第二十話
アントニの絵に足を止めた人々が、同じようにその天使の絵の前で足を止めている。
美しいのだ。
カンヴァスの下地が乳白色で、ペン画のスケッチではっきり描かれた天使のイラストは、造形が細やかで、人体のスケールが驚くほど正確である。
指の長さ、顔の大きさ、手足の長さ、骨格。
良く出来たデッサン、という印象をそこから受ける。
そして、それらに薄く透明なヴェールを被せていく様々な色。
天使の顔に対応する部分には薄塗りのグラデーションが更に薄く、アクセント程度に。
天使の服には大胆に様々な色を塗りあわせている。
基調は、乳白色のカンヴァスにセピア色のモノトーンで表現されたシックな絵柄の天使だが、そこに散りばめられた黄色、ピンクの線、そして時々現れるクリアな青と緑のアクセント達が、色合いだけで、光と影を作っていた。
「これは……」
天使というテーマの選定もいい。天使が地上に降りて、うたた寝をしている芸術家の額を撫でている。
柔らかさとノスタルジックさを併せ持つ、乳白とセピアの色調。
そこに具象の色使いを気にせず、自由に鮮やかで綺麗な色を使い分けるフォーヴィスムの技法が用いられる。
その絵は、フォーヴィスムと言うにしては優しすぎた。
絵画に羽ペンでの描き込みをし、水彩画のようにグラッシだけで淡さとノスタルジックさを出すその発想が勝利した、という構図であった。
(……やるじゃないか)
天使の絵の作者名を見ると、アントニとベリェッサの両方の名前がそこにある。
二人でこっそりと何を描いたのかと思ったら、予想以上に美しい作品を描くものだ。
周りの人々の反応も上々だ。アントニの『炎の絵』に負けず劣らず人々が感嘆している。
予想では、アントニの『炎の絵』とアントニとベリェッサの『天使の絵』は良い勝負であった。
どちらも甲乙付けがたく、見る人に別種の感動を与える。目に焼き付くような美しさと、胸にしみるような美しさだ。
しかし、絵の具や演色効果、さらには評論文による煽り文句に頼った『炎の絵』と、この『天使の絵』が良い勝負をする、という時点で既に決着は付いているようなものであった。
(……どちらにせよこの展覧会はアントニの一人勝ちだ。色調豊かで上品な絵から、鮮やかで激しく胸を打つ絵まで描けるというアントニの幅の広さを大衆は知った。芸術界に戻るのも難しくはないはずだ)
おおよそ思惑通り。
勝負に負けて仕事で勝つ。後でアントニとベリェッサに、とても美しい絵だったと賞賛の言葉を述べようと思う。
こんな絵を見せられて何も思わなかったのか、と言われるとそうではないが、俺にとっては仕事に差し障りがない限り気にする話ではない。
もし、してやられた、という感情があるとすれば、それこそがベリェッサとアントニのしたかったことなのだろう。
「……」「……へえ」「綺麗……」
後ろで三人が天使の絵に目を奪われている。
その隙に、俺はミーナと「ヘティもくれば良かったんですけどねー」「ああそれな。俺かヘティが店番してないとまずいって事で、俺と入れ替わりに見に行くってさ」「えー、寂しくないように私が一緒に行きましょうかね?」「お前らって地味に仲良いよな」と他愛もない話をする。
「主様、いいですか?」
「どうしたミーナ?」
「主様ってどうして、こんなことしているんですか?」
「こんなことって何だ?」
「コンサルタント業です」
一瞬だけミーナと目があう。優しく微笑んでいるが、どこか試すような気配が感じとられて、俺は思わず息を飲んだ。
「もし本当に幸せになりたいというなら、この世界で成功したいと言うのならば、人材コンサルタント業としてこういうお仕事をする必要はないはずですよね」
「……」
「ポーションの生成で、オアシス街の薬師さんとの取引ができます。近くのダンジョンにある泥の沼から紙繊維を沈殿するためのにがりの生成も、主様の独占産業です。加えて、人材派遣業も冒険者ギルド長アリオシュさんと顔繋ぎして安定した取引相手の斡旋を融通してもらってます。一ヶ月に二回、ルッツ君を借りて露店での料理販売もやってます。チッタもスポンサーを見つけて、肉の仕入れを安く押さえたり、うちの冒険者たち相手に防具や武具を融通してもらったりと、細かいところで利益を得ています」
「ああ」
「加えて今回の件で主様は、芸術画商たちと顔繋ぎをしましたよね。……どの作品が売れそうでどの作品が売れそうじゃないか、という市場調査とか真贋の見分けとか、主様なら簡単ですよね」
「まあな」
「……もう、一人一人キャリアプランを聞いてあげる、ということをする必要は本当にないんですよ」
知ってたさ。という言葉が口をつきそうになったが、辛うじて飲み込んだ。
