第十四話
「元気だったか」「それなりにね」
そんな当たり障りのない会話で、二人はお互いに二、三言を交わす。どうにも二人は互いに距離を掴みあぐねていた。
もう少し正確に言うならば、お互いに安心したのだろう。最悪恨み言を言われても仕方ないと思っていたのに、相手は自分を表に出すほど恨んでいない。
だが、その上でなおこの距離感が残っているのは、お互いに踏み込めないのだ。
ならば、と俺は「じゃあマリエール」と彼女に呼びかけた。
とりあえず今すぐこの劇を見てもらいたい、と彼女でもない俺がはやるのも変な話だが、それほど俺はこの劇の完成度に自信を持っていた。
「はい」
「そろそろ踊ってもらっていいですか? 折角ですから貴方のオペラをカイエンに見てもらいましょう」
「……分かりました」
「ありがとうございます」
一拍おいたのは心の緊張のためか。あるいは何かを感じ入っていたからだろうか。
焚き火の向こう側へと回ったマリエールは、そのまましばらく瞳を閉じて、両手を広げていた。
「……」
その様子を、カイエンは余すことなく目に焼き付けている。いつもならば「そいつは楽しみだな」とか軽く話を合わせるというのに、今はというと、マリエールが踊り描くものを全て見逃さぬようにしているようだった。
その目に瞬きはない。
やがてマリエールの準備が整ったようで、彼女は静かに一つ深呼吸をした。
演劇の始まりである。
「……昔、あるところに物語の好きな女がおりました。名をマリア。彼女は無邪気な少女で、いつの日にかきっとお姫様になることを疑っておりませんでした」
マリエールの独白。これは彼女の演劇の冒頭の台詞だ。
手を組み合わせ、神に祈るように囁くマリエールは、そのまま動きもせず上を見つめていた。
「マリアは世の悪意から隔離されて育ちました。箱入り娘だったのです。すくすく育つマリアは、このとき年にして十二歳でした……」
静かにマリエールが手を解いた。優雅に手を横に広げると、一瞬静止して、そこから軽やかに回転した。
踊りのスタート。
同時に歌詞が彼女の過去を紡いでいく。
「私にも なれるかしら 物語の お姫様
いつだって 幸せな 物語の お姫様……」
それは物語への憧れを歌い上げている。年頃の多感な娘が、物語に出てくる姫たちに感情移入する様をありありと言葉にしていて、情景が目に浮かぶようだった。
ソプラノの声ではないのに、優しいその歌い方と踊りの軽やかさが、少女らしさを存分に演出している。
(……これならば、いける)
俺はそのマリエールの踊りを見ながら確信した。彼女の踊りと歌声とが、まさにほとんど完璧といっていいほどに調和していて、この上なく物語を活き活きと紡いでいる。
何度も目にしているというのに、マリエールの踊りと歌につい俺は引き込まれそうになる。
「……」
きっと隣にいるカイエンも、そう感じているだろう。
完全にマリエールの踊りと歌に感じ入って、そのまま動かぬままであった。
呆けているのではなく、そこから表現されるマリエールの過去に聞き入っているのだ。彼女がどんな少女時代を送ったか、どんなことを考えていたのか、そんな美しい昔話を、この上なく真剣に聞き込んでいる。
やがて場面が進み、顔に傷を負ってサーカス団に入る場面になった。
「マリアはこの時僅か十五歳ばかり、暮らしこそ慎ましいものでしたが、母と二人の生活に不満はありませんでした。それでもマリアは思わずにはいられません。私がこの家から独り立ちすれば、母はもっと裕福に暮らせるのだと。……顔に傷のない美しい母、そして娘のマリアから見ても貴族らしくおっとりしていた母。マリアは思うのです、綺麗な彼女には裕福に暮らして欲しいと……」
マリエールがどれほど苦しんだか、悲しんだか、それらが静かで滑らかな踊りの中に溶け込んでいく。
初めてここでカイエンが「そうか……」と呟いた。
見惚れている表情で。ここではない遠くを眺めているような様子で。そのままカイエンは、再び無言に戻った。
(マリエールの表現力は、もう今の段階でこれなのだから、完成したらきっと素晴らしいものになるはずだ)
