第6話:超絶テク
朝の喧騒が嘘のように、詰所内は静まり返っていた。
マシロは一人、黙々と手を動かしている。ロッテは別室で書類仕事だ。
「……よし、これで予備の鎧は全部磨き終わったかな」
彼は額の汗を拭い、満足げに並べられた鎧を眺めた。
錆びつき、手垢で曇っていた予備の胸当てやチェーンメイルたちは今、鏡のように磨き上げられ、夕日を反射して輝いている。
さらに、武器庫の剣はすべて砥石で研ぎ直され、革製品にはオイルが塗り込まれていた。
床は塵一つなく、空気中にはほのかに爽やかな香りが漂っている。
ガチャリ。
重厚な扉が開く音が響いた。
「ただいまー。……って、えっ? 何これ」
先頭で入ってきたアリサが、目を見開いて立ち尽くした。
続いて入ってきたガルド副隊長や他の衛士たちも、同様に口を開けて固まる。
「嘘……これが私たちの詰所?」
「眩しい……! 床が光ってるわ!」
「おい見ろよ、あの予備鎧! 新品か!?」
彼女たちは今日一日、王都の巡回警備に出ていたのだ。
埃っぽい路地を歩き、酔っ払いの相手をし、スリを追いかけ……心身共に疲弊して帰ってきた彼女たちを迎えたのは、かつてないほどの清潔な詰所だった。
「おかえりなさい! 疲れましたよね? 冷たいお水、用意してありますよ」
マシロが屈託のない笑顔で、冷えた水差しを差し出す。
その瞬間、衛士たちの瞳に怪しい光が宿った。
カァーン、カァーン、カァーン……。
王都全体に、定刻を知らせる鐘の音が響き渡った。
「……あら、もう定刻」
アリサの表情が緩む。
(やっと終わった……! これでマシロと二人きりで帰れる……!)
彼女の脳内はすでに、帰宅後の「マシロの手料理」と「イチャイチャタイム」で埋め尽くされていた。
その浮かれた思考のまま、彼女は致命的なミスを犯す。
「はい、みんなお疲れ様! 今日はもう解散! 報告は明日でいいわ!」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、部下の女騎士の一人がガルド副隊長に近寄った。
「あ、そうです副隊長! さっき本部から伝令が来てましたよ。『至急、備品管理の書類を持ってこい』って」
「なっ、なんだとぉ!? あのクソ査察官め、このタイミングで……!」
ガルドは顔面蒼白になり、大慌てで鞄を掴んだ。
「俺は本部に行ってくる! お前ら、後は任せたぞ!」
「「「お疲れ様でありまーす!!」」」
ドタバタとガルドが出ていく。
邪魔な上官はいなくなった。
残されたのは、欲望に飢えた猛獣たちと、不用意に檻の鍵を開けてしまったアリサ、そして無垢な子羊だけ。
「……あれ? なんかみんな、目が怖くない?」
アリサが異変に気づいた時には、もう遅かった。
重い扉が閉まった瞬間。
第三警備隊の詰所に熱狂の幕が切って落とされた。
「ねえ、マシロ君!!」
「マシロ君、ちょっといい!?」
「あっち行ってよ泥棒猫! 私が先よ!」
ガタガタッ!
無数の椅子が弾き飛ばされる音と共に、隊の女衛士たちがマシロの席に殺到した。
その目は一様に血走り、荒い鼻息を吹きかけてくる。
彼女たちは皆、一日中重い鎧と兜を身に着け、王都の汚れた空気に晒され続けてきた「戦士」だ。
そのストレスと、肉体的な不快感は限界に達している。
「わ、わわっ!? なに、どうしたの皆!?」
マシロは椅子に座ったまま、四方八方から伸びてくる手に囲まれ、目を白黒させている。
迫りくる顔、顔、顔。
汗と脂と鉄の臭いが、津波のように押し寄せる。
「マシロ君、その『いい匂いのする布』、私にちょうだい! 銀貨5枚出すわ!」
「ズルい! マシロ君、私の武器も磨いて! なんなら私の鎧も! 中まで!」
「マシロ君、私、さっきの巡回ですっごい汗かいちゃって……匂い、嗅いでみて? 臭くない?」
カオスだった。
普段不衛生な環境で過ごす彼女たちにとって、マシロはまさに砂漠のオアシスであった。
普段は粗暴に振る舞っている彼女たちも、本能レベルでは「清潔さ」に飢えていたのだ。
「ちょ、ちょっと待って! 押さないで! あ、そこ触らないで!」
マシロが悲鳴を上げる。
どさくさに紛れて、二の腕を揉む手、お腹をさする手、さらには太ももを突っつく手が入り乱れている。
これはもう、セクハラというレベルを超えて普通に痴漢だ。
「離れろハイエナどもーーーッ!!」
バンッ!!
