第30話:洗浄の習い
王都の大通りを埋め尽くす銀色の奔流は、いよいよ警備隊本陣の喉元にまで迫っていた。
場所は、第一防衛ラインと第二防衛ラインの中間に設けられた、幅の狭い直線道路。
一見すると、追い詰められた警備隊が逃げ込んだだけの袋小路に見える。
「逃がすな! 一気に踏み潰せ!」
「逆賊どもに死を!」
騎士団の指揮官が叫び、数百の兵士が怒涛のごとく殺到する。
彼らは勝利を確信していた。
敵は逃げ腰だ。バリケードも脆弱。あとは質量で押し潰せば終わる、と。
だが、彼らは致命的なハンデを背負ったまま戦っていることを忘れていた。
『目を開けられない』のだ。
先ほどの戦闘で散布された超強化催涙玉の影響で、辺りにはまだ刺激成分が充満している。
うっかり目を見開けば、焼き尽くすような激痛に襲われ、即座に戦闘不能になるだろう。
故に彼らは、涙を流しながら半眼のぼんやりとした視界で前進するしかなかった。
そして、それこそが待ち望んでいた状況だった。
「今よ! 放てッ!」
アリサの凛とした号令が、戦場に響き渡る。
次の瞬間、左右の建物の陰や、屋根の上から、数名の警備隊員が飛び出した。
彼らが手にしているのは、武器ではない。
長いホースと、背中に背負った巨大なタンク。そして、先端に取り付けられた真鍮製のノズル。
高圧洗浄機の改良版、『高圧洗浄砲』である。
ブシャアアアアアアッ!!
「な、なんだ!?」
「水か!? こんなもので我々が……うわっ!?」
凄まじい噴射音と共に放たれたのは、ただの水ではない。
高濃度の界面活性剤と、保温性を高めるためのグリセリン、さらに滑りを良くするローション成分を絶妙な比率で配合した、極悪非道な『特製石鹸水』である。
高圧で噴射されたその液体は、騎士たちの足元にある石畳を一瞬で濡らし、その摩擦係数を限りなくゼロへと近づけた。
「う、うわぁぁぁッ!?」
「止まれん! ぶつかるッ!」
異変は連鎖した。
勢いよく踏み込んだ先頭集団が、ツルリと足を滑らせる。
普段なら踏ん張ることもできただろう。だが、今の彼らは数十キロの重装を纏い、力強く地面を踏みしめているのだ。
そのエネルギーはすべて、制御不能の「滑り」へと変換される。
人体が硬い石畳に叩きつけられる鈍い音と、鎧同士が激突する金属音が乱れ飛ぶ。
だが、彼らを襲った悲劇は「転倒」だけではなかった。
比重の重い催涙成分は、地面近くに滞留していたのだ。
そこへ顔から突っ込めば、どうなるか。
「ぐあぁぁぁぁッ!? め、目がぁぁぁッ!!」
「焼ける! 顔が焼けるぅぅッ!!」
濃厚なカプサイシンの溜まり場にダイブした騎士たちが、断末魔のような悲鳴を上げる。
痛みにのた打ち回ろうにも、床はヌルヌルと滑り、起き上がることすらできない。
先頭が転べば、視界の悪い後続はそれを避けられない。
将棋倒しのように次々と巻き込まれ、折り重なり、一つの巨大な「悶絶する鉄塊」となって滑走していく。
行き着く先は、第二防衛ラインの頑丈なバリケードだ。
「ぐえっ!?」
「重い、どけッ!」
「滑って立てん! あ、足がぁッ!」
激しい衝突音と共に、数百人の騎士たちがバリケードの前で団子状態になった。
上からは仲間が降ってきて、下敷きになった者は圧死寸前。
起き上がろうにも、床はヌルヌルと滑り、手をつくことさえままならない。
「思い通りに事が進んで笑いが止まりませんわね」
屋根の上、戦況を見下ろしていたロッテは冷ややかに微笑んだ。
彼女は屋根の上から、用意しておいた花火を空へと放つ。
パンッ!