「知ってますよ。……最初はきっと、ベリェッサさんの頼みを聞いて、アントニさんに再び芸術家として頑張ってもらおうと、メンタルケア的なお仕事程度だと思って引き受けたって程度ですよね。
でも、途中で主様はアルベール伯爵に話を持ちかけられたんですよね。アントニさんの絵は、サイケデリックだけどまだ十分美しい。彼を芸術界に戻して、オアシス街にまた新しい芸術のジャンルを作り上げるというのは十分可能。本人は『美しいものが描きたい』と失意のままだけど、本人さえ説得できたら、あとは伯爵の力で、芸術界に彼を戻すことは可能だ。だから協力してくれ、と。……違いますか?」
「ああ。ヘティから聞いたのか?」
「聞きました。……そして、主様はその伯爵様の依頼を引き受けましたね。アントニさんに無理やり絵を描かせ続けて、そのままサイケデリックな絵を世間に出せば成功するという、この簡単なお仕事を」
「……」
「でもご主人様は敢えて、アントニさんにフォーヴィスムを描かせようとしました。……どうしてですか?」
「さあな」
さあな、としか答えようがなかった。強いて言うならば、この方法のほうが賢いと思ったから、だ。
俺は、数ヶ月前に伯爵と会談して、アントニをどうやって芸術界に戻すのか話し合ったことを思い出していた。
「トシキよ。娘が懇意にしているということで会ってみたが、なるほど、中々賢い商人だ」
「恐れ多いお言葉です」
「あのマハディが、一緒に食べ歩きをした、とても楽しかった、と言うものだから、マハディにそうも言わせるとは大した人物だとは思っていたが、分かる気がするというものだ」
伯爵は、働き盛りの気鋭の中年、という印象の人物だ。対面して食事をとるだけで緊張する。
彼は何事も見落とさない、といわんばかりに鋭い瞳で、俺の格好や俺の仕草を観察していた。恐らくは、スラム街の商人でありしかも未成年だというのに、それでもある程度はテーブルマナーを押さえているという俺を値踏みしているのだろう。
「さて」
口元をぬぐう伯爵は「アントニの件、分かってもらえたかな?」と念押しをしてきた。
「私の娘ベリェッサは、芸術に目がなくてな。……あの子曰く、アントニに元気を出して欲しい、あんなアントニを見たくはない、出来れば芸術界に戻して欲しい、あんなに素晴らしい絵を今でも描けるんだからこのまま埋もれさせるには勿体無い、と」
「はい」
「全く娘の言うとおりだったよ。あの才能は埋もれさせるには勿体無い。確かにゲテモノのように見えなくもないが、十分芸術的だったとも。ぐいぐいと引き込まれるものがあった」
伯爵の要求はシンプルだった。
アントニを芸術界に引き戻す準備は出来ている。ただ、後は本人が絵に積極的に取り組めるようにサポートしてほしいと。
「何、うちの娘が何か言ってきても、あまり気にするな。あいつも心の中では私と同じことを思っているはずなのだからな」
「お嬢様がですか? 何か、と言いますと」
「ああ。実は最近口論になってね。……僕はそこまでむごいことは要求していない、とか言い出したのだよ」
むごいこと。「むごいとは何ですか」と聞くと「アントニを芸術界に戻すやり口だよ」と語る伯爵。
伯爵の話を聞くうちに俺は思った。伯爵は、アントニがどんな作品を描こうが芸術的であればあまり頓着しないようであった。
精密画であってもいいし、シュルレアリズム的な不条理な絵でもいい。ただ芸術的に価値のあるであろう作品であれば何とかする、と。
つまりアントニが描きたい作品であろうが、アントニが描きたくない作品であろうが、そこは問題ではないと言うのだ。
ベリェッサが噛み付いたのは、その描きたくない作品でも描かせる、という伯爵のスタンスであった。
「私は言ってやったのだよ。お前も同じことをトシキに要求したくせに、と。そしたらあの子は泣き出したものだ。言い返せなかったらしい」
「そうですか……」
「きっとあの子のことだ。君にこう言ったんだろ。『もう一度アントニに絵を描いてもらえるよう元気付けてほしい』とか何とかな。アントニに描きたいという意欲を高めてもらう方法が望ましい、無理やり描かせることまでは要求していない、という態度を守ろうとしたはずだ。
だがあの子は美狂いだ。あの子も実は、内心で無理やりでもアントニに描いて欲しいと思ってしまっているんだよ。君も見ただろう? 脳に支障が出たとしても、アントニにはあれほど才能があるんだ。あの凄みのある作品を腐らせるのは勿体無いんだよ。社会の損失、というやつだ。……分かるだろう?」
「はい。実際、凄みのある作品でした」
「娘ほどではないが、私も芸術にはある程度理解はある。だから分かってしまうのだよ。美に取り憑かれるとどうなるか、とな。
もはや罪だよ。アントニが苦しもうが構わんのだ。あれは、もっと見ていたくなる類の芸術だ。魔性だ」
「……」
「違うかね?」