【第6話】ハートの10
【第6話】ハートの10
その日の夜、ハクの言葉が呪いのように頭から離れなかった。
『彼女は魂が摩耗している』
リビングでテレビを見ている愛の背中を見つめる。半透明な彼女の体は、いつもと変わらないように見える。でも、もし本当に俺のせいで彼女が苦しんでいるとしたら?
「……蓮、ちょっとアンタ顔色悪いわよ」
風呂上がりの麗奈が、タオルで髪を拭きながらソファに座り込んだ。
「昼間のイケメンに言われたこと、気にしてんの?」
「……別に」
「嘘おっしゃい。分かりやすいんだから」
麗奈は冷蔵庫から勝手に缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。
「まあ、あいつの言うことも一理あるかもね」
「なんだよ、お前まで」
「だってさ、死んだ人間を無理やり引き止めるって、普通に考えたらエゴじゃない? 映画とかドラマでもよくあるじゃん、そういうの」
「……」
「でもね」
麗奈はビールを一口飲み、少し真面目な顔をした。
「愛ちゃんは笑ってるよ。それは事実。あたしには見えないけど、空気があったかいもん」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
翌日、俺たちは「仕事」に出かけた。
麗奈が見つけてきた情報は「夜な夜な泣き声が聞こえる公園」。子供の霊が出るという噂だった。
「場所はここね。……うわ、なんか湿っぽい」
目的の公園は、住宅街の外れにある小さな児童公園だった。錆びついたブランコ、塗装の剥げた滑り台。
時刻は午後三時。まだ日は高いが、そこだけ妙に薄暗い。
『お兄ちゃん、あそこ……』
愛が指差したのは、ベンチの一角だった。
そこに、中年の女性が座っていた。いや、座っているように見えた。
彼女の体は半透明で、周囲の景色が透けて見えている。
「……子供じゃない。母親だ」
「え? お母さん?」
「ああ。ずっと泣いてる」
女性の霊は、顔を両手で覆い、嗚咽を漏らしていた。
俺たちが近づいても気づかない。自分の悲しみに閉じこもっている。
「……もしもし」
俺は声をかけた。
女性がゆっくりと顔を上げる。その表情は、深い絶望に染まっていた。
「……あの子が、帰ってこないの。もう暗いのに、あの子が……」
「あの子って?」
「美咲……私の大事な美咲……」
彼女の視線の先には、砂場があった。
そこに、小さなシャベルが一つ、忘れ去られたように突き刺さっている。
「……守れなかった。私が目を離した隙に、あの子は……」
突如、周囲の空気が一変した。
悲しみは漆黒の霧となり、公園全体を覆い尽くす。
悪意はない。だが、この強烈な後悔の念は、放っておけば周囲の人間に影響を与えるだろう。「夜な夜な泣き声が聞こえる」というのは、彼女の悲しみが漏れ出していたのだろう。
『お兄ちゃん、この人……すごく辛そう』
愛が悲痛な顔をする。
「ああ。……助けよう」
俺はトランプを取り出した。
彼女をただ消滅させることはできない。彼女の悲しみを受け止め、その「形」を保存する。
「麗奈、離れてろ。少し空気が重くなる」
「りょ、了解。……なんか寒気してきたし」
麗奈が後ずさる中、俺は女性の霊に歩み寄った。
彼女の悲しみの中心核。それは胸のあたりにある、どす黒い塊だった。
「その痛み、俺が預かります」
俺は右手のカードを、彼女の胸に押し当てた。
瞬間、彼女の記憶が雪崩れ込んでくる。
――夕暮れの公園。
――「ママ、見て!」と手を振る少女の笑顔。
――携帯電話の着信音に気を取られた、ほんの数秒。
――ブレーキ音。衝撃。悲鳴。
――冷たくなっていく小さな手。
――「ごめんね、ごめんね」と繰り返す自分の声。
――そして、高層ビルから下を眺める視界。
「……っ……!」
俺の目から涙が溢れ出した。
これは俺の涙じゃない。彼女の涙だ。
自分を責め、呪い、死んでからもなお、娘を探し続けている終わりのない地獄。
「痛かったですね。苦しかったですね」
俺は彼女の背中をさするように、意識の中で語りかけた。
「でも、もう自分を責めなくていい。娘さんは、きっとあなたを許してますよ」
