【第3話】スペードの7
【第3話】スペードの7
月明かりの下、軍服の霊が咆哮を上げた。
空気が震え、殺気が肌を刺す。それは物理的な風となって吹き荒れ、俺の前髪を揺らした。
「……ウゥゥッ!!」
霊が地面を蹴る。
速い。
腐敗した体からは想像もできない速度で、一瞬にして間合いを詰められた。
振るわれる長大な日本刀。錆び付いているはずの刃が、銀色の閃光となって俺の首を狙う。
「愛!」
『分かってる!』
妹の声と共に、ピンク色の光が俺の前に盾のように展開される。
ガギィィィン!
金属音が響き、火花が散る。愛の障壁が、霊の斬撃を弾き返したのだ。
「すっげえ……!」
瓦礫の陰で、麗奈が目を丸くしているのが視界の端に見える。
感心している場合じゃない。一撃防いだだけで、愛の光が少しだけ明滅した。相手の出力が高い。
「……マダ、ダ……守ラネバ……」
霊が再び刀を構える。その瞳には、狂気の中に知性が残っていた。
ただ暴れているだけの悪霊ではない。「守る」という強い意志が、彼を現世に繋ぎ止めている核だ。
「お兄ちゃん、この人すごく悲しい匂いがする……」
「ああ、分かるよ」
俺はトランプカードを指に挟み、前に出る。
通常の霊能者なら、ここで祝詞を上げたり、物理的な攻撃で霊を消滅させたりするだろう。
だが俺のやり方は違う。
彼を受け入れ、理解し、その形を留めたまま封印する。
そのためには――触れなければならない。彼の、最も痛い記憶に。
「麗奈さん、合図したらライトを霊の顔に向けてください!」
「はあ!? 死ぬわよ!?」
「成功報酬!」
「チッ、分かったわよ!」
金という単語が出た瞬間、麗奈の迷いが消えた。やはりこの女、肝が据わっている。
霊が三度目の突進を開始した。
今度は袈裟懸け。回避不能のタイミング。
「今だ!」
俺の叫びと共に、麗奈がスマホのライトを最大光量で霊の顔面に浴びせた。
霊にとって、強い光は物理的な痛みではないが、視覚認識を一瞬阻害する。
「グゥッ!?」
霊が一瞬怯む。
その隙に、俺は愛の障壁を解除し、懐へと飛び込んだ。
鼻をつく腐臭。凍えるような冷気。
恐怖がないと言えば嘘になる。心臓が早鐘を打っている。
だが、ここで逃げれば、彼は永遠にこの場所で誰かを切り続けることになる。
「あんたの未練、見せてもらう!」
俺は右手のカードを、霊の左胸――心臓があった場所に叩きつけた。
ドクンッ。
瞬間、視界が白く反転する。
音が消え、匂いが変わり、俺の意識は他者の記憶へとダイブした。
◇
――熱い。
記憶の中の世界は、炎に包まれていた。
爆撃の音。悲鳴。焦げた肉の匂い。
そこは、遠い異国のジャングルだった。
俺(彼)は走っていた。背中に、負傷した仲間を背負って。
『置いていけ……俺はもう助からん』
『馬鹿野郎! 故郷へ帰るんだろ! 娘が待ってるんだろ!』
視界が揺れる。息が切れる。
背中の仲間はどんどん冷たくなっていく。
それでも俺は走った。約束したからだ。絶対に生きて帰ると。
だが。
ドォォォン!!
至近弾が炸裂した。
衝撃で体が吹き飛ぶ。
薄れゆく意識の中で、俺は見た。
爆炎の中に消えていく、仲間の手を。
守りたかった。守りたかったのに。
俺の手には、折れた軍刀の柄だけが虚しく握られていた――。
◇
意識が現実に引き戻される。
頬に冷たい涙が伝っていた。
それは俺の涙であり、同時に目の前の霊の涙でもあった。
霊の動きが止まっている。
白く濁っていた瞳から、狂気が消え去り、代わりに深い悲しみが浮かんでいた。
「……マモレ、ナカッタ……」
「ああ、痛かったな。悔しかったな」
俺はそのままで、カードを押し当て続ける。
拒絶してはいけない。否定してはいけない。
ただ、共有する。
「あんたは守ろうとした。最後まで、命懸けで。それは誇っていいことだ」
霊の体が震える。
そして、その輪郭が徐々に崩れ、青白い光の粒子へと変わり始めた。
粒子は渦を巻き、俺の手の平にあるカードへと吸い込まれていく。
「……アリガ、トウ……」
最後にそう言い残し、軍服の霊は完全に消滅した。
後に残ったのは、静寂と、一枚のカード。
スペードの7。
その絵柄には、折れた剣と、それを守るように咲く一輪の花が描かれていた。
「……はぁ、はぁ……」
俺はその場に膝をついた。
封印は精神力を激しく消耗する。他人の人生の重みを、一瞬ですべて受け止めるのだから。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ……なんとか」
愛が心配そうに顔を覗き込んでくる。
俺はカードをそっと撫で、ケースに収めた。
これで彼は、暴走して消滅することなく、俺の中で眠ることができる。いつか、正しい形で還るその時まで。
「……ちょっと、終わったの?」
瓦礫の陰から、麗奈が恐る恐る顔を出した。
何もない空間を見て、キョロキョロしている。
「終わりましたよ。もういません」
「マジ? 消えたの? 完全に?」
「封印しましたから」
「……へぇ」
麗奈は近寄ってくると、俺の顔をまじまじと見た。
そして、俺の頬に触れた。
「アンタ、泣いてんの?」
「……霊の記憶が入ってきた影響です」
「ふーん。変なヤツ」
「うるさいですね」
麗奈は少しバツが悪そうに視線を逸らすと、わざとらしく大きな声を出した。
「ま、とにかく! これで仕事完了ね! 不動産屋に報告して、残金の五万も請求しなきゃ!」
「……そうですね」
「ホント、アンタと組んで正解だったわ。すごい迫力だったし、あれなら客に『見えなくても』説得力あるわよ」
彼女なりの照れ隠しなのだろう。
俺は立ち上がり、砂を払った。
「帰りますか。腹減りました」
「そうね! 成功祝いで焼肉……は高いから、コンビニの『高い方の』弁当おごってあげる!」
「……期待してますよ」
こうして、最初の依頼(?)は幕を閉じた。
帰り道、月を見上げる愛の横顔が、いつもより少しだけ寂しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
俺のポケットの中で、スペードの7が微かに温かく脈打っていた。
……ん?
俺は少しこの霊について違和感を感じた。
何故遠い異国の、それもおそらく数十年は前に発生したであろう霊魂が今になって日本で発現したのか。
通常、霊魂は死んだ場所、あるいは関係する人物の周りに発生する。
例外的に複数の霊魂が集まったり念が強まることで、事後的に発現することはあるが……遠い異国の霊というのは考えてみれば初めてだった。
「まぁ、俺もそこまで詳しいわけじゃないからな」
「いいわよ、私は毎日のようにコンビニに通ってたんだから。一番高くて美味しい弁当を選んであげるわ」
ひとり言のつもりだったが、会話の続きとして拾われてしまったようだ。
とりあえず今日は祝杯を上げて休むとしよう。




