【第1話】還らない妹
【第1話】還らない妹
朝の光が薄く差し込むキッチンで、トーストが焼ける香ばしい匂いが立ち込めていた。
コーヒーメーカーが静かに唸り、琥珀色の液体がカップに注がれる。湯気と共に広がる苦い香りは、この世界の現実を少しだけ強く感じさせてくれる気がした。
「お兄ちゃん、またブラック?」
向かいの席から、呆れたような声が降ってくる。
そこには、制服姿の少女が座っていた。
榊愛。僕の自慢の妹だ。艶やかな黒髪は肩で切り揃えられ、大きな瞳は悪戯っぽく輝いている。どこにでもいる、普通の高校一年生の朝の風景。
ただ一つ違うのは、彼女の前には何も置かれていないことだ。皿も、カップも、フォークも。
「甘いのは苦手なんだ」
「ふーん。人生も甘くないもんね」
「生意気言うな」
俺はトーストをかじりながら、視線を落とす。
愛の輪郭は、朝日の加減で時折ぐらりと揺らぐ。まるで蜃気楼のように、一瞬だけ向こう側の壁紙が透けて見えるのだ。
そう。彼女は死んでいる。
九ヶ月前の夏、信号無視のトラックに跳ね飛ばされ、即死だった。
今の彼女は、俺が父から受け継いだ能力――トランプカードに霊を封印し、現世に留める力によって存在している「残留思念」の塊だと言ってもいい。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私、そろそろ学校行きたいな」
愛がテーブルに頬杖をつく。その腕はテーブルを貫通し、少し沈んでいる。
彼女には実体がない。触れることもできないし、味もしない。ただ、記憶と感情を持ったまま、俺の目の前に存在しているだけだ。
「……無理だろ。みんな驚く」
「幽霊部員ってことでどう?」
「笑えない」
「むー」
愛は口を尖らせる。その仕草のすべてが、生前と何一つ変わらない。
俺は心の中で小さく祈る。この日常が、一日でも長く続きますように、と。
チャイムの音が鳴り響いたのは、そんな時だった。
唐突で、暴力的な電子音。
俺と愛は顔を見合わせる。こんな朝早くに誰だ?
「宅配便かな?」
「何も頼んでないぞ」
俺はマグカップを置き、玄関へと向かう。愛もふわふわと背後をついてくる。彼女には足音がない。
モニターを覗き込むと、そこには喪服を着た女性が立っていた。
二十代前半だろうか。派手ではないが整った顔立ちで、どこか愁いを帯びた表情をしている。手には数珠と、古びた風呂敷包みを持っていた。
「誰?」
「知らん」
セールスなら無視だが、喪服というのが妙に引っかかる。
俺は少し迷ってから、ドアチェーンをかけたまま扉を少しだけ開けた。
「はい」
「……榊、蓮さんのお宅でしょうか」
女性の声は湿っぽく、震えていた。演技がかっている、と直感で思う。
彼女は深々と頭を下げ、顔を上げると涙ぐんだ瞳で俺を見つめた。
「突然の訪問、申し訳ありません。私、霊能者の星野麗奈と申します」
霊能者。
その単語が出た瞬間、俺の中で警報が鳴り響く。
この世界において、霊は科学的に観測された「資源」であり、国家によって管理されている。しかし、未だに古い宗教観や迷信を利用して金を稼ぐ輩も後を絶たない。
「何の用ですか」
「……妹さんのことです」
星野という女は、悲痛な面持ちで言った。
俺の心臓が少しだけ跳ねる。
「妹の愛さんが……成仏できずに泣いています。暗くて、寒くて、寂しい場所で……お兄ちゃん助けて、と」
彼女はハンカチで目元を拭った。完璧な間の取り方だった。
もし俺が普通の人間なら、動揺していただろう。妹を失った悲しみにつけ込まれ、縋り付いてしまったかもしれない。
だが。
「ねえお兄ちゃん、私泣いてないよ?」
俺のすぐ隣、ドアの隙間から顔を出している愛が、きょとんとした顔で言った。
星野麗奈の視線は俺に固定されている。彼女には、俺のすぐ脇にいる愛の姿が見えていないのだ。
「……このままでは、妹さんの霊は悪霊化し、あなたにも災いが降ります。今すぐ供養が必要です」
「へー、悪霊化だって。ウケる」
愛がケラケラと笑う。
俺はため息をつきたくなった。
「帰ってください」
「お待ちください! 費用は相談に乗ります! 今ならキャンペーン中で、除霊とお祓いセットで三十万円のところを――」
「見えてないなら、見えてるふりはよした方がいいですよ」
俺は冷たく言い放ち、ドアを閉めようとする。
しかし。
ガッ、と革靴のつま先がドアにねじ込まれた。
「痛っ!」
「……何してるんですか」
「待ちたまえ若造! 話はまだ終わってない!」
先ほどまでの湿っぽい声はどこへやら。星野麗奈はドアの隙間から鬼の形相で睨みつけてきた。