轟音と共に、マシロの机が揺れた。
アリサが立ち上がり、鞘に収まったままの剣を机に叩きつけたのだ。
「マシロは私のよ! ……じゃなかった、私の幼馴染よ! 許可なく半径1メートル以内に近づくんじゃないわよ!」
アリサが鬼の形相で威嚇する。
だが、隊員のひとりひとりも負けじと野次を飛ばしていた。
「えー、隊長ケチくさいー!」
「減るもんじゃないだろー!」
「減るわよ! マシロが穢れるでしょ!」
「いいじゃないですか。……そこのマシロ君だっけか」
女戦士は、強引に自分の頭をマシロに見せつけた。
兜の下に押し込めていた髪は、汗と脂でペッタリと張り付き、束になっている。
そして何より、兜の中の湿気で蒸れた、独特の酸っぱい臭いが漂っていた。
「一日中兜を被ってると、頭が痒くてたまらねぇんだ。……なんとかならねぇか?」
ボリボリと頭を掻きむしる女戦士。
その不潔な光景と、舞い散るフケを見た瞬間。
マシロの顔色がサァッと青ざめた。
「ひっ……!」
(……うわぁ。毛穴が脂で詰まってる。あれじゃ雑菌が繁殖して炎症を起こすよ。不潔だ……耐えられない!)
マシロは震える手で、リュックからスリムな金属缶を取り出した。
「……動かないでください。すぐに楽にしますから」
「あ?」
マシロは金属缶の底を『カチリ』と回し、内部で重曹と酸を反応させてガスを充填した。
『発泡冷感・ドライシャンプー』。
使用直前に炭酸ガスを発生させることで発生する、シュワシュワ泡の爽快感にこだわったアイテムだ。
ムクロジの実から煮出した天然の石鹸水に、高純度のアルコールとハッカ油を配合してある。
プシュシュシュシュッ!!
冷たい泡が、脂ぎった頭皮に直接噴射される。
「ひゃうっ!?」
女戦士が可愛らしい悲鳴を上げた。
「つ、冷めてぇ! ……でも、シュワシュワして……ああっ、なんか頭の中が弾けるぅぅ!」
「じっとしてて。今、揉み込みますから」
マシロは両手の指を広げ、彼女の髪の中に指を潜り込ませた。
細く、しなやかな指先が、的確な力加減で頭皮をマッサージしていく。
ワシャ、ワシャ、ワシャ……。
「あ……あぁ……っ♡」
女戦士の膝が崩れた。
目は虚ろになり、口元からは涎が垂れそうになっている。
完全に「キマって」いた。
「(……すごい。マシロ君の指、柔らかそう)」
「(あの指で……あんなふうに掻き回されたら……私、死んじゃうかも)」
「(頭の臭い嗅いでほしい......)」
周囲の騎士たちが、ゴクリと唾を飲む音が重なる。
「よし。これで汚れが浮いたよ」
マシロはタオルを取り出し、ワシャワシャと髪を拭き上げた。
そして、手櫛でサッと整える。
「どうですか?」
「は、はひ……」
女戦士は呆然としながら、自分の髪に触れた。
ベタつきは消え去り、ふんわりと空気を含んで立ち上がっている。
そして何より、頭皮を突き抜けるような爽快感と、シトラスミントの香り。
「す、すげぇ……。痒くない。軽い……」
彼女はマシロを拝むように見つめ、頬を染めた。
その目は、恋する乙女のそれだった。
「なぁ、マシロ。……俺と、結婚しねぇか?」
「えっ」
「俺の家は武門の名家だ。お前一人くらい、一生養ってやれる。毎日俺の頭を洗ってくれれば、他は何もしなくていい」
直球のプロポーズだった。
詰所がどよめく。
そして、そのどよめきは一瞬で「殺気」へと変わった。
「ちょっと! 抜け駆け禁止よ!」
「マシロ君! 私の頭も痒いの! 今すぐ洗って!」
「私なんか背中が痒いのよ! 鎧擦れで肌が荒れてるの! 服の中に手を入れて!」
「私のブーツの中の臭いを嗅ぎなさい!」
堰を切ったように要望が殺到する。
今や、詰所はマシロ・サロンの開店を待つゾンビの群れと化していた。
全員が自分の身体の不潔さをアピールし、マシロによる救済を求めている。
「ひぃっ! む、無理だ! 全員なんて手が足りない!」
マシロが涙目で後ずさる。
これ以上ここにいたら、体がいくつあっても足りない。
「逃げるわよ、マシロ!」
アリサがマシロの腕を掴んだ。
「ロッテ、援護して!」
「承知しましたわ。……ほら貴女たち、エサですわよ!」
ロッテはマシロのリュックから、試供品の『アロマ石鹸』を数個掴み出し、廊下の反対側へと放り投げた。
「あちらに高級石鹸が落ちてましてよ! 早い者勝ちですわ!」
「「「なんだってぇぇーーっ!!」」」
ドドドドド……!
地響きと共に、騎士の半数が石鹸を求めて廊下へ殺到する。その浅ましさは、もはや人間のそれではない。
「今のうちに!」
アリサとロッテは、マシロを引きずって詰所から脱出した。
†
「はぁ、はぁ……。し、死ぬかと思った……」
人気の少ない渡り廊下の陰で、マシロは膝に手をついて息を切らせていた。
服は引っ張られて乱れ、ボタンが一つ飛んでいる。鎖骨が露わになったその姿は、確かに「襲われた後」のようで、妙に艶かしかった。
「ねえ、アリサ。王都の職場って……みんなあんなにアグレッシブなの?」
マシロが怯えた目で聞いてくる。
「ええ、そうよ。ここは戦場なのよ。だから言ったでしょ、警戒しなさいって」
アリサの言葉に、マシロは深く頷くほかなかった。
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