第十六話
すぐに露呈する事実だとは思っていたが、アントニが立体感のある絵を苦手とすることがミーナたちに知られ渡るのに、そう時間は掛からなかった。
グリザイユの灰色単色モノトーンに色を付けていく段階で、すぐに分かってしまうのだ。
立体的な配置を理解していないため、上手く距離感の補完が出来ないのだなと。
色を付けると立体感が急に出る。色の濃淡は窪みと膨らみ、陰影と光のコントラストを絵の世界で呈する。
その結果、作者の脳の中にある距離感がダイレクトに反映されるのだ。鼻は高く、目は窪んで、唇は柔らかく膨らみ、首には切れ目ではなく筋と鎖骨のくぼみが存在する、という次第でなくてはならない。
これは常識である。
そして、アントニにはそれはなかった。
人間の目は思う以上にあてにならない。かなり細かい部分の立体感を彼は失っていた。描かれる顔の異様なフラットさが恐ろしい。
陰影により立体情報はある。しかし、当然光の方角は時間によって変化するので、アントニはそれのせいでかなりの苦戦を強いられていた。
俺が火魔術を閉じ込めたランタンで、肖像画を同じ方向から照らすことでようやくその問題をクリアしたが、さらに別問題が生じる。
火の光が強いので影も強く出る、そうすると柔らかい肌の質感が光の強調のせいできっぱりと影と光に分かれてしまうのだ。
アントニの描く顔が異様にフラットになるのもそのためだ。それどころか、右半面の顔について、影のせいで半分消えている目をそのまま半分消して描くものだから、右半面は白目が片方しかない不気味な絵へとなっていた。
よく見れば、肌の質感や血色、目の濡れた感じ、睫毛の艶、毛の細さ、それらはなかった。
色を塗っただけのフラットさ。
肌の質感などのこれら細かい情報は、脳で補完しているから細かく描き込めるのだ、と気付かされる瞬間だった。
アントニは形を記憶できない。だからいちいち目で見て確認しないといけない。だがいちいち肌の質感を感じ取り、血色を感じ取り、だなんてして色を重ねられるほど、一度に大量の情報を記憶したまま絵が描けるだろうか。
極めつけは、アントニが立体に疑問を持ち出したことだ。
一瞬ヘティが席を外した時のこと。
何故こんなに凸凹があるのだろうか、と形の意味に混乱をしたアントニが、凸凹をつるりと丸い表面へと描き換えようと手を加えて、鼻が無くなってしまいそうになった。
俺が慌てて止めさせたが、既に一部、立体感は潰れてしまっていた。
「アントニさん、貴方の疑問は間違っていない疑問ですが、実物がないと手を加えるのはまずいです」
「……そうですのう。これほど立体を描くのに苦労するとは思わなんですじゃ」
嘆息するアントニは、明らかに自分の芸術に失望していた。
立体性はなくてもいい。フォーヴィスムにおいて、立体性はそこまで要求されない。
そんな彼に俺がそういうと、アントニは驚いていた。
「どういうことですじゃ」
「大胆に、大まかな色で描いてください。陰影のニュアンスを無理に出そうとすると失敗するかと」
「……しかしですのう」
「貴方の描き方の立体感は完璧です。もしも貴方が、正しく立体を脳で捉えていたら、間違いなく完璧な絵に仕上がることを確信しました。……だからこそ、なのです。申し訳ありません」
「……ですのう」
落胆しながらも再開。
アントニの筆は速かった。速いと言うより、描きたくて仕方ないから絵が次々生まれているだけだった。
反面、完成作品は少なかった。途中であれこれ俺が指示し、アントニが試行錯誤して、一旦放置になるケースが殆どだったからだ。
描き直した絵は、立体性がさらに無くなっていた。代わりに色が大胆に使われていた。
影に赤が混じり出したり、青で謎の線(おそらく静脈)がなぞられたりし始めたのもこの頃からであった。
「絵が死んでいる……」
久しぶりにアントニの絵を見たベリェッサ嬢は、そう呟いた。
アントニは現在、隔週でこちらで絵を作り、向こう(伯爵邸のアトリエ)で粘土細工などを作り、を繰り返している。打ち合わせの関係で伯爵にはアントニの絵を何度か持ち運んで見せたりしているが、ベリェッサ嬢に絵は見せていない。
彼女が久しぶりに絵を見たくなった、というのも無理からぬ話であった。
それにしても。
