第九話
「ちょっとだけ、嫌な話になってもいいですか」
視線を下に落とした彼女は、嫌な話と前置いてから、白湯を一口含んだ。「暖かい」と微笑む彼女は穏やかな表情のままで、とてもじゃないが先ほどまでの言葉を同一人物が吐いたとは思えないほどであった。「どうぞ」と促すと、彼女は目を瞑った。
「では、少しだけ。……歪んだ考え方になると思うのですが、私、怒りこそ人の活力になると思うのですよ」
「はい」
「私、実はひどく怒っているのです。世の中に対して、私が表現しようとしたものを見ようとしない人々に対して、ただ私に面白おかしく踊ればいいと私のありように指図して冷や水を掛けようとする者たちに対して、怒っているのです」
「はい」
「自分を恨みました」
彼女の瞑った目から一筋だけ涙が零れ落ちた。
「自ら進んで見世物になりにいった自分が愚かでした。あの頃の私は馬鹿だったのです。踊りは好きでした、踊りしかありませんでした。私は自分の強さを見誤っていました。奇異の目で見られ続けても、きっと将来の私は、踊れさえすればいいと私の踊りを楽しんでくれさえすればいいと思って強く生きていて、踊り続けていることだろうと、信じていました」
「はい」
「私は、弱かったのです。年を取るたびに私は弱く涙脆くなっていくのです。よく言えば頑なで真っ直ぐだった自分が弱くなっていくのです。人に奇異の目で見られることが、苦しく辛くなっていったのです」
震える声。
「心無い言葉がどういう意味なのかどんどんと分かる度に、踊り以外の楽しいことが人生にあることを知る度に、私は子供の頃よりも弱く涙脆くなって、踊りに向きあうことが辛くなっていったのです」
「はい」
「踊りは、私の心でした。傷で醜い私なんて、私見たくもないのです。だから踊りは、私の全て。現実を忘れて、思ったこと全てを表現できて、私自身がそこに映し出されるのです。踊りは、私が十三歳の時に魔物に襲われたことを忘れさせてくれるのです。踊りは、醜い全てから解放されて、私の心が直接表現できる、私のための芸術表現でした」
「はい」
「なのに、私の踊りは、客の皆様から見れば、ただの見世物だったのです。滑稽なもの、笑いもの、面白おかしいもの。……私は、ひどく、傷付きました」
湿った声で目を見開く彼女。その目には、涙が浮かんでいながらも、仄暗い闇があった。
「私は許せません。傷付いた女は見世物であればいいという風潮も、私の踊りを嘲笑ったものも、全て許せません。許せないまま、妥協して、三年間、惨めな気持ちで見世物になりました」
「……」
「楽しかったです。人の注目を浴びて踊ることは、ある意味誇らしく、楽しいことです。卑屈な私は、それを自分の仕事だと思って楽しみました。同時に、私はどれほど心を鬱屈させたのでしょうか。私はずっと心の中に晴れない負の感情を抱えることになりました。もしも私が卑屈じゃなければ。きっと私は真っ先に怒ったはずなのです。そのことを自覚するたびに、私は辛く苦しくなりました」
「……」
「結局、三年間ずっと踊り続けたのは、私が強かったからじゃなくて、弱かったからなのです。卑屈なままでいいと思って、面白がられることを誇りだと誤魔化して、日々の生活のために踊り続けました。あるいは、昔の自分が無邪気に信じていた、きっと私はどれだけ辛くても踊り続けるのだろうという幻想を守るため、自分で無理をして強く生きてきました」
「……続けてください」
「サーカス団を辞めたのは、私の意志ではなく、偶然でした。きっと、その偶然がなかったら私は、今でも意固地になって踊っていたでしょうね」
濡れた目で「馬鹿な女です」と自嘲する姿が、ひどく痛ましい。
「……。膨らむ思いがありました。世の中に復讐する気持ちがあるのです」
「それは……そうですか」
