第9話:埃まみれの実験棟と、変人技師
詰所で弁当を巡った争いが巻き起こっていた頃。
マシロは、アリサの防具をメンテナンスするため「技術開発棟」を訪れていた。
激しい訓練で傷ついた留め具を直すには、宿舎の簡易工具では足りない。
炉を借りて、金属を熱して、曲がった部品を叩き直す必要があるのだ。
「王都の公的機関に属する者なら、この建物の設備を自由に使っていいらしいわ!」
アリサからそう聞いて、マシロは期待を胸に技術開発棟へと足を踏み入れた。
師匠の工房以上の設備があるかもしれない。そう思うと、胸が躍る。
――だが。
「……最悪だ」
扉を開けた瞬間、マシロは顔をしかめた。
床には得体の知れない薬品がこぼれて変色し、空気中には鼻を突く硫黄の匂いと、何かが腐ったような甘ったるい匂いが充満している。
技師たちはボサボサの髪で、目の下に隈を作りながら、換気の悪い部屋で怪しげな液体を煮込んでいた。
設備は確かに立派だ。
だが、環境が最悪すぎる。
マシロは実験室の隅で、マスクを装着してなおハンカチで鼻を強く押さえた。
「……このままでは、有毒ガスと悪臭で作業どころじゃない」
換気設備が存在しない。
いや、正確には窓はあるのだが、技師たちが「風のせいで実験結果が変わる」と閉め切っているのだ。
マシロは無言で立ち上がると、部屋の四隅にある窓へ向かった。
そして、計算された角度で二箇所だけ、数センチずつ開ける。
ヒュオオ……。
微かな風が入り込み、特定のルートを通って反対側の窓へと抜けていく。
「……よし。空気の道ができた」
気圧差を利用した換気だ。
マシロは風上に位置する席を確保すると、リュックから黒い塊を数個取り出し、自分の机の周りに結界のように並べた。
ただ、釜で超高温処理し、微細な穴を極限まで増やしただけの特製の炭だ。
これが周囲の残留ガスを物理的に吸着してくれる。
「これで、なんとか人間の住む環境になった」
マシロは高濃度のアルコールを含ませた布で机を神経質に拭き上げると、ようやく工具を広げた。
周囲の技師たちは、そんなマシロを奇異な目で見ている。
「見てよあれ。わざわざ窓開けてる」
「炭なんか並べて何してんだ? 魔除けのおまじないか?」
マシロへの評価は、完全に「潔癖症の変な奴」だった。
新入りが変に目立ってるとなれば絡まれてもおかしくない状況だが、幸いだったのは、ここにいるのが研究一筋で男性免疫皆無の技術屋ばかりだったことだ。
男子なんて未知の生物をどう扱っていいか分からず、彼女たちは遠巻きに観察することしかできなかったのだ。
おかげでマシロは、誰に邪魔されることもなく奇妙な「放置プレイ」の中で作業に没頭できたのだった。
†
黙々と作業を進めていると、隣の席から不穏な音が聞こえてきた。
ボシュッ、という焦げる音と共に、黒煙が上がる。
声の主は、ボサボサの銀髪ボブに、牛乳瓶の底のような分厚い丸眼鏡をかけた若い女だ。
サイズの合わない白衣を着崩した、いかにも「徹夜明けの技師」といった風貌である。
「……あー、もう。またこれだ……。テンプの振動数は計算通り、脱進機の設計も完璧……理論は間違ってないのに……。
分かってるわよ、銅板じゃダメなことくらい……! でも、真鍮板は在庫切れで申請も通らないし……! かといって支給品の鉄じゃ、不純物だらけですぐ折れる……!
この柔らかいクズ銅板で妥協するしかないのに……ああもう、本当にどうしろって言うのよ……?」
彼女は机に突っ伏し、ブツブツと呪詛を吐いている。
その勢いで、また埃が舞い上がった。
「……埃が舞うから、あんまり暴れないでくれると嬉しいな」
女が顔を上げる。
眼鏡の奥の目が、鋭くマシロを睨みつけた。
「なによ、あんた。人が研究で苦しんでる時に、埃だぁ?」
「苦しんでるのは分かるけど、僕も作業してるんだ。……へぇ、小型の時計作ってるんだ? 部品細か……全部手作業? すごいね」
何気なく言った一言だった。
だが、女の動きがピタリと止まった。
「え……あ、う……」
彼女は頬を赤らめ、視線を泳がせた。
研究一筋で生きてきたため、異性から――しかも年下の美少年から不意に褒められるなどという経験が皆無だったのだ。
彼女は実験机の影に隠れるように身体を小さくし、モジモジと指を合わせる。
「べ、別に……すごくなんて……普通だし……」
だが次の瞬間、彼女はハッとして顔を上げた。
「……って、ちょっと待って。あんた今、『時計』って言った?」
「うん。時計でしょ、それ。一定のリズムでカチカチ動いてるし」
「……ふーん」
女の目つきが変わった。
先ほどまでの羞恥と苛立ちが消え、品定めするような鋭い視線になる。
「あんた、ただのお坊っちゃんじゃないのね。普通の人は振り子時計しか見たことないってのに、一目でこれが『時計』のプロトタイプだと見抜くなんて……流石ね。……名前は?」
「マシロ」
「私はシルヴィア。……で、マシロ」
彼女はそこで言葉を切り、少し躊躇うように視線を落とした。
目の前の少年は自分の発明を一瞬で見抜いた。もしかしたら、この行き詰まった状況を打破する何かを知っているかもしれない。
そんな、藁にも縋るような思いが彼女を突き動かした。