俺のテントの場所を突き止め、「えへへ、久し振りにアントニの絵が見たくなって来ちゃったよ」と照れ笑いしていたのが、嘘のような豹変であった。
ベリェッサ嬢は描きかけの絵を手に取って眺めていた。パースが狂い、立体性という立体性を排し、残ったのは平べったい幼稚な絵だけである。
彼女は、死んでいると言った。俺はその表現は言い得て妙だと思った。
「はい。最初から死んでいたのです。それらの作品を描いたとき、アントニさんは明らかに死んでいました」
「……最初から死んでいた」
「今は、絵に命を吹き込んでいます。それも恐ろしいまでに」
「……命」
恐る恐る尋ねる令嬢ベリェッサの視線の先には、昼なのに外に焚き火を焚いて、それをじっと眺めているアントニがいた。
炎をじっと眺めている。
形がない炎を狂ったように絵に描いている。
描いて、描いて、また描いて、彼の手元には、朝から昼の炎、夕の炎、夜の炎の三つの炎の絵が並行して三枚。
休む間もなく炎を描くアントニは、何かに取り付かれてしまった。
ベリェッサが息を飲んでいるのが分かった。見たくなかったものだが余りにも美しかった、というような感情に溢れていた。
「アントニさん」
「後ほどでお願いしますじゃ」
「いえ、アントニさん。アルベール伯爵令嬢がお見えです」
「……伯爵令嬢……、あ、ああ! おやおや、これはこれは」
「……えっ、あ、ああ! アントニか……」
ようやく気づいたアントニは、慌ててこちらに顔を向けて姿勢を正した。
絵に思わず見とれていたベリェッサも、同じく慌ててアントニに対面する。
アントニの顔は随分とやつれていた。
今ある命をこの炎の絵に注ぎ込んでいるかのようにアントニの目元は落ち窪み、しかし引き換えにアントニは、今まで見られなかった野心のようなぎらつきを瞳に宿していた。
ある意味では、生き生きしているのだろう。
死んだように生きていたアントニが、これほどに精力的になったのだから。
「お久しぶりですじゃ、伯爵令嬢。貴女様におかれましては、益々のご活躍をされていることと思われますじゃ。足を運んで頂きありがとうございますじゃ」
「いいよ、アントニ。……君は、どうしたんだい?」
どうした、というのは絵のことだろう。
今までの彼らしくない荒々しさ、単純明快さ、そして配色の大胆さと、欲しい色だからそれを使ったと言わんばかりの色の自由さ。
炎に橙や赤、黄色はあれど、緑や青はないはずなのだ。しかしアントニの絵にはそれがある。
炎が生きているのだ。
今までのアントニの、優美な曲線で精緻に描いた息遣いすら感じる写実の命が、猛るような躍動感と強烈な色彩に飾られた血脈を感じる命へと変わっていた。
アントニの絵は、変わった。
「このジジイがどうしたか、ですじゃな? 実は、気付いてしもうたのですじゃ」
「気付いた……?」
「悲しいことに、見たまま描くことも、思ったまま描くことも、どちらも愛していることに、ですじゃ」
クリスタルブルーの、透明感のある色彩が炎の端ををなぞった。
恐ろしかった。
寒色系統の色は一種の爽やかさと疾走感を感じさせ、光を透過するように薄くなぞられただけのグラッシの色彩は、炎を色っぽくさせていた。
黄色は命の血脈を思わせるように、火の中心から根を張り、炎の絵端々にまで血を通わせていた。
赤は下品なまでに目に痛い。炎であることをこの上なく強く主張している。そして炎の赤は、花のように鮮やかで、奥が透けて見えないほどに生々しい色であった。
緑の透明、青の透明をステンドグラスのようにまばらに被せられた炎の色は、上品でありながら、しかし閉じこめられた窮屈さを出しているかと言われたらそうではない。
青と緑の透明、それを呑み込むほどの強烈な生々しい赤と、命が通っているのだと思われるような黄色が、暴れるような炎の揺らめきを表現していた。
「……これは……」
「炎ですよ」
「……」
ベリェッサ嬢の反応を見て、俺は確信した。今度の博覧会は間違いなく成功するのだと。
そして、もう一つ確信した。
「悲しいことに……?」
呟くベリェッサの視線の先で、自嘲するようにアントニは微笑んでいた。アントニがやつれていたのは、芸術への愛の深さと、手に入らない物への渇望に、身が引き裂かれるほどに苦悩しているからであった。




