第十三話
やがて、俺が絵の具を揮発性油でつゆのように溶かして水彩画のようにさらさらと下色を書き出した頃から、ぼつぼつと皆は眠りに就く準備を始めていた。
そろそろ眠い時間らしい。夜型人間の俺とは違い、この世界の人間は睡魔に正直だ。
対照的に俺の頭は冴えていた。
ヘティの顔を大胆にも緑で描く。下地は緑のほうがいい。補色効果という奴だ。後に暖色系の色で肌を表現するので、その色の発色が良くなるらしい。薄く塗ったときに透過色が灰色に近くなるからだという。
どうせならグリザイユ画法(緑なので正しくはベルダイユ画法)と呼ばれる画法を試すため、ヘティの顔の陰影を緑で表現する。灰色のモノトーンで描いた絵をグリザイユというのだが、その灰色で先に影を作ってしまえば、上から色を乗せていくと影が自然と出来ている。それも色の層による奥行きを持って。
これをグリザイユ画法という。
「ねえ、私の顔色ってそんなに悪く見えるのかしら」
「まさか。これはヘティの桜色の頬を際立たせるための技巧さ」
「本当、口だけ巧くなったわね」
ヘティの薄い笑み。それでも少しは嬉しいようで、心理グラフに少しだけ喜びの感情が出ていた。表情を取り繕うのが上手な彼女が内心ちょっと喜んでいる、というのを目の当たりにするとこっちも思わず微笑んでしまいそうになる。
「ところで、早速だけどいいかしら」
「何で夜に二人きりにしたのか、か?」
「そうよ」
「勝負って何だ」
そして一転、急に緊張の走る話題へとなって、俺とヘティはお互いに沈黙した。
油絵はゆっくりと進む。ヘティの顔の陰影を緑で付けていく。今ヘティの顔に生まれた表情の翳りすら、表現しようと思えばできると思う。
「……勝負よ」
「アルレッキーノか?」
「……その推論は強引じゃないかしら」
「どうなんだ?」
「そうね、好きに想像して頂戴」
「ああ、そうさせてもらおうか」
目元をなぞる。鼻をなぞる。唇をなぞる。顔の窪んだ場所が影になるように重ねて塗っていくと、単色画法なのに立体味を増して存在感が出てくる。
おつゆ描きの揮発性油を火魔術の熱で早く飛ばし、薄い層を重ねて陰影を作り上げる。
「勝負に負けると奴隷に落ちる。それを承知した上で勝負をする人間がいるとしよう。その理由は、報酬があまりに魅力的だったか、もしくは勝負を受けざるを得ない状況にあったから」
「……そうね」
「そして奴隷に落とす側の人間であるアルレッキーノにも当然、利の目がないとおかしい。関係ない第三者を奴隷に落とすことで得するようなものが存在しなくてはならないわけだ」
「……そう」
「……? もちろん利の目がなくてもそういうことを平気で行う人種もいるだろうがな」
彼女の心理グラフの答えは、前者は是で、後者は否であった。違法賭博に携わる人物とあれば利に聡い狡猾な男を想像するのだが、どうやら利の目がなくてもそういうことを平気で行ってしまう人物らしい。
では快楽主義者のほうが近いのか。
「勝負を持ちかける、あるいは勝負を簡単に引き受けてしまうところから見れば、アルレッキーノは好戦的で快楽主義的なところがあると予想できる」
「……ふふ、そうやって情報を徐々に収集していくのね」
「奴の権力は非常に強大で、おいそれと手出しできない立場にいる、と見た」
「そうね。少なくともアルレッキーノはこのオアシス街では一介の商人には到底手出しできないような存在になっているわ」
「しかし、興味を持った人間に勝負を持ちかけるような存在であると」
「アルレッキーノを理解しようとするのは難しいんじゃないかしら」
会話は続けつつ、しかし有効な情報を与えないように言葉を選んでいるヘティは間違いなく賢い。心理グラフの動向を探ることで辛うじてわかる程度。
会話を通じて分かるのは、アルレッキーノという男についてはぐらかされているという程度だ。
「……少しだけ誤解がないように言っておくわ。アルレッキーノは強大すぎる権力を持つ裏の住民というわけではないわ。そもそもアリオシュ翁の目が光っているオアシス街において、それほど強力な犯罪組織が生まれるはずがないもの」
「? どういうことだ? 一介の商人には手が出せないんじゃないのか」
「アルレッキーノは徹底した勝負師なの。犯罪組織ではない、という意味においても、賭博の美学においても」
「……? 違法賭博に携わっているのに、犯罪組織ではなく賭博に美学を持つというのはおかしな話だと思うが」
「ええ、彼は犯罪にも手を染めるし、賭博にイカサマだって働くわ。不条理な人生観を持っていて理解不可能というほうが正しいわ」
「……そうか」
恐ろしいことに、本当にそうらしい。ヘティが誤解しないようにと言葉にしたそれらは、正しい確証はないが、少なくとも間違いではないらしい。
「『幸運』の苗字を持つ狂言回しの道化師は、全く以て行動に合理性がない謎の男なの。それなのに、衛兵たちやアリオシュ翁の手を掻い潜る不思議な存在よ。……それだけよ」
「……そうか」
情報提供を拒んだかと思えば突如情報を数多く提供してくれる、そのようなヘティの変化は一見不自然ではあったがすぐに納得がいった。あまりにも参考にならないのだから。
結局アルレッキーノという男についてはぐらかされたところで話が進んでいなかった。だが、続きを聞きだすことは望むべくもなかった。
「一旦この話は置いておく」
「そうね。本題は他にもあるのでしょう?」
その通り。
俺が夜になるまで待ったのは、こういう話を出来る人が限られているからである。
「……芸術のカルテル化。美術、芸術のサロンが度々このオアシス街で開かれているが、その主導は殆どがアルベール伯爵とロスマンゴールド商館によるものだ。このサロンは、商業主義による価格競争は文化の成熟を破壊するという名目で、今の今まで残ってきたようなものだ」
「……そうね」
「オアシス街という交易の中心地で、既にある一つの計画が出来上がっている。……ただ、それだけだ」
「……素敵ね。道理で急に方針を変えたのね」
「素敵なものか。商人としてはこの上ないが、完全に今回の仕事は政治だよ」
「あら、ご主人様の言葉で言うなら勝ち、でしょう? 勝利の確定しているビジネスほど羨ましい話はないわ」
「全くその通りさ。俺も喜んで乗る話だとも。その代わり、絶対にへそを曲げる人間がいるのさ」
「お疲れ様。私もその子とご主人様の間を取り成すわ」
「お願いするよ。俺は俺で、今度からアントニに色々絵を描かせる作業に入る。その過程でこっちにも連れてくるだろう」
「へえ。美しい光景を二人で見たりするのかしら」
「まあな。今から俺の望む芸術をアントニにさせるなら、美しい景色を眺める経験を蓄えなくちゃいけない」
少なくとも、アントニの絵画が壊滅的だった場合は大問題になる。彼の地の芸術Lv.6というスキル能力からしてそれはありえないとは思うが、それでも念のため、フォーヴィスム風の風景画を描く経験を積むことは必須であろう。
「まだこの世には色彩の革命は起きていない。それを芸術界に知らしめるのさ」
「楽しみね。……後で教えて欲しいわ」
「ああ」
ヘティの顔の緑の下地が出来あがった。そろそろヘティも眠そうなのでお開きにする。絵の進捗を聞いてきたので見せると「あら、ひどいわ」と言いながら甘えてきた。これからどんどん綺麗になるさ、とまた口だけの言葉を紡ぐ。