根拠のない慰めかもしれない。
でも、記憶の中の少女の笑顔は、どう見ても母親を愛していた。
黒い霧が徐々に晴れていく。
女性の表情から険しさが消え、穏やかなものへと変わっていく。
「……あの子、笑ってた? 最後に、笑ってた?」
「ええ。ママのこと、大好きだって顔で」
女性は安堵の息を吐き、そして光の粒子となって崩れ落ちた。
全てが俺の手の平にあるカード――ハートの10へと吸い込まれていく。
絵柄には、涙を流す女性と、彼女に手を振る小さな天使が描かれていた。
「……終わったよ」
俺は息を吐き、涙を拭った。
「……蓮、あんたまた泣いてる」
麗奈が恐る恐る近づいてくる。
「大丈夫? てか、今の何? なんかあたしまで悲しくなったんだけど」
「霊の感情が強すぎたから、共鳴したのかもしれないですね」
俺はカードをケースに収め、ふと愛を見た。
彼女は心配そうに俺を見つめている。
その姿が、先ほどの記憶の中の少女と重なった。
「……愛」
『なぁに?』
俺は問わずにはいられなかった。
「お前は……苦しくないか?」
『え?』
「俺と一緒にいること。こうして霊として留まっていること。……本当は、辛いんじゃないのか?」
ハクの言葉。
そして今の母親の霊の後悔。
それらが混ざり合い、不安となって俺を締め付ける。
愛はきょとんとして、それから少し困ったように眉を下げた。
そして、俺の手に自分の手を重ねた。
冷たいけれど、確かな感触。
『お兄ちゃん。私ね、お兄ちゃんと一緒にいられて、すっごく幸せだよ』
「……無理してないか?」
『してないよ。だってお兄ちゃん泣き虫だから、私がいないとダメだもん』
愛は悪戯っぽく笑った。
その笑顔はいつものもので、曇りはなかった。
……ように見えた。
『でもね……』
「え?」
愛の視線が、ふと遠くへ――空の彼方へ向けられた。
その横顔に、一瞬だけ、見たことのない「大人びた」表情が浮かんだ。
『……ううん。なんでもない!』
愛はすぐにいつもの明るい笑顔に戻った。
『さ、帰ろ! 今日はハンバーグがいいな! 私は食べれないけれど。見てるだけでもいいんだ。麗奈お姉ちゃんも食べるでしょ?』
「え、あ、うん……?」
麗奈は何かを感じ取ったのか、妹に返事をしかけた。
「今、女の子に話しかけられたような気がする。そしてなぜだか急にハンバーグが食べたくなったわ。今夜はハンバーグにしましょ!」
どうやら本当に霊能の素質はあるようだ。連続して強い霊に触れた影響か、少しずつその能力が開花している。
帰り道、夕焼けに染まる空を見上げながら、俺の中に小さな「棘」が残った。
愛のあの一瞬の表情。
それは、何かを悟っている者の目だった。
俺が守っているつもりで、本当は守られているのは俺の方なのかもしれない。
そんな不安を抱えながら、俺は愛の手を握りしめた。
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「……やはり、あなたは能力があるだけの素人のようだ」
二人……いや、三人が去っていくのを木の陰で見ていた男がひとり呟く。
「中途半端に霊と関わり、個人の感覚でその関与を決める。いずれ破綻する時が来る」
ハクは砂場で屈むと、地面に手を当て集中する。
「……居た」
地中深くに眠っていた、赤ん坊の霊がハクにだけ見える形で浮かんでくる。
「幼いながらも苦しかったでしょう。楽になりなさい」
眠っていた赤ん坊の霊は、安らかな顔をして消滅していく。
全てを見届けると、ため息をつく。
「この公園で一番大きな影響を出していたのは、確かにあの母親の霊だった。しかし……」
携帯電話を取り出すと、息を整えスマートな声で話し始めた。
「ご依頼の件ですが、無事解決いたしました。ええ、本日から夜泣きの声が聞えることはなくなるでしょう」
話している最中、無意識に掴んでいた砂を手から放し、携帯電話をポケットにしまう。
「彼女の霊が現世に縛られていたのも、この周辺で子供の事故が多いのも、全てこの赤子が原因だ。それにも気づかないとは」
ハクの言葉には、哀れみと悲しみ、そして少しの慈悲が籠っていた。




