第二十二話
そして、もう一つの後日談。
「今回はあの人が正しいわ、やり口に問題があるだけよ」
「いえ、正しくありません!」
テントに帰ってくると、ユフィとネルの口論の声が外まで聞こえてきた。何事かと思ったが、あの人が正しいとか正しくないとかいう話題なら俺のことだろう。
テントに入らず、外で会話を立ち聞きすることにする。
「だって、アントニさん、あんなに苦しそうでした……っ」
「……きっと、仕方がないことなのよ」
「仕方がないことだとは思いません! だって、アントニさん! 絵を描くのが嫌で仕方ないんですよ! なのに、無理やり描かされるだなんて……」
「でも、同時に描きたくて仕方なかったのよ。アントニを見てたら分かるでしょ。アントニは描かないと、きっと死ぬわ。死を選ぶのよ」
「……ご主人様が、どれだけ酷いことを言ったか。……私は知ってます」
「何よ」
「もう一度、美しいと感じてみませんか、って言ったんです……」
「……」
「そんなの、断れないじゃないですか。酷いですよ。アントニさんがどれほど苦しんでいるのか知っているのに……」
立ち聞きされたのだろうか、と俺は思った。
あの時アントニを説得した場面を思い返すが、しかし気配察知にはネルの気配はなかった。
ではつまりアントニが教えたとしか考えられない。ネルがこっそりアントニに何故芸術を続けるのか、とかを聞いて、アントニが教えたのだろう。
テントの中をこっそり覗き見る。
ネルは泣いていた。
「……私、どうせなら優しい絵を描かせるのだと思ってました。成功するか失敗するかなんてアントニさんにもベリェッサさんにもどうでもよかったはずなんです。だからご主人様は、本人が描きたいはずの優しい絵を描かせるのだと思ってました……」
「……あの人には、成功する責任があったのよ。聞けば、話は既に伯爵やロスマンゴールド商館とのビジネスにまで広がってたらしいじゃない。今更失敗は出来ないはずなのよ」
「でも、あれだけ根回しができるご主人様なら、優しい絵を描かせて成功させることだって出来たはずです!」
「……そうかしら。発色が良くて混色制限が緩い絵の具を使っても、アントニのあの天使の絵だけでサロン・ド・オアシスの最優秀作品になったとは思えないわ。今までにない斬新な色使いの炎の絵のほうが、ギャラリー映えはしたわ」
「……だから、成功しなくっても良かったんですよ……。アントニさんはそんなこと望んでなかったんですよ……」
珍しい構図だ、と俺は思った。いつもは穏やかで聞き分けの良いネルが珍しく怒っていて、ユフィの方が宥め役に回っているのだから。
「ご主人様は、アントニさんを利用しただけです。口だけ『もう一度、美しいと感じてみませんか』なんて言っただけで、伯爵と商館との顔繋ぎのために利用しただけじゃないですか……」
「最初からそういう人でしょ、あの人。夢を叶えさせる方法はたくさん持っているけど、何から何まで私たちのために頑張ってくれる滅私の人じゃないわ」
ユフィは言い聞かせるようにネルに顔を近づけていた。
「あの人、目をかけた奴隷が成功していくのをどんな表情で眺めているか知ってる? 見送るような表情なのよ」
「……そんなの」
「いえ、看取るような、のほうが正しいわ。自分の手元を離れていく夢を見送るようなどこか寂しそうな顔をしているの」
「……見ました。何度も。だから、だからこそ、ご主人様は」
「……。話が逸れたわ」
「ユフィ」
「ネル、聞いて。ネルが思うほど、あんたのご主人様は凄い人でも何でもできる人でもないの。だから、本当はアントニに優美な細密画を再び描かせることが出来たのに儲けのために手を抜いた、って訳じゃないの。そして、あんたのご主人様はアントニを利用しようとしたからこの方法を取った、って訳じゃないの」
「……違いますよ」
「あんたのご主人様は、むしろくすぶっていたアントニに火を付け直したわ」
「……残酷です」
