【第9話】父の手記
【第9話】父の手記
父のノートを見つけてから、俺の心はずっと曇っていた。
『全ての霊は速やかに還すべきである』
その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
日曜日の午後。麗奈は「パチンコで一発当ててくる!」と勇ましく出かけていった。
静かになったリビングで、俺は再びあのノートを開いていた。
『霊を現世に留めることは、自然の摂理に反する。彼らは情報の海へ還り、新たな命の糧となるべき循環の一部だ。それを個人のエゴで堰き止めることは、彼らの魂を腐敗させることに他ならない』
父の文字は理路整然としていて、迷いがない。
父は、霊を封印することを「救い」だとは考えていなかったのだろうか。ただの「処理」だと?
いや、あれほど優しかった父が、そんな冷徹な考えだけで動いていたとは思えない。
「お兄ちゃん、難しい顔してる」
ふわりと、愛が俺の膝の上に座った。重さはない。体温もない。
でも、俺には確かな温もりが感じられる。これは俺のエゴが生み出した幻覚なのだろうか。
「……愛。お前は、苦しいか?」
「え?」
「こうして、死んだ後も俺のそばにいて。カードの中に入ったり出たりして……それは、お前にとって苦痛なのか?」
愛はキョトンとして、それから優しく微笑んだ。
「ううん。全然苦しくないよ。だってお兄ちゃんと一緒にいられるもん」
「でも、父さんは……」
「お父さんのノート、読んだんだね」
愛は俺の手にあるノートに視線を落とした。
彼女は霊になってから、不思議なほど勘が鋭くなっている。あるいは、俺の感情を直接感じ取っているのかもしれない。
「お父さんはね、すごく真面目な人だったから」
「真面目だから、愛する妻ですら『還すべき対象』として見ていたのか?」
「違うよ、お兄ちゃん」
愛は俺の頬に、その透き通った手を添えた。
「お父さんは、誰よりも優しかったの。だからこそ、霊たちが『終われない苦しみ』を抱えているのを見て、心を痛めてたんだと思う。だから『還してあげたい』って思ったんじゃないかな」
「……愛は、終われないことが苦しくないのか?」
「私は特別だもん」
愛は悪戯っぽく笑った。
「お兄ちゃんがいるから。お兄ちゃんが私を呼んでくれる限り、私は『終われない』んじゃなくて、『まだ終わらない』を選んでるの。だから、苦しくなんかないよ」
その言葉に、胸のつかえが少しだけ取れた気がした。
父の理屈は正しいのかもしれない。霊は本来、還るべきものなのかもしれない。
あの商人の霊のように、執着だけで残り続けるのは苦痛なのかもしれない。
でも、愛は違う。
俺たちは違う。
「……父さんの言うことが正論だとしても」
俺はノートをパタリと閉じた。
表紙の『覚書』という文字を指でなぞる。
「俺は、お前を還さない。絶対に」
それは、父への反逆宣言だった。
偉大な霊能力者であり、尊敬する父。その父が残した「正しさ」を、俺は否定する。
たとえそれが世界のアリバイを崩すことになったとしても、俺は愛を守る。
「ありがとう、お兄ちゃん」
愛は嬉しそうに抱きついてきた。
その時、玄関のドアが乱暴に開く音がした。
「ただいまー! っっっ最悪! 全然出なかった! 今月の家賃ピンチかも!」
麗奈が般若のような形相で帰ってきた。
しんみりした空気は一瞬で霧散する。
「……お前、先月分もまだ払ってないだろ」
「あ、そうだった。てへぺろ」
俺はため息をつきながら、ノートを机の引き出しにしまった。
この日常を守る。
騒がしくて、奇妙で、常識外れなこの生活を。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
父がこの手記を残した本当の意味も。
そして、俺たちのこのささやかな日常を脅かす巨大な影が、すぐそこまで迫っていることも。
引き出しの奥で、トランプの束――その一番下にある『ジョーカー』のカードが、一瞬だけ微かに脈動した気がした。




