第六話
――あのときの夜の会話のこと。
"……いずれ忘れなくてはなりません。その時に、無意味に傷付けてしまうのは、好きではありません"
「いずれ忘れてしまう? ゴーシュがステラのことをか?」
"いいえ、私がです。私が他ならぬ息子を忘れるのです"
「どういうことだ」
"……。トシキ様は、こんなお話を信じてくださるでしょうか。ミコに選ばれたものは、いずれマレビト様に乗っ取られる、と"
「……初耳だ。どういうことだそれは」
"いずれ他人に乗っ取られるのです。私を私として生きるのです。そして、恐らくそのとき、私は消えているのでしょう"
「……ステラ」
"ですが、私が引き受けなくば、もしかしたら息子がミコになるかもしれません"
「……」
"無論そうではないかもしれません。私が死ねば、もうそのミコ役は絶えるのかもしれません"
「……随分な話だな」
"……どうかお許しください"
「許すとかそんな話じゃないさ。けど、まだどういうことか理解しあぐねている」
"つまり、息子に母親として会う意味がないのです。私はいずれ、マレビトにこの身を捧げるつもりなのですから"
「あるだろう。どういう事情があれ、ゴーシュだって普通に親に会いたいはずだ」
"……会ったところで、すぐにお別れをしなくてはならないのです。ならば、いっそ恨んで欲しいと思いませんか"
「……気持ちはわからないでもないが」
"ええ。いっそ今のまま、恨んだままでいてほしいのです"
「ゴーシュはステラのことを恨んじゃいないぞ」
"恨んでいるはずです。私はあの子を捨てました。戦火の混乱に任せて捨てたのです"
「……それは、捨てたんじゃなくて、そうしないとゴーシュが助からないからそうしたんじゃないのか」
"捨てました。自分の意思で捨てました。捨てなくてもあの子が助かる道はきちんとありました。ですが私は、あの子を捨てることを選びました。どうせこの先母親であれないならば、マレビトを引き受けて、ひっそりと死にたかったのです"
「……それでもゴーシュは、ステラのことを恨んでないぞ」
"ならばこそ、会いません。会わせる顔がありません。こんな酷い母親でも恨まない子なら、私はきっと、会うべきではありません。あの子の代わりにマレビトを引き受けて、そのままひっそり死ぬことが、私にできる全てです"
「ステラ。ちょっとだけ聞いてくれ。俺はマレビトとかミコとか、今一つよく分かってない。けどな、話を聞く分には、ちょっと決めつけが過ぎるんじゃないか、とは思う」
"……お願い致します。どうか、このままで"
「……。まあ、無理に口出しするつもりはない。ただゴーシュの気持ちも考えてやってくれ」
"……"
「あいつ、母さんの子守り唄に伴奏をつけたい、って言ってたんだぜ。きっと、お前の声を聞きたがっているはずだ」
"……私の、声"
「……本当にしゃべれないのか?」
"……"
「子守り唄を聞いたってのは、嘘じゃなさそうだった。ステラの声を聞いたはずなんだ」
"……唄が、聞こえた……"
「ああ」
"……"
「図星だな。悪いが俺は少しばかり目が良くてな。何考えてるかとかが何となく見抜けるんだ」
"……唄が、聞こえたと"
「ああ、歌だ」
"……。はい。確かに私は、そっと、唄いました……"
「……」
"ですが、それは、こうやって、何も歌えない声のまま、唄っただけなのです……"
「……どういうことだ」
"……風の声"
「風の声?」
"……私が呟くのは、いつも、風の声です……"
「……風の声っていうのは何だ?」
"……それは"
「……! 誰だ」
"……トシキ様?"
「……イリだな。見なくても分かる。気配察知はもう随分慣れた。この手の気配は、イリで間違いない」
"……イリがいるのですか?"
