第十四話
「ルッツ」
テントの中で休んでいるルッツに、最近聞き慣れた声が届いた。
「……ご主人様」
「ああ」
テントの中へと入る彼に相対するため、ルッツは力なく体を起こした。
怪我の様子は大したことがないようで、今にでも料理に取りかかることができそうだ、と思っていた。
「無理に体を起こすな」
宥める主人トシキに、ルッツはもう一度自分を眺める。
(……良かった、僕は無事みたいだ。別に、ナイフの刺し傷は意外と深い訳じゃないらしい)
嘆息。
ナイフの傷はと言うと、もう既に消毒されてガーゼで抑えられている。
どうやら自分が倒れたのはむしろ、心労とショックのほうが原因であるようだ。
(何で、料理を作っているだけなのに、襲われなきゃいけないんだろうな)
ルッツはつくづく、料理をすることを世界に拒まれている、と思った。
料理を作っているのに、どうしてこんなに悔しいのか。
ルッツはずっと、この二日間、その悩みを抱えていた。自分がしたかったことをしているはずなのに、その辛さを目の当たりにしたというべきか。
「……ご主人様」
ルッツは思う。
自分は料理にとことん向いてないと。
目の前のこの人の方がよっぽど料理に向いていると。
自分には才能がないし、魔族だし、折角旨いと言ってもらえた料理も結局はこの人の考案したものだった。
料理は作っていて辛かった。自分の中で勝手に、もっと楽しく料理が出来るものだと思い込んでいた。
それなのに。
「どうした?」
「……僕、役に立ちましたか」
それなのにルッツは、何故か分からないが、もう一度あの店に立たなくては、と考えている。
何故か料理をすることを諦めたいとは考えておらず、ただ、きっとしんどいんだろうなという苦笑いが込み上げてくるだけだ。
「勿論」
間髪を入れずに即答するトシキ。
「お前はもう、たれを作ることも肉を焼くこともほぼ一人で出来るじゃないか。隣で俺とたれ作りして、その配分をもう覚えたと思うし、味見でだいたいどれぐらいが良いのか、とかを知っただろう」
「……」
「凄く役に立っているぞ」
その優しいコメントが、ただただ心に沁み入った。
自分が役に立ったという実感が、ルッツにとってかけがえのないものなのだから。
「……ご主人様」
「ん?」
だから、思わず聞かずにはいられなかった。
どうしても、今の自分には分からないことを。
「料理って何ですか」
前にも聞いたことのある言葉だ。以前も同じ疑問を聞かずにはいられなかった。
自分の中で、料理という言葉の意味が変わりつつあるのを、ルッツは漠然と自覚している。
ただ、それが何から何に変わったのかが言語化できない。
もともとルッツにとって料理は、不思議であり、人に並ぶためのものだった気がする。
今のルッツにとっては、不思議であり、人に並ぶためのものであり、あともう一つだけ加わった気がする。
旨かった、というあの言葉。
とてもシンプルなもの。
「……分からないな。俺にとって料理は、美味しいものであって欲しいってだけだ」
分からない、という口調で語るトシキは、奇しくもルッツの思いに近い何かを呟いた。
美味しいものであって欲しい。
それはきっと、ルッツが求めていた答えではない。ルッツの悩みに対して納得を与えてくれるような言葉ではけしてなかった。
どちらかと言えば、それはルッツが無意識に持っていた『料理が美味しければいいな』という思いと同じだった。
ぼんやりと持っているだけの、それだけの思いだ。何も深い考えではなく、漫然と思っているだけのものだ。
「……」
それを改めて突きつけられて、ルッツはしばらく黙ったままであった。
不思議なことだ、と思う。
この言葉は、そういう意味だったのだろうか、と全く違う言葉に聞こえて仕方がないのだ。
料理は美味しいものであって欲しい、という言葉は、自分にとってこんな言葉に聞こえていただろうか。ただぼんやりと『この世の中の料理が美味しいものだったら幸せだろうな』と思っていただけなのに、今は何故か『料理は美味しくなくてはいけない』という心がけのような言葉に聞こえたのだから。
何が変わったのだろうか、それはルッツにも分からなかった。
結局、料理が何なのかもルッツは分からないし、本当にまるで分からないことだらけだ。
それとも、もしかしたらあれなのかもしれない。
自分にとって料理が、食べる物から作るものへと変わった、ということなのかもしれない。
もしかしたらそうじゃないかもしれない。結局の所それはルッツにも良く分かっていない。
ルッツには今ひとつ自信が持てない。
本当にたったそれだけの、あるかどうかも分からないような違いに、ルッツは殆ど考える事もなく口を動かしていた。