乾いた破裂音が、青空に吸い込まれた。
その瞬間、戦場にさらなる異変が起きた。
隊列の最後尾。まだ石鹸水の被害を受けていなかった後続の部隊が、突如として進軍を停止したのだ。
「な、なんだ!? なぜ止まる!」
「前で戦闘が起こっているんだぞ! 早く救援に行かねば……」
「動くな」
中腹で立ち往生していた騎士たちが怒鳴るが、返ってきたのは冷ややかなドスの効いた声だった。
後続部隊の兵士たちが、一斉に剣を抜き放つ。
その切っ先が向けられたのは、敵ではない。
味方であるはずの、騎士団本隊の背中だった。
「き、貴様ら……乱心したか!?」
「乱心? いいえ、正気ですよ」
後続部隊を率いていた部隊長が、申し訳なさそうに笑う。
「悪い。……あっちには数えきれないくらいの恩があるんでな」
「なっ……!?」
裏切りだ。
借金に苦しむ下級騎士や、家族を養うのに必死な兵士たちを対象にした、周到な寝返り工作。
『借金の全額肩代わり』、『家族の商会での永久雇用』、『寝返った後の立場の保証』。
ロッテが提示した条件は、貴族としての見栄や鎧の維持費で財布が苦しい騎士たちにとって、誇りなどという曖昧なものより遥かに輝いて見えたのだ。
「前方はバリケードと石鹸水の海。後方は我々が封鎖した。
完全に袋のネズミだ! 大人しく武器を捨てろ!」
逃げ場を失った騎士たちが、蒼白な顔で周囲を見渡す。
「ひ、卑怯だぞ! 貴様ら、騎士の誇りはないのか!」
「誇りで飯は食えませんわ!」
ロッテの声が、屋根の上から冷徹に降り注ぐ。
「状況を理解なさい。貴方たちは完全に包囲されています。
このまま起き上がれずに涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で無様に死ぬか、大人しく降伏して商会が用意した温かいスープとパンにありつくか……好きな方をお選びなさい」
「スープ……?」
「ああ、警備隊の飯は最高だぞ。肉がゴロゴロ入ってる」
裏切った兵士の一人が、腹の鳴るような情報を付け加える。
その言葉は連戦で疲弊し、空腹と恐怖に苛まれていた騎士たちの心を鋭い剣よりも深く抉った。
「そして何より、今なら顔を洗うための桶と水も用意しておりますわよ!」
それが決め手となった。
カシャン……。
誰かが、剣を取り落とした。
それを合図に、金属音が連鎖する。
騎士たちは次々と武器を捨て、ヌルヌルの地面に膝をついていく。
「こ、降伏する……! 助けてくれ!」
「もう嫌だ! 早く顔を洗わせてくれ!」
騎士団の本隊は、まともな交戦をすることなく瓦解した。
ほとんど剣を交えることすらない、一方的な蹂躙。
ロッテの策略が完璧に成功した瞬間だった。
「さて、露払いは済みましたわ。細かい残敵はわたくしが処理いたします。アリサさんは……」
「ええ。本丸へ乗り込むわ。……待っててね、マシロ」
戦況は逆転した。
ここからは、守るための防衛戦ではない。
奪われたマシロを取り戻すための反攻戦だ。
道中を阻む障害は、ロッテの策略によって一掃された。
あとは、城門に残る最後の敵を蹴散らすだけ。
「行くよみんな! マシロを救い出すわよ!」
「おうよ! 命に代えても連れ戻すっす!」
「マシロ様のためならどこにだっていけますよ!」
精鋭の近衛騎士との戦いとなると、数より質が重要だ。
アリサは部隊から古参の兵百人を引き連れると、王城に駆け出して行った。
彼らの目は、もはや怯えてはいなかった。
自分たちは勝てる。
自分たちには最強の隊長がついているのだから。
「行くわよ! この国、まとめてひっくり返してやるわ!」
アリサが先頭を切って駆け抜ける。
その背中は、かつてないほど大きく、そして頼もしく見えた。




