第八話
「のびやかな声を意識して!」
「はい!」
「高音を出すときは喉から声を押し出して、頭のてっぺんから声を出すように意識する!」
「はい!」
時は夜、月明かりと星明かりが仄かに地上を照らす頃。
肉炒めの販売も、演舞や歌のパフォーマンスも終わって、奴隷たちの仕事はもう、夜警の火の番程度しかない。
この誰もいない夜の時間が、俺たちの歌の練習時間となった。
「はい発声練習、鼻音 to クリアエー行くぞ! breath out! breath in, 1, 2, 3, keep it! 鼻音 to クリアエー、ゴー!」
歌の基礎トレーニングは主に、発声練習、滑舌練習、裏声練習、に別れる。
その内、発声練習は力強い声を出すための練習である。
力強い声は大声とは微妙に違い、鋭く勢いがある声のことを指す。喉に負担をかけないまま、遠くまで響く声を出す技術は、マイクなどを使わないオペラ劇において大変重要なのだ。
「次の発声練習! カットエー!」
発声練習に精を出すちびっ子三人と、マリエール、あとヘティ。ミーナは槍の訓練を行っておりここには居ない。
(俺も頑張って歌唱スキルLv.1をもっと磨かねばなるまい)
注意する側の立場の俺の歌唱スキルが余り高くない、というのも格好が付かないだろう。何せ、イリはLv.3、ネルとユフィはLv.2、どちらも俺より上なのだ。
ちなみにヘティはLv.0のままであった。可哀想なヘティ。今度からかってやろう。
「次は滑舌練習!」
滑舌練習について特筆すべきことは特にない。今の段階では特にすることがないからだ。
なので、舞台でのセリフ回しをテストされる可能性を考慮して、せいぜい早口言葉を少し練習する程度に収まっている。
「さあ、裏声練習!」
最後の裏声練習は、声域を広げるため。
裏声になって「ほー」と高い音、低い音を出すように意識することで、喉の輪状甲状筋(いわゆる、音の高低を変える筋肉)が効率的に鍛えられる。
裏声練習を指導しながら、俺はふと考えた。
(……マリエールの声は、元から持っているものが良い。メゾソプラノ~アルトの声にハリと勢いがあって心地よい。……歌姫になるのを諦めたらの話だが)
冷静に考察すれば、マリエールのこの声は普通なら良い声だ。
しかしオペラとなると難しい。
オペラの歌姫は、どのオペラを演劇するかにもよるが、ほぼソプラノの声である。
レッジェーロ・ソプラノの軽い質だけど高くてそれでいてキンキンしない歌い方、ソプラノ・リリコの高い声でそれでも聞く観客側に響くような質感のある声。ソプラノ・ドラマティコまでなってくればソプラノの声なのに客まで声の振動が伝わる。
これだけソプラノの声に幅があるのだ。オペラにおける殆どのヒロインはソプラノだけで表現できてしまう。それ故に脚本家はおよそ歌姫をソプラノに置きがちなのである。
(……マリエールの声は、どう考えてもメゾソプラノ・ドラマティコ。情熱的な女主人公のオペラがあるならば別だが、そうじゃないなら『アイーダ』のアムネリスとかのように、敵役の女になるだろうな)
彼女も薄々気付いているのだろうか、何とかして声質改善を試みようと必死に声域を広げるトレーニングへと打ち込んでいる。
(……だが、余りにも時間がなさ過ぎる、蚤の市の一週間だけだなんて)
絶望的な条件だ。だが、それでもなお俺は指導を辞めなかった。
この世には俺の知ってる現実と違い、スキルの加護がある。最後の望みはそれを信じて打ち込むことであった。
* * *
「夜は冷えますね」
「ええ、だから俺はいつも、こうやって温めた湯を飲むんです」
予め決められたカリキュラム指導は終わり、他の奴隷たちはもうそれぞれのテントへ帰っている。
残っているのはマリエールと俺、そして夜番の奴隷たちのみ。俺は結構夜型人間なので、夜は気配察知とかの訓練を行いLv.上げに努めているが、マリエールが起きているのは単に、訓練し足りないと思っているからだろう。