「ああ。そこで息を殺している。……しかも、何か訳知り顔で、一丁前に考え込んでいやがる。――だろう? イリ」
――あのときの夜の会話のこと。イリは、トシキとステラの会話を、陰に隠れて黙々と聞いていた。
◆ ◆ ◆
ゴーシュに音楽の才能が芽生えたのは、盲目だからそれしか打ち込むものがない、という事情もあったのだが、それ以上に耳が良いことが理由として大きかった。
澄んだ音を奏でるには、研ぎ澄まされた耳が必要である――というのは当たり前の条理である。
無論、楽器を弾くだけであれば、耳が良くなくとも弾くことは可能かもしれないが、ゴーシュの場合は耳の良さが彼を大いに助けていた。音の仔細までを聞き分けることで音の調和具合を知覚することが出来たのだ。
音の調和を知覚できるかどうか――これはとても大きなことであった。ゴーシュは音楽理論に詳しくはない。が、音が調和しているかどうかは感覚で分かる。ゴーシュはその感性が鋭かった。
否、生まれつき耳が良かったからこそ、感性が育ったのだ。
混ざりあった音を混ざりあった雑音としてではなく、何らかしらの音の合成だと聞き分けることができる。そうなってくると今度は、何が過剰なのか、何が足りないのか、何が邪魔なのか、何が調和しているのか、ということを自然と感覚的に理解することができ――結果として、音楽的な感覚を知らず知らずと培ってきたのである。
「あっしは音楽の勉強なんざ、ろくに積んで来ませんでしたもんで――」
そう言いながらも演奏の指を止めないゴーシュは、音楽理論ではなく、己の感覚として、音楽を理解しているように思われた。
(まあ、だろうな。赤ん坊の頃から、"風の声"を聞かされて育ったんだ。耳が良くなって当然さ)
俺は思った。ゴーシュの耳がいい理由は簡単だった。小さい頃から、人には聞こえない声を聞いていたからである。
(目が見えない代わりに"風の声"を頼りに生きてきたんだ。耳が発達しない道理はない)
俺は少し考えた。
ステラによると風の声とは、"魔力を込めた音のない声"のことらしい。音のない"風の声"でも声は声で、例えば詠唱の時には"風の声"を唱えていたという。
よく考えれば、ステラが詠唱して魔術を使っていることに留意するべきであっただろう。俺は(詠唱は気分の問題。鑑定スキルにも詠唱は必ずしも必要ではないと説明があったし)とそのことを深く考えていなかった。
ステラがまさか詠唱をしているとは――それもそんな"風の声"だなんてものがあって、それを使っているとは、全く思わなかったのである。予想しろと言っても無理な話――だと思うが、詠唱の可能性ぐらいは懸念しておくほうがよかったかもしれない。
話を戻して、風の声である。
ステラの風の声を、イリは理解していた。
『ヤコーポは、音の王』
かつてイリが俺に言った発言だったが、この真意は単純なものであった。つまり、あの元宮廷魔術師とかいうオペラ座団長・ヤコーポには、恐ろしいぐらいに"風の音"が纏わりついている、ということなのだ。それも吹き荒れる嵐のごとく。
あの時はイリの発言を適当に聞き流していたが、こういう形で繋がってくるとは、考えてもいなかった。
(イリがステラになついていたのは、ステラの声を聞くことが出来ていたからなのか……)
そしてそのことを、イリはそっと隠していた。思えばイリは、ステラのそばによくいた。それはステラのことが好きだからとも考えられるが、もしかしたらイリは、ステラの声を唯一聞くことが出来るから、彼女の面倒を色々と見ていたのかもしれない。
「……旦那。妙な顔をしておっせんしたが、いかがなさいやした?」
「いや、続けてくれ」
ゴーシュがこちらの意図を窺うように問いを投げ掛けたのを、俺はかわして、そしてそのまま考えを続けた。
(耳が良いなら、尚更、俺のイメージするような演奏をしてこなかったに違いない……)
得てして耳がいいならば、足し算引き算で音を調節して、一音一音が綺麗で調和の取れた演奏をするに違いない。
そして実際にゴーシュは、そんな丁寧で繊細な演奏を得意としていた。
繊細な音と繊細な音が、お互いを邪魔しないように調和するような絶妙なバランス。単音一つ一つの持つ装飾の深みを最大に引き出すような、引き立てあうような調和。
だが、あえて言うならば――その逆こそが、俺のイメージ像。
グルーヴ感とノリで構成された、リズム体主体の猥雑とした調和が、俺の目指すところであった。