく拍手の音がして「……素晴らしい、素晴らしいですとも……!」とヤコーポが繰り返しているのが分かった。
続けて、トシキ、三人の娘たちが拍手を送っていることに気付いて、マリエールは深く溜息を吐いた。
見世物になって以来、このように真っ直ぐ拍手を受けたのはいつぶりのことだったか。
しばらくマリエールは、頭を下げたまま、その上体を起こせずにいた。
オリジナルの場面、それは彼女が二択に差し迫られるというもの。
顔を治す代わりに踊りと歌声を失う、という魔女の誘い。
マリエール演じるマリアは当然深く悩む。
顔の傷からすべてを失ったマリエール。しかし歌と踊りを諦める代わりに顔の傷を治せるとしたら、その時マリエールはどうするのか。
これは酷な二択と言えた。マリエールにとって、その根本を問いただすような二つの選択肢。彼女の今までの人生と言ってもいいものだ。
脚本は、ここから先は彼女に二つ渡している。どちらでも彼女が選べるように。
趣味の悪い二択だと思う。だから念入りに彼女に聞いた。こういう脚本になりそうですが、他の案もあります、どうされますかと。
しかしマリエールはあえてこの脚本を使うことを選んだ。この趣味の悪い二択を差し迫る、俺たちオリジナルの脚本を選んだのだ。選びたかった、と彼女は言っていた。
彼女はどちらを選んだのか。俺は知っている。
選んだ答えと、選んだ理由を何度も聞いた。
言葉遣いの一つ一つまで、彼女とネルと相談して決めた。
相談して、マリエールの答えになるべく近づけた。
「美しくなりたい。心の底から願います。美しくなりたいと思わなかった日はありません」
「……ですが、醜いままで世に感動を伝えたいのです。私は醜いのが嫌なのではありません。醜い者を笑う世の中が嫌いなのです」
目の前のマリエールが泣きながら答える。
「醜いかどうかは重要ではありません。当然醜いよりも美しい方がよいと思う気持ちはあります。ですがそれは重要ではありません。醜い者はこうあるべき、醜いならばこう振る舞うべき。そういう世の中の考え方こそが嫌なのです」
「私は、顔が傷付けられたことで失ったものよりも、より多くのものを失いました。自尊心と、表現する喜びです。この二つは人の悪意によって大きく傷付けられました」
「私はかつて、自分が美しいと思ったものを踊りました。蝶が美しい、花が美しい、そういう感動を踊りました。私はその美しさを心の底から伝えたかったのです」
「それを滑稽だと笑う人がいました。顔に傷がある女が踊っている。面白い、物珍しい。ただそれだけの感想です。私の表現したいものを見ようともせず、ただ面白がるだけでした」
「私はひどく傷付きました。――私が伝えたかった感情が伝わらない、孤独な悲しみ。私自身が笑われているという、自尊心を削る悲しみ。私が美しいと思ったものが笑われているのではという錯覚が生む、大事なものを貶される悲しみ」
「私は知りました、いかにそれらが悲しいことなのかを。三年間ずっと、噛み締めました」
「だから思うのです。どうせ美しくなっても、美しいと思ったものを表現できないのでは意味はありません。それに、他人を滑稽と笑う人と付き合って生きていくことは生理的に耐えられません、心がもう受け付けないのです。――それよりはむしろ、美しく在れなかったとしても、他人を滑稽と笑うような人が、それでもなお笑うことを忘れて見入ってしまうような劇がしたいのです」
「醜い、そう、醜い私が歌い踊るオペラに泣いて欲しいのです。今まで弱い人たちを許さず苦しめるばかりだった人が、何故か思わす泣いてしまいそうになるほど心を奪われて、そして一体何に涙してしまったのかを気付いて、悔い改めるような。そんな涙を流させることこそが、私のささやかな復讐なのです」
「お願いします、魔女よ。いっそのこと、綺麗な顔にするより、もっと醜い顔にしてください。代わりに踊りと歌の才を下さい。表現する喜びと誇りを奪わないで下さい」
「……美しくあれば無難な生活があるというのに。そして、美しくなりたいと思っているのに。……でも私は、愚かなのです」
「無難な生活を歩むには世間を嫌うほどに歪んでしまったのです。かつて私を笑った人を頑なに嫌悪し、表現の喜びと誇りに執着して生きる、……愚かな女の話です」
* * *
「……実に、実に業が深い」
感じ入るように呟くヤコーポをよそに、俺は深く座り込んでいた。
マリエールの踊りは、何度も見てきた。歌も何度も目にしてきた。
彼女の想いの全てを聞いた。
そして、そんな俺だからこそ思わず溜息をついてしまった。
虚脱感。
名作を目の当たりにした後の、余韻に浸るあの感覚だ。
いつの間にか呼吸を忘れていたのだろう、吐き出した溜息は重たかった。
「……これが、マリエールさんです」
俺は、ヤコーポにそのまま思ったことを伝えた。
ヤコーポは振り向きもせず、「……ええ、でしょうな……」と実に静かに呟いていた。
間違いなく彼は圧倒されていた。
彼は、マリエールの深い悲しみと、その壮絶な決意に息を呑んでいた。
畏敬の感動をそこに湛えて、そして、無難な生活を選べない、業の深いマリエールの思いに心を揺さ振られているようであった。