ユフィが説き伏せるように腕を組んで言うのを、ネルは泣きながら眺めていた。「だったら、せめて」と絞り出すような声で語る。
「せめて、ずるをしないで、アントニさんの芸術をそのまま世に投げかければ良かったんです……」
「……」
ユフィの顔が苦くなった。
「表現する喜びがアントニさんにあるのなら、それはそっとしておくべきで、手を出しちゃだめなんです。描きたい物を描けなくなって、表現した何かは本人の与り知らない所でずるに利用されて、そんなのって……」
「……」
「人を馬鹿にしすぎですよ……」
消え入るようなネルの声に、ユフィは何も反論しなかった。反論できなかった、の方が正しいのかも知れない。
現にユフィの苦くなった表情は、彼女こそ俺の不正に最も嫌悪感を抱いている、ということを雄弁に語っていたのだから。
潮時だ、と俺は思った。
「入るぞ」
「えっ、あ……」
「……貴方」
突然の俺の登場に驚いたネルの顔と、嫌なところを見られたと睨むようなユフィの顔に迎えられながら、俺は二人に歩み寄った。
「聞いていた。……俺のことであれこれ言いたいことがあるらしいな」
「……」「……」
「特にネル。何かあるなら聞くぞ」
「……ご主人様は、意地の悪い人です」
「それはもう聞いた」
位置に気を付けて向き直る。余り近すぎると威圧感があるし、余り遠すぎると威厳がなくなる。
だが今回はあえて近付く。こっちから近めに踏みよれば居心地が悪くなるのは向こうのほうだ。
喋るときはゆっくり、噛み含めるように。あまり早口でまくし立てたとして、威厳はそこにない。
何のことはない、いつも心掛けていることをしただけだ。
「……ご主人様」
「なあ。俺が人を馬鹿にしてるって言わなかったか?」
「……」
「一応弁明すると、馬鹿にはしてないつもりさ」
目を伏せたまま口を真一文字に結んでいるネルは、ともすれば厄介だと俺は思った。こんなに頑固な彼女を今まで見たことがなかった。
「俺だって、アントニに好きなことをして欲しかったさ。そしてその通り努力したとも。俺はむしろ、皆の意見を聞くように努力しているつもりだ」
「……ご主人様」
「泣くなよネル」
「……嘘吐きです」
「嘘吐きじゃないさ。ただ、俺にだって出来ることと出来ないことがあるんだ。アントニのあの症状を治せたら完璧だったけど、そこまでは出来ないんだ。だったらせめて、症状が悪化したとしてもアントニが描いていけるような、そんな芸術を彼にアドバイスするしかないだろ?」
「……違いますよ、出来たんですよ」
「買い被りすぎだ」
「出来たんですよ。……それなら、ベリェッサさんのように一緒に絵を描けば、アントニさんが描きたかった優美な絵を描くことが出来たじゃないですか……っ」
「……」
「ご主人様……」
その名前が出てくると思っていなかった俺は、少しだけ顔をしかめてしまったに違いない。覗き込むネルの瞳が一瞬だけ揺れたのに気付いてしまった。
「……そうだよな。ベリェッサのように一緒に絵を描けば、アントニの描きたかったものを表現できて、しかも世の中の人に芸術家アントニの素晴らしさを再び訴えかける事が可能だったかもな」
「……」
「彼女には負けたよ。完敗だ。……嫉妬したさ。あれこそ俺のしたかったことなのかもな、って思い知ったんだ」
「……負け」
「ああ。たった一枚しか出展しなかったはずなのに、評論文とかと何もなしにあんなに高く評価されてさ。……ベリェッサは、俺のしたかったことを真っ直ぐ実行に移したんだ。……参ったよ」
「……負けですか」
「ああ、そう俺は……ネル?」
わなわなと震えるようなネルの顔付きに、更に裏切られた、というような表情が重なった。
「ご主人様。勝ちや負けって、何ですか……?」
「……ネル?」
「前も、女子会の後で言ってました。アントニさんの仕事を受注した話を、こうすれば勝ちとか何とか。勝ちって、何なんですか……?」
どこからそんなに涙が出てくるのだろう、と思う。もし涙が心から溢れるものだというのなら、ネルは、人一倍心が多感な子なのかも知れない。