「見えてない? ああそうだよ見えてないよ! 文句あるか!」
「……開き直った」
「こっちは必死なんだよ! 今月の家賃も払えないし、昨日の夕飯は公園の水だったんだぞ!」
彼女はドアを強引にこじ開けようとする。細い腕のどこにそんな力があるのか、チェーンが悲鳴を上げる。
「アンタんち、両親いないし妹死んだばっかで保険金ガッポリあるんでしょ!? ネットの訃報欄で見たんだからね!」
「最低だなあんた!」
「背に腹は代えられないの! 三万! いや一万でいい! 拝ませてくれ!」
もはや強盗だ。
俺が警察を呼ぼうとスマホを取り出した時、愛がふわりと彼女の前に回り込んだ。
「お兄ちゃん、この人面白いよ」
「面白がってる場合か」
「だって、本気だよこの人。嘘ついてるけど、必死なのは本当だもん」
愛は星野麗奈の顔を覗き込み、くすりと笑った。
その時、麗奈の動きがピタリと止まる。
彼女の視線が、虚空を泳ぎ、そして――愛の顔のあたりで焦点を結ぼうとして、怯えたように揺れた。
「……え、なに? 今、なんか寒気が……」
完全に霊が見えていないわけではないのか? 感受性だけはあるのかもしれない。
俺は少し考え、ドアの力を緩めた。
「……入ってください」
「えっ」
「警察呼ばれたくないなら、話を聞きます」
「ほ、本当!? よっしゃあ!」
ガッツポーズをする麗奈。
その横で、愛が「やったね!」とVサインをする。
俺は頭を抱えた。平穏な日常は、どうやらここまでのようだ。
リビングのソファにふんぞり返るように座った麗奈は、出された麦茶を一気に飲み干した。
「ぷはー! 生き返る! で、相談って何よ? 除霊コース? それとも人生相談?」
「単刀直入に言います。あなたは霊が見えない」
「……チッ。バレてりゃ世話ないわね。そうよ、見えないわよ。それが?」
彼女は悪びれる様子もなく足を組む。喪服の裾が乱れ、黒いストッキングが露わになる。
態度の変わり身が早すぎる。
「でもね、私にも多少は素質があると思うのよ。さっきだって無理やり家に入ろうとした時、なんかこう、空気が変わったっていうか・・・冷たくなったというか。あれはきっと私の『場の支配力』が……」
「僕には見えてるんです」
「はい?」
「妹の霊が。今、あなたの右隣に座ってます」
麗奈はのけぞり、右隣の何もない空間を凝視した。
そこには愛が座り、麗奈の顔を興味津々で見つめている。
「……ハッタリでしょ? 私を怖がらせて値切る気?」
「今日のあなたのラッキーカラーは赤。朝ごはんは食べてなくて、財布の中身は三百四十二円。お風呂には三日入ってない。そう妹が言ってます」
「なっ!?」
麗奈は慌てて自分の財布を確認し、顔を真っ赤にした。
財布の中身は愛が透視したわけではない。単に彼女がポケットから落としたレシートと、漂ってくる微かな体臭からの推測だ。愛はそれを面白おかしく伝えただけだ。
「あ、あんた……本物?」
「ええ。だから、あなたの詐欺は通用しません」
俺は冷淡に告げた。
これで諦めて帰ってくれればいい。そう思ったのだが。
麗奈の瞳が、ギラリと怪しく光った。
「……見えてるのね? 本当に? クッキリと?」
「ええ。会話もできます」
「すごい……! 天才じゃない!?」
彼女は身を乗り出し、俺の手をガシッと掴んだ。
「組みましょう!」
「は?」
「私には演技力と話術がある! アンタには本物の霊視能力がある! 二人で組めば最強の霊感商法ができるわよ!」
「断る」
「なんでよ! 儲かるわよ!? アンタが霊の情報を読んで、私がそれっぽく伝える! ウィンウィンじゃない!」
こいつ、懲りてないどころかビジネスチャンスを見出したらしい。
俺が呆れて無視しようとすると、彼女はさらに畳み掛けてきた。
「それにアンタ、一人暮らしでしょ? 妹さんは……まあ、その、アレだけど」
「アレって言うな」
「家事とか大変でしょ? 私がやってあげる!」
「結構です」
「掃除洗濯料理お任せ! その代わり、ここに住まわせて!」
飛躍しすぎだ。
俺が口を開く前に、彼女は勝手にキッチンの方へ走っていった。
「冷蔵庫借りるわよ! 賞味期限切れの卵あるじゃん! チャーハン作るわ!」
「勝手に……!」
止める間もなく、コンロに火が点く音。
愛がケラケラと笑い転げている。
「あはは! お兄ちゃん、この人最高! 賑やかでいいね!」
「愛、お前なぁ……」
俺は天井を仰いだ。
静かだった喪失の日々は、突然の嵐によって吹き飛ばされようとしていた。
父さん。俺の平穏は、もう戻ってこないかもしれません。
ジュウジュウと卵が焼ける音と、愛の笑い声。
それが、僕たちの奇妙な共同生活の始まりだった。