「……ご主人様」
「ん?」
「笑うかも知れませんけど、いいですか」
「笑うかも? 別にいいぞ」
そろそろ店に戻る準備をしているトシキだったが、ルッツのためにゆっくり待ってくれるらしい。
本当に何でもない事なのに、涙が出そうになるぐらいありがたかった。
ルッツが今一瞬だけつかんだような何かは、ふとかき消えてしまうような淡い何かだから、ゆっくり考え直す必要があった。
だが、考え直す必要はないような気もしていた。
同じような言葉が違うように聞こえた、本当にそれだけのことなのに、ルッツにとってはそれだけで十分なのかもしれない。
「あの」
「ん」
「僕、やりたいこと、見つかりました」
「そうか」
トシキはそのまま、ルッツの肩を優しく叩いた。
「僕、料理が、したいです」
「ああ」
「僕、料理をして、いいですか?」
「勿論」
トシキはそのとき、何とも悪戯っぽい笑みを浮かべていた。そんなこともう知っていたよ、というような笑みにも取れたし、悩んだ結果がそうなってくれて嬉しい、というような笑みにも取れた。
面映ゆい、とルッツは思った。
「実は。お前がしたいこと、それにはある程度渡りがある」
突如、トシキは未来の話を始めた。
「このまま蚤の市の一週間、店を切り盛りして欲しいんだ。利益はきっと金貨二枚を超えるだろう。そうしたら君は、俺から条件付きで奴隷契約書を買い取って欲しい。晴れて君は、自由の身になる」
「……渡り」
「ああ、実はカイエンっていう奴がお気に入りの居酒屋があってな。あの店、森熊の大将が切り盛りしてるんだけど、あそこは人手が欲しいかもって言ってたんだ。魔族でも大丈夫ですかって聞いたら、そら森熊が大将してるぐらいだから余裕よ、って言われてな」
ニヤリと笑いながら「ルッツ、お前だ」と肩をたたく。
「お前がもし料理人をしたいって言い出したときは、これを紹介しようと思ってたんだ」
「……良いんですか?」
「勿論。そのかわり条件として、不定期にうちの店の前で肉炒めを売るお手伝いをすること。演舞と歌の公演パフォーマンスの日程に合わせるから、その日は優先的に予定を空けといてくれよ」
「……ご主人様」
「どうだ、嫌なら他の仕事を紹介するが」
心の中は、自分で自分が分からない。
もしも心の中で感情を平均してもいいのなら、ルッツが料理をしている瞬間は、全くもって楽しいものではなかった。むしろ辛く、逃げ出したく、情けなかった。
なのに、旨かった、という言葉にルッツは、救われたのだと思う。
あの店に立ちたいと思う気持ちは、きっと、美味しい物を作りたいという願いなのだ。
(夢って、こんなに辛くてしんどいだなんて、僕は思わなかった)
泥を飲む。
なるほど、もしかしたらそう言うことなのかもしれない。
料理を作っていて、惨めな気持ちになる。作る料理は他人の物。料理の意味も分からない。
なのに、旨かった、という言葉はきっとルッツの欲しかったそれなのだ。
自分が作ったたれで、自分が切った肉で、人が美味しいと言ってくれるのなら、ルッツはそれだけで何かを満たせる。
(……ああ、そうか、人のために料理を作ったのって、これが初めてじゃないか)
ふと、ルッツはオアシス街で働いていた日々を思い返した。厨房で料理を作れずに雑用だけしていた毎日。
あの頃はルッツも、自分には作らせてもらえない料理とやらに、羨ましさを覚えていただけだった。
しかし、ここに来てそれは変わった。
ここでは店に立ち、蔑まれ、それでも料理を食べてもらえた。
そして、ようやく料理を作るとは何なのかを、かけらだけ思い知った。
まだ、はじめの一歩を踏みしめたばかりなのだ。
「……お願いします」
気が付けばルッツは頭を下げていた。
楽しくないことに頭を下げて臨むだなんて、今までルッツは少しも考えていなかった。
それでも、泥を飲んで立ち向かう理由がある、ルッツはそう確信した。
「分かった、じゃあゆっくり休んどけ」
「いえ、倒れたのは熱中症とか、そういう類のなので、休まなくても大丈夫です」
「……いや、倒れられたらこっちも困る。少なくとも夕方までは休んでおくように」
そういって立ち上がるトシキ。
そろそろ店に立って料理を再開するらしい。
ふと、茶目っ気たっぷりな目で彼はルッツへと振り向いた。
「夢、見つけられたんだな」
「……ですね」
「よし、じゃあ改めて」
喉を鳴らして通る声で、何かを手渡すトシキ。
「こいつがお前のキャリアプランだ」
「……焼き肉のたれじゃないですか」
「ふ、はははは!」
自分の冗談にけらけら笑うトシキは、「旨いもの作れってことだよ」と照れ隠しのように背を向けた。
ルッツはそんな背中を眺めていた。