第二十一話
「……そうですね。しかし」
「しかし?」
「そのまま描かせるのではなく、万全の策を取りたいと思います。つまり、アントニさんに描きたいという意欲を湧かせ、描かれた作品が芸術として評価されやすく、そして形を理解できなくなったアントニさんの症状が悪化したとしても描き続けられるような方法を採りましょう」
「ほう?」
「フォーヴィスムです」
興味深げに目を細める伯爵相手に、俺は言葉を続けた。
「私には、今世に出回っている絵の具より鮮やかで、安価で、そして混色制限も少なく、色褪せや痩せも抑えた絵の具を調達する伝があります」
「ほう」
「更に、アントニさんには長期的に絵を描いて欲しいということを踏まえますと、現在の症状の悪化を考慮しても、色彩感覚だけで戦える分野であれば、フォーヴィスムが宜しいかと」
「なるほど」
口元をにやりと歪める伯爵。
「では、期間もあることだし君に任せよう。途中経過を見て、実際にフォーヴィスムでサロン・ド・オアシスに出展できそうならそれで行く」
「ありがとうございます」
「しかし、フォーヴィスムか……」
あのアントニを第一線から押しのけたフォーヴィスムを敢えてやらせるのか、と伯爵は呟いたが、俺はそうです、と答えた。
思い返せば簡単な話だった。伯爵と取り交わした約束はとてもシンプルだ。俺はあくまで仕事として、アントニに可能な将来展望を示しただけだ。フォーヴィスムは十分可能だと俺は思った、だからフォーヴィスムを提案した。それだけだ。
「ミーナ」
「何でしょう?」
「何でこんなコンサルタント業をしているか、だったか?」
「はい」
「答えはこうだ。……俺にも叶えたい夢があるんだ」
何を、何故、何のために、は曖昧なまま。誰の夢なのかも曖昧にして答える。
「そうですか」と呟くミーナは、俺の答えに静かに頷くだけだった。
気が付くと、後ろの三人も俺のことを見ていた。
珍しい物を見たかのような表情で固まっている。イリは続きの言葉を聞こうと真っ直ぐ俺を見据えて、ネルは痛そうに目を伏せて、ユフィははっと覚めたように俺を見つめ返していた。
後日談。
結局、サロン・ド・オアシスは成功し、十分新しい芸術を世の中に発表できたという。
もう一度俺を食事に誘った伯爵は「フォーヴィスムか、素晴らしかったではないか」と俺を褒めてくれた。
「しかし、君も同じだったとはな」
「同じとは何でしょうか、アルベール伯爵」
「業だよ」
にやりと笑う伯爵。
「あのような素晴らしい才能を世に埋もれさせるのは勿体ないのだよ。……だが、君は最も酷なことをアントニに要求した。アントニが複雑に思っているに違いないフォーヴィスムを、君は描かせたのだ。フォーヴィスムが見たかったからとはいえ、実に業が深いな」
「ああ、あれですか。……見たかったという気持ちもあります。私も芸術に憧れがあったので。……ですが」
俺は静かに答えた。
「あんな風に縋るように描くアントニさんに、せめて美しさを感じて欲しかったのです。形が無理なら、色彩を。彼には美しさが必要なのだと思ったので、フォーヴィスムを描くように誘導させました」
「なるほど? それが言い訳か」
言い訳、そう問いかけてくる伯爵には、少しだけ俺の気持ちがばれていたのかも知れない。
告白すると、俺もアントニの絵を見たかったのだ。
今回のキャリアコンサルティングは、今までのチッタ等の例と異なり、対象の人間が「美術界に戻りたい」というような強い意志があったわけではない。ただ、描かずにはいられないという性を利用しただけだ。
だから、アントニの意志にそった将来設計を提案した訳ではないのだ。
ただ、アントニがこれから叶えていく夢を見ていたかっただけ。アントニにとっての夢ではなく、全芸術家が羨むような夢を叶えていく姿が見たかったのだ。
「トシキ君」
サロン・ド・オアシスが終わると、ベリェッサとアントニもまた、俺を食事に誘ってくれた。レストランなどで食べるのかと思ったが、「貴族と一般人と奴隷じゃ、ちょっと組み合わせが難しくてさ」と、結局アルベール伯爵邸の油臭いアトリエでサンドイッチを食べることになった。
「ごめんね、君とお話がしたくて無理やり連れ出しちゃってさ」
「いえ、私もお話ししなくてはと思ったことがあったので好都合でした」
「そうなの?」
「優秀賞おめでとうございます」
結果。ベリェッサとアントニの合作『天使の絵』は優秀賞。アントニの『炎の絵』が最優秀賞となった。
分かり切っていた結果だったが、アントニの一人勝ちだったのだ。色彩の幅が広がって、話題づくりや演出までしたのだから当然である。
