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「ん~んっん~、ん~」
背の高い草が覆い茂る広大な草原に、やけに呑気な鼻歌と、相反するような荒々しく草を掻き分ける音が響いていた。
鼻歌の方はのどかな周囲の雰囲気に合うような、とてものんびりとした音程で響いいているが、それに反して草を掻き分ける足音は荒く、地を踏みしめるかのように重く周囲の草を折り進んでいく。
歩き進むその身を隠してくれる程背高かく育った草々の中で、呑気に鼻歌を歌っているのは、フェリミェールという名の狼の獣人。
狼らしくなく、のんびりと過ごすことが好きな彼は、旅の途中でも度々歌っていた。
生まれ故郷の里に立ち寄った旅人達に教わった歌は、覚えているものこそ少ないが、その代わりに繰り返し歌ってきたためとても上手い。
出立時の予定よりも長く続いている旅では、宿や路上で彼が歌うことにより旅金不足を凌ぐこともあり、鼻歌と言えど腕は出立時よりも上がっていた。
そして、荒々しく草を掻き分け進むのは、ルートヴィッヒという名の狼の獣人。
フェリミェールと同じ出身、同じ年頃の狼人ではあるが、生真面目な性格ゆえに警戒を怠ることなく最低限の休息を取るだけで、毎日フェリミェールを急かしつつ、時には背負ってでも歩き続けていた。
今現在もフェリミェールを背負って歩き続けている。
「ん~! んんっん~!」
そんな二人が草原を歩き始めて何時間も経過した頃、フェリミェールの鼻歌は佳境にでも入ったのか、背負ってもらっているにも関わらず足をパタパタ腕をパタパタ、--ルートヴィッヒには見えないが--焦げ茶色の尻尾もバサバサと振っていた。
獣人とはいえど獣の性質は受け持つ。
故に気分が上がれば、無意識に尻尾は左右へ揺れる。
しかし手足まで振るのは彼個人の気質だ。手足まで振るほど、気分が上がりすぎていただけだ。
それ故に気分が上がり始めてからというもの、時々仰け反ってはルートヴィッヒの首を掴まっている腕が軽く絞める。しかも徐々に音量も大きくなっている。
これには流石に、長時間耐え続けていたルートヴィッヒにも我慢の限界が訪れた。
「んっん~! んぎゃ!!」
フェリミェールの腕から力が抜けた僅かな一瞬を逃さず、ルートヴィッヒは抱えていた両脚から手を離した。
佳境へ入ってからしっかり掴まっていなかったフェリミェールはあっさりと落ちた。小さい荷物を背負っていたせいで受け身も碌に取れず、倒れた拍子に頭も強打する始末だった。
「あー! 痛ーい! 痛い痛い痛ーい! ルーイのバカ!! 落とすなんて酷いじゃないか!!」
荷物を放り出し、騒ぎながら頭を抱えて地面をゴロゴロと転がる。
フェリミェールが転がる度に草が折れ、二人の周囲に小さな空間まで出来上がった。
先程まで呑気な鼻歌を歌っていたとは思えないほど大騒ぎだ。
「馬鹿はお前だ!! 静かにしろと何度言ったら覚えるんだ!! しかもまた人の上でバタバタバタバタして!!」
大声で騒ぐフェリミェールに負けじと、ルートヴィッヒも怒鳴り返す。
「だって暇なんだもん!」
「だったら自分で歩け!」
「疲れるからヤだ! っていうか疲れたから背負ってもらってたんじゃん!」
「威張って言うな! 疲れが取れたら自分で歩く約束だろうが!」
「何日歩き続けてると思ってんの!? 疲れなんて取れないよ!」
「俺の半分も歩いてないだろうが!!」
終いには、二人揃って大騒ぎ。
この大喧嘩、長い旅中に何度も同じ内容でしているのだが、フェリミェールは懲りることも反省することもなく、ルートヴィッヒもつい甘やかすか諦めて背負ってしまうせいで、結局数えきれない回数で繰り返している。
「せめて普通の道なら歩くよ! 歩道外れて何日目だかわかってる?」
「仕方がないだろう。この道の方が遥かに近道だったのだから」
「道じゃないじゃん! むしろルーイが作ってるよ!」
今歩いてきた草原にも、その前に歩いていた川沿いにも、確かに道らしい道なんて物がなかった記憶が脳裏を掠め、ルートヴィッヒは思わずフェリミェールから顔を背けた。
自覚はしていたのだ。
硬い表情で逸らされたルートヴィッヒの横顔を見て、フェリミエールはため息をこぼした。
「ルーイ。今からでもいいから歩道に戻ろうよ。 俺も頑張るから」
「だが……」
「歩道に出れば、街か村にも行けるって。そうしたらそこで少し休もうよ。俺も疲れたし、ルーイだって限界だろ?」
「……誰のせいだ」
疲れを吐き出すように息を吐くと共に前面に背負っていた荷物を下ろし、ルートヴィッヒは座り込んだ。
フェリミェールを背負ったりするだけでなく、最低限の休息しか取らず常に気を張り続けているせいで心身共に疲弊していたのは確かだ。
決して弱音を言うことはなかったが、同郷の頃から共にいるフェリミェールにはお見通しだった。
「俺でしょ?」
「……」
疲労が溜まっていることを知りながら、それでも背負わせるフェリミェールには少しでも反省して欲しいところだが、ルートヴィッヒは特に何も言いはしない。
なにせ残念なことに、彼の性格に慣れてしまっているから。
「ね。戻ろうよ、ルーイ」
「…………少し休んだら進む」
「ルーイ!!」
言うと同時にルートヴィッヒは倒れこむように寝転がり、日除け代わりに片腕を目元に乗せる。
二日ほど前に草原に入ってからはフェリミェールを背負ってでも夜通し歩き続けていたので、体力は限界に近づいているはずだった。それでも戻ることも長時間休むこともしないルートヴィッヒに、フェリミェールは頑固だ何だと文句を言い続けた。
「歩道に出れば、人や獣を無駄に傷つける可能性もある。 追い付かれないとは限らないんだ」
フェリミェールの文句を聞き流し、疲労に身を委ねながらも眠らないように気を付け、ルートヴィッヒは言う。
「……わかってるよ。それは、俺だってヤだもん」
「なら……」
「わかった、わかったよ! ルーイに道は任せるって決めたんだから任せる! もうさっさと寝ちゃえよ」
「少し……経った、ら、……起こせよ」
最後の方は、ほとんど聞こえないくらい小さな声だった。
しかし、しっかり聞き取ったフェリミェールは、返事の代わりに小さく歌い始める。
さっきまで歌っていた鼻歌よりも、ゆっくりとした、穏やかな曲。
歌うことを禁じられていた里でも、唯一重宝された子守唄。
ルートヴィッヒはすでに寝付いたが、フェリミェールはただ、静かに歌う。
身を挺してでも守ってくれるルートヴィッヒの、僅かな休息を守るのがフェリミェールの役目。
そして、せめてものお礼。
歌を運ぶかのような柔らかな風が、フェリミェールの焦げ茶色の髪と、ルートヴィッヒの暗い灰色の髪を揺らしていく。
数分前までの大喧嘩が一転し、再び、歌の響く静かな草原へと戻ったのだった。