第26話:男の覚悟、女の覚悟
「……よし、この計画で行こう」
最近のアリサの様子がおかしい。元気がないし、自分を避けている気がする。
だから、マシロは考えた。
ヒモを脱却したわけだし、ここは胸を張ってパーッと豪勢に金を使おう、と。
赤の猪亭でご飯でも食べて、サプライズで宝石も贈ろう。
これぞ「甲斐性のある男」の振る舞いだ。
「これなら、きっとアリサも喜んでくれるはず……」
満足げに頷き、ふと窓の外を見る。
中庭に、小さな影が見えた。
アリサだ。
「……素振りかな? こんな時間まで熱心だなぁ」
驚かせてやろう。
君のために高級ディナーを用意したと言えば、きっと彼女も笑顔になるはずだ。
†
闇に沈む中庭から、異様な音が響いていた。
空気を無理やり殴打するような、重く鈍い音。
月明かりの下、一人の少女が棍棒を振っていた。
アリサだ。
鋼鉄の剣よりも重く、強靭なその武器を、彼女は一心不乱に振り回している。
アリサの体からは、湯気が立っていた。
肌に張り付いたシャツが、汗で透けている。
泥と汗にまみれ、端整な顔立ちは鬼気迫る形相に歪んでいた。
「……精が出るね」
不意に、背後から声がした。
ビクリと肩を震わせ、アリサが振り返る。
そこには、マシロが立っていた。
「マ、マシロ……? どうしたの、こんな時間に」
「眠れなくてね。……アリサこそ、こんな時間まで」
「……トレーニングよ。最近、体動かしてなかったから」
アリサは顔を背け、乱暴に汗を拭った。
一番見られたくない相手に、一番見られたくない姿を見られた。
マシロは何も言わず、アリサの隣に歩み寄った。
そして、ハンカチを取り出し、彼女の頬についた泥を優しく拭う。
「アリサ、泥が……」
アリサはマシロの手を振り払った。
驚いたように目を見開くマシロ。
やってしまった、と思った時には遅かった。
一度決壊した感情の堤防は、もう止まらない。
「……マシロは、凄いね」
ぽつりと、アリサの口から言葉がこぼれた。
怒りではない。諦めのような、乾いた響きだった。
「綺麗で、賢くて、お金持ちで……。私とは違う」
「アリサ……?」
「……私が、守るはずだったの。私が養うはずだったの」
アリサは俯き、噛み殺すように声を震わせた。
「なのに今の私は何?
マシロの家に住んで、マシロのご飯を食べて、マシロの武器を使って……」
アリサの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
この世界の「女」としてのプライド。
愛する男に養われる無力さ。
そして何より、彼にとって自分が不要な存在になってしまうことへの根源的な恐怖。
「警備隊長だなんて偉そうに言ってるけど……私の仕事だって、結局はマシロの発明品におんぶに抱っこ。
この棍棒がなきゃ、騎士になんてそもそもなれてない。
あの催涙弾がなきゃ、もっと私の部下は傷ついてた。
みんなが私を慕ってくれるのも、マシロのアイテムを持ってきてくれるから。
実力じゃない。全部、マシロのアイテムが優れているだけ……」
言葉にすればするほど、惨めさが胸を突き刺す。
「私がいなくたって……マシロの発明品さえあれば、誰だっていいじゃない……!」
これ以上、惨めな思いをさせないで。
そう叫ぼうとした口を、マシロの指が塞いだ。
柔らかく、温かい手。
けれど、そこには絶対に拒絶させない強い意志が込められていた。
「……他の誰かにはできない」
マシロは静かに、けれどきっぱりと否定した。
「え……?」
「逆だよ、アリサ。
君が『絶対に裏切らない』と信じているから、俺は惜しげもなく強力なアイテムを渡せるんだ」
「え……?」
「君は、お金があれば何でも手に入ると思ってる?」
「違うの? お金があれば、傭兵だっていくらでも雇えるわ」
「いいや。お金があるからこそ、手に入らないものがあるんだ。
……それはね、『信頼できる武力』だよ」
「もし俺が金に物を言わせて優秀な傭兵団を雇ったとしよう。彼らは最初は金のために従うかもしれない。
でも、誰かが俺の払っている給料以上で寝返りを打診したら? あるいは、俺の首に懸賞金がかけられたら?