それに食らいついたベリェッサの作品は、本当に凄かったのだ。
「嫌み?」
「まさか。……嫉妬しましたよ」
「ええ? 意外だなあ」
ベリェッサはおどけて笑うが、すぐに「そっか」とどこか影のある笑みを浮かべた。
「嫉妬してくれて嬉しいよ。僕ね、トシキ君に、嫉妬してもらえて凄く嬉しい」
「……なるほど」
「僕、泣きそう」
言うなり急にベリェッサが肩にしなだれてきて、思わず驚いてしまった。だが無理矢理引きはがすのも無理なのでそのまま固まるしかない。
ちら、とアントニを見てみるが、アントニは何と状況を理解していなかった。そういえばそうだ、形がわからないのだから俺が令嬢ベリェッサにしなだれられている、だなんて分かるはずがなかった。
微笑ましそうに「おお、お嬢様も喜んでいらっしゃるとは」と会話を合わせていた。
「僕ね、僕、トシキ君に嫉妬してたんだよ」
「そうなのですか?」
「あのね、アントニの将来をトシキ君が決めるのが怖かったんだ」
ぽつりとベリェッサは語った。
「アントニに無理矢理フォーヴィスムをやらせるなんて、って思ってたんだ。正直失望したんだ」
「……はい」
「あんなに芸術が分かる君なのに、こんなに人の気持ちを踏みにじるんだって。アントニが描きたいのはフォーヴィスムじゃないのに、描きたい物を奪っておいて、でも描け、だなんて要求するなんて僕のパパと同じぐらい酷いと思ってた」
「……」
「なのにね、アントニ、あんなに生き生きしてたから絶句したよ。フォーヴィスム、好きになったんだって、すぐに分かっちゃった。……僕の知ってるアントニが取られちゃった気がしたよ」
「……左様ですか」
「でも、僕知ってたんだ。アントニはずっと天使を描きたいって。いや、天使じゃなくてもいいけど、美しいものを描きたいってさ。……だから一緒になって描こうと思ったんだ」
「……」
「だから、あんな作品が描けたんだよ。凄く美しかった。僕もう自分の作品なのに描いててぞわぞわしてやまなかったよ」
「……はい」
「嫉妬かあ……嬉しいな」
彼女は小さく「僕より上手にアントニの才能を見いだして、しかもそれがアントニの嫌いな絵画だなんて、僕、結婚しても許さないよ」と呟いていた。
何で結婚する前提なんでしょうか、と突っ込む空気ではなかった。
「お嬢様」
そこで、話に割り込むように声をかけるアントニに、「アントニ?」とどうしたのかと問いかけるベリェッサ。
アントニは一つ、間違いを正すように言った。
「このジジイは、心残りが一つ消えましたわい。美しいものが描きたい。その気持ちがやや紛れましたですじゃ」
「アントニ」
「このジジイに一つ告白を許させてくだされ。……気付いたのですじゃ。表現する喜びと、美を探求する喜びが別の物じゃと」
ベリェッサの瞳が揺れる。
「このジジイには、表現するしかないのですじゃ。しかし、このジジイは、同時に美しい物に魅せられて魅せられて仕方ないですじゃ。……故にフォーヴィスムですじゃ」
「……何で?」
「今までは精緻であることが美しいと思うとったのですじゃ。どこまで細かく見ても、引き込まれるような細緻の美ですじゃ。しかし、少しだけ、単純に色だけでも美しいものがあるのじゃと思うたのですわい」
「アントニ……」
「少しだけ好きになれそうですじゃ」
そして、アントニは柔らかく微笑み俺の手を取った。
そのまま俺に向き直って、お礼を述べようとしていた。その表情はとても穏やかで、感謝以外に何かを隠している様子はなかった。
「トシキ様。……上手に諦められそうですじゃ。全ては貴方様のお陰ですじゃ。このジジイ、一生かけても忘れませんじゃ」
「……はは、諦めてないじゃないですか」
「そうかも知れませぬ、そうじゃないかも知れませぬ」
握る手の力が強くなる。
「諦めなくてはならないものがありますじゃ。酷く辛いのですじゃ。しかし、気付いたのですじゃ。表現する喜びがあるのじゃと。まだ見ぬ美があるのじゃと。……一つぐらいお別れするのも、仕方ないのですじゃ」
「……」
「……。人生じゃった」
「……」
アントニの指す人生、という言葉が、彼のこよなく愛した精緻画なのだとすぐに気が付いた。
「実に良い、人生じゃった」
「アントニさん」
「実に、実に良い……人生じゃった」
感じ入るように呟くアントニが目をつぶったのを見た。彼の目には今、もう今は見ることの叶わない過去の絵が想起されているのだろう。
長い握手が、ようやく終わった。
「……キャリアプラン、しかと受け取りましたわい」
「すみません。私にはこれが精一杯でした」
俺は「それが、貴方のキャリアプランです」と続けた。
アントニは「喜んで」と、深い色の瞳で答えていた。