「私、馬鹿だから分からないです……」
「……悪かったよ。言葉が悪かった。違うんだ。俺は、悔しかったんだよ。ベリェッサに俺の出来なかったことをされて、それを見せ付けられて、もう参ったなって思ったんだ」
「……」
「いや、アントニだってあんなに簡単に、俺の出来ないことを出来るんだ。そんなの、世の中に出ずにくすぶったままだなんて、どうなんだ?」
「……分からないです……」
「ああ、いや、……何でもないな。何でも」
俺に出来ないことを彼なら出来る。だから、どうなんだ。
それを答えるつもりはない。
ミーナにもヘティにもイリにもユフィにもネルにもステラにも。
カイエンにもルッツにもマリエールにもチッタにも、アントニとベリェッサにも。
人の夢のために頭を下げる。頭を下げて叶うのが人の夢。その気持ちの何たるかを教えるつもりもない。
「分からなくていい。ただ、この際はっきりさせてくれ。そこまで俺に期待するな。甘えないでくれ」
「……っ」
人が成功すれば自分が幸せになる。そんなのは、幻想でしかない。そう思い込みたいだけなのだ。
俺は、そう思った。いつもそう思っている。
「俺は、アントニに幸せになる方法を提案した。もう一度美に触れられるチャンスを与えた。たとえ症状が悪化しても芸術家として生きていける道を示した」
「……」
「その対価として、俺はベリェッサから金貨を貰ったんだ。伯爵とロスマンゴールド商館と渡りをつないだんだ。成功するようにお膳立てして、ビジネスを履行したんだ」
「……ご主人様」
「ビジネスは責任だ。金貨が発生し、多角的に利害関係が産まれた以上、それに応える義務がある。そして、アントニにもまた、俺の提案に承認した以上責任がある。……それ以上も以下もない」
「……」
「酷なことを言うならば、俺は善意の人間じゃなくて、エゴの人間だ。世の中はどうしたってままならないものだ、だからそのままならない部分に折り合いをつけるのは俺じゃなくて本人だ」
「……」
「俺は思う。アントニは、いいビジネスパートナーだった。彼も俺に満足してくれたし、俺も彼には満足した。それだけだ」
「……」
「願わくば、これから先のアントニに幸せが待っていることを祈るのみさ」
「……」
「ネル。そんなに落ち込んだ顔をするな」
「……ままならない、ですか」
「ん? ああ、ままならないとも。だから俺は自分のことで精一杯だとも。あまり人にまで回す余裕がないんだ、すまんな」
「……ご主人様は、ずるいです」
「まあな。年を取ればずるくなるさ」
「……年を取れば、ですか」
「ああ。世の中には様式ってものがあってだな。ずるく上手く立ち回るには方法論が存在するんだ。それを一から教えてくれる親切な大人はいないんだな、これが。物はやり様、ってのは本当だぞ」
「……」
「やり様なんだよ。……俺はずるいことも平気でするけど、それもやり様なんだ。ネルも、もう少しだけ器用になれ」
「……」
「泣くなよ」
「……ずるいです」
「そうかい」
「年を取ればって、そんなに年違わないのに……ずるいです」
「……あー、まあ、これからだ」
見れば、さっきまで黙っていたユフィが微妙な目付きで俺のことを見ていた。
俺の意外な一面に直面して面食らったのか、突然始まった話に神妙になったのか、それとも最後に俺が間抜けなミスをして呆れているのか、微妙に分かりづらかった。
「……ずるいです」
拗ねたようなネルの言葉を聞いて、俺はやれやれと思った。そう言えば彼女は『感動』に真摯で本気なんだったか、と今更思う。
生憎、俺は感動のために動いているわけではない。
ネルを見た。ネルの涙はいつの間にか止まっていた。その代わりネルはどことなく寂しそうな顔で俺を見つめ返していた。
彼女は俺の言葉の意味を分かっただろうか、と俺は思った。
(後でアントニ達に何か飛び切り美味しい酒でも贈ろう)
俺は、あの天使の絵を描いた二人を思い返しながら、そんなことを考えるのだった。