第五話
神韻縹渺という言葉がある。芸術作品などの持っている、あの表現しがたい"趣"を表す言葉だ。そしてそれは今、目の前のゴーシュの演奏にこの上なく当てはまっていた。
「――今は昔、聖地の黄金の都が輝きを失わなかった頃、そこには神々と天使がおわしなすった……」
微分音の怪しい旋律が、オリエンタルな神秘感とエキゾチックな情緒を醸し出しており、いかにも、といった感じが出ていた。
リュートの中でもいわゆるオアシスリュート――ウードと呼ばれるそれは、弦の張りがあまり強くない反面、揺れるような音の表現にかなりの幅があった。
いわば、音が踊っている、ふらふらしている、という演奏になっているのだ。それだけでなく、微分音の表現もこれまた豊かで、その演奏は"聞いているだけで訳もなくぞわぞわする"ような曲になっているのだった。
「我が美しい 恋人は言った 心配ないからね 父は笑わない 母も気にしない 貴方が不器用でもね、と……」
弦がやわらかく、さらに撓りの大きい撥を使うため、手首から弾く、という弾き方になっている。結果として音は、響きにしなりを残しながら耳に優しく届く。
端的に言ってゴーシュの演奏は、"情感に溢れて見事"と言い表せるものであった。
見てみれば、音楽スキルはLv.3とそれなりに高い。それも、もう少しでLv.4に達するほどのLv.3なのだと言われてみれば、納得のいく腕前――むしろ、それ以上の腕前でさえあった。
弾き語りは、戦に駆り出される男と、それを見送る恋人の話である。不器用で、上手く恋人を慰められない男が、逆に恋人に励まされて戦地に向かう――という序盤と、戦地で恋人に思いを馳せる中盤、そして帰ってきてから恋人がいなくなって――という終盤の三部構成になっている。
俺は、ゴーシュの詩情にあふれた演奏を、しばらくじっくりと味わった。
「……凄いもんだな。それなりの腕前だってことは見抜いていたが、実際聞いてみると、どうしてなかなか予想以上に上手なものだ」
「はい、でも……」
俺はゴーシュの弾き語りを手放しで誉めたが、ミーナはちょっと違う感想を抱いたらしい。
「でも?」と続きを促すと、ミーナは少し躊躇ってからぽつりと呟いた。
「……しっとりした曲ばかりで、明るい曲がありませんね」
ミーナの指摘は正しかった。
「……まあ、そういうもんじゃないのか?」
「はい。別にしっとりした曲に不満があるわけではありません。それに、人や楽器には向き不向きがありますしね。……ですけど、何というか、毎日聞く曲じゃないように思います」
「……なるほど」
ミーナの感想は、実のところ、俺が抱いていた感想とほぼ一致していた。考え方が似通っているということなのかもしれない。
ビジネス的な側面だ。俺とミーナは、この曲がいかに情感溢れる素晴らしいものだったとしても、その曲に没入することなく、どうしても俯瞰的な立場から色々と考えてしまうようなタイプの人種であるらしい。
この曲は皆が聞きたい曲か、この曲は毎日聞ける曲か、この曲はどこで聞くのが適している曲か――等々。
俺たちの立場は、限りなくプロデューサーに近い。それは簡単にいえば、奴隷たちの強みを見抜いて、それを最大限発揮できる場を整えるという仕事。
故に、視点はどうしても、俯瞰的になる。
(はっきり言えば、彼の持っている曲の殆どは、一度聞けばもう充分な曲だ……)
何度も聞く要素がない――それが大きなネックなのであった。
「……何だかとても、切ない曲です……」
ネルがぽつりと呟いた。そんなネルを他所に、俺は他のことを考えていた。
(このようにネルは聞き惚れているが、注意して聞くと、バリエーションが似通っている。いずれにせよ、しんみりとしたもので間違いはない。有り体に言えば、"ツカミ"が弱い)
どことなく昔を偲ぶような、柔らかな哀愁の響き。切なさを思い起こさせるような、心に染み入る静かな調べ。
そのどれもこれもが、彼の持つ演奏技術――つまり手首を柔らかに使ったきめ細かい弾き方によって、繊細な旋律を奏でている。
が、その曲は連続して聞くような曲ではない。一週間に一度でも多い。この手の曲は、時々聞くぐらいが丁度いいのだ。人生で数回だけ出会うのには申し分ない芸術的な曲であるからこそ、何度も聞くのは躊躇われる。そして、物悲しい曲は毎日聞くようなものではない。
毎日聞いてもらえるような演奏にするには、どうすればいいか。
差し当たりの課題はその一点に尽きた。
「……変ね、ここまで弾けるのに何で奴隷に身落としするほどお金に困ったのかしら」
「あら、ユフィ。ちょっと声が大きいわよ」
「ねえ、ヘティ。この前会った貴族の子、芸術が好きだったはずよね。あの子なら彼を雇ってくれるんじゃないかしら」
「一考の余地はあるけど、難しいかしらね」
演奏の中、ユフィとヘティの会話が聞こえてきた。内容については、俺も同じことを考えていた。以前会った貴族の娘、ベリェッサに頼るというのは有力な話ではあった。
俺は「ヘティの言う通りだ」と補足を入れた。
「伯爵令嬢のベリェッサとは仲良くやっているつもりだが、こちらから何かを依頼するのは、ちょっと遠慮したほうがいい。一応向こうは貴族だからな。頼るのは最後の手段だ」
「最後の手段には考えているのね」
「まあな。向こうが雇いたい、と思うぐらいの演奏技術を身に付けさせて、それをベリェッサにお披露目するっていう線は、最後の手段としては有力だ」
「じゃあ、最後じゃない手段もあるのかしら?」
「あるさ、ヘティ」
ゴーシュの演奏が佳境を迎えた。優しさと切なさはこれほどまでに溶け合うのか、と思うほどの、不思議な音の融和であった。その傍ら、俺はヘティの問いかけに答えてみせた。
「聞かせて頂戴」
「まあ、まだ構想段階だけどな」
ヘティの耳元に顔を近づけて、俺はこそっと呟いた。
「このオアシス街にジャズを作る。その第一段階として、彼にはパーカッシブなギターとして、スラム奏法を覚えてもらうつもりだ」
背筋をくすぐるような音がした。それはそれで完成されているように思われた。完成、というのは違うかもしれないが、その方向性を高めていけばどうなるのだろうという思いはあった。
が、その一方で、演奏を続けるゴーシュの手――ゴブリンに特徴的なその力強い手に、もっと力強い演奏を任せたらどうなるのだろうという期待感もそこにあった。
俺は、そこに新しい可能性を見いだしたのである。即ち、パーカッションの可能性を。
「あら、それは何かしら?」
「楽しみに待っててくれ」
まずは現場を調べる必要がある。吟遊詩人の現場、つまりは居酒屋や路頭である。自分の考えが成功するかどうかは――八割方成功を演出できることは予想に難くなかったが――このオアシス街の吟遊詩人は果たしてどのような雰囲気で歌うのか、によって大きく左右される。
念を入れる意味でも、今一度調べなおす価値はあると思われた。