第十七話
「アントニさんが苦しそう」
上手く言語化できないけど、私はそう思いました。イリは「痩せている」とだけ短く同意してくれましたけど、そういう意味ではありません。
描く度にアントニさんは、どこか絶望している気がするのです。描くこと自体は止められないのでしょうけど、描くことを楽しんでいるのかと言われると、私にははいと断言出来る自信はありません。
「そう?」と首を傾げるイリに、私は、かもしれない、とだけ返しました。
「確かに苦しそうね。絵を描く度に葛藤している気がするわ
「あ、ユフィもそう思いますか?」
「ええ」
私より一つだけ年上のユフィは、私よりも頭が良くて感性が羨ましいほど豊かです。前にアントニさんに「貴方はその絵を描くことを楽しんでいるの?」と質問して、彼をはっとさせていました。
その質問のせいで彼女はトシキさんに怒られていましたけど、私は必要な質問だと思っています。きっと私もしていいと思ったら躊躇わず聞くでしょう。
「彼、そもそもああいう芸術好きじゃないんでしょ?」
「そうなんですか?」
「彼、こっそり教えてくれたわ。このジジイは美しい芸術を描きたかったのです、それは眺めているだけで神秘を感じるようなもの、思わず涙してしまうようなものですって」
「そうなんですか……」
トシキさんはそれを知っているのでしょうか。それを知ってなお、あの恐ろしいほどに鮮やかな荒々しい絵を描かせているのでしょうか。
(トシキさんのことは、今になっても全く分かりません……)
トシキさんは、ちょっと年上のお兄さん、とは到底思えませんでした。
けらけら笑いながらお仕事はしっかりする、でも時々トシキさんに怒られるミーナさんの方がよっぽどお姉さん、という気がします。
トシキさんは底の見えない怖さがありました。
前の奴隷商マルクの小間使いをさせられていて、奴隷たちからもかわいそうな奴だと思われていたり、ともすれば俺たちよりも格下だとさえ扱われていた節のあるトシキさん。
いざ奴隷商として彼らの主人になった時、彼らは復讐されるかも、酷い扱いを受けるかもと怯えていました。
なのに、トシキさんは手厚い保護を与えました。何一つお咎めなし。仕事をしない奴『には』厳しい罰を下す、とだけ意味深に笑っていましたが、それが却って怖かったものでした。
トシキさんは優しくはありませんでした。いきなり掃除をやらせたり、槍などの稽古をさせたり、どんどんあれこれと新しいことをさせ始めました。
奴隷たちがやや怯えや戸惑いをトシキさんに覚えているのをいいことに、です。
明らかに人の心理を読んだ上で行動していました。会話もかなり賢そうで、大人のお姉さんのヘティさんと仲良く打ち解けているのを見たときは、私は(この人は人の心を見抜くのがとても上手なんだ)と怖くなりました。
怖い、という印象が薄れたのは、一緒にオペラの脚本を書き始めてからです。
オペラに感動して、感動ってこんなに素晴らしいんだ、と浮かれていた私に、一緒にオペラの脚本を書こうと言ってくれたトシキさんは、打ち解けてみれば凄くいい人でした。
俺はこう思うよ。へえ、なるほど、それはありそう。ネルって感性が豊かなんだな、ちょっと発想が一足飛びだけどさ。
私の意見を笑わないで聞いてくれる、いや、むしろたくさん笑われた気がしますが、それでも真面目に聞いてくれるトシキさんは、とてもいい人なのだと思いました。
思えば、ルッツ君があんなに「トシキさんはいい人ですよ、凄くドライですけど、普通の人なら面倒くさがって教えてくれないところまで真面目に向き合ってくれる真摯さがあります」と力説していたのも納得でした。
所詮奴隷だから、という偏見を持っていない気がします。
所詮子供だから、と私やユフィやイリのことを馬鹿にしたりはしません。いや、時々馬鹿にしますけど、所詮子供だから教えない、ではなく全部教えてくれます。
実は私、こっそり物語を書いているのですけど、悪戯っぽく「見なかったことにしといてやるよ」だなんて言ったのも彼でした。
手紙の書き損じの紙の裏面を使って、会計簿をつける練習の休憩にちょろっとインクを借りて書いていたらばれました。
でも、「頼んだ仕事はしてくれたしな」と怒ることもせず、むしろ「はいお前の」と紙を渡してくれました。書いていいぞ、ということだそうです。
紙って高いのでは、と思ったのですが、近くのダンジョンで見つかった泥沼の紙だから安いし、泥の紙を沈殿させるアルカリ薬品を調合できるのは俺とユフィだけだからその伝でいくらでも手に入るんだよ、とのこと。
よく分かりませんでしたが、とにかく物語を書いていいのだ、と認められたことが、嬉しいと思いました。
(……でも)
そんなトシキさんが、今のアントニさんの苦悩を、見て見ぬ振りをするでしょうか。
「するわよ。あの人、そういう葛藤にはあえて口出ししないようにしてる節があるもの」
「する。ご主人様は、結構放任主義」
二人は口をそろえて言います。
私はそれを聞きながら、またトシキさんが分からなくなってきたなあと思いました。