どういう意味ですか、と聞こうとするのをやめて、俺はただ同意だけを返した。マリエールもまた、俺の意図を汲んでか、笑顔を作るために頬をこわばらせて、しかし笑えずに泣いていた。
「塗りつぶしてみたいのです。私、私のことを馬鹿にしてきた人たちを、私を嘲笑ってきた偏見を、全て、感動させてやりたいのです。善意としてではなく、感動で打ちのめされてくれ、という復讐心です。願わくば、惨めな気持ちになって欲しいぐらい」
「……」
「私が、サーカス団で歌いながら踊っていたこと、ご存知ですか?」
ぱちぱちと火の燃える音を聞きながら、俺は「ええ、あのケーキ屋で語っておりましたね」と同意を返した。
「私、卑しくもサーカスで、歌も踊りも表現しようと努力してきたのですよ? ただ踊るだけじゃつまらなくて、私は、とても大きな何かを表現することに注力してきたのです」
「そうですか」
「私がしていたのは一つのオペラです。面白おかしく見世物になりつづけるはずだった女が、思い上がって心に湧き上がった何かを表現したいと始めた、一つのオペラです」
「……」
「顔に傷のある醜い女が見世物になるしかない世の中に、貴方たちには感動で惨めになって欲しいと呪って作った、歌と踊りのオペラです」
「……」
「歌姫になりたいのです。歌姫になって、多くの人に感動を与えるのです。私が意固地になる前は、顔に傷を負う前は、真っ直ぐ純真に大好きだったオペラです。その欠片ほどの綺麗な夢には報いてあげなくてはなりません。……間違っている世の中への呪いの気持ちを抱えている私には、一番綺麗な願いが、歌姫になることなのでしょう」
「……そうですか」
しばらくの無言。
気配察知の奥にいる二人、ルッツとネルは息を飲んで黙っている。
「マリエールさん」
「……はい」
「踊りませんか」
「……どうしたんですか」
ふ、と急にマリエールは笑い出した。俺の突然の気障な申し出に、彼女は面食らって笑ったのだろうと俺は思う。だが、そういう意味の踊りませんか、ではない。大真面目に踊りませんかと提案しているのだ。
「きっとですが、貴方の心を表現するのが踊りならば、貴方は踊りで歌姫にならないといけない」
「……それは、どういう」
「マリエールさんの復讐、お手伝いしましょう。感動で世の中を打ちのめしましょう。顔に傷がある女がヒロインになれない世の中なんて、きっと間違っているのです」
「……」
「そんな世の中に、貴方が好きだった踊りで勝負しませんか」
「え?」
「賭けです。即興で踊りのオペラを見せて、あのヤコーポさんに新しいオペラの可能性を示しましょう。僕が知っている限りでは、踊るオペラも存在します。踊りと貴方の情熱、それをヤコーポさんに見せ付けたらきっと、彼は貴方を歌姫に抜擢するはずです」
俺は大真面目な表情で、彼女に詰め寄った。
「このまま普通に練習したって、きっとですけど、ソプラノ歌手になってオペラの歌姫になるには時間がかかり過ぎます。というよりもメゾソプラノの歌手として一生を過ごすことになりかねません」
「……」
「だから、ソプラノ歌手になる練習をしつつも、即興の踊りと歌の劇を見せ付ける、二つのアピールで勝負したいと考えてます。最悪、メゾソプラノの絶好の女敵役として向こうに才能を見出してもらえる、というのは一緒。でももしかすればこの提案ならば、歌姫になる勝負が出来ます」
「……」
人の人生で賭けをするだなんて俺の仕事のポリシーに反しているのだが、そこはメゾソプラノの絶好の女敵役という万が一の時のセーフティを示したことで良しとして。
彼女の望みは、歌姫になることなのだから、こういうプランでないと駄目なはずなのだ。順当にメゾソプラノの歌手になるだけでは足りないのだ。
「……どうでしょうか」
俺の言葉は届いているだろうか。息を呑んで目を丸くしているマリエールは、今何を思っているのだろうか。