……彼らは即座に裏切り者に変わる」
アリサが息を呑む。
「強力な武器を持たせれば持たせるほど、その刃は俺自身に向く危険性が高まる。
お金という力は、裏切りを招く猛毒でもあるんだ」
マシロはアリサの手を取り、その掌を強く握った。
「俺が安心して背中を預けられるのは、金じゃなく心で繋がっているアリサだけだ。
アリサだから、俺は最強の武器を渡せる。
君以外の誰かなんて、有り得ない」
アリサの瞳が揺れる。
マシロの言葉には、一点の曇りもなかった。
彼は本気でそう信じているのだ。
「それに、アリサが役に立ってないなんてのも嘘だ」
「普通、こんなに短期間で派手に稼いだら、国に目をつけられる。
『洗剤』の利権。工場のノウハウ。そして俺という錬金術師の身柄。
貴族たちが欲しがらないわけがない。
本来なら俺はとっくに誘拐されているか、濡れ衣を着せられて牢屋の中だよ」
「え……」
「でも、奴らは手を出せない。
なぜだと思う?
君がいるからだよ、アリサ」
マシロはアリサの肩を掴んだ。
「君が率いる警備隊がいるからだ」
「……私の? でも、たかが数百人程度の寄せ集めよ? 王国の騎士団には……」
「勝てるよ」
マシロは断言した。
「軍事的な優位性は、もう崩れている。
騎士団の強さはフルプレートアーマーにあるんだ。
剣を通さず、矢を弾き、農民では傷一つ与えられない鉄の城塞。あれがあるから、あいつらは無敵だった。
でもね、俺たちが配備した『催涙玉』の前では、あの鎧はただの檻だ」
「檻……?」
「うん。催涙成分の微粒子は、鎧の隙間から入り込む。
密閉性の高い兜の中に入れば、地獄だ。呼吸困難、激痛、そして失明。
そのままでもそいつは戦えないし、たまらず兜を脱げば……そこにはもう、何の守りもない。
矢でも石でも、当たれば致命傷だ」
アリサは息を飲んだ。
想像したのだ。戦場で、視界を奪われ、呼吸を封じられ、無様に兜を脱ぎ捨てる騎士たちの姿を。
それは虐殺だ。
戦闘ですらない。
「でも、騎士には馬があるわ。
あの突進力は脅威よ。あれで突撃されたら、歩兵なんて消し飛ぶ」
「うん、確かに平原なら彼らは無敵かもしれない。
でも、もし俺たちが戦うとしたら? 戦場はどこになると思う?」
「……王都、よね」
「そう。路地が入り組み、建物が密集した王都だ。それにここは俺たちのホームグラウンドだよ」
マシロは不敵に笑った。
「騎馬が通れる大通りは限られてる。
それに、この街の市民はみんな、街を綺麗にしてくれた俺たちの味方だ。
二階の窓から石を落とされ、路地裏の物陰から数人がかりで鉤爪を引っ掛けて引きずり下ろされたら……そこでおしまいさ」
想像するだけで恐ろしい光景だ。
華麗な騎士団が、洗濯物を干しているおばちゃんに頭上から石を落とされ、見下してたスラムの住人に足元をすくわれるのだ。
「だから迂闊に手を出せない」
「……でも、私たちの部下は王都の兵隊よ?