トシキさんは、親身になって話を聞いてくれるような優しさと、きっぱりお仕事だと割り切るドライさが両立しています。境目が分かりません。
きっとそれがトシキさんなのでしょう、と思うのです。いつの日にか怖いトシキさんが私に牙を剥かないかと心配になる私でした。
ちなみに。
「牙を剥かないでくださいって……主様! ネルちゃんに何したんですか! 私より先にネルちゃんと寝るちゃんですか!」
「知らねえよていうかお前のオヤジギャグ最低すぎるだろ」
「あら、ご主人様ったらもう手を出したのかしら……。早かったわね」
「もうって何だよ、何で俺が手を出すって前提なんだよ」
私が牙を剥かないでくださいといったら、トシキさんが慌てたのが不思議でした。
「アントニさん、いよいよ絵画を展示する時期が近付きました」
「そうですかのう……とても早かったように思いますわい」
「でしょうね。アントニさん、没頭なさってましたからね」
「そうですじゃな。……このジジイは、花の絵が好きですわい。きっと花だと思うのですがのう、描いていると何だか、力強いイメージが湧くのですじゃ」
「ええ。今までの花のイメージから考えると、新しいですよね。今まではたおやかで瑞々しいのが花だったはずですから。しかしアントニさんは燃えるような命の輝きを、花に描いていますからね」
「そうですのう。このジジイも、気付けばこれは花を描いているのだったとはっとすることがあるのですじゃ」
「没頭なさってますね」
「そうですじゃな。……お陰様で、少しばかり傷心が和らぎましたわい」
「……」
「トシキ様や、今嘘ですね、という顔付きをなさったのう。その通り、嘘ですじゃ」
「……まさか、私はそんなこと思ってませんよ」
「貴方の目はこう言っておりますじゃ。どうしてこのジジイは、俺の表情が見えるのだ。表情から読みとったとか言っているが、はったりをかましているだけだ、と」
「これはこれは、厳しい冗談です。いえ、まさかそんなこと思ってませんよ。私はあくまでアントニさんが絵に没頭されていて嬉しいと思っただけです」
「絵に逃げておるだけですじゃ」
「まさか」
「格好良く言い直すと、絵に立ち向かっておるのですじゃ。描く度に辛いのですじゃ」
「アントニさん……」
「望んだ物は二度と手に入らぬ。今このジジイが描いているのは美しくない物でしかない。……美しさに惚れて、それに全てを捧げようとして、今自分は美しくないものしか描けないでいるのですじゃ」
「……」
「しかし、美しくないものを描いていて思うのですじゃ。情けないことに、心が慰められる。没頭できる。全てをそこに捧げることが出来る。あの若い頃に全てを投げ打って没頭したあの芸術と同じ事をしているのじゃと、思うのですじゃ」
「……」
「気付いてしもうたのです。美しくないものを描いているのに、これほどまでに高揚する気持ちは何なのかと」
「……」
「美しいものにただひたすらに近付こうと思って足掻いた、あれが嘘なのだと分かったのですじゃ。あの時の、美に対して一途だった自分がいたからこそあれほど感動したのじゃと思っていた気持ちが、嘘なのじゃと分かったのですじゃ」
「……」
「望んだ物がもう二度と手に入らぬと分かって、望んだ物が欺瞞だと分かって、ついにこのジジイは、打ちのめされましたわい。……ああ、こんなに美しいものを描く理由がなくなってしまって、こんなに美しいものを描けないのだと諦めなくてはならない状況にあって、このジジイは」
「……」
「美しいものが描きたいと」
「……」
「描く度に強くなるのですじゃ。もっと眺めていたい鮮烈な色を、浅ましいほどにカンヴァスに踊らせて、眺めてみればああ綺麗じゃ、と」
「……」
「何故形が見えぬのじゃ、と」
「……」
「トシキ様。……フォーヴィスムは惨いですじゃ。このジジイに、忘れさせてはくれぬのです」
「……忘れさせてくれない、ですか」
「そうですじゃな。……何故、目が見える内に貴方に出会えなかったのか……。このジジイは、そればかりですじゃ」
「私も同感です。その頃の貴方の絵も見てみたかったものです」
「ですじゃな……」
「しかし、私は同時にこうも思います。今の貴方の絵に出会えて良かった」
「……おお、おお」
「……アントニさん?」
「おお、……何故なのですじゃ……。何故、形が見えぬのですじゃ……」
「……」
「何故なのですじゃ……」
アントニの涙が零れ落ちる。
答えはない。
きっと、このフォーヴィスムの絵画の美しさを誰よりも深く噛みしめたいのは、アントニ自身なのだ。
独り言のように、何故、を繰り返す彼を、俺はそのままそっとしておいた。
ざり、と砂を踏む音がした。
振り向くと、ネルが泣いていた。ユフィは真っ直ぐアントニを眺めており、イリは、ぽろぽろ涙をこぼすネルを慰めていた。
「……」
俺は無言で立ち去った。
三人の背中を押して、そのままアントニをそっとしておくように耳打ちして、彼を一人残しておいた。




