第五話
マリエールは心許ない残金しか持ち合わせていなかったが、それでも一回はオペラを見ておくべきだと考えた。
名作劇団、というからにはきっと素晴らしいオペラなのだろう。そう期待して客席に座り開演を待つ。
(……思えばオペラなんて見るのはいつ以来かしら)
ふと、昔に思いを馳せる。
母ともども貴族の地位を追われたマリエールは、デュローヌ家から渡される僅かばかりの養育費にすがって生きてきた。
と言ってもその僅かな養育費は、女二人が細々と暮らす分には問題のない金額であり、マリエールは比較的困窮しない生活を送ることが可能であった。
大道芸は、そんなマリエールが身に付けたものだから、生きるための糧というよりは趣味の踊りであった。
料理店の隅で踊り、小遣いを稼ぐ毎日。店の給仕として働くことも勿論行ったが、マリエールにとっては踊っていることの方が性に合うのであった。
(あの頃は踊っているだけで楽しい時代だった。顔に傷があっても、皆が奇異の目で見たとしても、私は特に気にも留めなかった)
転換期は、三年前、彼女がサーカス団に目を付けられてから。
世界を渡る見世物興業サーカス団『ミスフォーモ・サーカス団』は、こう言っては憚られるが、身体的特徴の風変わりな人を見せ物にして金儲けをしているサーカス団である。
その団長がマリエールを見出した。
美しい顔なのに、左半分が恐ろしく傷だらけ。犬に食われたように頬には穴があり、瞼は千切れていて、治りきらなかった傷口の跡が赤黒くなっており、ぷつぷつと出来物のようになっている。
一方で、踊りは可憐で生き生きとしている。
だからこそ、顔とのアンバランスさが強調されている――そう判断したのである。
団長の薦めに従って、マリエールはサーカス団に入ることになった。
この時はある意味楽しかったかも知れない。
人に奇異の目で見られながらも踊るのは、ある意味で衆目を浴びる楽しさを満たすことが出来た。
ぶつけられる嘲りの悪意は、全て、忘れることにした。
(サーカス団の環境は悪くなかったわ。人間関係はあまり良くなかったけど)
しかし、マリエールにはもう別の気持ちがあった。
衆目を満たしたい、だなんて欲求はもう、彼女のなかではどうでも良いものになっていた。
彼女は踊りにテーマを求めるようになっていたのだ。
テーマ。
即ち、自分の踊りに何か大きな一連の流れを当てはめたい、自分が思った何かを表現したい、という追求の道である。
彼女がそれを演劇だと気付いたのは、二年してからであった。
(あの瞬間、昔のことを思い出したわ。昔、私は物語が好きだった)
マリエールは、その瞬間全てが繋がったような気持ちになった。
昔から自分は物語が好きだった。そして、今この自分がしたいことは物語を表現することなのだと。
踊り子を止めて、オペラの役者になろう。
そう考えたマリエールは、そんな自分に苦笑するしかなかった。
そんなこと、当然出来るはずがないのだ。
いきなり何の前触れもなく踊り子を止めて、オペラの役者にだなんて、まずサーカス団が許さない。
それに、自分は随分良い年だ。当時にして既に十七歳。今から歌や演技の稽古をしたところで、オペラの役者になるには時間が足りない。
そして何より、――醜い。
結果マリエールは、サーカス団では真似事をして自分を騙すことにした。
踊りながら、歌って、物語を表現する。
見世物と言うにしては些か気障で鼻につくそれは、観客の好奇で成り立つサーカスの空気にあまり合わなかった。
一年間、よくマリエールはクビにならなかったものだと思う。
(団長は良い人だった。一年間も我慢して面倒を見てくれたのだから。……尤も、私だって観客を魅せるために踊りも歌も頑張ったつもりだけど)
一年間。
マリエールの踊りは否定され続けてきた。彼女の踊りと歌を素晴らしいと言ってくれる客も一部いたのだが、殆どの客は、別にそんな踊りを求めているわけではないのだ、という空気を隠そうともしなかったのだった。
そう。マリエールは、傷がおぞましく踊りが上手であれば、それだけでいいのだった。
人はマリエールの表現したいものを一つも見なかった。
ただ、おぞましい顔の女が踊っているという面白ささえあれば良いだけなのだった。
(醜い女は面白く踊れば良い。……そんなの、私、許さないわ)
ふと、マリエールは目の前のオペラに意識を向けた。
物語は今、佳境に入っている。
美しきスザンナと結婚を控えた主人公のフィガロが、仕える伯爵の悪事を懲らしめようとして失敗し、さらになんと借金の約束証文が発覚。その証文には、借金が返せなかったらフィガロは、マルガリーテおば様と結婚しなくてはならないという。
名作『フィガロの結婚』。伏線が多いために何度見ても面白いと言われるそれは、マリエールのお気に入りの物語の一つであった。
(……音楽と場面がとてもよく合っているわ)
マリエールはふと、あの舞台に自分が立っていたら、などとどうでも良いことを考えていた。
あの舞台に自分が立っていたら。
きっと、素人にしては上手い程度の歌を披露して、物語の演出の要求以上に踊って雰囲気から浮いて、そして、――おぞましい顔を披露している。
何とも上手くいかない。
オペラは自分がしたいことなのに、自分が出来ることはオペラの要求ではないのだから。
(……ダメね、全く)
オペラが一旦幕間に入り、休憩時間となった。
この間にちょっとした見せ物がなされるのが、名作劇団の普通の劇団とは違うところである。
片付けられていくステージの上に立つのは、三人の娘。