努力家だ、と思う。
「あの、マリエールさん、無理をしないように」
「いいえ、残された時間は少ないので。それに楽しいですし」
「楽しい、ですか」
「はい。指導してくれる人がいて、しっかりした訓練を受けるだなんて、今までなかったので」
そう楽しそうな笑顔を浮かべる彼女を見ると、どうやら本当に歌うことが好きなのだな、と思う。
「……オペラ、何としても出たいですね」
「はい」
相も変わらない決意の声。俺はマリエールと一緒に夜番の炎を眺めながら、懸念を切り出すことにした。
「オペラの歌姫の声はソプラノ。マリエールさんの声はメゾソプラノ・ドラマティコです」
「はい」
「人の声は、簡単には変えられません」
「……はい」
「貴方が歌姫になりたい理由、それを聞かせて下さい」
俺がそう尋ねると、マリエールは少しだけ躊躇うような素振りを見せた。感づいたのだろう、この話の切り出し方はまるで、歌姫になることを諦めませんか、と提案しているニュアンスがあるのを。
事実、俺の頭の中では、マリエールをオペラに出すだけならばとても簡単だと思っている。敵役の女にぴったりなのだ。
もって生まれた芯の強い声は、人生経験を経てか情熱的な声へと成長している。
しかし、マリエールは歌姫を希望するだろう。俺は確信している。
復讐。
その言葉にこそマリエールの全てがある。
「……私は、オペラのヒロインになりたい、と思っています。それが全てです」
「オペラの登場人物ではなく、オペラのヒロインですね」
「……登場人物でも良いのですけれど。それでは、きっと足りないのです」
「その足りない理由こそ、団長に伝えなくてはなりませんね」
俺の言葉に「ええ」と答えるマリエールへ、続けてもう一歩踏み入る。
「足りない理由。昼間に貴方は、復讐と仰いましたが、あれは……?」
「……ふふ」
気付けば、マリエールの表情が死んでいた。いや、仄かに上がった口角が、その薄暗い感情の渦巻きを示している。
瞳は暗い。
「言葉通りです」
「この身で歌姫になりたい、と仰いましたが」
「……この醜い身でヒロインになれないだなんて、人生に救いが無さ過ぎませんか」
そのまま立ち上がる彼女は「ええ、そうです」とうわごとのように呟いた。
「この顔の傷は、私の人生の全てを呪っているのです。デュローヌの貴族だった私から、全てを剥ぎ取りましたとも」
「……」
「顔に傷のある女は、デュローヌの跡継ぎとして満足に男を捕まえられないだろうと、私の存在は隠匿されることになりました」
「それは……、心中お察しします」
「それ以来の私の人生は、顔の傷を見世物にして、奇異の目で見られることでお金を稼ぐ生活でしたとも、ええ」
ぽつりとこぼれ出た言葉は「ひどく惨めでした」であった。
「楽しかったのですよ、でも、卑屈になることを前提にした楽しさだったのです。人に踊りを披露する楽しさの果てに、どこまで行っても見世物で、私は限界を知りました」
「……限界」
「ええ。私の踊りを見てもらって楽しい、そう私をごまかす作業の果て、観客が求めているのは傷の女が踊っているぞという奇異な面白さで、私の踊りではない。……果てに、私は踊りを見失いました」
ぞっとするような声で彼女は語った。俺はその言葉の重みに、しばらく押し黙るしかなかった。
(……?)
その時、気配察知に誰かが引っかかった。鑑定スキルでその人物を確かめると意外な人物。俺は敢えてこのまま、この会話を聞かせてやろうと思った。
ルッツとネル。面白い組み合わせだ。
ネルはともかく、ルッツは、きっと聞き捨てならない話のはずだ。彼には痛いほど、このマリエールの話は刺さりすぎる。
それでも俺は彼に聞かせていたかった。いずれルッツが立ち向かう困難に、このマリエールの話はきっと意味を持つ。聞く価値のある話であると、俺は思う。
「……では、オペラならそれはないと」
「……ふふ」
俺の言葉に、マリエールは不思議な笑みで返した。