ふと、三人娘のほうを見てみると、ネルがただただしんしんと泣いていた。
ユフィとイリが「ねえ大丈夫?」「よしよし」と慰めるほどに、思いっきり涙を流していた。
そのままぐずぐず言わせながら「……あの人は、本当は、誰よりも強く、美しくなりたいと願っているはずなのに……」と震える声で喋っていて、それが何だか微笑ましかった。
(……そうか、あの夜の俺とマリエールとの会話を、ネルは聞いていたものな)
共感するところがあったのだろう。
俺は、それでいい、と思った。
さて、ここからは俺の仕事だ。
「あの、ヤコーポさん」
「……トシキ殿」
「はい」
ヤコーポは遠い目をしたまま、マリエールを正面に捉えながらしみじみと言葉を紡いでいた。
「彼女は、歌姫になるでしょう。……今は無理ですが、きっともっと上手くなれば、踊りと歌で人を感動させる、そんな歌姫になると思うのです」
「はい」
「私、ヤコーポ・クリュゾストムス・ヴォルフガング・テオフィルス・カメラータ・メディチ・アマデウス・ペーリは、この劇に、いたく感動しました。ここに感謝の意を述べたいと思います」
「光栄です。……貴方からのお言葉もですが、彼女のこの素晴らしいオペラに立ち会えたことも、私にはこの上ない名誉でした。ありがとうございます」
静かに礼をする。
その先に佇むヤコーポは、少しだけ目を瞑って物思いに沈んだかと思うと、そのまま意を決したように口を開いていた。
「さて、採用についてですが」
「はい」
俺は、少しばかり緊張を覚えた。きっと大丈夫なはずだが、と思うのだが、やはり緊張はどうしても覚えてしまうものだ。
しかして結果は。
「……是非とも、採用させていただきます」
「ありがとうございます」
やはり、予想通り。
さて、と言いながら立ち上がるヤコーポは、再び堂々した態度に戻っていた。
「この感動を伝えて下さった歌姫に挨拶せねばなりませんな。マリエール殿の所までお通し下さいな」
「私もご一緒させて下さい。私からも一言、彼女に挨拶をしたく思います」
「ええ、もちろん」
ヤコーポに続けて俺も彼女の元へと足を運んだ。
ぐずぐず泣いているネルを横切るとき、ふと彼女も連れて行こうかと思ったが、やっぱりそのまま泣かせておくことにした。
「マリエール殿!」
「……ヤコーポさん」
ステージの側まで行くと、精根尽きてか、それとも感慨に耽っていたか、マリエールはしばらくぼんやりしている様子であった。
ヤコーポの声でようやくうつつに帰ったという様子で、彼女は姿勢を正していた。
「マリエール殿、あなたの劇に感動しました! 是非とも我々の劇団に入っていただきたいと思います! どうか、よろしくお願いします!」
「……ヤコーポさん?」
驚いて、話の展開を一瞬飲めなかった様子のマリエールは、一拍遅れてようやく意味が分かったのか、「本当ですか!」と顔に喜色を浮かべていた。
「ヤコーポさん、私」
「ええ、合格ですとも! いえ、合格だなんておこがましい言い回しです。胸を打つオペラでした。どうか我々の下に来て下さい!」
「……ああ、ありがとうございます……」
声を震わせて礼を述べるマリエール、そしてその彼女と硬く握手を交わすヤコーポ。
俺は、その姿を見て、全ての仕事が終わったことを悟った。
「トシキ殿、ありがとうございます! 私からも礼を言わせてもらいたい! ええ!」
「トシキ様……、この私マリエールを懇切丁寧に指導して下さり、誠にありがとうございました……」
一瞬だけ手の甲で「失礼」と目元を拭う彼女を見て、俺はもう、むしろ礼を言いたいのはこちらだと言葉を返すしかなかった。
「私こそ、マリエールさんの劇を見ることが出来て、この上なく感動しています。もう、十分です」
「トシキ様。……心ばかりですが、今までの礼としてこちらをお納め下さい」
マリエールは、足元の荷物からおもむろに何かを取り出したかと思うと、袋を俺へと寄越した。
多分、お金か何かだろう。
今貰うのはヤコーポに失礼なのでは、と思い体面上一言だけ申し添えておく。
「……受け取れませんよ、マリエールさん。商売人の私としては嬉しいのですが、今はまだ受け取れません」
「いえ、受け取ってください。これは、私の気持ちです。少ないですが、心より感謝を込めてお渡しします」
「……ありがとうございます」
全然少なくなさそうなので、少しばかり気が引けてしまった。
いやこういう風にマリエールからも謝礼が来ることは分かっていたけど、今このタイミングか、と思ってしまったり。
まあいい。
鑑定で確かめたが、ヤコーポも特に失礼とは思わなかったらしいので、そのまま有り難く頂戴する。
(そうさ、いいんだ。……全て丸く収まった、これでハッピーエンドだ)
俺はふと思い立ち、「所でマリエールさん。入団が決まったところで一言だけよろしいですか」と言った。
「……はい。お願いします」
「では失礼していつもの一言を」俺は軽く咳払いした。「こちらが、貴女のキャリアプランです。……いかがでしょう?」
いつもの決め台詞。やはりこう締めくくらなくては、と俺は思う。
「……ふふ、ありがとうございます。喜んでお受けします」
マリエールはそう静かに笑って、頭を下げるのであった。