どれも年端もいかない子たちで、観客からは「やっぱりあいつらじゃ不安だ」「ん? ワシの記憶通りならあやつらはトシキの奴隷じゃなかったかの」「あれ、玉のような子たちにありんすね」と色んな声が聞こえてくる。
あの子たちは何をするのだろうか、と期待しながら待っていると、三者三様の歌声が聞こえてきた。
しなやかな声。伸びやかな声。なめらかな声。
三つの歌声は確かに声質が違う。エルフの子の声ははっきり凛としていて芯がある。それを包むような淡く柔らかい声で歌うのはセイレーンの子。では残りのハーピィの子は何かというと、副旋律を歌ってハーモニーを作り上げているのだった。
(……あの子たちも持っているのね、私が欲しいのに持っていないものを)
ふ、とマリエールに自嘲の笑みが浮かんだ。
恐らくあの三人の子たちは、この劇団でオペラの歌唱担当の下っぱの子であろう。名作劇団では、オペラ自体には出番のない下っぱの子が、こうやって歌ったりして休憩時間を繋ぐと聞いたことがある。
(ちょうど良いわ。ああやって舞台に立たせてもらえる機会を貰えるなら、そこから這い上がることはできるもの)
マリエールは決意した。後は、この名作劇団の団長であるヤコーポに頼み込んで、雑用なりでも雇ってもらおうと。
* * *
オペラは大変面白かった。
イリ、ユフィ、ネルの三人が気になって昼のオペラに顔を出してみたけれども、どうして中々オペラそのものが面白い。一三時半開演と聞いたので、一三時から一時間だけルッツに一人で肉を焼くのを頑張ってもらうよう無理を言ったのだが、それだけの価値はあったとおもう。
「いえ! そこまで言ってもらえると大変光栄ですな! 劇団長の私としましても大変うれしく思っております! ええ!」
胸を張る団長ヤコーポ。彼の堂々たる受け答えは、やはり音魔術で宮廷魔術師になったことからくる、自分の才能への自信の賜物だろうか。
「いやはや、うちの子たちが心配で観に来たのに、もう途中からはオペラに夢中になってて、凄いですね、このオペラは」
「いえいえ何の! ……ところで途中、物凄く顔色が悪そうでしたが」
「いやあ、幻聴が聞こえましてね」
ワシって。ありんすって。気のせいだと思うんだが、気のせいだよな。あいつら会話してたよな絶対。
微妙に顔がひきつっているに違いない俺を「ふーむ、優れないようですな! 体はお大事に!」と心配してくれるヤコーポはきっと悪くない奴だとは思うが。
「いやあ、実は私も幻聴が聞こえましてね! 花の美女の凛とした声が聞こえまして! ……何者ですかね?」
瞬間。俺は殺気にあてられて動けなくなった。
言葉の上では、花の美女の声がしたけども彼女は誰だろう、と聞いているのだが、この男は別の質問をしていた。花の美女を知っているお前は何者だ、と聞いているのだ。
「ヤコーポさんこそ美女とあらば直ぐに目を付ける、いやはや油断出来ない人ですね」
俺も笑って切り返す。笑顔の仮面の下で心臓が痛い。流石は元宮廷魔術師、油断ならない。
俺の機知が功を成してか「いや! いやいや! 美しいものには目がないのでね! ええ!」と圧力が抜けて、俺は少し安心した。ひとまず命の危機は去ったらしい。
「この子たち三人も大変可愛らしいですな! ええ! このまま我々についてきていただきたい程ですとも!」
「ありがとうございます。当店自慢の看板娘たちです」
話の矛先がここでちびっ子三人(顔色が青いのは、ヤコーポの殺気を感じ取ったからだろうか)に移ったところで、俺はそろそろ立ち去ろうかなと考えていた。オペラは三時間だったが、夕方の肉炒め販売まではまだ二時間ほど空き時間があるので、その間に何か蚤の市を見ていこうかなと考えていたのだ。
そのタイミングでのことであった。
「……すみません。お話の途中失礼します」
会話の横から、気丈な女の声がした。
誰だろうと思って振り返り、俺は絶句してしまった。その名前に出くわすとは思ってなかったからだ。
鑑定スキルに映された名前はマリエール。
「ふむ! どちら様ですかな?」
いつものように応対するヤコーポに、「団長ヤコーポ様でいらっしゃいますか。劇団員にこちらにいると伺ったので」と頭を下げる彼女。
「私は、マリエール・デュローヌと申します。……ただのマリエールです」
「デュローヌ。ほう、これはこれは! 私は団長のヤコーポ・ペーリと申します!」
「デュローヌではなく、もうただのマリエールだと考えて下さい」
顔の傷の奥で、何ともいえない自嘲の笑みを浮かべるマリエール。
傷の踊り子、といういつぞやの詳細検索結果が思い返された。
「この度、この劇団に雇っていただけないかと思いまして。詳しいお話はまたご都合よろしい時にさせていただきたいと思いますが、いかがですか」
「ふむ! なるほど! ……ただのマリエールさんですな?」
ちらとこちらを見たヤコーポは「なるほど!」とよく分からない納得をしていた。俺の動揺が顔に出てたのだろうか。
「ではこういたしましょう! 私お腹が減っておりましてね! どこかで甘味でも頂きたいと思っているのですよ、ええ! この際皆さんで甘味でも頂きませんか! お話はそこでお伺いしましょう!」
「分かりました」
「……え」
分かりましたと返すマリエールは、きっと俺のことを劇団関係者と勘違いしている。俺は思わず間抜けな声を出してしまったが、それもそうだ、何でこういう展開になるのか掴めなかったからだ。
ふと、イリが足を引っ張っていることに気付いた。
「どうしたイリ?」
「ご主人様、一目惚れ?」
小声でイリが聞いてきた。「いや違う」と俺は軽くイリのアホ毛を引っ張っておいた。きゃんとか言ってたが無視することにした。