いくら私たちがよくしても、相手が騎士団なら……国なら、そっちにつくんじゃないの?」
アリサの不安はもっともだ。
彼女たちの身分は、あくまで王国の公務員なのだから。
だが、マシロは涼しげな顔で首を振った。
「いいや、つかないね。
王様が給料を払っているって言ったって、それは安いし、怪我したらポイの使い捨てだ」
マシロは妖艶に微笑む。
「でも、俺達は違う。
元に上乗せして三倍の給料。清潔な宿舎。怪我をしても助けてくれる。そして時々振る舞われる、王侯貴族も羨むほどの極上の食事。
……ねえアリサ。君なら、安い給料で自分をこき使う雇い主と、自分を人間として扱い、腹一杯食わせてくれる雇い主……どっちに命を賭ける?」
「それは……」
「彼女たちは、国に忠誠を誓っていない」
マシロは妖艶に微笑んだ。
「彼女たちが忠誠を誓っているのは、国じゃない。
自分たちを人間として扱い、腹一杯食わせてくれる『アリサ隊長』なんだよ」
事実上の、私兵団。
それも、最新鋭の化学兵器で武装し、忠誠心で結ばれた精鋭部隊。
それが、マシロが作り上げ、アリサが率いる「王都第三警備隊」の正体だった。
「国王も貴族も、それを恐れている。
下手に俺に手を出せば、『王都第三警備隊』が蜂起するかもしれない。
だから奴らは、俺たちを泳がせるしかないんだよ。今の所は」
マシロはアリサの手を取り、その掌を強く握った。
「俺が安心してお金儲けできているのは、俺の発明が凄いからじゃない。
それを運用し、睨みを利かせている『君の武力』のおかげなんだよ。
君という抑止力がなければ、俺は今頃、どこかの地下牢で洗剤を作る奴隷になっていたはずだ」
乾ききっていたアリサの心に、熱いものが満ちていく。
私は、無力じゃなかった。
彼のお荷物じゃなかった。
私はちゃんと、彼を守れていたんだ。
そして、そんなアリサの表情を見て、マシロの中でも何かがストンと落ちた。
良かれと思ってやったことが、全部裏目に出ているような感覚。
その正体が、今やっとわかった。
(俺は、前世の価値観に引っ張られていたんだ)
「男なら甲斐性を見せて守らなきゃ」なんて思い込んで、彼女の領分まで奪おうとしていた。
でも、彼女は示したかったのだ。
俺に対する「甲斐性」を。俺を守れるという「力」を。
なら、俺がすべきことは一つだ。
この世界の価値観を受け入れて、彼女を頼ればいい。
「……さっきまでのは全部、ロッテの受け売りだけどね。
でも、ここからは俺の本心からの言葉だ。
……ねえ、アリサ」
マシロが上目遣いにアリサを見る。
「これからも一生、俺を守ってくれる?」
ドクン、とアリサの心臓が跳ねた。
「……それって、愛の告白?」
アリサが震える声で問いかけると、マシロはきょとんとして、すぐに顔を真っ赤にした。
「えっ!? あ、いや、そういう意味じゃなく……ビジネスパートナーとして、その……!」
「違うの?」
子供の頃の面影を残すような、少しからかっているようなアリサの笑顔。
この世界で生きてきた記憶が脳内をフラッシュバックする。
アリサに出会って、アリサのために頑張って、俺はここまで来た。
俺の中心にいたのは、いつだってアリサだ。
「ち、違わなくは……ない、けど……。その……うん。……好き、です」
最後には観念して、蚊の鳴くような声で認めた。
そのあどけない反応が、愛おしくてたまらない。
アリサの目から、涙が溢れた。
今度の涙は、悔しさではない。
愛しさと、庇護欲と、ねっとりとした独占欲がない交ぜになった涙だ。
こんなに可愛くて、賢くて、そして自分を必要としてくれる生き物。
他の誰にも渡せない。
渡すものか。
「……馬鹿ね」
アリサはマシロを抱き寄せた。
強く、骨が軋むほどに。
「プロポーズはね、女の方からするものよ!」
「えぇ……?」
そしてアリサは目を瞑り、大きく息を吸い込んだ。
「これからの危ないことは全部、私に任せて。
マシロの期待に応えてみせるわ。
……大好きよ、マシロ。一生私に守られなさい」
翌日、王都では肌がツヤツヤと輝くアリサと、生まれたての子鹿のようなマシロの姿が目撃されたという。