「……銅だと歯車の部分がすぐに摩耗して、使い物にならなくなるの。構造上の欠陥じゃないはずなんだけど……何か、いいアイデアない?」
「素材の問題だね。銅は柔らかすぎるから。……もっと硬い『真鍮』を使えばいいんじゃない? 銅と亜鉛を適切な比率で混ぜた合金なら、強度もあるし加工もしやすいよ」
「……は? 真鍮って、あの帝国のほうから流れてくるあの頑丈な鍋の原料? あれは帝国が製造法を秘匿してるから、こっちじゃなかなか手に入らないわよ」
シルヴィアが呆気に取られている間に、マシロはリュックから一枚の金属板を取り出した。
「……これ、使っていいよ。僕が作ったやつ。亜鉛を単離してそれを銅と混ぜて作ったんだ。」
カラン、と無造作に置く。
黄金色に輝く板だ。
「……っ?」
シルヴィアが金属板を手に取った瞬間、その動きが止まった。
指先で表面をなぞる。何度も、何度も。
「……なにこれ。嘘でしょ……?」
眼鏡の奥の瞳が、スッと細められた。
先ほどまでの無気力さが消え、職人の目に変わる。
そしてあろうことか、彼女はその金属板を自身の頬に擦り寄せ、恍惚とした表情で匂いを嗅ぎ始めた。
マシロが若干引き気味に見守る中、彼女はうっとりと呟く。
「色が……完璧すぎる。色ムラが全くない。……それにこの硬度と粘り気……。帝国の最高級品、いやそれ以上じゃない……というか自分で作ったの……?」
「……いや、あんまりずかずかと踏み込むのも良くないわね。失礼だったわ。ごめん」
シルヴィアはニヤリと笑うと、工具箱から鋭利な鉄筆と糸鋸、そして数種類の精密ヤスリを取り出した。
「じゃ、お言葉に甘えて。……壊しても泣かないでよ?」
彼女は真鍮板に型紙代わりの板を当てがい、ケガキ針で素早く円と歯の形状を傷つけていく。
迷いのない、流れるような線引きだ。
次に糸鋸を手に取る。
シルヴィアは小刻みなストロークと絶妙な力加減で、まるで木の板でも切るように真鍮板を切り抜いていく。
ギィ、ギィ、ギィ……。
切り出されたのは、小指の爪ほどの小さな円盤。
それを万力で固定し、今度は三角ヤスリで「歯」を刻んでいく。
シュッ、シュッ、シュッ。
リズムが良い。
顕微鏡を使わなければ見えないような微細な凹凸を、彼女は指先の感覚だけで均一に並べていく。
その手つきは、金属を削っているというより、宝石を磨いているように繊細だった。
数分後。
シルヴィアは完成した数個の歯車を、真鍮のフレームに組み込んだ。
ゼンマイを巻き、指で弾く。
チク、タク、チク、タク……。
正確で、小気味良い音が響き始めた。
歯車は滑らかに噛み合い、一分の狂いもなく時を刻んでいく。
「……できた。小型化しても精度が落ちない。これなら持ち歩けるサイズでも実用化できるわ」
シルヴィアが息を吐く。
完璧な動作だ。
「すごいな。……このサイズの歯車を手作業で削り出すなんて、神業だ」
「そりゃそうよ。私、これでも王都一の天才技師だから」
シルヴィアは胸を張った。
だがその視線は、マシロの手元――残った真鍮の板に向けられていた。
「……ねえ、マシロ。あんた、何者? これ、本当にあんたが作ったの?」
「うん。苦労したよ」
シルヴィアはマシロをじっと見つめた。
その目には、畏怖のような色が混じっていた。
「あんた……材料畑の人?」
「まあ、そんなところ。素材の精製とか配合は得意なんだ」
「ふーん。……じゃあ、機構とかは作れるの?」
「正直、あんまり得意じゃない。原理は分かるけど、設計して形にするのは……」
「なるほどね」
シルヴィアはニヤリと笑った。
「じゃあ、取引しましょ。あんたは『素材』を担当。私は『形』を担当。……どう? お互いに詰まってるところがあったら、助け合うの」
マシロは少し考えた。
確かに、自分の弱点を補ってくれる相手がいれば、できることの幅は格段に広がる。
今の時計作りを見れば明らかだが、シルヴィアの技術力は本物だ。
「……いいよ。その取引、乗った」
「決まりね」
シルヴィアがマシロの肩をポンと叩いた。
「退屈な連中ばっかりで、話が通じる奴がいなくて困ってたのよ」
「設備は使いたいから、また来るよ。……ただ、この環境はなんとかしてほしいけど」
「ああ、それは無理ね。ここの連中、掃除とか換気とか、そういう概念がないから」
「……じゃあ、俺が来るたびに自分のスペースだけ整えるしかないか」
「ま、私は助かるけど。あなたの席の近く、作業しやすかったわ」
シルヴィアはひらひらと手を振り、自分の作業に戻っていった。
†
帰り道。
マシロはアリサの防具を抱えながら、今日の出来事を振り返っていた。
「変な人だったけど、腕は確かだな」
シルヴィアという女。
あの精密な歯車を削り出した技術と、複雑な機構を設計する頭脳。
教科書の知識をなんとなく覚えているだけの自分が苦手な「形にする技術」を彼女は持っている。
自分一人では作れなかったものが、二人なら作れるかもしれない。
「……また行こう。あの実験棟」
マシロは小さく笑った。
汚い環境は我慢するしかないが、得られるものは大きい。
こうして、マシロの技術開発棟に通う日々が始まったのだった。
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