生唾を飲み込む音が大きく聞こえた。俺の胸中で期待感が膨らんでいるのが自分でも分かる。
(……即興の案だったが、これならいける。間違いない。もしこれで無理ならば、俺が他の方法を駆使したとしても無理だ)
やがて、脚本はオリジナルの展開を迎える。
それをマリエールは、心を込めて演じきった。「……愚かな女の話です」と最後に静かにつぶやくシーンまで。
演劇が終わる。
マリエールが静かに頭を下げて、再び上体を起こすまでの間、俺とカイエンは身動きすらしなかった。それだけ素晴らしい劇だった、と俺は思う。
「……終わりです」
そう言い、焚き火の向こうから戻ってくる彼女。一仕事終わった安心感からか、肩の緊張などがどことなく解けている。
ふと隣を見てみれば。
「……すげえ」
カイエンがそう溜め息混じりに呟いているのが分かった。
「こりゃあ、間違いなく、受かるだろうよ」
「ふふ、ありがとう、カイエン」
「間違いない、受かる」
「そう、嬉しいわ」
「ああ、間違いない」
ずっと同じような言葉を浮かれたように繰り返す彼は、俺から見ると本心からそう思って喋っているように見えた。
それとも本心からそうなって欲しいと願って喋っているのか。
「間違いない、今お前は、完璧に物語の主役だった」
「……ありがとう」
「ああ、間違いないとも」
焚き火が揺らめいたのが分かった。
二人の顔が一瞬だけ照らされて、この上なく真剣に見つめあう図が出来上がっていた。
「……カイエン、私、踊るわ」
「ああ」
そして、それっきり無言。
(……もう良いか)
俺はもう立ち去るべきだと思った。この空間にいてもいいのは、この二人の思い出を共有している人だけだ。きっとそうに違いない。あるいはもっと異なる意味合いの雰囲気なのかもしれないが、どっちにせよ俺がここにいるのは邪魔なだけだ。
もし俺が二人の立場ならそっとしておいて欲しいと思うはずだ、とか考えながら、そのまま言葉も告げずに、焚き火に照らされる二人をそのまま置き去りにしてテントへと足を運ぶ。
「……おい」
そしてテントで、お前ら何してるんだよ、という数の奴隷たちに遭遇した。
ミーナは引きつったような笑顔だったが、ヘティはむしろ堂々と、ごめんなさいね、心配になって、と色っぽく謝罪してごまかす作戦に出ていた。
ちびっ子三人組は平常運転。イリはわくわく、ネルはそわそわ、という感じだったが、ユフィはちらちら気になって仕方がない、という様子。
ちょっと意外に思ったのはルッツ。すみません、と声を殺して謝罪する彼は、何というか、図太くなったなこいつ、と良くも悪くも成長を思わざるを得ない。
確かにマリエールとの夜の練習を見てはならない、と行動を禁止した覚えはない。
ネルやルッツがこっそり見てたのを注意しなかったのもそのためだ。
しかしここまで堂々と覗き見されるというのは予想外だった。
というかここ、高級奴隷用のテントでも下級奴隷用のテントでもなく、店の受付のテントなんだが。立ち入りは禁止していないけど、こんな夜中に敢えて焚き火が見える特等席で待機してるだなんて覗く気満々じゃないか。
などと色々と聞いてやろうかと思ったりしたが、まあ普段の行いに免じて許すことにした。一人以外は。
「ヘティ、明日からお前、歌う量二倍な」
「何で私だけ」
「お前だけ悪意があった」
「むごい……!」
外に気取られないよう小声でやりとりするようにしたが、それでも器用に怒りを伝えてくる彼女の会話の巧さよ。ちなみに本気でむごいと思ったらしく、腕を掴んで「私を構ってくれる時間が二倍になるわけでもないのに」と抗議していた。あれ俺へティからもアプローチをかけられている? と一瞬だけぽかんとしてしまったが、時間は俺を待ってくれはしなかった。
「おーい旦那、そろそろ帰るぜっと……」
「あ」
後ろにカイエンがいた。
暗幕の入り口を開いて、そしてテントにいる奴隷たち全員に気付いた様子で、そのまま硬直している。
「……旦那、覗き穴の仕返しにしちゃ手厳しすぎるってもんだぜ……」
そのまま苦笑いするカイエン。
いや、俺の指示じゃなくてこいつらが勝手に覗いていたんだが。




